菅江真澄の旅日記を、電子テキストに入力している。
全集第一巻の最終の日記となる「外が浜つたい」を入力していた。
天明8年(1788年)、真澄は南部領から津軽領三厩を目指して歩いていた。
すでに、天明5年に秋田から津軽に入り、蝦夷地に渡ろうとしていた。
しかし、当時津軽は大飢饉のあとで、その被害の跡が至るところにあった。
蝦夷地からも引きあげてくる者が多く、渡航するどころではなく、あきらめて南部に向かったのだった。
三厩は、津軽半島の先端にあり、今はその辺りを「津軽海峡線」が通っている。
真澄は、どんなところを歩いていたのだろうと、地図帳を引っ張り出した。
昭文社の「東日本道路地図」である。
真澄は歩いて移動していたので、旅日記には小さな集落の名前などが書かれている。
地図は、縮尺が20万分の1で、青森県だけで8面ほどある。
それでも、載っている地名は主要な集落だけである。
もっと、詳しく知ろうとしたら、「分県地図」が必要かもしれない。
図書館には、日本全国の分県地図が置いてあったな。
地名を探して、青森、秋田、岩手の県境あたりの地図を見ていた。
十和田湖の周辺のあたりである。
私が生まれ育ったところに近く、知ってる地名も多いが、ほとんど実際に行ったことはない。
そのあたりの地図を眺めていたら、「秋田街道」という道路があった。
八戸から鹿角に向かっている道路だった。
今は、国道104号線で、別名「しらはぎライン」となっている。
この頃は、八戸も鹿角も南部領であり、鹿角の先が秋田領の大館になる。
「秋田街道」という言葉を見て、むかしそんなタイトルの文章を読んだ記憶がよみがえった。
たしか、宮澤賢治の文章だったと思う。
調べてみたら、宮澤賢治の文章で、わずか原稿用紙1、2枚くらいの短いものだ。
読んでみると、「小岩井農場」に行くために、盛岡から雫石をとおって歩いたらしい。
賢治が歩いた「秋田街道」は、盛岡から角館に向かっている。
今は、国道46号線で、小保内で北に分岐すると田沢湖に行くことができる。
別名、「雫石街道」ともいわれているらしい。
ほかにも、「秋田街道」と呼ばれるのがあるようだ。
「羽州街道」のうち、久保田藩領内の部分が、そう呼ばれるらしい。
「秋田道」や「佐竹道」とも呼ばれている。
「羽州街道」は、「奥州街道」の脇往還であり、福島県伊達郡の桑折宿で分岐し、山形県、秋田県を通り、津軽油川宿で合流していた。
「街道」というものが、道路の公式な名称だったのは、江戸時代までだと思うが、今でもいろんなところで使われている。
国道何号とか県道何号とか言うよりも、歴史が感じられて、生活になじんでいる。
我が家の近くには、「水戸街道」がある。
正式には、国道6号線である。
そして、それと並行したり交差したりして続いているかつての「水戸街道」は「旧水戸街道」とか「旧水戸」(きゅうみと)と呼ばれている。
南柏付近で、北に分岐している道は「日光街道」と呼ばれている。
「日光街道」は、江戸から奥州街道のと共通していて宇都宮宿で分岐するのが本家だろうから、地元でそう呼ばれていただけかもしれない。
これも、日光街道と同様に、成田山に向かうので「成田街道」なのだと思う。
正式には、国道356号線なのでは「356」(さんごうろく)とも呼ばれている。
妻の実家が、九十九里の山武町にしばらくあったので、通っていた。
隣町の成東の付近は、いちご栽培が盛んでいちご園がとても多かった。
それで、そのあたりの道路は「いちご街道」と呼ばれていた。
本来は、どこを通るとかどこへ行くとかというので、街道が名付けられた。
でも、「鯖街道」とか「塩街道」というのは、なにを運ぶ道かになっている。
「街道」と言う言葉は、観光用語になってしまったのかもしれない。
「コスモス街道」やら「メルヘン街道」やら「ロマンチック街道」というのもあるらしい。