秋の空は、見ていて飽きない。
秋の雲は、芸術の秋というだけあって、芸術的である。
どうしたらこんなにきれいな模様になるのだろう、と思うような雲が毎日見れる。
夏の雲は、躍動的で、モクモクと力強いもの感じる。
秋の雲は、繊細で滑らかな、流れるような感じだ。
今日も、朝から素晴らしい青空に、優雅な雲が浮かんでいる。
家族は、みんな出かけた。
私は、散歩に出かけることにする。
我が家から、2番目に近い城跡である「前ヶ崎城址公園」。
近くに、「名都借城址」というのもあるらしいが、あまり痕跡の言えるのが、残ってないみたいだ。
JR常磐線と国道6号を越えるので、1時間くらいかかるかも知れない。
自宅を出ると、すぐに広池学園という総合学園がある。幼稚園から大学まである。なぜか、小学校だけない。
道路が、キャンパスを分断している。分断された二つのキャンパスを繋ぐための連絡橋が道路の上に架かっている。
向小金の住宅地帯で、流山市に入る。
さらに、進むとJR常磐線の上にかかる「名都借跨線橋」である。名都借は、「なづかり」と読むようだ。
一応、自動車も渡れるのだが、橋の上は二車線だが、登り降りの両側は一車線しかない。
通称「譲り合い橋」、そうしないと渡れない。事故になる。
国道を渡って、100メートルほど進む。
ときどき、お世話になっている「木の図書館」がある。
この辺は、名都借の農村地帯だ。畑と農家があり、住宅も点在する。
戦後住宅公団が、大規模な団地を計画した時の第一候補は、この名都借地区だったそうだ。しかし、地価が想定よりも高くて諦めて、光ヶ丘地区になったようだ。
名都借の地域も、光ヶ丘と同様に、広い台地上にあり大規模な団地には適していたのだと思われる。
名都借地区は、国道6号線に面していたので、地価が高かったのかも知れない。
ここから、名都借城址を目指したいところだが、公園などとして保存されているわけではなさそうである。とりあえず、その一角を成していたであろう「曹洞宗長福山広寿寺」を目指してみる。
「東葛の中世城郭」という千野原靖方著の、バイブルのような書籍がある。それには、次のような記述がある。
「前ヶ崎・名都借両城跡は、高木氏の本城・小金大谷口城の北東方、坂川上流域のやや奥まった所にあり、富士(藤)川谷津、名都借谷津、八木谷津の三つの谷津が合流する広い低地帯に向かって北西へ突出する前ヶ崎台地と、その西側の前ヶ崎谷津を挟んで対峙する名都借の台地上に占地する。」
広寿寺の案内板に従って住宅地に入っていった。台地の端に広 寿寺はあった。
通常の寺院のような、本堂ではなく観音堂のようなものがあった。観音堂の裏は、かなり広い墓地だった。
広寿寺に隣接した住宅地のあたりが、本丸だったと思われるがそれらしい看板や説明板は全くなかった。城山、笹堀込など字名で、城に関係するらしい地名が残っている。
寺院の裏には、とても広い檀家の駐車場があった。
前ヶ崎谷津に続く細い道を下ると、広い車道の出た。
前ヶ崎城址公園を目指して、しばらく歩いてゆく。道路は、前ヶ崎谷津に沿って北上しており、 道路の向こう側は前ヶ崎の台地が続く。
前ヶ崎城址公園に到着した。立派な説明板が設置されている。
城域は、東西が広い所で約220m、南北がやく350mと言われているが、遺構として保存されているのは主郭があったと思われる台地の突端部のみである。
まわりは土塁で囲まれている。
虎口跡と思われる箇所や櫓台跡の高くなってる箇所もある。
土塁を抜けて、裏にまわると空堀になっている。
空堀の先に、台地はさらに続き城域であったはずであるが、削平されて城域は破壊されている。
城域には、かつての空堀の跡が道路となっているとおもわれるものがあり、それらを考慮すると四つのから郭からなっていたかも知れない。そうなると、城址公園として保存されている郭跡は、その最北部にある一画に過ぎない。
城域は南北に約350mあったと言われている。台地は、いったん途切れて、また台地になる。
農家や住宅地があるが、その中に、宝蔵院のいうお寺があった。
真言宗豊山派の寺院のようです。
ずっと歩き続けたので、少し疲れてきた。
台地から、西側には小金の台地が見える。あいだは広い低地になっていて、富士(藤)川が流れている。富士川は、先日訪ねた根木内城址方面に流れて行く。
このまま、台地上を南下すると国道6号線に出て、往路に合流する。
前ヶ崎城も名都借城も根木内城も、高木氏の本城である小金大谷口城の防衛のために存在していたようである。
大谷口城の遺構は、歴史公園として保存されているようだ。
充分に歩いていける範囲内にあるようなので、次の機会に行ってみたいと思う。