晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

おののふるさと⑥ 菅江真澄テキスト

十三日 ある翁にいざなはれて河瀬のあびき(網引)見にいきてんとて、おもの(雄物)河のへたに草おりしきて、翁、こしにつけてける、ひさごのさゝヘとりいだして盞とりぬ。

くき、せぐろ〔くきも、せぐろもいをの名也〕とるとて、小石もて川瀬にとりつかねて、いをの入来べきわざをせり。

水のとゞまりてながるゝところを、うたといひ、そがうへをさして、かゞみとよぶは、魚とる人のこと葉にぞいひならはせる。

翁、なりひさごを枕として、かく

やあらん、むらゐにはあれど聞たまひてよ、申さん。

 

   たのしさよ老のこゝろもうづきでて又逢事のかたき世なれば

 

といひつつ、たヾなきにないたり。

こはいかに、うつしごころにやと聞に、かたはらのあげまき、酔ればいついつも、かくなみだおとしけるくせにて、とわらふ。

老の歌の言葉ことやうにあれど、そがこゝろあはれなれば、かいのせたり。

わらは、芦のわか葉をひたにあつめてこれをわがね、笛に吹声おかしう聞えてければ、

 

   あしの葉の笛の音たかく河やしろ浪のつゞみもうちそへてけり

 

小供らあまた野路を分行が、とゞまりて、これこのすかんぽの枝に、あきづの、羽やはらかなるがのぼりたるは、いまや、ぬきいづらんといふ。

すかんぽは、いたどりをいひ、あきづとは秋津虫のこと也。

日くれて家にかへりたり。

十四日 小野小町のふるあとゝぶらはんとて湯沢をたちて、せき(関)口村、上せき(関)村(湯沢市)になりぬ。

山かげをほとゝぎすの百千反なけば、

 

   里の名の関守もがなほとゝぎす過行がたをさしてとゞめよ

 

酢河(須川)といふを橋よりわたる。

岳より落来る出湯の末のながれにや、水の味ひ酢して、もろもろの魚すむことなしと行人かたりぬ。

古記云、

須川岳跨奥羽両境、西北大岳面有温泉。清和帝貞観十五(八七三)年六月己午、授温泉神従五位下

となん聞たり。

いとふるき、みたけぞありける。

はるかに其あたりをあふぎて、ぬさ奉り来れば、夏木立しげりあひたる中に、鶯の春のいろ音残したるはめづらしく、

 

   夏草のしげきねになく鶯はかへる酢川の路やまどへる

 

中泊、水口、十日市町邑、寺村(以上雄勝町)、なべて西馬音内の庄小野郷といへり。

其共いにしへ、いではの郡司良実の住給ひしといふ家居のあとは、桐ノ木田といふところに、めぐりの掘のあと、かたばかり残りぬ。

良実のたて給ふたる菩提のみてらとて桐善寺といひ、むかしは天台のゝりを行ひ、なかむかしより禅家の法をつたふ。

小野邑に至れば金庭山堂厳院といふうばそく(優婆塞)あり。

なにくれのこととはまほしく此うばそくをとへば、あるじの云、あが遠つおやは三十八代さきなる円明坊とて、これも天台のながれをくんで、良実につきそひ奉りて都より来りてここにとヾまりしいにしへをかたる。

