晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

村がなくなっていく

世の中には、変わった人がいる。いや、奇特な人と言うべきかな。

以前、ブログで森林鉄道のことを書いた時に、ネットで検索していたら、廃止になってしまった鉄道とともに、人が住まなくなってしまった村、廃校になってしまった学校など、いろんなものが見つかった。

そういうものを、好んで探し出して、訪ねて記録している人がいる。

そういう人のおかげで、かつて存在したという証拠が残っている。

先日見たサイトでは、以前に訪ねた時にあった廃村の神社が、10年後に行ったら建物が崩れ落ちて瓦礫のやまになっていた。

 

かつて、村の人口が少なくなってしまうということは、「過疎化」などのことばを使って表現されていた。

しかし、「過疎」ということばは、人口が急激に減少して地域社会の機能が低下し、住民が一定の生活水準を維持することが困難な状態になることをいっていた。

しかし、人口の多少よりも、人口の中の高齢者の占める割合が多くなることにより、地域社会の機能が低下することが指摘されるようになった。

そこで、人口の50%以上を65歳以上の高齢者が占めて、社会共同生活や集落の維持が困難になった集落を「限界集落」というようになった。

さらに、住民の転居や死亡で人口が0となると、「消滅集落」となる。

 

「山影弥太郎の集落紀行」という、人が住まなくなった集落を訪ねて記録しているサイトがあった。「山影」も「弥太郎」も、集落名からとったものだという。

私の郷里の近くを調べてみた。私が知ってる集落がいくつか掲載されていた。

驚いたのは、戦後に集落が形成されて、私が物心ついたころには、すでに無人になってしまった集落があったことだ。その周辺に行ったことがあったはずなのに、そこに集落があったことを知らなかった。

このサイトには、3900もの集落が掲載されている。

和歌山県在住で、主に新旧の地図の違いから集落を探しているそうだ。都道府県によって、集落数にとても偏りがある。それを、考慮すると、実際にはこの数倍の数の集落が消えてしまっているのかもしれない。

農林水産研究情報総合センターの2015年の調査によると、10年以内に消滅する可能性のある集落は570だったという。

 

私の育った郷里の見てみると、行動範囲だったところにいくつかのなくなってしまった集落がある。

 

一つは、「赤倉」という集落で、硫黄鉱山が岩瀬川支流の赤倉沢にあった。

明治36年から昭和16年まで、採掘され、最盛期には300人ほどの集落であり、分教場もあったという。

硫黄鉱山だったので、私が子どもの頃も赤倉沢の石は赤くなっていた。田代岳への登山道の途中にあったので、集落跡があることは知っていた。

 

次に、「内町沢」と「繋沢」という岩瀬川の支流の集落である。

この沢は、学校の「なべっこ遠足」でいつも行くところだったし、子どもたちだけでも遊びに行ってた。

でも、ここに集落があったことは、知らなかった。戦後昭和20年頃から10戸ほどが入植し、35年頃には離村したらしい。遠足で行った時に、集落跡を通った記憶がない。営林署の施設とかもあった気がするので、気がつかなかったのだろうか。

やはり、岩瀬川支流の板沢にも集落があった。

昭和22年から32年にかけて21戸が入植したとのことだが、昭和43年に全戸離農した。

昭和43年なら、私がまだ郷里にいる頃だが、集落まで行ったことがない。板沢の入口は、記憶がある。

 

私の育った村から、すぐに岩瀬川の支流かなりさかのぼるとと「千歳」という集落があった。

この支流には、江戸時代に「鴨沢鉱山」というのがあったらしいので、支流の名が鴨沢なのかな。鴨沢という地名は記憶があるが、「かもじゃ」と言ってた。鉱山跡には、行った記憶がない。

母親が、魚の行商をしていた時に、雪道をついてその集落へ行った記憶がある。

集落自体は、十ノ瀬山を挟んだ早口川の支流である小木津沢にあったので、「小木津」とも呼んでいた。

昭和22年から24年にかけて16戸が入植したが、45年に全戸離農した。岩野目小学校千歳分校があった。

 

ほとんどが、戦後の開拓集落である。当初は、食料を自給できればいいということだったのだろうが、畑作中心で農地規模的にも経営的にも難しかったのだろうか。

しかも、降雪地帯なので冬季は移動が難しい。

今のような車社会だったら、また状況は違っていたのかもしれない。

戦後、日本の河川の支流をどんどんさかのぼって、農地化できるようところに集落を作っていたのが、また元の状態に戻っている、ということだろうか。

 

私が、郷里を離れてからなくなってしまった集落がある。

岩瀬川の上流の大川目沢にある「大渕岱」である。

多目的ダムの山瀬ダムの建設のために、昭和58年に全戸転出している。

明治43年に森林軌道が開通し、大正7年には13戸の集落があったという。

営林署の事務所も置かれ、バス路線も開通していて、森林軌道の分岐点でもあり、奥地開発の拠点となっていた。私の父も木材を扱う仕事をしていたので、山の仕事といったらこの周辺に来ていた。

集落は、標高170mの地点にあったが、ダムの水面は標高190mである。

私の同級生が何人かいた。遊びに行って、泊まったこともある。

 

農村自体が、変わってしまったのかもしれない。

現在、農業だけで生計を立てられる専業農家はどれくらいあるのだろうか。

農村に住んでるけど農家ではない、ということが多くなってるのかな。

 

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