晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた④  菅江真澄テキスト

二十日 けふは磐井ノ郡平泉ノ郷(サト)なる常行堂摩多羅神の祭見ンとて、宿の良道なンどにいざなはれて徳岡の上野を出て、はや外(ト)は春めきたりなンど語らひもて行ク。

遠かたの田ノ面の雪の中にこゝらたてならべたる鶴形(ツルガタ)は、まことにあさるさまして、真鶴(マナツル)、黒鶴(ナべツル)、餌ばみ、立首なンど、みな生るがごとし。

こは、去年の秋、稲刈りをへるやいなや此鶴形を立り。

此鶴の始めは、いつの世ならむ及川某といふ武士(サモラヒ)造りそめぬ。

其後胤(スエ)なほありて、其及川の家に刻ミ彩リたるははかなきやうなれども、鶴の能ク飛び下降(クダ)るといひ、また良工(ヨク)もの作る人の心をつくして造りたりとも、人は、めをおどろかしぬれど、鶴(トリ)の目は、そをよしともおもはざりけるにや、及川が家の鶴形には、今も能く鶴の群れくだるといへり。

鶴形はいと/\大なるものにて、二ツならでは馬に負(オフ)せじとなむ。

真鶴、白鶴、黒鶴なンどさま/″\に彩(イロドレ)り、此いろどることを、にごむと方言(イへ)り。

其にごみたる上へに大豆液(マメゴ)といふもの塗(ヒケ)ば、烈(ハゲ)しき雨風露霜、氷レる雪にさへ腐(クダ)さず残れり。

田の畔に小柴さして射翳(マフシ)とし、その内に入りて鉄炮(ヒヤ)してうつといへり。

秋は鶴形いと/\多く、今は鵠(クヾヒ)〔白鳥をいふ也〕形、鴨形、雁形なンども作り出て、鳥もめづらからず、見あざむにや、むかしほど降りも来らざるよしを語る。

行/\鶴象(ツルガタ)といふ事を、

 

木々の枝は花とぞ見つるかた岨にのこれる雪もけふはかすみて

 

前沢ノ駅(胆沢郡前沢町)になれり。

此あたりの家々に、水木の枝に蚕玉(マユダマ)とて、玉なす餅を、つらぬき附て梁にたてり。

勝軍木(カツノキ)ノ菊ノ削花を幾英(イクフサ)となく、某(ナニ)ノ木の枝ならん、それにひし/\ととりさしたり。

また、こと木の枝をおし曲ヒて、青小竹(アオシノ)の箭(ヤ)の三尺(ミサカ)ばかりなるを矧(ハギ)て、その弓の上彇(ウハハズ)より白麻(マシラヲ)を乱し附て、艮門(ウシトラ)の方にはなたんさまして、削花の木の中つ枝に結ひ添へて門々たてり。

こは十五日にしつる歳の祭ながら、いまはた残りける也。

延喜式に、御仏名とき、菊の削花なンど聞え、また正月門戸に削花揷むは、いと/\古きためしにこそあらめ。

かくて、鈴木常雄、けふの事かねて書(フミ)もてものし聞えたれば、前沢の郷あたりにて出テ会(アハ)むといひしごと、常道といふ人をぐして、横路より雪ふみ分て来けり。

まづ此年始てのたいめなどありて常雄。

 

かくてこそ猶うれしけれかねごともけふにたがはで逢ぞ楽しき

 

とあるに返し。

 

玉づさにむすぶ言葉をしるべにてたがはぬすぢに逢ぞうれしき

 

道よりひむがしの方に名におふ大桜とてあり、枝四方八方(ヨモヤマ)うちたれ、雪をおびたり。

木の太(フト)さは、十二人手をつらねて周回(メグル)といふ。

そこに斎(マツ)りて不動明王ノ堂あり、家二三戸(フタツミツ)ありて村名も大桜とよぶ。

いにしへ秀衡、束稲(タバシネ)山に千本(チモト)の桜を植(ウエ)られし事あり、そのころのたねならむといへど、此大桜は千歳(チトセ)ふる木ならんと人々のいへり。

 

こと木よりつもれる雪も大桜花も芳野のいくもに見む

 