むかし、つがろの守の御使ひ一夜あが家にとゞまりて、あなる、うつばりにかゝりたるはいがなるものぞ。

あるじ、なにゝてさふらひけるや、しらず。唯いにしへより、かく紙につゝみ、八重繩にゆひたりとかたる。

ひめたるものなりとも露人にかたらじ、中見せてたうびよ、とく/\とせちにいへば、あるじ、かまもてきり落して、ひらいたるに、いとふるき木のきれのやうなる琴なリ。

こは、小野の家のふるき調度ならん。

又小町姫のもてあそびけるにやとおもひ、この琴を、ひたすらたまへと、いくばくのこがねいだして、かひてけるとぞ、いひつたへ待る。

熊野のみやしろのありけるは良実の建給ひて、此国に見ぬ瓦などもてふき、大なるいらかと聞えしが、今は、さゝやかにやつれておまします。

此あたり耕し侍れば、やぶれたる瓦あまた鍬にあたり侍る。

いにしへよりは、みちなども、ふみかへてけるならん、あがいにしへ住家のありしは、あなたの木々むら立るところなど、をしへたり。

熊野社にぬさ奉る。

此みやしろの左はこがねのみや、右は和歌のみやと申奉りたり。

里の子の云、小町姫は九のとし都にのぼり給ひて、又こしごろになりて比国に来給ひて、植おき給ひし芍薬とて、田の中の小高きところにあり。

いざたまへ、見せ申さんとて、あないせり。

其めぐり、しば垣ゆひめぐらしたる中に、やがてさくべう、ゑびす薬の花茂りあひたり。

これを、いにし頃より九十九本ありて、花の色はうす紅にして、花いさゝか、こと花とたがふなど、此盛を待て田植そめてけり。

枝葉露ばかり折てもたちまち空がきくもりて、やがて雨ふり侍る。

まことにや雨乞小町ならんとかたる。

石ふみに書たるを見れば、

小野小町大同四(八○九)年己丑生昌泰三(九○○)年庚申年九十二卒行」

としるし、又九十九首の歌を詠寺じ、名を法実経の花といへり。

歌に、

「実うへし九十九本あなうらに法実歌のみたえな芍薬

となんありけり、もて」

あそび給ふたるげにやあらんか。

小町姫のあねの君のなきがら埋し、ふるづかのしるしをゆかりの松といひしが、十とせのむかしかれたりと人のかたりたり。

其辺に藤のかゝりたれば、

 

   かれし其むかしは遠し松の名のゆかりはしるし花の藤波

 

田の面の二森といらふは、いにしへの八十島のおもかげ斗残たる也。

むかしはこゝを、おもの川ながれしといふ。

岩屋といふところに、小町老となりてしばし住けるよしをかたり、又聞つたふる歌とて、

「有無の身やちらで根に入八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」

こは小野小町のよみ給ひしなり。

又たれならん、おもひやるこゝろのうちのしほみちて袖の波こす小野の八十嶋」見たまへ、二森は小町世にすみ給ひしとき、深草の少将の塚をつかせ、又みづからのをも、かねて此つがにならびて作らせ、われ世さらば、かならずこゝに埋みおくべきよし聞えて、かくれ給ふ。

又あやしきことながら、小町姫は鹿の生たる子也。

其ゆへは、よしざねに、世になききよらなる女通ひける、そがはらみでうみ落してのち、鹿の形をあらはしたりともきき、小町ひめ、をさなきころ人にぬすまれて、みちのおくの、いまのみやこのあたりに住てけるを、よしざね、かゝることゆめしらでこゝに至り、此女、世になうみやびかなる女なれば、めざしそめ、行末をちぎりて別れ給ふに、月日へて、おやといふこと聞あらはれしかば、小町姫なきいさちけれどかひなく、小町姫、われこそ世にまれなるつみ人とならめと、これより、世のなかの人に露の契もかけざりけるとか。此ものがたりに、

「みやこしま辺の別なりけり」

といふ歌、おもひあはせたり。ある翁、八十島のいはや、なりうごくことあり、又かりにすがたをあらはし歌よみて、かいけち給ふこと、はた夕ぐれなどに、かほよき女にみちにて逢しが、行衛もしらじとが上ることをり/\也。

二森は、八十島のうちに、ふたつづかつくらせ給ひしならんか。

野中村の野中山小野寺といふも、ゆかりありけるみてらなり。

本尊の千手ぼさちは定長の作り給ふ、今におましませり。

慈覚大節、小町姫のふるき手ならひの反古集めて、百とせのすがたを作り給ふ。

今に残りたるを、さうず(三途)川のうばと人ごとにいへり。

いにしへ実方あそ(朝臣)、此里にめぐり来給ひて、

「なきあとやありしむかしの雲の月小野の人かなしばしあひみん」

と聞つたへて侍るとて、かたり捨て、此翁は小径に入ぬ。

ある家にしばらく休らへば、あるじ、すゝつきたる箱のうちより、とりいだして見せたるふみに、ひえの山なりける円教あざり(阿闍梨)、国めぐり給ひてこゝに至り、とヾめおき給ひし観世音の像は、定長にあふせて小野寺に納め給ひたる也。

