市立図書館の本館に行く機会があると、一階奥の本棚に行く。
そこには、ドナルド・キーン著作集全15巻が、並んでいる。
そのうちの、前回読んだあたりのところを開いて、数ページを読む。キリのいいところでやめて、次は今度来た時である。
借りてしまっても、なかなか読めないのでこのやり方が自分に合っている。
ドナルド・キーンさんは、ずっと気になる人だった。
一時は、テレビでもよく顔を見ることがあった。
優しそうで、繊細そうで、芯の強さ感じさせる笑顔だった。
数年前から、私は新聞を購読することは止めている。もともと、新聞の隅々まで読む人間ではなかったが、ますます読む範囲が少なくなっていったので、もう必要ないかなと思った。
ドナルド・キーンさんの「百代の過客」は、まだ新聞の書籍紹介の欄に目を通して頃に、読んだと思う。
今私の手元には、「百代の過客」の下巻だけがある。上巻は、友人に貸してある。
長年、日本文学を研究し日本語で著作してきたが、原文は、英語で書かれている。金関寿夫氏が、翻訳している。
金関寿夫氏は、アメリカ文学を専攻した方で、「アメリカ・インディアンの詩」などを書いている。こういう組み合わせは、なにかおもしろい。
英語で書いた理由を次のように述べている。
「第一に、学問的に深い内容を長期に連載するには、母国語の方が書きやすいこと。
第二には、外国人ならではの視点を打ち出す目的があり、日本語で書くとどうしても日本的な表現や言い回しになって、英語で書いたときと微妙に違ってくる。
第三は、金関寿夫という心強い翻訳者がいたこと。」
キーンさんは、2011年東日本大震災の後に日本に帰化し、2019年に亡くなった。
昨年になって、もう一度読み直してみた。
「百代の過客」は、日本人の日記について、平安時代から徳川時代までを、八十篇の日記を読解し、紹介している
「更科日記」「奥の細道」のように教科書に載っていたものから、「土佐日記」「蜻蛉日記」「とはずがたり」 「明月記」のように名前だけは知ってるもの。
そして、ほとんどは著者の名前も聞いたことのない、よくわからない日記だった。
私のような現代に生きる日本人にとって、古文と呼ばれる文章はとっつきにくいものである。日本語とは思えないところもある。
むしろ、漢文の読み下し文の方がわかりやすいと思えるほどである。
その後、「百代の過客」の続編も発行されていたことを知った。明治時代以降の日記が扱われている。
「百代の過客」という題名は、もちろん松尾芭蕉の「おくの細道」の冒頭の文章からとったものと思われる。
松尾芭蕉は、このことばを中国の古典をふまえて使っている。
李白の「春夜宴桃李園序」という詩である。
夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。
そもそも天地はあらゆるものの旅宿のようなもので、月日は永遠の旅人のようなものである
ドナルド・キーンさんは、コロンビア大学に在学中に、中国語や漢字に興味を持ち、たまたま購入したアーサー・ウェイリーによる「源氏物語」の英訳本を読んだことがきっかけとなり、日本研究の道に入るようになった。
第二次世界大戦時に、情報士官として海軍に勤務し、日本語の通訳官を務めた。
その際に、戦場に遺棄された兵士のノートを翻訳する作業を通して、アメリカ人兵士と日本人兵士の日記に大きな違いがあることに気がつく。アメリカ人兵士の日記は状況メモとメッセージが多いのに対して、日本人兵士の日記は状況よりも内面を吐露している傾向がある。
のちに、日本の古典的日記を読むようになって、世界中でこれほどに日記を文学として成立させた民族はない、と思うようになる。
日記が、単に自分のためだけのメモではなく、誰かに読んでもらうこと、わかってもらうことを期待して書かれている、ということである。
そのことについて、キーンさんは「百代の過客」の最終章で次のように述べている。
「中世紀、あの相次ぐ戦乱の最中においても、何らかの時代の証言を、己を取り巻く瓦礫の中から、(おそらく無意識のうちに)後世に残そうとねがって、彼らは日記を書き続けていた。」
「百代の過客」の中で、私が思ったのは、菅江真澄の日記についての章が設けられていないことである。キーンさんなりに、思うところがあったのだろう。
「また彼の日記の影響も、見逃すことはできない。例えば益軒の百年あとに旅日記を書いた菅江真澄の膨大な日記は、益軒の伝統を継ぐものである。」
図書館にある全15巻の著作集の中に、菅江真澄についての文章がもっとあるかもしれない。
調べてみようと思う。
そして、「百代の過客」は、次の文章で終わる。
「日記作者こそ、まことに『百代の過客』、永遠の旅人にほかならない。彼らの言葉は、何世紀という時を隔てて、今なお私たちの胸に届いて来る。そして私たちを、彼らの親しい友としてくれるのである。」