晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べてみた18  古代の道と駅

 

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

近所の市立図書館分館で、久しぶりに本を借りた。

「事典 日本古代の道と駅」という書籍だが、書名も著者の木下良氏のことも知らなかった。

「商業・運輸」のコーナーに場違いのように表紙布張りの装丁の立派な本が、それだけ目立っていた。

手にとって内容を見ると、律令制の頃の街道と駅が、令制国ごとに網羅されていた。

事典とはなっているが、辞書のようにあいうえお順などに並んでるわけではなく、序章で始まり、本文が、畿内東海道東山道とあって、終章で終わる。

そして、「駅」と「道」の索引が最後にある。

さっそく借りて、自宅で読み始める。

2009年に吉川弘文館が発行したもので、菊版で416ページとなっている。

しっかりした作りだけど、これくらいの本だといくらぐらいするものかなと思ったが、奥付けに値段が記載されていない。

最近は、値上げに対応できるようにだろうが、奥付けに金額を印刷せずに、カバーなどの印刷している。

税込で、8800円だった。

とても、個人では買えない。

www.yoshikawa-k.co.jp

 

ところで、書名にある「駅」ということばを考えてみた。

「駅」ということばは、現代でも生きている。

JRや私鉄などの駅もあるし、「道の駅」は全国に増え続けている。

場所によっては、「川の駅」というのもあるし、千葉県内では、「総の駅」という千葉県の名産を集めた店もある。

箱根駅伝や実業団駅伝などというものもある。

「駅」の読み方は「エキ」でこれは音読みである。

訓読みは、「うまや」である。

「駅」は、もともとは「馬」+「音符睪」ということで、馬が連なるところくらいの意味らしい。

令制国国府と隣の国の国府を結ぶのが古代の道で、当時30里、現在の距離で16キロくらいの間隔で駅が置かれた。

平安時代法令集である「延喜式」によると、402の駅家があったという。

その駅家には、道の格によって、大路の駅20疋、中路の駅10疋、小路の駅5疋の馬が配置されていたということなのだが、現代の人間には想像し難いかもしれない。

 

私は、農村で育ったので、馬や牛はかなり身近なものだった。

我が家には、土間を挟んで「うまや」ならぬ「うしや」があった。

同じ村にある父の実家には、土間を挟んだ「うまや(厩)」に3頭の馬がいた。

人間と馬や牛が、同じ屋根の下でくらしていたのだ。

農村なので、田畑の農耕のためであったり、荷車を引くはたらきをしていたし、林業の村でもあったので、伐採された木材を運ぶための橇を引くこともやっていった。

馬のような大きな動物を、10頭、20頭と飼って、面倒見ることはなかなか大変なことである。

しかも、駅吏や官人が、馬を次の駅で取り継いだ場合、馬を所定の駅まで連れ帰らねばならない。

馬の面倒見る駅子が、一人で何頭の馬の世話ができるものかわからないが、連れ帰るのはせいぜい2頭か、3頭だろうか。

考えるだけでも、大変な仕事だ。

 

現代の人間にとって、馬といったら、思い浮かぶのは競馬か乗馬クラブくらいである。

引っ越してきた頃、中学校の向かいに牧場があったが、子どもたちが入学するころには廃業していた。

今は、跡地は広い防災公園になっていて、名残に、動物病院もある。

そう言えば、最寄りの私鉄駅のそばにあった乗馬クラブは、何年か前になくなった。

かつて妻の実家があった隣町の鎌ヶ谷に、JRA競馬学校がある。

通るたびに看板は見るけど、あまりに広すぎて中は何にも見えない。

 

明治初期に、日本陸軍が製作した「フランス式彩色地図」のことは、このブログに何回か書いた。

軍事的な必要によって作られたものだが、手描きで彩色した2万分の1の縮尺の地図である。

私の住む東葛飾地方の古地図を初めて見たときに不思議に思ったことがある。

柏市の隣は、松戸市我孫子市、そして鎌ヶ谷市である。

松戸、柏、我孫子と、「水戸街道」が続いている。

そして、松戸と我孫子は宿場町だった。

ところが、古地図では、松戸は「松戸駅」、我孫子は「我孫子宿」となっているのだ。

明治初期だったから、まだ国鉄や私鉄などの鉄道がない時代である。

「木下街道」が通っていた鎌ヶ谷は、「鎌ヶ谷駅」である。

なんでだろうと、考えてみた。

そう言えば、「王政復古の大号令」なんてものがあった。

これによって、律令制の時代に戻ったのだろうか。

調べてみたが、宿場町が駅に変更になったというような記事は見つからなかった。

しかし、明治13年製作の古地図には、「松戸駅」、「鎌ヶ谷駅」、そして「我孫子宿」の記載がある。

下総国東葛飾郡松戸駅

すでに馬はいなかっただろうに、「駅」ということばを使ったことで、その後鉄道の駅が生まれたのだろう。

下総国南相馬郡我孫子宿

下総国東葛飾郡鎌ケ谷駅

 