比国に三十三所の観音ぼさちをあがめたる、其ひとつの七番の札をさむる人、

「夜もすがら月に小野寺のそのゝ花うてなの露に身をやどすかな」

寛永十二(一六三五)年の頃、伊勢の国より分部左京亮政寿といふぬし、国めぐり来給ふが、

「ことの葉のたねに残りていにしへのあとなつかしき小野のふるざと」

佐竹なにがしのかみにつかへてける治俊の、もてなしの役にありて此返しを、

「いにしへのあとのあはれを問こそはさすがにはなのみやこ人なれ」

とぞ。

かゝることゞもしるしたる、こゝろありける里の長也。

又あるじのかたりけるは、一とせ日でりつヾき、田はたけ、みなかれ行まゝ此芍薬の辺にいもゐして、

「ことはりや日のもとなれば」

とうたいしかば、雨たちまち降て其しるしをあらはし給ふ。

小町姫にもの奉り、此むくひに人々の妻、むすめの、みめよきを集めて歌うたひ酒のみて、さはにはやし/\すれば、ときのまに、よき空くもりて、やをら雨ふり出れば、いそぎみな家に帰れば、雨はいやふりにふりて、はたつものもみな波にゆられて、晴行空もみえず。

せんすべもなう、又こと神にいのりして、やゝはれ行てけるは、うたての小町姫やといふ。

小町の雨いのりのうたといふは、世にいふとはことなれるあり、

「ちはやぶる神もみまさばたちさはぎ天のと河の樋口あけたまヘ」

といふと聞ど、さりとては又とずしたり。

はた、此うたうたひて其しるしのあらはれたるは、身の毛いよだつ、ありがたさと人のかたらへば、民のなげき、あめにかよひしならんか。

小町姫のうへは、世中にまちまちにかたりつたふることは、あげてかぞふるに、いとまあらじかし。

ちかき世に、はいかいの連歌師芍薬の枯葉折て家づとにせんと、たゝう紙のあはひにいりてければ、あめたちまち降て身いたくぬれ/\かへるとて、

「又れいのあふむが、へしやむらしぐれ」

遠かたによこたへるたかねをとへば、こたへて、さなひらひどなし七里〔ひどとは、ひきゝところ沢などをいひ、行ほど三里あり、小径ならんか〕)といひて、むかし雄勝峠(羽前と羽後の境)に通りし路にて、こゝを日ぐらし山といふ。

花の木あまたのうちに大桜とて、花のいと大に咲といへり。

山ふかく谷幽に、みねそびへ、みち曲たれば、いつもこゝにて日ぐらしけるゆへ、かくいふにてやあらんとかたりたり。

ふたたびうばそくの家に入ば、あるじよろこびて、なにくれとねもごろにかたりぬ。

むかしは、こゝらのたから持つたへて侍りしかど、もがみよしあき(最上義光)の軍のころ、火のためにやかれて失たり。

いかなるゆへにか、此小町のみすがたのみ残りたりとて、いとふるき木像ををがませたり。

花あまた咲たる、ちいさきみやしろのおましますをとへば、はしり明神といらへぬ。

いかなる神のみたまにやありけん。

なだかき雄勝峠は、日ぐらしにて侍ると聞伝ふといひつつ、雨のふり出るに、とに、あるじ出たればわかれて来つつ、横掘(雄勝町)といふところの実諧といふ老人をとへば、ちかきころ郭公聞しとき、

 

   かきくらき若葉隠れにさそひ来てまた忍音の山ほとゝぎす

 

しろがねほる山見にまかるとて、院内(雄勝町)といふところにとまる。

ながる水を桂川といふ。

水上は雄勝の峠、もがみ(最上)にくだる渓かげより落来となん。

橋の上にたゝずみて月をあふぎて、

 

   てる月の中にながるゝ桂川よるはことざらすみ渡りぬる

 

 

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