私の住む集合住宅に隣接して、光ヶ丘団地がある。
日本で最も古い公団住宅だった光ヶ丘団地は、20年ほど前に建て替えられて、高層住宅になった。
だから現在は、正確には「グリーンタウン光ヶ丘」という名前に変わっている。
歩いていると、運動広場の近くに3メートルほどの樹木があった。
よく見ると桑の木で、赤い果実がついていた。
なかには、すでに熟して黒く色が変わっている実もあった。
歩く機会の多い歩道の近くにあるのだが、今まで桑の木であることに気がつかなかった。
秋田県の北部の山間の農村で育った私にとって、桑の実はもっとも身近な野生の果実だった。
桑の木と言ったら、一般的にはカイコのエサとなる葉っぱで知られているだろう。
でも、私の育った村の周辺では、養蚕はやっていなくて、桑といえば木の実であり、子どもの食べるものだった。
養蚕業は、日本中で行われていたのだから、桑の木はどこにもあっただろうに、桑の実のことは、ほとんど聞かない。
団地にあった桑の木は、樹高も低いものだったので、手を伸ばせば実を取ることはできそうだった。
誰も食べられるものとは知らないのだろうし、食べられると知っててもその辺にあるものに手を延ばす人はいないだろう。
鳥がたべたのだろうか、木の下に果実が落ちた様子もなく、そのうちに赤い実も無くなった。
このブログに、「野生の果実」という文章を書いたことがある。
農村で育って、野山の果実を食べている子どもだった私のお気に入りだったものを、思い出して書いてみたものだ。
この文章で、思い出すものを、5種類あげている。
① ぐみ Silberberry
② あけび Chocolate Vine
③ くわ Mullberry
④ すぐり Gooseberry
⑤ うめ Japanese Apricot
それぞれに英語名があるのだから、世界中にもこれらの果実はあるのだろう。
梅干しや梅酒用の「うめ」は、時期になればスーパーに並ぶけれど、食用の果実として売ってるわけではない。
それ以外の果実は、ほとんど果物売り場で見かけたことはない。
「あけび」はどこかの道の駅で、見かけたことがある気がする。
これらの他にも、農家の敷地には果実のための樹木が植えられていた。
母親の実家には、「豆柿」の木があった。
豆柿は、ブドウくらいの小さな柿がいっぱい実った。
高木なので、登って収穫できず、熟して干し柿のようになって落ちてきたものを食べた記憶がある。
豆柿の英名は「date plum」で、デーツとプラムを合わせたような味がすることに由来するのだというが、そんな感じだった気がする。
父親の実家だった農家の様子は、記憶にはっきりと残っている。
私が、郷里を離れてから50年も経っている。
その間に、帰郷するたびに村の様子は大きく変わっていった。
それなのに、私の記憶では、3Dのジオラマのように思い出す。
厩のある自宅の周りには、大きな作業小屋と薪小屋があった。
お風呂と厠も、別棟になっていた。
梅の木は、私のお気に入りで、熟した梅の実をよく食べていた。
住宅の南側には、山梨の大きな木があった。
これは今の梨の原種らしいのだが、小ぶりな実がいっぱいついた。
でも、実は硬くて、甘くもなかった。
なんでも食べてみる田舎の子どもたちも、さすがに見向きしなかった。
住宅の北側には、氏神様のほんとに小さな祠があった。
その隣に、「まるめろ」の木があった。
「まるめろ」という果実は、他では見たことがない。
「まるめろ」は、何回か食べてみたが、不思議な味がした。
おいしくはなかったが、子ども心に外国の味ぽいな、と思っていた。
ウィキペデアによると、中央アジア原産である「まるめろ」は江戸時代にポルトガル船によって長崎に伝来した、とある。
「まるめろ」はポルトガル語で、英語名はクインス (quince)。別名「セイヨウカリン」ということで、果林に近いが、違いは「産毛」が生えていることらしい。
「果実は芳香があるが強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食はできないが、カリンより果肉はやわらかく、同じ要領で果実酒、蜂蜜漬けや砂糖漬け、ジャムなどが作れる。」 日本語版ウイキペディア
「まるめろ」ということばと再び出会ったのは、横浜で学生生活を送っていたころである。
高木恭造さんの「まるめろ」という詩を知った。
昭和6年に、34編すべてが津軽弁による詩集を発表していた。
秋田県の北部で育った私にとって、青森や津軽は身近な存在だった。
なんといっても、電波事情により秋田放送ではなく青森放送のテレビを見て育った。
遡れば、私の育った秋田県北秋田郡は、秀吉によって陸奥国比内郡から出羽国秋田郡に編入された地域である。
高木恭造さんの詩は、おもしろかった。
漢字のふりがなは、津軽弁である。
私にとっては、ほとんど違和感がない。
泥濘に、「ガチャメギ」というフリガナがついいている。
「ガチャメギ」は、久しぶりに聞く響きだった。
泥濘は、ぬかるみのことである。
舗装されていない道路の、雪解けの泥んこ道が思い浮かぶ。
時代は、棟方志功、寺山修司、三上寛など津軽弁の人たちが活躍していた。
津軽方言詩集『まるめろ』
──文学教材としての可能性──
櫛 引 洋 一
この詩は、困窮生活を共にし、病に倒れ若くして世を去った妻への鎮魂歌である。
妻が、死に際に見た夢は、遠く離れた故郷青森のまるめろと雪であったという。
津軽において、「まるめろ」はいったい何だったのだろう。
泥濘の中から拾おうとした「まるめろ」は何のことだろう。
父の実家の「まるめろ」の木は、どうして何のために植えられたのだろう。
ジャムや砂糖漬けにしていたような形跡はなかったな。
それとも、私が感じたような外国につながるものだったのか。