北海道へ行った時に、驚いたことがある。
北海道では、小さな町でも、町並みが碁盤の目になってるのだ。
私は、学生時代に初めて北海道に行っていて、そのときは、倶知安でユースホステルに泊まって、町が碁盤の目になってるのに気がついた、と思う。
私は、明治以降に京都の条里制にならって、北海道でも町を建設する際に、碁盤の目にしたのだろう、と思っていた。
でも、条理制というわけではなく、条丁目制という独自のもので、北海道全体ではなく、40ほどの町で見られるということである。
でも、京都と同様に、「北3条西6丁目」のような表示で、位置がわかるので、交差点の名前が特別につけられてないらしい。
「北3条西6丁目」は、北海道庁の札幌市の住所だが、条が南北で丁目が東西の位置情報になっている。
先日、知人への届けものがあって、妻と自宅から少し離れた所まで、しばらく歩いた。
どうしたら、こんな道ができるのだろう、と思うような道だった。
不思議な角度で交差したり、微妙に曲がったりしている。
あらためて、地図を見てみる。
それを見ると、新しく出来た道と、どう考えても古い道だろうと思える道とがある。
人がその土地に住むようになって、どういう感じで道はできていくのだろう。
歩きやすいところに、踏み跡が出来て、それが道になっていく。
長い直線はほとんど無く、微妙な曲線が続く。
地形が関係してできたのだろう、と思える道もある。
台地の麓に沿って道があったり、小川に沿って道が続いたりしている。
人が多く定住するようになったら、それぞれの土地の所有状況も関係してくるかもしれない。
条里制というのは、京都や奈良の都を作る時に、中国にならったのだろう思っていた。
しかし、中国で行われていたのは、条坊制だった。
南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目条に組み合わせた左右対称の都市計画だった。
大陸では、異民族の侵攻を防ぐために城壁が作られたが、島国である日本では城壁は作られなかった。
都の入り口を示す朱雀大路の門だけが作られ、羅城門と呼ばれた。
この条坊制の流れを汲むのが、条里制や条丁目制なのだろうか。
条里制による遺構は、日本全国に残っているようだ。
たとえば、庄内平野や秋田平野に遺構が残っているということは、大和朝廷の柵が建設された際に同時に作られたものだろう。
単に、都市計画だけではなく、新たに開墾など行なうときに用いられた。
条里の基本単位は、約109m(1町=60歩)であり、1町四方の面積も、町や坪や坊と呼ばれてたようだ。
これを、6×6に並べた区画は里と呼ばれた。
北海道の場合も、明治維新以降新たに町を建設する際に条丁目制が用いられたのだろう。
私の郷里にも、戦後開拓して集落を作ったところがあったが、碁盤の目までは行かなくても、直線で区割りされていた気がする。
いったん、道ができてしまえば、その道を手直しするのは難しくなると思う。
道路は、周りを私有地で囲まれているので、道路に手をつけるには、その私有地をなんとかしなければならない。
道幅を拡げるだけでも、私有地を買収しなけてば ならないし、場合によっては住宅などを移動しなけばならない。
日本のように、地価の高いところでは、とても費用のかかる事業になる。
旧水戸街道というのが、近くを通っている。
江戸時代は、道中奉行が置かれ、五街道の附属街道として扱われていたらしい。
戦後になって、多くのバイパスが建設され、渋滞する都市中心部を通らないようになった。
これによって、自宅からもっと近い城址であった根木内城址があった台地が、真ん中で分断され、その半分は失われた。
このように、公共性の高い国の道路事業などは、土地収用法が適用されるので、所有者の意思に沿わなくても、収用が可能なのだ。
そうでもしないと、道路は作れないということでもあるのかな。
JR常磐線が近くを通っていて、それに並行するように国道6号線が続いている。
常磐線の線路を越えられる箇所は、そんなにはない。
線路の下を、隧道でくぐるか、線路の上に橋をかけるかである。
地元では、日光街道と呼ばれている、「日光東往還」という脇往還が南柏駅付近にある。
そこから国道6号を交差して線路の上に橋をかけ、その先に旧水戸街道に交差する道路を作る計画があった。
それまで住宅地にあった道路をかなり拡幅しなければならなかったらしいが、土地の買収がうまくいかず、そのままになっている。
私が転居してきて数十年、放置された状態である。
なかなか、むずかしい事業なんだろうな。