最近買った日本酒が、郷里秋田の大館市の酒だった。
もちろん、秋田県産米100%使用となっていた。
大館といったら「北鹿」くらいしか、酒造会社が思い浮かばない。
大館は、一応城下町である。
江戸時代は、「一国一城令」であったが、秋田藩は例外で、北の大館城と南の横手城という支城が認められていた。
大館城は、佐竹氏の一族佐竹西家が城代を務めた。
歴史的に見れば、戦国時代この地は浅利氏が支配していたが、北の津軽氏、西の秋田氏(安東氏)、東の南部氏との係争の地であった。
「北鹿」という言葉は、「北」が出羽国北秋田郡、「鹿」が陸奥国鹿角郡を意味している。
鹿角は異国だった。
そして、戊辰戦争においては、この地は秋田藩と盛岡藩の戦いの場となり、大館の街は盛岡藩の兵によって焼かれる。
だから、大館は城下町ではあるが、ほとんど城下町らしい街並みは残っていない。
それは、その後何度かの大火に見舞われたせいでもある。
私の伯父さんが馬喰町、伯母さんが鍛冶町に住んでいたのだが、町名くらいしか名残が残っていない。
あとは、城跡の桂城公園にお堀がわずかに残ってるくらい。
それにしても、酒造会社がどうして一つしかないのだろうか。
「北鹿」のウェブサイトの「会社案内」のページに次のような文章があった。
昭和19年政府の企業整備により北秋田郡、鹿角郡内の21業者8工場が合同し業をおこしました。
なるほど、そういうことだったのか。
合同する前は、ほんとに小規模な蔵元だったのであろう。
政府の企業整備ということなので、日本全国で同様のことが行われたのだと思い調べてみた。
長野県飯田の喜久水酒造のサイトに、やはり同様の記載があった。
昭和19年、当地に点在した37軒の酒造家が企業合同をし、喜久水酒造株式会社が誕生した。
廃藩置県のよって、北秋田郡と鹿角郡は、同じ秋田県となったのである。
秋田県北部は、日本最大の密造酒地帯だったともいわれるので、この地における日本酒製造はいったいどんなものだったのだろう。
先日、日本の酒造会社について調べていたら、現在日本には1300を超える酒造会社があることがわかった。
さらに、「かつて存在した日本酒メーカー一覧」というリストもあった。
これは、戦後に合併や、倒産や廃業してしまった日本酒メーカーが載っていて、数百の会社があった。
それを、戦前の企業整理の前までさかのぼったら、どれだけの蔵元があったことだろうか。
そこまで、さかのぼらなくても、今ある酒造会社だけでもたいしたものである。
それぞれの会社が、いろいろな種類の日本酒を製造している。
その銘柄がどれくらいあるものか、考えるとすごいことになる。
私は、そのうちのわずかな銘柄に出会うことになる。
味わっていただくことにしよう。
ところで、 秋田は「米どころ、酒どころ」と言われる。
確かに、日本酒の生産量を都道府県ランキングで見ると、次のとおりである。
このランキングで、ちょっと意外なのが、埼玉県と山口県かも知れない。
あんまり、酒どころのイメージがない。
成人一人当たり日本酒消費量のランキングは、次のようになる。
なるほどね、というランキングである。
ここに入っていない東北の県、宮城県12位、青森県14位である。
不思議なのは、北海道が27位である。
北海道では、焼酎消費量が1位であり、秋田はここでも2位に入っている。
秋田は、結局飲むのが好きなんだな。
私のイメージでは、みんなで集まってワイワイ飲むのが好きなんだと思う。
私が郷里を離れてから、青森県との県境にある「石の塔」で、青森県大鰐町と大館市の参加で「万国ホラ吹き大会」が開かれているらしい。
子どもの頃に聞いていた、宴会でのおじさんたちのどこまでほんとかという楽しそうなおしゃべりの記憶がよみがえってきた。
おしゃべり好きがこうじて、ホラ吹き大会なのかも知れない。