押田村をへて西条といふ処に至る。
ここに雁田の神とて誉田尊をあがめまつる。
ほくらのうちに石のおばしがた造り、いくつもならべたり。〔天註--本洗馬村のあしの田といふ処の、わかみや八幡もおなし雄元の祠也。みちのくににはいと多しといへり〕かへりまうしにかけ奉る、つくり画なども、めおのはじめ、みとのまぐはひのかたありけり。
あやしく見れば、腰よりしたつかたなるやまふをいのれば、すみやかにその験ぞありけるとて、ふた布、あるは前だれやうのものかけ、男は褌をなん奉りける。
身のやまうのことを記して、みてぐらにひきむすびてありけるふみを、よみをはりて、
おもふこと書つらねてや玉づさをかけてかり田の神いのるらん
ひろまへしばししぞきて、いと涼しければ松が根に肘つき休らひつつ、ふとひるねして松風に吹おどろかされて、
又いつかわけこしここに草枕しばしかり田の神のみまへに
此あたりにも霧原の名の聞えたり。
筑間郡に在とは、いづれかさだめん。
田中村を過れば、田子てふところあり。
袖ぬれし田中の田子の功をみのる八束の穂波にぞしる
やに入て、うちやすらひて浅間がたけを見やる。
あるじの云、去年のいましころは、あなる山やけて、いただきに雷や落るかとひびき、やけあがる石は、ここらの火の玉となり、火矢はぢくがごとく、おほぞらにとび、四方にちりて、近きわたりは、やも人もうちくだかれぬ。
此あたりよりのぞむも、命あるここちはせで、神と仏とをいのりしかど、ことなく、あが里はのがれきなど、うち語りぬ。
霧うすくはれて、山のなからばかりよく見やれたり。
秋風に麓の霧はあさま山なびくは峰の煙なるらし
石船地蔵とて、石のふねかたちしたるに立たまへり。
吉村、梶窪村を行に、みちの左に見えたるを髻山とて、上杉輝虎ここにもいなぎし、こもりおはして、狼煙あげたりしところ、とのめぐりの堀の址、駒がへりなどいふ名のみ残ると、のりたる馬おふ男の、ひかヘ/\語る。
また霜の俤見えずこまがへりとはに老せぬもとどりの山
過こし里、又このあたりの人、そのとし麻刈て、にゐ苧をこぎとれば、初尾花二もと三もと折て、麻苧はつかばかりむすびそへて、まづ、かんやしろに奉るためしあり。
神もうけん手向尾花の袖の露むすぶ麻苧の浅からじとは
平出の村の左に、親鸞上人の、九の文字の、仏のみなかい給ふけるを持伝ふる明光堂といふに、けんざすめりと。
牟礼、小玉、落蔭、古間といへる処に雨宿して、
旅衣袖はぬらさじ村雨のしばしふるまの笠やどりして
柏原のやかたを出て野尻のうまやに入ぬ。
この里のひんがしに湖水あり。
むかし、謙信の従弟、長尾四郎越前守義景といふ人ありしを、宇佐美駿河守定行、あまたの武士をみそかにかたらひ、野尻湖をわたすとき、ふなそこに、かねてはかり造たる栓をぬいて、たばかりころせし。
その子上杉景勝、のちにやすからず、軍をひいて、たたかひのところはあしこ、かしこなりと、さき立て行人の手をさしてをしゆ。
「中麻奈に浮居る舟のこぎでなば、逢事かたしけふにしあらずば」
とよめるは、このあたりにや。
はた、いづこともしらず、とひわびつつ、
尋ねても其名はそことなかまなに浮をる舟と聞渡るのみ
ここに泊りたる夕、はいかいする名を湖光てふ人とひ来て、
月に鳴むしの音くらし草のなか
といふ句せりけるに、こたふ。
秋の花野をつくす言の葉
三十日 このやかたを出て、ささやかのやひとつある処に至れば、野尻の湖なごりなう見えたり。
わけのぼる処を長範坂といひ、山の名もしかいふ。
むかし、ぬす人のをさ熊坂がこの山にこもりて、近き里わたりの馬をぬすみて、月毛は栗毛に染め、栗毛は烏黒に色をぬりかへて市にうりき。
其そめどのの跡とて礎も残りぬ。
このあたりのことわざに、三ッ子のよこぞうりといふ諺あり。
熊坂、三のとし伯母の?枝をぬすみ、わがふみもにふみかくし、よこふみにさしふんで、にげさりしとなん、行つるる友のかたりぬ。
赤河といひ関川といふ流あり。
此水露斗も飲たるものは盗せるきざし出るとは、長範がくみたるゆへにいふにや。
はた、もろこしの盗泉のたぐひにや。
かかる水をさかふて、あなたはこしのくに、こなたは科野のくに也けり。
橋のなかばにたちて、
信濃路に別て越のなかに行へだて物うき関河の水
ふたたび、うちたはれて、
赤川と人はいへども白波の名に立渡る水ぞものうき
関のあら垣に入ば、越呉のくに赤河の里也。
渡来し河のあなたに熊坂村といふあり。
長範のぬす人の魁は、この村に生れしといふは、ことにて侍ると、ものしりがほなるおほぢひとり、斧さしたるが、われにかたりつつ気破必左加といふにのぼり、石のうへにたち休らひ、かへり見れば、かのふるおほぢ、見たまヘ、高き山はしなのの飯繩山、戸隠山、此国の妙光山也。
こや、明光山は有明のみねといふといへど、科野路にも其名聞えたり。
此たぐひは、姨棄山の外に、芋井の郷の近き辺にも更級といふ処あり。
山を、さらしなの山とも更級崎ともいひて、月の田といふが四十まり八まちありといふ。
その更科の里のかんわざに、荒雄等の太鼓うちて、
「名所さま/\゛あるなかに、さらしなの里さらしなの里」
と、うたひありくといふ。
かかることあらがへるは、世中のならひ也けり。
しかはあれど、いづれをか、しかまのあながちにさだめてんと、おほぢに別れて久呂比咩山を見あふぎて、
くろ姫の山の面影名にも似ぬみねは真白の雲の絶せぬ
小田切、二?、大田切などいふ、信濃のくににもある名の、ここにも聞えたり。
斧沢、関山、稲荷山、福崎などいふ村々を過れば、片貝てふ名あり。
こは古き名処にして、
「かたがひの河の瀬清く行水のたゆることなくあるかよひ見ん」
とよめり。
はた、
「にゐ川の其たち山にとこ夏に雪ふりしきてをはせる、かたがひ川の清きせに」
ともあれば、立山のほとりにや。
片加比河を越中といふ人もあれど、むかしは、国の三こしぢとわからざるにや。
伊夜彦山も越中の国としるして、家持の詠たまふ歌あり、今は越後のくぬちとか。
戸隠山の法師と、おなじやどにしばしかたらひて、わかるるとき
別ては逢てふこともかたかひの河瀬の水のおもひ渡らん
市屋、松埼、二本木、坂本、三家、藤沢、板橋、御出雲をへて、新井といふ処に宿かりてふしたるに、いまだ信濃の国を行めぐりありつと見おどろきて、かけろととりの鳴づるころ、
高志ながら夢は山路をみすず刈る科野の真弓心ひかれて