と書て堂にさし入たり。

かくて此処を出(デ)て、右の方に白鳥明神の塔の跡も雪にふり埋れ、白鳥ノ二郎行任が名は世に人しれり。

徳沢長根の雪の片岨に小松の群立(ムラタテ)るは、輝井ノ太郎が陣取し地(トコロ)也。

また道の傍に雪に埋れし碑(エリシ)は、山田治左衛門とて、新墾(ニイバリ)にいさをありし男(ヲノコ)のゆゑよしをしるせりといふ。

そは百とせまりむかしの事となもいへる。

瀬原ノ里に来けり、金命丸といふ薬を売(ウ)る家あり。

此里の艮(ウシトラ)の方に小松が館といふあり、そは、阿部ノ兄弟栖家(スミ)たる瀬原ノ柵ともいひし処といへり。

浅からずおもひそめしとよめる衣川を橋より渡る。

此水むかしは艮に落て、今は東に流ぬ、そこを押切リといふ。

いにしへは兵多くうち死し、あるは洪水(ミヅ)に流しといへり。

其とき武蔵坊ばかり上に流れしといふは、北上川も衣川も一面(オシナメ)て流るれど、衣河の水にしたがひ、上の方、北ざまにながるゝを寄手の見て、弁慶のみ上(ミナカミ)に流るは、もともあやしき事といひしとなむ。

此衣川の源に、清浄が滝とていと/\大なる滝あり、今そを障子がと訛(アヤマ)りいふとなん。

むかし慈覚円仁大師衣をあらひ、かたはらの木にかけて乾(ホ)し給ひしよし、さりければ、それより滝を衣の滝、その流の末を衣川といふといへり。

順徳ノ帝

 

「風冴る夜半に衣のせきもりはねられぬまゝに月や見るらむ」

 

とよみ給ひしその関の古ル跡トは、鵜(ウ)ノ木(前沢町北上川のほとり)といふ地(トコロ)に在り。

今は来藻(コロモ)ノ里(サト)(胆沢郡衣川村)は卯の方にあたれり。

 

むかしか束稲山(タバシネヤマ)の麓に桜あまた植て、此桜の花の影上川〔北上川をいふ也〕の水にうつり散れば、雪の流るゝがごとくいと/\おもしろければ秀衡、北上川を桜川と名附られて芳野川にもをさ/\劣(オト)らざりしが、今は束稲山には桜一樹(ヒトモト)もなく、中尊寺の辺(ワタリ)を桜川とよびて、酒酤亭(ウルヤドリ)、そをいへるのみ。

むかし貞任が舎弟(オトウト)則任、命惜(オシミ)て死(シナ)ざりければその妻(ツマ)としは十八なるが、夫(ツマ)の勇(イサミ)なきをいたくうらみて嬰児(ヲサナゴ)をいだきて、

 

「いまぞしるなみだにぬるゝ衣川身は流すとも名をばながさじ」

 

とて、衣川に飛入りしとなん語り伝ふ。

『前太平記』には、城内の二の堀に身を投しと見えたり。

また阿倍ノ則任が居城(シロハ)衣川に在りて、一ノ城堀(ホリ)へも二ノ堀へもみな衣川の水を落したる地(トコロ)也。

 

巽(タツミ)が中(カタ)に、かごしものひとり秀たる山あり、そは磐井ノ郡ノ式ノ御神二社ノひとはしら儛草(マヒクサ)ノ神鎮座(マセル)みね也。

鈴木常雄

 

をり/\に来てこそしのべころも川ながれて遠きむかし語リを

 

また村上良道。

 

春もまた浅き雪消の衣川きしの氷はとくるともなし

 

など、人のよめるを聞て、

 

衣川いく世かさねしいにしへをおもひ渡れば袖ぬれにけり

 

人々の歌あまたあれど、ところせければ、みなかいもらしたり。

いと/\ふり生(タテ)る一木は鈴木ノ三郎重家が塚(ツカ)ノ松、また権ノ正兼房がしるしの石などあり。

弁慶が壟松(つかまつ)を見て、人みな彳ミ歌よめるを聞て、

 

松がねに苔こそ埋めむさしあぶみさすがに高き名やはかくるゝ

 

しかして中尊寺にまうでむとていたる。

そも/\此中尊寺といふは、鎮守府ノ将軍陸奥ノ守奥羽両州ノ押領使従四位上少将藤原ノ朝臣(アソミ)秀衡入道世に在りしころ、白河ノ関より外(ソト)が浜まで千本の率塔婆(ソトバ)をさして、そが中央にあたれりとて中尊寺とはいへるとなむ、真名(マホナ)は弘台寿院といふ。

鼻祖は円仁大師にて嘉祥三(八五〇)年に開(ヒラキ)給ひし御寺といへり。

こゝに白山ノ神また日吉(ヒエ)ノ神をうつしまつりて、此二柱の御神山をまもらひ鎮座(シズモリマセ)り。

 

 

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