晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた⑥  菅江真澄テキスト

また康元、正嘉のころならむ、相模守時頼、最明寺して落飾(スケシ)たまひて、法ノ名を覚了房道崇と号(ナノリ)て国々めぐり給ひ、こゝにもしばし杖を曳(ヒキ)とめられしといふ庵の跡あり。

また舞鶴(マヒヅル)が池も雪に翅(ツバサ)のふり埋れ、梵字が池、鈴沢(スズサハ)の池、柳の御所は、清衡、基衡の館の跡にして、其むかし江刺ノ郡豊田ノ館をうつされて、豊田ノ御所とも云ひしと)なむ。

又秀衡、泰衡ノ館は伽羅楽(カララ)ノ御所といふを、人みな、からの御所と呼(ヨベ)り。

また泉ノ御所ともいへる、そは泉酒(イツミサケ)とて豊酒(トヨミキ)の涌(ワ)キたる事あり、酒は栄(サカエ)のよしをもて、居館(ヤカタ)は泉ノ御所とも名附られつるものか。

泉酒の涌出(ワキデ)し池の跡を今は泉崎といふ、また泉三郎忠衡も此処に住みて泉とはいへるならむ、和泉(ニギイツミ)のよしにはあらざるべし。

また正月(ムツキ)のやらくろずりの唱歌(ウタ)に、

 

「泉酒(イツミザケ)涌クやら、古酒(フルサケ)の香(カ)がする、妾持(ヲナメモチ)の殿(ト)のかな」

 

また、今年酒が涌やら、去年酒ケの香がすると唱(ウタ)ふ処もありき。

かたふかといふ処あり、そは片岡ノ八郎弘常が館跡也。

また鈴木ノ三郎重家が館ノ蹟(アト)は弘台寿院〔中尊寺の本号也〕の山の西ノ麓に在り。

また『円位上人選集抄』に誌(カケ)る、その尼寺の跡あり。

また花立山といふ山あり、そは基衡の妻(ツマ)、某(ソレ)ノ年(トシ)の四月(ウヅキ)二十日に身まかり、此室(ヲミナ)もろ/\花を好(スケリ)とて、其日にあらゆる花を彩作(イロドリ)りて此山にさして、室(ヲミナ)のなきがらをその花立山に埋てけるよし。

基衡の室(ツマ)は阿倍ノ宗任ノ女(ムスメ)にして、和歌(ウタ)にも志シふかかりける人にや、木草花をになうめで給ひしといふ。

今も四月廿日には僧(ホフシ)あまた出て、かりに葬(ホフリ)のさまして、目をすり掌を合せ数珠(ズズ)をすり幡を立テ、宝蓋(テムガイ)、宝螺(ホラ)、梵唄(ボムバイ)をうたふ。

是を四月の哭祭(ナキマツリ)といふ、もともあやしき祭也。

むかしはこの哭(ナキ)祭の日は、知るしらず、僧等(ホフシラ)とともに経をうたひ金鼓(コムグ)を鳴らし、あるは、その声どよむまで、よゝと哭(ナキ)しといひつたふ。

また忠信、次信が館跡は、高館の下なる地(トコロ)の岨めける処也。

義経の御館(ミタチ)は高館とて、いと/\高き処に在りて、その乱ノ世に九郎判官、これまでとて怨(エムジ)たる一章を口に含(フゝミ)て御妻子(オホムメコ)ともにさしつらぬき、その太刀もて腹かき切リ給ひしは文治五年閏四月廿九日、御年卅三、法名(ノチノチ)通山源公大居士と彫(ヱリ)て、霊牌は衣川邑の雲際寺にをさむる也。

また『清悦物語』高館落のくだりに

 

「判官、兼房をめして今は生害あるべしと仰らるゝに兼房つゝしみて申上るは、身方残らず討死と聞かせ給ひて御前ム様も、御両人の公達もたヾいま御生害なし給ふと申シ上れば、義経、今は心やすしと仰られて、御坪の内の岩に御腰をめされて、金念刀(コムネムタウ)にて御腹十文字にぞきらせ給ひける。

兼房、御■(言+定)なればとて、御前にさふらふとすゝみ寄リて御首をうちとり奉りて、兼房も腹十文字にかっさばき五臓を■(爪+國)(ツカミ)取出して、義経の御首をわが腹の内におしかくし、おのが衣を以て巻てそ息絶たる。

