妻は、東京の板橋で生まれ育っている。
昭和30年生まれなので、東京は戦後から高度経済成長の時代に移って行く頃だ。
小さい頃は、父親はバイクに乗っていて、そのうちにスバル360に乗り換えたらしい。
同じ頃に、私は秋田で川や山で遊んでた。
父親の会社が板橋区の蓮沼町というところにあって、その社宅でずっと暮らしていたということだ。
学校を卒業して、就職したのが都内だったので、そこから通勤していた。
20代半ばの頃に、父親が定年退職して、千葉県の船橋市に引っ越した。
結婚したときは、松戸から都内まで電車で通勤していた。
社宅は、蓮沼や蓮根というところあった。
近くに、母親の兄弟姉妹が住んでいて、初めての姪っ子だった妻はみんなに可愛がられて育ったらしい。
私たちが結婚してから、何回か会う機会があった。
7人の兄弟姉妹だったが、とても仲が良くて、集まるとにぎやかで楽しかった。
その兄弟姉妹の長男である伯父さんが、亡くなったとの連絡があった。
その伯父さんには、特に可愛がってもらったらしい。
妻と二人で、葬儀に参列することにした。
電車を使って行こうと思っていたのだが、妻が自分が育ったところだから、車で行きたいと言い出し車で行くことにした。
たしかに、駅から距離があり、バスかタクシーを利用しなければならない。
葬祭場は、板橋区の最北端である荒川の土手沿いにあった。
荒川の川向こうは、埼玉県である。
ルートを調べてみると、国道6号(水戸街道)ー環七通りー国道17号(中山道)である。
キロ数にして、35キロであり、たいした距離では無い。
でも、東京はキロ数のわりに時間がかかる。
環七通りは、途中までは何度も行っている。
王子から、明治通り経由で板橋駅近くの伯母さん宅にはよく行っていた。
なので、王子によらず環七通りを板橋本町まで走って、右折して中山道に入り荒川の手前の舟渡で、中山道を降りればいい。
順調にいって1時間半、だいたい2時間あれば大丈夫だろう。
結果的に、行き帰りとも2時間弱というところだった。
地図で目的地のあたりを、調べていると面白いことがわかった。
葬祭場は、「戸田葬祭場」という民間の会社である。
しかし、住所は東京都板橋区舟渡にある。
荒川の川向こうは、埼玉県戸田市である。
現在この辺りは、大きな荒川と小さな新河岸川に挟まれている。
新河岸川が、本来の荒川であったらしく、葬祭場ができた頃はこの地は埼玉県であった。
新荒川が改修されて、板橋区に編入されたのは、戦後のことらしい。
新河岸川は、ほとんど河川敷のない川である。
増水したら、ひとたまりもないだろう。
東京にある古い河川は、だいたいが河川敷を持っていない。
それに対して、後で作られた川は、広い河川敷を持つ広大なものになっている。
これによって、東京の街は洪水から守られるようになったのだろう。
妻のホームタウンを、車で走った。
中山道なので、両側に一里塚があった。
志村坂上というところから、ぐっと下ると妻が通学した中学校があるという志村坂下だった。
ほんとに、坂上と坂下だった。
地名も、蓮沼、舟渡、浮間、蓮根というように、かつての土地の様子や歴史がわかるような名前である。
旧中山道は、巣鴨あたりから延びていて、志村のあたりで国道に合流している。
途中で、石神井川を渡る橋があって、その橋に板橋の表示がある。
昔は、大きな川には恒久的な橋はかけないものにだったらしいが、板橋はどうだったのだろう。
妻に、子どもの頃のことを聞くと、きりがなくなる。
学校は、このあたりにあったとか、幼なじみの家がこのあたりで八百屋をやっていたとか。
高島平団地のあたりは、何もない原っぱだったそうだ。
話を聞いているうちに、私は旧中山道を歩いてみたくなった。
妻も、久しぶりで歩いてみたいと、言っていた。
板橋を離れてから40年経っている。
その後、ほとんどこの街を訪れていない。
舟渡で国道を降りて、荒川の土手沿いに走ると葬祭場だった。
葬儀については、一日葬ということで、短時間だった。
我が家の近隣の葬儀社でも、そのような看板を見たことがあるので、世の中がそのような流れになっているのだろう。
故人の遺志で、墓をつくらず散骨するとのことだ。
お坊さんがお経をあげたが、戒名はなく、俗名のままだった。
これもまた、時代の流れかもしれない。
私の父が亡くなったとき、そんなことを考えている余裕はなかった。
当たり前のように、墓を作って納骨した。
私の父も、墓なんか要らない、と言いそうな人だった。
きっと、戒名も要らないと言ってたと、思う。
他人事ではないので、自分のこととして考えてみなければならないな、と思う。