正月休みに、どこか出かけようということになった。
久しぶりに、鹿島神宮もいいか。
などと考えてみたが、どこも混み合っていそうだ。
思いついたのが、霞ヶ浦である。
昨年の夏に孫娘たちと、土浦のあたりの霞ヶ浦の北部の方に出かけた。
今回は、もっと南部の千葉県に近い稲敷のあたりに行くことにした。
子どもたちがまだ小さかった頃、JRAの牧場に行ったことがある。
正確には、「JRA美浦トレーニングセンター」という広大な施設である。
思いつきで行ったので、その時は入場できず、外から眺めただけだった。
美浦(みうら)だと思っていたが、調べたら美浦(みほ)だった。
たしか、霞ヶ浦は近かったと思うので、そのあたりに行くことにした
近くには楯縫神社という由緒のありそうな神社があるらしいので、お詣りをすることにした。
車に乗って、ナビに「楯縫神社」と入力したら、一ヶ所だけ鳥取の「楯縫神社」が出てきた。
しょうがないので、近くにあるはずの「美浦村役場」を入力し、そこを目指して行くことにした。
ナビが示したルートは国道6号を進んで途中で、東に曲がるコースで混みそうだった。
そこで、走り慣れた利根川沿いに進むコースで行くことにした。
利根川に沿って国道356号を進み、成田と牛久を結ぶ国道408号で利根川を茨城県に渡る。
楯縫神社は、佐原から土浦に向かう国道125号から、美浦村役場の手前で霞ヶ浦方向に右折した集落の中にあった。
鳥居前に神社の由緒書きがあり、こう書かれていた。
「楯縫神社の祭神は、普都主命。
元県社で信太荘の一の宮として崇敬されてきました。
『常陸風土記』には、「普都大神が国土鎮定の大任を果たされ、高天原に復命のため、身につけられていた器・杖・甲・才・楯・剣・玉珪などをぬぎ、やがて天より迎えの白雲にのって行かれた」という伝えがあることから、社伝にはこの地を楯脱と称しのち楯縫に改められたとあります。」
今は、茨城県稲敷郡、かつては常陸国信太郡の県社であったということだ。
そういえば、JRAのトレーニングセンターの付近には、「信太」という地名が残っている。
「楯縫」(たてぬい)という不思議な名前も、「楯脱」からきているということだから、「たてぬぐ」とでも呼んでいたのだろうか。
集落の道路に面している鳥居をくぐると、参道がまっすぐと続いている。
両側は、木々の鬱蒼と茂る森林である。
正面に社殿が見えるが、なんと100メートルはありそうである。
幅10メートルはある参道は、石畳などではなく、土のままで掃き清められている。
参道脇には石燈籠などはなく、提灯が縄でいくつも吊られていた。
そして、30メートルほど進んだところに、第二の鳥居があった。
創建は、1000年以上昔らしいが、その頃とおもむきはあまり変わっていないのかもしれない。
私は神社を訪ねるのが好きで、いろんな神社に行っている。
とても広大な敷地に、立派な社殿の神社も多い。
何年か前に、鹿島神宮を参拝したことがある。
朝早く到着したので、参拝客はほとんどいなかった。
緑に囲まれている参道を歩いていると、静寂が心地よく、それまでになかった体験だった。
楯縫神社は、30年ほど前に改修されたという社殿も質素なものであるが、とても周囲の森の中に落ち着いて、気持ちいいものだった。
御朱印が必要なら、本殿の脇を下ったところにある住宅に声をかけて下さい、と掲示があった。
大きな構えの農家があって、そこが社務所の役割をしていそうだった。
まだ正月の忙しい時期だと思うと、訪ねるのを躊躇してしまった。
御朱印は諦めて、また社殿に戻った。
地図を見ていると、神社からだいぶ東の方を小野川が霞ヶ浦に流れ込んでいて河口になっている。
そのあたりに、「陸平貝塚」(おかだいらかいづか)という表示があった。
その周辺には、大小の沼が点在している。
地図に載ってるくらいだから、重要なものらしいので行ってみることにした。
調べてみたら、なんと標高が26メートルもある。
貝塚なのだから、水辺は近いはずなので、霞ヶ浦の湖面は今よりも20メートルくらいは、高かったのだろうか。
近くには、文化財センターという施設もあるようなので、探して行ってみた。
大きな駐車場があったが、車は1台も停まっていなかった。
貝塚は、思ったよりも広い公園になっていた。
駐車場から車道を歩くと、すぐに文化財センターがあったが休館だった。
車道の先に貝塚が、台地の斜面にあるらしいのだが、あまりに広すぎて、ゆっくりは見ることができなかった。
台地の中央に、竪穴式住居が再建されていた。
台地の先には、大宮神社があるらしいので気になるが、お昼をだいぶ過ぎてしまったので、そうそうに引き上げることにする。
この貝塚公園は、ゆっくりと散策すると楽しめそうだ。
またの機会に、出直して来よう。