菅江真澄は、天明8年(1783年)に郷里三河を旅立ち、文政12年(1829年)に秋田にてその生涯を終える。
生年は、宝暦4年(1754年)であるので、30歳で三河を離れてから、46年が経っていた。
真澄が、津軽領内から、再度秋田領内に入ったのは享和元年(1801年)で、それから晩年を秋田で送った。
郷里三河に帰郷した形跡はないように思える。
しかし、菅江真澄全集の編者である内田武志氏は、真澄は三河へ帰郷したと考えている。その根拠となるのが、「百臼乃図」である。「百臼乃図」の内容は、三十を越える臼の絵と、伝承などを古書などから引用している。
「百臼乃図」は、神に仕える家柄である真澄が、臼は単なる器具としてではなく、祭具として観察したものと、内田氏は考えている。この図絵集に収められている臼の所在する地域などを考えると、三河に帰郷する際に各地の臼を訪ねたものとしか思えないということである。
秋田から三河まで帰ったとすると、陸路を使ったにせよ、海路を利用したにせよかなりの日数を費やしたことのなる。
さらに、各地の臼を見て描写したとすれば、それ相応の日数を要しただろう。
古今、旅をして紀行文という形で多くの方が記録を残している。
菅江真澄という人が、そのような人たちと違っているところがある。
文章や歌とともに、図絵が多く使われていることである。
そして、その対象が名所旧跡だけではなく、ふつうの庶民農民の生活、行事、村の風景などであること。
さらに、通常の旅人なら興味を持たないような農具なども詳細に観察している。
「百臼乃図」なども、いかにも真澄らしい著作だと思う。
著作の多くの部分を占めている図絵がなければ、真澄の著作が与える印象も違ったものになっただろうと思われる。
「菅江真澄全集」は、未来社より、内田武志氏と宮本常一氏を編者として発行されている。
第1巻は、1971年に発行されている。本巻12巻、別巻2巻の予定であったようだが、別巻第2巻「索引」は、刊行されなかったようである。
内容は、次のとおりである。
第1巻 第2巻 第3巻 第4巻 日記
第5巻 第6巻 第7巻 第8巻 地誌
第9巻 民俗・考古図
第10巻 随筆
第11巻 第12巻 雑纂
別巻 菅江真澄研究
各巻とも500ページ前後であり、巻頭に写真ページを含んでいる。
菅江真澄の著作を、絵図をも楽しもうとすると手書きの原本が必要だが、いくつかの図書館で、デジタルアーカイブとして提供している。
秋田県立図書館と大館市立図書館については、下記のリンクをクリックするだけで、菅江真澄の作品を楽しむことができる。
特に、大館市立図書館のコレクションは、多様な菅江真澄の作品が揃っていて、扱いやすい。
国立国会図書館については、単に「菅江真澄」で検索すると真澄の著作以外に、多くの研究書なども結果として出てしまうので、工夫が必要かもしれない。