晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

稲刈りは終わっていた

用事があって、大津川の向こう側まで行った。

車を運転しながら、外の田んぼを見ていた。

田んぼは、ほとんど稲刈りが終わっていた。

穂を垂れた田んぼを散歩したのは、何週間前だったろうか。

稲の切り株からは、もう青い茎と葉が伸びていた。

これは、孫生(ひこばえ)と言われるものらしい。

今まであんまり意識したことがなかったけど、この辺りでは稲刈りって今頃だったかな。

まだ9月で、あんまり秋という感じじゃないのに。

私の育った秋田は、もっと秋になって稲刈りだったな。

 

稲刈りが終わった後は、田んぼで乾燥させていた。

稲架(はさ)というやつに、架けて自然乾燥させていた。

まあ、私が秋田の田舎にいたのは高校一年生までで、1969年である。

田んぼの仕事は、ほとんど手仕事で、やっと耕運機が入って、牛や馬の代わりに田畑を耕すようになっていた。

稲刈りをやってくれるコンバインという機械が入ったのは、私が田舎を出てからなので、詳しくはわからない。

稲刈りと同時に、脱穀も田んぼでやってしまって、籾だけにしてしまうらしい。

籾は持ち帰って、機械で乾燥させるわけである。

でも、何週間か太陽光を使って天日干ししたお米の方がおいしいので、自分たちが食べる分は農家ではそのやり方をすると聞いたことがある。

 

柏の近辺では、稲架掛けしてるのを見たことがない。

旅行していて、いろんな稲架を見たことがある。

ほとんどは、棒を一本立てて、それに稲束を架ける簡単なものだった。

高さもそれほどなく、一人で作業できるものである。

秋田の稲架は、縦棒を2本立てて、それに横棒を4本渡して固定してある本格的なものだった。

毎年のことなので、田んぼに稲架のための木材を保管して置く稲架小屋があった。

稲束が、できるだけ重ならずに、乾燥が効率できるように工夫したものだった。

稲束を架ける作業も、はしごを使った稲架の上の人と、下から二股の棒で稲束を渡す人の、2人で1組だった。

私は、子どもの頃から稲束を渡す仕事を手伝っていた。

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稲架は、私の育った秋田では、「はさ」だったが、地方によっては、「はざ」、「はせ」、「はぜ」、「はで」ともいうらしいし、「稲木」や「稲掛け」や「稲機」と呼ぶところもあるらしい。

変わったものでは、「牛」というらしいが、これは荷物を載せた牛に似ているということだろうか。

稲架について調べてみたら、多くの写真が出てきた。

どうも、東北や日本海沿岸そして長野県あたりだった。

気温が低く日照時間の短いのが、共通点かもしれない。

稲刈りの後の稲穂を乾燥させるというのは、とても重要だったのだと思う。

稲束を稲架掛けして、数週間天日で乾燥させるのだが、その間に初雪に降られた記憶がある。

 

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私が、田舎を離れた1970年頃から、日本の農業、特に稲作は大きく変わっていく。

それまでの、手作業から、どんどん機械が入って、機械化していく。

牛や馬を使ってやっていた田おこしや代かきは、トラクターでやる。

家族や親戚、それから村の人を頼んで総出でやっていた田植えや稲刈りも、機械でできる。

田植え機とコンバインを使う。

 

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でも考えてみたら、日本の農家はほとんどが小規模な兼業農家である。

とても、農業だけで生活はできない。

高価な農機具を揃えても、採算は取れない。

だから今は、農作業の委託というのがあるらしい。

結局は、大規模な農業経営へ移行するための過渡期なのだろうな。

 

 

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