晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

くめじのはし⑩ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

押田村をへて西条といふ処に至る。

ここに雁田の神とて誉田尊をあがめまつる。

ほくらのうちに石のおばしがた造り、いくつもならべたり。〔天註--本洗馬村のあしの田といふ処の、わかみや八幡もおなし雄元の祠也。みちのくににはいと多しといへり〕かへりまうしにかけ奉る、つくり画なども、めおのはじめ、みとのまぐはひのかたありけり。

あやしく見れば、腰よりしたつかたなるやまふをいのれば、すみやかにその験ぞありけるとて、ふた布、あるは前だれやうのものかけ、男は褌をなん奉りける。

身のやまうのことを記して、みてぐらにひきむすびてありけるふみを、よみをはりて、

 

おもふこと書つらねてや玉づさをかけてかり田の神いのるらん

 

ひろまへしばししぞきて、いと涼しければ松が根に肘つき休らひつつ、ふとひるねして松風に吹おどろかされて、

 

又いつかわけこしここに草枕しばしかり田の神のみまへに

 

此あたりにも霧原の名の聞えたり。

筑間郡に在とは、いづれかさだめん。

田中村を過れば、田子てふところあり。

袖ぬれし田中の田子の功をみのる八束の穂波にぞしる

やに入て、うちやすらひて浅間がたけを見やる。

あるじの云、去年のいましころは、あなる山やけて、いただきに雷や落るかとひびき、やけあがる石は、ここらの火の玉となり、火矢はぢくがごとく、おほぞらにとび、四方にちりて、近きわたりは、やも人もうちくだかれぬ。

此あたりよりのぞむも、命あるここちはせで、神と仏とをいのりしかど、ことなく、あが里はのがれきなど、うち語りぬ。

霧うすくはれて、山のなからばかりよく見やれたり。

秋風に麓の霧はあさま山なびくは峰の煙なるらし

石船地蔵とて、石のふねかたちしたるに立たまへり。

吉村、梶窪村を行に、みちの左に見えたるを髻山とて、上杉輝虎ここにもいなぎし、こもりおはして、狼煙あげたりしところ、とのめぐりの堀の址、駒がへりなどいふ名のみ残ると、のりたる馬おふ男の、ひかヘ/\語る。

 

また霜の俤見えずこまがへりとはに老せぬもとどりの山

 

過こし里、又このあたりの人、そのとし麻刈て、にゐ苧をこぎとれば、初尾花二もと三もと折て、麻苧はつかばかりむすびそへて、まづ、かんやしろに奉るためしあり。

 

神もうけん手向尾花の袖の露むすぶ麻苧の浅からじとは

 

平出の村の左に、親鸞上人の、九の文字の、仏のみなかい給ふけるを持伝ふる明光堂といふに、けんざすめりと。

牟礼、小玉、落蔭、古間といへる処に雨宿して、

 

旅衣袖はぬらさじ村雨のしばしふるまの笠やどりして

 

柏原のやかたを出て野尻のうまやに入ぬ。

この里のひんがしに湖水あり。

むかし、謙信の従弟、長尾四郎越前守義景といふ人ありしを、宇佐美駿河守定行、あまたの武士をみそかにかたらひ、野尻湖をわたすとき、ふなそこに、かねてはかり造たる栓をぬいて、たばかりころせし。

その子上杉景勝、のちにやすからず、軍をひいて、たたかひのところはあしこ、かしこなりと、さき立て行人の手をさしてをしゆ。

 

「中麻奈に浮居る舟のこぎでなば、逢事かたしけふにしあらずば」

 

とよめるは、このあたりにや。

はた、いづこともしらず、とひわびつつ、

 

尋ねても其名はそことなかまなに浮をる舟と聞渡るのみ

 

ここに泊りたる夕、はいかいする名を湖光てふ人とひ来て、

 

月に鳴むしの音くらし草のなか

 

といふ句せりけるに、こたふ。

 

秋の花野をつくす言の葉

 

三十日 このやかたを出て、ささやかのやひとつある処に至れば、野尻の湖なごりなう見えたり。

わけのぼる処を長範坂といひ、山の名もしかいふ。

むかし、ぬす人のをさ熊坂がこの山にこもりて、近き里わたりの馬をぬすみて、月毛は栗毛に染め、栗毛は烏黒に色をぬりかへて市にうりき。

其そめどのの跡とて礎も残りぬ。

このあたりのことわざに、三ッ子のよこぞうりといふ諺あり。

熊坂、三のとし伯母の?枝をぬすみ、わがふみもにふみかくし、よこふみにさしふんで、にげさりしとなん、行つるる友のかたりぬ。

赤河といひ関川といふ流あり。

此水露斗も飲たるものは盗せるきざし出るとは、長範がくみたるゆへにいふにや。

はた、もろこしの盗泉のたぐひにや。

かかる水をさかふて、あなたはこしのくに、こなたは科野のくに也けり。

橋のなかばにたちて、

 

信濃路に別て越のなかに行へだて物うき関河の水

 

ふたたび、うちたはれて、

 

赤川と人はいへども白波の名に立渡る水ぞものうき

 

関のあら垣に入ば、越呉のくに赤河の里也。

渡来し河のあなたに熊坂村といふあり。

長範のぬす人の魁は、この村に生れしといふは、ことにて侍ると、ものしりがほなるおほぢひとり、斧さしたるが、われにかたりつつ気破必左加といふにのぼり、石のうへにたち休らひ、かへり見れば、かのふるおほぢ、見たまヘ、高き山はしなのの飯繩山、戸隠山、此国の妙光山也。

こや、明光山は有明のみねといふといへど、科野路にも其名聞えたり。

此たぐひは、姨棄山の外に、芋井の郷の近き辺にも更級といふ処あり。

山を、さらしなの山とも更級崎ともいひて、月の田といふが四十まり八まちありといふ。

その更科の里のかんわざに、荒雄等の太鼓うちて、

 

「名所さま/\゛あるなかに、さらしなの里さらしなの里」

 

と、うたひありくといふ。

かかることあらがへるは、世中のならひ也けり。

しかはあれど、いづれをか、しかまのあながちにさだめてんと、おほぢに別れて久呂比咩山を見あふぎて、

 

くろ姫の山の面影名にも似ぬみねは真白の雲の絶せぬ

 

田切、二?、大田切などいふ、信濃のくににもある名の、ここにも聞えたり。

斧沢、関山、稲荷山、福崎などいふ村々を過れば、片貝てふ名あり。

こは古き名処にして、

 

「かたがひの河の瀬清く行水のたゆることなくあるかよひ見ん」

 

とよめり。

はた、

 

「にゐ川の其たち山にとこ夏に雪ふりしきてをはせる、かたがひ川の清きせに」

 

ともあれば、立山のほとりにや。

片加比河を越中といふ人もあれど、むかしは、国の三こしぢとわからざるにや。

伊夜彦山も越中の国としるして、家持の詠たまふ歌あり、今は越後のくぬちとか。

戸隠山の法師と、おなじやどにしばしかたらひて、わかるるとき

 

   別ては逢てふこともかたかひの河瀬の水のおもひ渡らん

 

市屋、松埼、二本木、坂本、三家、藤沢、板橋、御出雲をへて、新井といふ処に宿かりてふしたるに、いまだ信濃の国を行めぐりありつと見おどろきて、かけろととりの鳴づるころ、

 

高志ながら夢は山路をみすず刈る科野の真弓心ひかれて

 

 

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