この地図は、明治13年、14年ごろに制作されたものであり、すでに明治4年に「廃藩置県」が行われて、藩は廃止されて県が置かれた。

しかし、「令制国」自体は、廃止されたわけではないので、まだ普通に使われていたのだろう。

300近くあったとされる「藩」が、そのまま「県」となったわけで、県の統合によって、68あった「令制国」よりも県の数が少なくなる。

正確には、戊辰戦争終結後「北海道」11国が新設されたので、令制国は約80である。

そのあたりで、「令制国」が使われなくなったのだろう。

その後の郡区町村編制法や町村制によって、宿や駅は村と町になっている。

 

五畿七道」ということばは、古代の国々のことでもあり、道のことでもある。

五畿」という、大和、山城、摂津、河内、和泉の畿内の五カ国があって、そこから「七道」が放射的に延びる。

七道は、東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道である。

これらは、国の集合区分ではあるが、地域ごとの行政府があるわけではないので、都から順に国府をつなぐ駅路の名称として使われることが多い。

七道を見ていると、おもしろい。

ja.m.wikipedia.org

北陸道は、「陸の道」であり、若狭、越前、加賀、能登越中、越後、と続き、最後は佐渡である。

東山道は、「山の道」であり、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、と列島の山岳部を進み、終点は陸奥である。

途中で、上野下野から武蔵へ支線があったが、のちに東海道編入されている。

出羽国は、北陸道越後国の出羽郡を出羽国としと陸奥国置賜・最上郡を編入したものである。

 

不思議なのが「東海道」で、「海の道」だ。

四国の西海道や、九州の「南海道」はわかる気がする。

伊賀、伊勢、志摩、尾張三河遠江駿河、伊豆、甲斐、相模、安房、上総、下総、そして終点が常陸となる。

あまり、「海の道」のイメージはないが、相模と上総は船で渡ったので、南が上総で、北が下総だというのは有名だ。

相模と下総の間にある武蔵国は低湿地で難所だったのだろう。

武蔵国国府は、現在の府中なので、かなり内陸部にあり、北部にある上野・下野と結ばれていた。

下総国国府は、なぜか下総国の西端にあって現在の市川市であり、国府台という地名も残っている。

のちに、武蔵国を経由して下総国府につながる道ができて、それが東海道の本となる。

武蔵国東山道から東海道に移管されたのは、771年(宝亀2年)である。

安房国 上総国 



常陸国を終点とする「東海道」は、下総国から常陸国府があったとされる石岡に向かっていた。

相模国三浦半島から東京湾を渡り、上総国国府があったとされる市原へと、「東海道」の本路は続き、さらに北東にむかい、霞ヶ浦東岸に沿って進み、国府跡が見つかっている石岡に至る。

途中の、「眞敷駅」の近くには「香取神宮」が、「板来駅」の近くには「鹿島神宮」があり、これは偶然ではないだろう。

下総国府に向かうためには、千葉市のあたりにあった「大倉駅」で西北に分岐し、「河曲駅」、「浮島駅」を経由したのだろう。

ところが「東海道」が武蔵国を経由することになったことによって、「東海道」の本路が変更される。

武蔵国の「豊島駅」から、下総国国府のあった市川に向かうが、「井上(イカミ)駅」

国府付属の駅だったようである。

ここから北上して、次の駅は「茜津駅」であり、どうも私の住む柏市のあたりにあったらしい。

そのつぎは、「於賦駅」で、これは我孫子市にあり、どちらも駅馬10疋となっている。

「事典」によると、

「茜津駅も読みを付してないが「アカネツ」であろう。対応郷名も遺称地名もない。」

となってる。

「津」というからには、水辺にあったのだろう。

遺称地名はないとなってるが、考えたら「あかね町」という町名はある。

気になるので、町名の由来を調べてみた。

昭和42年に作られた響きの良い言葉を用いた現代町名で、もとは「戸張・名戸ヶ谷」の一部となっていた。

場所的にも、大津川に近く、かつては手賀沼の水辺に近かっただろうと思われる。

いくらでもある響きの良い言葉のなかから、「あかね」という言葉を選んだのは、やはり「茜津駅」ということばは無関係ではない気がする。

下総国 常陸国

東海道」は、「於賦駅」から、常陸国に入り、さらに二つの駅をへて常陸国府に至る。

結果的には、霞ヶ浦西岸側を行くことになり、それまでの経路より短縮されただろう。

それまで東海道の本路上にあった上総国府は、下総国府で分岐した道を南東に進むことになった。

安房国は、さらに南下しなければならない。

現在の「陸の孤島」的な千葉県の立地の状況は、この時にできたのかもしれない。

これらの古代の道が、のちの時代に残した影響は大きいと思う。

 

 

 

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