これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
ひさしぶりに、車で遠出をした。
行き先は、いろいろ考えたのだが、房総半島にした。
ゴールデンウィークということで、どこへ行っても混雑はまぬがれない。
房総半島は、むかしから行ってるし、だいたいの様子は知っている。
妻の実家が、九十九里の山武町にあった頃は、そこを拠点に、半島を南下していたのだが、その頃は外房の海の道を使うことが多かった。
その後、館山自動車道ができたので、内房のルートを使う機会が増えた。
どちらにしても、海側の道は渋滞すること多く、特に帰宅時に苦労した記憶が残っている。
そこで、今回は内陸の道路を使うことにした。
今回の目的地である房総半島の南部は、令制国で言えば「安房国」(あわのくに)である。
律令制の時代、私の住む千葉県は、「安房国」と「上総国」と「下総国」の三国からなっていて、明治維新まで続いた。
令制国の制度が導入されるまで、この地域は「総国」(ふさのくに)という多くの国造の領域があったらしい。
国造というのは、古くからその地域を治めてきたきた地方豪族を朝廷が任命したものらしいが、律令制度によって国司が派遣されるようになって、名誉職になっていった。
阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社・下海上・印波・千葉というのが、この地域にあったとされる国造の国である。
令制国として、「上総国」と「下総国」が成立し、のちに「上総国」から阿波国造と長狭国造の地域を分けて「安房国」として成立させた。
この時点で、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の四郡からなっていた。
高速道路は使わず、内陸を南下するということで、自宅から千葉ニュータウン、酒々井、八街という、かつて山武町の実家へ通った頃のコースを走った。
八街から、東金、茂原と方向を変える。
いつもは、九十九里浜の南端である太東に出て、そこから外房の海岸線を行くことが多かった。
茂原からは、そのまま内陸の県道を進み、「むつざわ道の駅」というまだ新しい施設に寄った。
思ったほどの渋滞もなく、昼前に到着したのでそこで昼食にした。
最近、関東近辺の道路地図を新しいものにした。
なんと、「道の駅」が増えたことだろうと、思う。
かつて、まだ小さい子供たちを連れてくるまで出かけると、トイレ休憩できるところが、ほとんどなくて、苦労したものだ。
道の駅は、数えるほどしかなかった。
駐車場とトイレという、最小限の道の駅だった。
たぶん、そのころには考えもしなかっただろう「プラスアルファ」が、道の駅にはあったのだ。
宿泊は、千倉にした。
この街は、今までに何度も通り過ぎているが、泊まったことはない。
初めて寄った時に、「鯨のタレ」というのを見かけて、いったいなんだろうと思った。
クジラの干し肉というか、ビーフジャーキーのようなものだった。
江戸時代からある伝統的食品なのだから、鯨漁をやっていたということだ。
宿の住所は、南房総市となっていた。
たしか、むかしは「丸山町」だったと思うが、平成の大合併で「南房総市」になっている。
朝夷郡は、長狭国造の領域であり、長狭国造の中心は鴨川のあたりだったらしいので、この千倉のあたりもその勢力範囲内だったのだろう。
房総半島の南端の市町村が合併を進めていたことは、ニュースで知っていた。
そして、その中心だった館山市が離脱して、その他の町村で「南房総市」となった。
「南房総市」という名称には、違和感があった。
「房総」というのは、「安房」と「総」ということで、「安房国」と「総国」、つまり「上総国」「下総国」であり、千葉県全体をさす名称である。
「南房総」だと、千葉県の南部ということになる。
実際には、南部ではなく、南部の南端部分である。
律令制度下で、令制国の下部組織であった「郡」は、明治維新後の廃藩置県によって、令制国が消滅したあとに、都道府県に引き継がれ、郡役所も置かれた。
旧安房国の四郡、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡も、そのまま残ったが、明治30年には、安房郡が他の三郡を編入したので、旧安房国は安房郡となった。
それを考えると、「南房総市」ではなく、「安房市」でもよかったのではないかという気がする。
合併の経過を調べてみたら、「安房」という名称は出ていないようだった。
当初、千葉県から示された合併案は3案あった。
1案は、旧安房国=旧安房郡をすべて対象にしたもので、旧長狭郡である鴨川市、和田町、天津小湊町を含んでいた。
しかし、早い段階で旧長狭の市町は合併を断念した。
次に、2案に基づいて、旧長狭郡以外の市町村で協議が続いた。
新市の名称について、館山市は「館山」を、その他の町村は「南房総」を主張し、折り合いがつかず館山市は、合併協議会から離脱している。
合併協議会は、旧安房郡の1市8町で構成されていたが、その後鋸南町も離脱し、富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町の7町で「南房総市」を成立させた。
かつて、昭和の大合併というものがあった。
私が生まれた昭和28年ころから始まって、それまで1万ちかくあった市町村が、3年後には4,000ほどに減ったらしい。
合併で問題になるのは、新しい市町名である。
今私の住む柏市もその頃に周辺の町村が合併して、誕生したらしい。
柏町が、土村、田中村、小金町と合併したわけだが、江戸時代は水戸街道沿いの集落に過ぎなかった柏町に対して、小金町は古くからの宿場町であった。
それを配慮してか、市名は「東葛市」と郡名からとっていたが、すぐに小金町が松戸市に編入された。
合併によって誕生した市町村の名称には、時々頭をかしげてしまうことがある。
「水沢市」と「江刺市」、そしてその周辺の町村からなる新市である。
「奥州」は「陸奥国」の別名であるので、確かに「奥州」にあることは間違いない。
しかし、陸奥国は、青森県、岩手県、宮城県、福島県、さらに秋田県の一部を含むとんでもなく広い領域の令制国であった。
市の名称として、ふさわしいものと考えて決めたのだろうが、不思議である。
これもまた、決定するときに、何かが欠けてしまってる気がする。
房総半島への長距離ドライブをして、感じたことがある。
今までは、外房も内房も海岸沿いで、それほどアップダウンがなかった。
今回は、内陸のコースだったので、山越えだった。
「房総丘陵」という言葉は、知っていた。
鹿野山だったか、マザー牧場だったか、「九十九谷」といわれる山々の展望を見たこともある。
実際に、「房総丘陵」を走ってみて、なるほどと思った。
この山々があるので、「上総国」から「安房国」を分離させたのだ。
房総丘陵は、最高峰でも嶺岡愛宕山の408mなので、高度はそれほどではない。
ところが、アップダウンの山道が延々と続く。
カーブの連続で、先が見えず、集落も信号もない道が何キロも続く。
ドライブのトレーニングみたいだなと思った。
車が少なく、対向車もそれほどないので、それほどたいへんではない。
私は、ふだん車を運転する機会は比較的多い。
自宅の周辺は、交差点や信号も多く、何百メートルもノンストップで走ることはあまりない。
千葉県北部は、下総台地や北総台地と呼ばれるゆるやかな台地の地形である。
郊外を走ると、高台と侵食された谷が交互にあらわれるが、のんびりしたものである。
帰ってから、あらためて航空写真を見た。
千葉県は、北部の台地と南部の丘陵がはっきりとしている。
そして、東部にみごとな九十九里浜。
陸の孤島と言われかねないけれど、それもいいところかな。