天明4年(1784年)1月から5月までの日記である。
菅江真澄は、前年天明3年2月末に故郷三河を出発し、信濃国に入り東筑摩郡洗馬村の医師可児永通宅に滞留していた。
天明3年の日記は、「いなのなかにち」と「わかこころ」におさめられている。
この年も、引き続き可児宅に滞在して、諏訪神社の祭礼に参ったり、花をもとめて近くをあるきまわっている。
この日記の原本は行方不明であるが、写本が国立国会図書館にある。
旧蔵者によって「秀雄北越記」と仮題されているが、内容を異文断章と照合して、未発見の「すわのうみ」であるとされている。
秀雄は、当時真澄が白井秀雄を名乗っていたことによってる。
旧蔵者の飯川勤は、仙台有数の蔵書家であり、稀書珍籍があると能筆を傭って謄写させて、それに自ら朱墨で校訂、補註を行っていた。