私は、秋田県で育った。
時代は、「食糧不足」という大問題があって、食料増産によって食料自給率を上げることを目指していた。
私の育った町は、岩瀬川と早口川という白神山地から流れ出る川に沿った狭い耕地を水田として、稲作をしていた。
水田が、2町歩とか3町歩あれば大農家であり、専業農家としてやっていけたと思う。
1町歩は、だいたい1haである。
八郎潟の干拓地への入植者には、10ha前後配分されたらしいので、その頃の農家からしたら別世界の話だった。
その頃の私が、八郎潟について知っていたことは、八郎太郎という八郎潟の主がいたという伝説である。
そして、田沢湖の辰子姫という主がいて、会いにゆくというような言い伝えもあったように思う。
八郎潟は、秋田県の日本海側の中央部の男鹿半島の付け根にある。
そして、田沢湖はそこからかなり内陸に入ったところにある。
県北部で育った私には遠い存在だと思っていた。
でも、私の八郎太郎について知ってるのは、伝説の後半部であり、前半部分があるらしい。
八郎太郎は、鹿角の比内で生まれて、十和田湖の水を飲み龍に姿を変え主となる。
旅の修行僧と湖の主の座をかけて、激しく戦い敗れる。
さらに、鹿角の里も追われて、米代川を下り、男鹿半島にたどり着き、八郎潟をつくり龍神となる。
これを知っていれば、考えが少し違っていただろうな。
こういう伝説は、もとになるような歴史的な事実があったとも考えられるが、いったい何がもとになっているのだろう。
秋田県だけでなく、青森県や岩手県にも伝説が分布しているらしく、詳細はそれぞれ違っている。
干拓地への入植は、昭和42年(1967年)から昭和49年(1974年)にかけて行われ、合計580人が全国から応募している。
ところが、すでに昭和45年(1970年)には、米作の生産調整である「減反政策」が始まっている。
いったい何が起こっていたかというと、米の年間消費量の減少である。
戦前には、1人1石(160キログラム)と言われていたものが、高度経済成長の中で、食生活が変わっていく。
昭和37年(1962年)に戦後最高の118,3キログラムをピークに、年々減少していって手元にある資料では、平成29年に54,2キログラムまで下がっている。
八郎潟干拓地は発足早々に、「減反政策」に直面することになる。
目先だけで、問題に対応してはいけないということだろう。
もっと、総合的に将来も見通して対処しなければならない、ということである。
私は、今手賀沼に近いところに住んでいる。
ちょっと足をのばせば印旛沼にも行けるし、さらに霞ヶ浦にも行ける。
霞ヶ浦は、琵琶湖に次いで、日本で2番目の湖沼なのだそうだ。
霞ヶ浦は、内海といっていいような、名前のように向こう岸が霞んでるような湖である。
この霞ヶ浦よりも、八郎潟は大きかったのだ、ということを最近知った。
霞ヶ浦は168キロ平方であるが、八郎潟は220キロ平方もあった。
手賀沼も印旛沼も干拓されてしまって、現在は、手賀沼が4キロ平方、印旛沼は9キロ平方とかつての何分の1しかない。
それでも、充分に存在感があって、なくてはならないものである。
それだけ広大な八郎潟だったので、漁業で生計を立てていた人も多く、3000世帯20000人が反対運動を展開したようだ。
その頃の私は、そのような事情をまったく知らなかった。
時代があと、10年20年後だったら、干拓事業が遂行されることはなかっただろう。
豊かな漁業資源よりも、米作がなによりも重要だと考えられる時代だったから、そのようなことができたのだろう。
私にとって身近である手賀沼や印旛沼も、江戸時代以来の干拓によってとても小さなものになっている。
5倍の広さがあったという手賀沼を、見たいものだ。
今、水田になってるところを、湖面と考えればいいのだろう。
一度失われたものは、もう取り戻すことはむづかしい。
素晴らしい景観と漁業資源は、かけがえのないものであり、今なら米作のための耕作地と引き換えにされることはなかっただろう。
でも、かつて豊かな湖だった名残が、少しは残っている。
私は、若い頃に我孫子市に住んでいたが、すぐ近くに老舗の佃煮屋さんがあって、今でもやっている。
沼の近くには、古い鰻屋さんもいくつかある。
手賀沼北岸に、かつて千葉県立の「水の館」という博物館があって、現在は、我孫子市に移管されている。
その施設前の正面の湖面に、踊るような河童の像が浮かんでいる。
手賀沼の主は、河童ということはないだろうが、どんな伝説があって創られたものだろうか。