晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

男子厨房に入るべし

我が家は、子どもが男3人である。

ということは、女性は妻だけである。

私は、ずっと妻といっしょに台所に立つようにしてきた。

子どもたちが小さい頃から、できるだけ台所に立たせるようにした。

自分が食べるものくらいは、自分でできる人間になって欲しかったからだ。

人が作ってくれるのを、座って待ってるだけには、なってほしくなかった。

私の母と同居していた時期があったが、台所に母が孫と並んで何かやってる姿の写真が何枚か残っている。

 

私の父は、私が小さい頃、炭焼きをやっていた。

炭焼きというのは、炭用の木材のある山の中に、炭焼き窯を作る。

そして、窯と一体化して、寝泊まりのできる小屋を作ってあった。

炭というのは、木材を不完全燃焼させることによってできる。

燃焼させてしまったら、灰になってしまう。

だから、何日も泊まりこんで、空気の調整をして不完全燃焼させる必要があった。

父は、食べ物を自分で用意して、食べていた。

姉と二人で、山道をずいぶん歩いて、父の炭焼き小屋に行ったことがある。

わたしが小学校低学年くらいだと思うので、逆算すると父は30代前半くらいだと思う。

緑に囲まれた炭焼き小屋を、覚えている。

 

父はそういう生活を、何年くらいしていたのだろうか。

そのあと、何年かして出稼ぎ生活を始める。

詳しことは聞いてないが、北海道の山仕事は厳しかったというのは聞いている。

タコ部屋といっても、今は死語かもしれないが、そんなことも言っていた。

東京オリンピック前の、高速道路の建設現場にもいた。

トヨタ自動車の季節作業員みたいなこともやっていた。

食事が提供されるようなところもあっただろうし、自炊するようなところもあったと思う。

父は、自分の食事は自分で用意できる人だった。

だから私も、子どもの頃から母が仕事でいなければ、自分で適当に食べることはしていた。

 

我が家の子どもたちが、小学校低学年から幼稚園くらいの時、私と息子たちで夕飯を作ることをやっていた。

週末に、お母さんは食事を作らなくてもいいよ、という日があった。

どんなものを作っていたのか、具体的には思い出せない。

書くのが好きな末っ子が、「○○△レストラン」と名づけてメニューを作っていた。

その甲斐あって、必要になれば3人とも、何か食べたいものは自分で作れるようになっている。

 

それが関係あるのかどうかはわからないが、それぞれに飲み物にとても興味を持つようになった。

長男は、コーヒーに興味があって、コーヒー関係の資格を学生時代に取っていた。

次男は、日本茶に関心があって、三男は紅茶だった。

だから、我が家では、コーヒー、紅茶を飲んで、最後に緑茶になったりする。

 

退職してから、自由な生活になった。

私は、結婚してから、食事の準備はいっしょにやるようにしてきた。

妻は、今でも時々働きに出たりするので、私が台所に立ってることが、さらに多くなった。

買い物も、私が一人で行くこともあるし、妻が休みだったら二人で行く。

夕飯のメニューを考えている。

二人だけだったら、何でもいいやと思うかもしれない。

今は、息子が同居しているので、そんなわけにもいかない。

でも、もともとが好きなので、楽しんでやってる。

 

 

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