清悦、常陸、近習二人して御所に火をかけて一時のうちに煙とぞなし奉りたるは、文治五(一一八九)年閏四月廿八日より同晦日まで三日三夜の戦ひにて、高館の御所落城せり。

其時衣川の流血の色に染めて、三日四日水の色を見ざりし」

 

と見えたり。

また『上編義経蝦夷軍談』高館落のくだりに

 

義経も権頭兼房が月れにいとヾ涙にむせび給へども、とても落べき気色の見えざれば云々。

杉ノ目ノ太郎行信は義経ノ顔面(カホニ)能ク似たればとて御姓名を犯(ヲカシ)奉り、義経の御身に替りて大将となる。

常陸坊海存も存る子細のさふらへばとて城に残りて一軍し、趾より追付奉らむ云々。

高館に押寄(ヨ)せ勝負を決むと、文治五年閏四月廿九日泰衡が舎弟本吉ノ冠者高衡を大将とし、長崎ノ太郎佐光、同次郎俊光、照井ノ太郎高春等三万余騎を三手に分け、衣川の高館におし寄る。

城中にはかねて覚悟云々。

早や行信は自害しければ、兼房即時に介錯し、首を錦の直乗(垂)におしつゝみ座上に直し、其身も腹十文字にかき切れば海存又是を介錯し、其まゝ処々に火をぞかけたりける。

煙にまぎれて、常陸坊は跡方もなく落行ける」

 

同五巻「泰衡攻泉三郎忠衡ヲ」くだりに

 

「去程に日本奥州には、泰衡が舎弟泉三郎忠衡は義経に志気(コゝロザシ)清く、勅命をさみせしなンどかねて叡聞に達し、違勅の罪に依て急ぎ忠衡を誅すべきよし、過にし文治五年六月七日鎌倉の飛脚奥州に到着せり。

同キ十三日には泰衡が使者として、一族新田(ニヒダ)ノ冠者高衡、義経の首を黒漆の櫃に入れ美酒に浸し、下人二人に荷せ、腰越の浦まで参着し此由を言上す。

是に依て、首実検として和田ノ太郎義盛、梶原ノ平三景時、各鎧直垂を着し甲冑の郎徒廿騎相具し、腰越に来て首実検を遂にける。

〔東鑑に此首分明ならず云々とあり〕是に依て腰越へ御使を下され、泰衡、義経が首を討て送らる条神妙也。

就て泉三郎忠衡、よしつねに無二の忠志を尽(ツクセ)しよし、違勅の者安穏なる事を得むや、急ぎ忠衡を誅せらるべし。

然らずンば泰衡もともに違勅の名を得られむか。

是頼朝が計らひに非ず、勅命の趣キ斯の如くなり。

此旨皈て泰衡に申べしと仰遣はされ御暇を給はりける。

新田(ニヒダ)ノ冠者髙衡、夜を日に継で奥州に馳せ皈り右の趣を演しかば、泰衡、国衡、表には、こはいかにと仰天の体なりしが、忍びやかに忠衡の方へ人をつかはし右の次第を語ければ、此上は御辺の方へも討手の勢を差向べし、自害せし体にもてなし高館殿の御跡を慕ひ、父が遺言の通り、蝦夷に渡り命を全くせらるべしと云送り、同廿六日、勅命なれば是非に及ばず忠衡を誅すべしとて、勾当八秀実を討手の大将として、其勢八十余騎にて泉の屋(ヤ)に押寄せて、鬨を作って攻たりける。

館の中にも忠衡が郎徒ども、こゝをせんとぞ戦ひける。

此泉の屋(ヤ)は無量光院に程近し。

折ふし夜に入て館に火のかゝりければ、終に無量光院こも火移らんとす。

寺僧等も爰を詮と防ぎけるほどに、漸として打消しけり。

此寺は故秀衡入道菩提所の為に建立ありし霊地にて、宇治の平等院を摹し、扉には秀衡自ラ狩猟の体を画キ金銀を鏤めたり。

火も既に静りければ勾当八秀実泉の屋を点検するに、忠衡を始め郎従ども自害と見えて、死骸悉く焼損じて其形分明ならざりしとなり云々」

 

 

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