晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

菅江真澄の旅日記

菅江真澄の旅日記のテキストを校正している。

菅江真澄全集十二巻のうち、日記の部分は、第一巻から第四巻までである。

数年前に、全集の原文をスキャナーで画像ファイル化して、更にOCRでテキストに変換した。

オンラインで、OCR変換してくれるサイトを使ってやったのだが、そのままだと誤変換が多いので、校正作業が必要である。

そのまま、放って置いていたので、最近になって、校正作業を再開した。

考えてみたら、菅江真澄の文章をテキスト化することを始めたのは、20年以上前のことである。

その頃は、スキャナーに付属していたOCRソフトウエアを使って、テキスト化していた。

OCRソフトの変換性能が悪くて、とんでも無く誤変換が多かった。

何時間もかけても、2、3ページしか処理できなかったものだ。

ところが、オンラインで処理できることを知って、利用してみたら処理能力が、かつてより数段アップしていた。

ほんとに、誤りが少なくなっていた。

とは言っても、それなりに変換できない文字はある。

画数の多い複雑な漢字はしょうがないが、画数が少なくてもこんな漢字があるのか、といいうもある。

 

菅江真澄は、郷里の三河賀茂真淵の門下だった植田義方に国学を学んだ。

その後、尾張に遊学し、国学の他に、本草学や写生を学んだといわれる。

真澄の文章を読むと、漢文の知識も豊富だったことがわかる。

江戸時代の知識人が、具体的にどのような方法で教養を深めていったのか、私には想像がむづかしい。

でも、日本の歴史や文学などの古典的な文献の多くは、漢文でかかれていたのだから、漢字について学ぶことは、基礎的なことだったのだろう。

真澄の文章には、想像を超えるくらいに、みたことのないような漢字が登場する。

それを、現代のテキストに表示しようとすることは、現実的ではない気がする。

菅江真澄全集は、1970年代に刊行されたので、まだパソコンが一般的ではない頃である。

これを、印刷して発売するためには、どのような手順で進めたのだろうか。

すでに、コンピュータが編集のために使われたのだろうか。

それとも、活字を組んで印刷したのだろうか。

高校生の頃新聞部に所属していて、印刷を委託していたローカル新聞社の活字室を思い出す。

その活字の棚が並ぶ部屋の隅のテーブルで、テスト印刷されたものを校正していた。

1970年ごろ、まだコンピュータ化されていなかった。

無い活字は、新しく造ったのか。

私などが、学校で習った漢字は、当用漢字で確か2000文字もなかったが、実際に今まで存在した漢字は10万以上あったはずだ。

 

旅行の体験をもとにした文学作品は、「紀行」や「紀行文」というジャンルに分類されていることが多い。

その他に、「旅行記」や「道中記」と表現されることもあるし、長期にわたって本拠地を離れていたりすると、「滞在記」というものもある。

ウィキソース」という、フリーコンテンツを集めたサイトでは、紀貫之の「土佐日記」や菅原孝標女の「更科日記」は、「紀行」に分類されている。

菅江真澄全集で、日記に分類されている文章は、文頭に年号が記載されていて、さらに月日があって、記事が書かれている。

そのような文章が、数ヶ月分まとめられていて、日記の表題が表示されている。

多くは、真澄本人が表題を書いているが、収集した方が、仮に表題をつけたものもある。

書かれている記事は、年月日が特定できるものなので、確かに「日記」である。

そして、紀行文でもあるので、「旅日記」と言うのがふさわしいかもしれない。

 

宝暦4年(1754年)生まれの菅江真澄は、天明3年(1783年)に郷里の三河を後にして、長い旅に出かける。

信濃、越後を経て、出羽に入りさらに陸奥弘前藩南部藩から蝦夷地を目指すが、蝦夷地は飢饉で渡れる状況にはなく、南部藩を転々とする。

その後、蝦夷地にわたり数年暮らし、再び陸奥に戻り、弘前藩の投薬御用を務めるが訳あって、秋田藩に移り、晩年の長い年数を過ごす。

これをまとめると、次のようになる。

信濃  1783年5月〜1784年7月  

越後  1784年7月〜9月         

庄内  1784年9月             

秋田  1784年9月〜1785年8月   

津軽  1785年8月〜10月

陸奥  1785年10月〜1788年6月

津軽  1788年6月〜7月

蝦夷地  1788年7月〜1792年10月

下北      1792年10月〜1795年3月

津軽  1795年3月〜1801年11月

秋田  1801年11月〜1829年7月

 

郷里三河を離れたのが、30歳の頃であり、秋田を再び訪れ、住むようになったのが、享和元年(1801)なので、真澄は47歳になっている。

そして、75歳くらいで、角館で亡くなっている。

真澄の日記は、その間の45年間の記録である。

旅に出る以前の若い頃も、いろんなところへ旅行していたようで、文章は書いていただろうが、残っていない。

全集に「日記」として分類されているのは、五十数編であるが、他に「随筆」「雑纂」とされているものも三巻分ある。

 

真澄の日記は、年月日が特定できるものではあるが、毎日書かれているわけではない。

今日は、朝から雨だった、という一行だけの日もある。

このところ風邪気味で体調がすぐれなかった、ということで何日も書かれてないこともある。

よくわからないが、何日も記事がないこともある。

そんな感じで、彼の後半生の45年間の記録は、日記として残っているわけである。

秋田在住中に秋田藩から委託された秋田藩内地域についての地誌が、全集の残り四巻である。

菅江真澄真澄が旅を続けた人生のすべてが、全集十二巻として残っていると考えると、なんかすごいなと思う。

 

全集のテキストの文章を、校正するということは、原文とOCRの結果を見比べて誤りがないか確認して、訂正する作業である。

結局、原文を読むことになるので、なかなかたいへんではあるが、おもしろい。

真澄といっしょに旅をしている気持ちになる。

なんだかんだ、南部、津軽から、最近は秋田まで来てしまった。

真澄の旅は、200年も前のことであるのに、とても身近なものに感じる。

それは、彼が旅してるところが、北海道、青森、岩手、秋田と、私にとってだいじなところだからだろう。

読んでいると、いろいろと面白いことが多い。 

それについては、また書いて みようと思う。

 

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