先日、深田久弥氏の「日本百名山」について文章を書いていて、この本の文庫版の解説を書いたのが串田孫一氏であることを知った。
20代の頃に、串田孫一の「光と翳の領域」という本を愛読していた。
何がきっかけで、串田孫一氏を知ったのかは覚えていない。
この本は300ページを越える書籍であり、著者自ら自選した随想集だった。しかし、私が、愛読してたのは、本のタイトルにもなっている「光と翳の領域」というわずか2ページの作品だった。まえがきのように、目次の前に置かれていた。
それを、繰り返し繰り返し読んでいた。
いざ、本文というべき作品を読もうとすると、固有名詞を持った少女が登場したりする。具体的な人間が出てくると、読めなくなってしまう。恥ずかしいというのか、なんと言っていいのかわからない。
「光と翳の領域」だけを読むだけで、満足していた。
私の嗜好からは、とても遠い文章だと思う。
私は、簡素なシンプルな文章を好んでいる。
それなのに、何故か惹かれるものがある。
久しぶりに読んでみたが、やっぱりおなじだった。
曠野に道を失い、森の奥深くへと迷い込んだ時に、咄嗟に思い浮ぶ行動を否定し、暫くあらゆる判断を差控えながら、私は何やら悦びをおぼえているのに気が付くことが屡ゝあった。繁る草を分け、倒木を跨いだり、その下を潜ったりしながら、この地上を極めて慎ましく飾る生命の数々を発見した。そしていつの間にか有頂天になって尾根を越え、川を渡って行くと、自分が道を失っていることさえ忘れてしまうのだった。日が没して闇に囲まれると、夜明けを待ちながら、こんなことをするために、道を棄てたのだと思った。
いったい何に惹かれるのだろう。
言ってみれば、まわりくどい、格好つけた、気障な文章である。
もう少し、ふつうの言葉でも書けそうなものだ。
その格好と気障がいいんだろうか。
抽象的なもの、自然についてならまだいい。
具体的なものになるとどうも耐えられなくなる。
やっぱり、目次の後の文章は読めなかった。
私は、自分の領域を持ち、そこで小ぢんまりと身辺を整えようとは思わない。人はそれを願い、実現もしているだろうが、この大地のひろがりには誰の領域でもない土地がある。
私は、詩歌を好んで読んでいた時期があった。
詩歌のような、余白のある表現がよかった。
説明しすぎない表現が、自分の好みだったと思う。
串田さんの文章は、装飾過剰だし、説明しすぎである。
と、思いながらも読んでしまう。
この、まるで恩寵のように壮厳で、天国的な色彩を見せてくれる光と翳の領域で、私は恐らく自分をより鮮明に見るために書いているのだろう。