晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国土地理院と陸軍参謀本部陸地測量部

国土地理院について、ウィキペディアでは「地理空間情報当局」であり「国家地図作成機関」であると記載している。

国土交通省の特別機関である国土地理院本院は、つくば市郊外にある。

茨城県に出かける機会が多かった我が家にとっては、「つくば市」は筑波山笠間市へ行く途中にあった。

本院に隣接して「地図と測量の科学館」があり、子どもたちがまだ小さい頃、何回か行ったことがある。

地図や地理に関する展示がされていて地図好きには楽しめる場所である。

広い敷地内の広場には、日本列島の球体模型や20年以上日本列島の航空写真を撮っていた測量用航空機「くにかぜ」も展示されている。

この施設の近隣には、やはり国土交通省の研究機関である「国土技術政策総合研究所」、「土木研究所」、「建築研究所」などが、緑の中に点在している。

www.gsi.go.jp

 

国土地理院は、戦後昭和20年(1945年)9月1日に発足した内務省地理調査所がその前身となる。

その後、内務省の廃止により、昭和23年(1948年)に建設省地理調査所となっている。

さらに、昭和35年(1960年)に、国土地理院に名称を変更している。

地図好きの私にはなじみの「国土地理院」という名前は、この時に生まれたわけである。

国土地理院の「5万分の1」や「2万5千分1」の地形図は、登山には欠かせないものだった。

昭和54年(1979年)に、つくば市に庁舎を移転し、平成13年(2001年)の運輸省建設省北海道開発庁国土庁の合併による国土交通省の発足により現在に至っている。

 

日本地図といったら、伊能忠敬の全国地図が思い浮かぶ。

ずいぶん前のことになるが、伊能忠敬の大きな地図を幕張の体育館に何十枚も広げて展示するイベントがあって、それを見たことがある。

日本列島の地図を見下ろしながら歩くのは、面白い体験だった。

いつ頃のことだったのか、ネットで調べてみた。

アメリ伊能大図里帰りフロア展 in 幕張メッセ」という2005年の記事が見つかった。

私の記憶だと、幕張メッセではなく、幕張付近の高校の体育館だったような気がするので、これが私が見たものと同じかどうかはわからない。

記事によると、この地図はアメリカの議会図書館に保管されていた148枚で、日本には皇居の火災や関東大震災などにより60枚ほど残されてるだけで、貴重なものだったらしい。

縮尺が3万6千分の1で、1枚が畳1枚くらいの大きさなのだという。

たしかに、これを百枚以上広げようとしたら、体育館ぐらいの広さが必要である。

 

伊能忠敬という人は、50歳で隠居してから、下総佐原から江戸に出て、暦学や天文観測の勉強を始める。

そして、56歳の時に、幕府の許可を得て第一回の測量旅行に出発する。

もともとは、暦学のための天文観測に必要な緯度1度の正確な距離の値を知ることが、当初の目的だったらしい。

第一回の測量旅行は、寛政12年(1800年)、奥州街道から蝦夷地太平洋岸への半年に及ぶ旅行だった。

その後、毎年のように日本全国の測量旅行を行い、71歳の江戸府内が第十回の測量だった。

 

明治維新後、政府内における測地測量は、内務省地理局と陸軍参謀本部測量課によって、二元的に行われた。

明治17年(1884年)、地理行政の整理が行われて、大三角測量業務が参謀本部に移管され、内務省地理局は地誌編纂に縮小された。

参謀本部の地図課・測量課は、測量局と拡張され、明治21年には、「陸地測量部」として本部長直属の独立官庁となる。

それが、終戦まで続き、現在の国土地理院に受け継がれている。

 

このブログでも、何回か取り上げている「フランス式彩色地図」というものがある。

明治初期中期の日本が彩色された地図とスケッチによって、残されている。

陸軍卿山縣有朋の命により、時間と予算に制約のある緊急事業として行われたので、基準点測量をしない迅速測図方式が採用されたので、「迅速測図」とも言われている。 

最近になって、地元の図書館でこの地図がコピーできることを知ったので、コピーしてみた。

日本陸軍が作成し、日本地図センターが復刻したものなので、地図全面のコピーはできないものと思い込んでいたのだが、国土地理院が引き継いで保管していた物なので、国土地理院作成の地図と同様に全面複写可能ということだった。

とりあえず、柏我孫子周辺のシリーズの7枚のセットをコピーした。

そのうちの私の自宅がある地域の地図は次のようなものである。

f:id:seiko_udoku:20220312142218j:plain



地図の標題は、「千葉県下総国東葛飾郡小金開墾地及近傍村落」であり、明治13年10月との記載がある。

右欄外に、樹木と小屋のようなスケッチがあるが、それについての説明はない。

左欄外には、この地図の担当者名がある。

     第四測手 陸軍歩兵少尉 大谷喜久蔵

     第四副手 陸軍工兵伍長 加藤祐吉

となっていて、他の地図を見ると、測手と副手がコンビになっていて、いくつかの地区を担当していたようである。

副手は、場合によっては「測量課雇」となっているものもあり、人手が足りなくてアルバイトもいたのだろうか。

地図自体は、A4サイズくらいのものだが、道路や小道、そして川、住居、神社仏閣、田畑や樹木など、情報量はとてつもなく膨大である。

それを、二人だけでやっていたのだろうか。

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10年ほど前に、「天地明察」という映画を見たことがある。

冲方丁さんの小説を映画化したもので、江戸時代前期の囲碁棋士で天文暦学者であった安井算哲の生涯を描いていた。

主演は岡田准一さんだったが、その中で「北極星の位置を確認する」という幕命による「北極出地隊」に同行していた。

その一行は、幕府の責任者も同行する大がかりなものだった。

伊能忠敬の観測隊も、たぶん同じようなものだっただろう。

それに比べて、明治の「迅速測図」の一行はどんなものだったのだろう。

もしかすると、人夫を雇ったりもしたのかもしれないが、少人数だったろう。

関東ののどかな農村を、何日もかけて歩いていたのだろうな。

そんな映画も、観たいものだな。

誰か作らないかな。

 

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