晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた⑤  菅江真澄テキスト

四月(ウヅキ)ノ初午ノ日は白山神の祭にて、七歳男子(ナナツゴ)を馬に乗(ノセ)て粧ひたて、白兎(シロウサギ)の作り物あり。

此白兎は従者(スンザ)にてもろこしより神のぐし給ひしまねびといへり。

此処(コゝ)に斎奉(イツキマツ)る白山ノ神霊(カミ)は八十一隣姫(クゝリヒメ)の神にはおましまさず、その韓神(カラカミ)にてぞいまそかりける。

其日は田楽、うば舞(マイ)、さるがうなンどありて、賑(ニギハ)へるよし人の語る。

経蔵に戸ひらかせて入れば、立獅子(タチシシ)に乗る文殊師利菩薩(ボサチ)、獅子(シシ)の口索(タズナ)曳持(ヒキモタ)るは浄明居士、また筐(ハコ)さゝげ立るは善財童子また仏陀波利(ブツダハリ)、優闕王(ウシムワウ)なンどの仏(ミホトケ)は、みな毘首羯摩が作(ツクレ)りといふ。

うべも、めもあやに、あが国にはもともまれなる御仏也けり。

また釈迦仏(サカブチ)一世の経典(ミノリ)納経の始は、七十四代の帝鳥羽ノ院のみくらゐにつかせ給ふとし天仁元(一一〇八)年戊子ノとし藤原ノ清衡寄附せり。

世に名ある手(テ)かきの僧(ホフシ)を集めて、古キ寺々に在る経典を紺紙に金泥(コムデイ)してかゝせ、また一ト行リは金泥(ゴガネ)、一ト行りは銀泥(シロガネ)の文字して書(カキ)たるあり。

此経典(ツメガミ)巻たるはみな木瓜の紋(カタ)あり、そが家のしるしにや。

また基衡納経はおなじ紺紙(ツメガミ)に、金泥(コガネ)の文字(モジ)ノ色ことにつやゝかに見えたり。

此多かる経典の中には、今し世にある一切経とは文字の多小、訳(ヤク)のかはれるもありといへり。

また婆粉紙(バフムシ)とて黄色梵本(キナルヲリマキ)の経あり、そは宋板(モロコシズリ)にして秀衡寄附のみのり也。

此経筐(バコ)の文字はみな螺鈿(ラデム)をちりばめ、また唐櫃(カラウヅ)の内より大蛇(オロチ)の歯(ハ)、水火ノ玉ひとつ、藕糸(グウシ)ノ袈裟(ケサ)なンどとうだしてぞ見せける。

金色堂(コムジキダウ)、そは俗(ヨニ)光リ堂といふ、扉(トビラ)もおしひらけり。

こは天仁二(一一〇九)年己丑ノ春清衡ノ建立の堂にして、七宝(シチハウ)荘厳(サウゴム)の巻柱(マキバシラ)、戸枚(トビラ)の光リ、長押の螺鈿なンど、みなそのさま、からめける細工(タクミ)也。

そが中に観世音菩薩、勢至菩薩地蔵菩薩、三尊(ミハシラ)のぼさち立給ふ。

そが中の座(オマシ)の下には藤原清衡の棺(ヒトキ)あり、大治元(一一〇六)年丙ノ午ノ七月十七日逝去(ミマカレリ)。

左の菩薩の下には基衡の棺(ヒトキ)を隠(カク)せり、保元二(一一五七)年丁ノ丑ノ三月十九日みまかれり。

右ノ方のぼさちの下には秀衡入道の棺あり、文治三(一一八七)年丁未の十二月廿八日みまかれり。

また入道の棺に、和泉三郎忠衡が頸桶を後に内(イレ)たりといへり。

その三代の人々の軀(ムクロ)には羊(ヒツジ)の肪脂(シボウ)を塗(ヌリ)て、巴牟耶(パムヤ)といふものもて棺に攻(ツメ)て、沙羅布(サラフ)といふ布(ノノ)にて上へを包み封(フムジ)たりといふ。

年を経て布もくちやれて、ふむじも解(トケ)ぬれど、此棺をひらけば、つめたる薬気(クスリ)はつとたちて、つゆばかり眼(メ)に入りても盲瞽(メシヒ)となりとて、誰れひとり手やはふるゝ。

また、なにのよしありてかひらかむや。

清衡、基衡、秀衡三代の横刀(タチ)あり、その飾(カザリ)なンどいふべうあらじ。

建武二(一三三五)年乙亥の春野火かゝりて、堂社僧房院々残りなく、四十七宇の洪鐘もみながら回禄(ヤケ)て、時の間に灰となりしとなむ。

さりけれど此金色堂(ミタマヤ)のみ焼(ヤケ)のこり、また経堂も屋根のみ焼たれど内には事なう、いにしへを見るに足れり。

此光リ堂、経蔵のみまたくして、その外は御仏のみぞのこれる。

また弁慶が九寸五分といふものあり、そは山賤のもたる山釤てふものゝごとく、一尺二三寸のかねを厚(アツ/\)とうちのべたるものにて、劔柄(ツカ)は透(スカ)しにて、手をさし入レて握しものとおもはれたり。

むかし京都(ミサト)にて、ある小寺の開帳のとき、其宝物の内に見し破石刀といふものありしが、その破石刀のさまに似たり。

これもなか/\弁慶時代(トキヨ)のものにはあらじ、いと/\ふるきものにこそあらめ。

また康永二(一三四三)年と刻(ヱ)りたる洪鐘(カネ)ひとつあり。

堂舎もみな、かりやとおぼしくて四阿両下(マヤアズママヤ)めけるさまに作れり。

弁財天女ノ堂に金光明最勝王経の曼茶羅十巻、みな金泥もてそのあらましを彩(イロドリ)かきたるは、めもあやに見えたり。

堂舎僧房の在りし古跡(フルアト)を見めぐりて、物見とて杉のむら立(ダテ)る処にのぞめば、衣河は糸すぢのごとくみだれて加美(カミ)川の流に落たり。

武蔵坊が流れたりし中の瀬といふも今は田畠となりぬ。

和泉が城、岸の松、亀井の松、蓮台野なンど残ンノ雪に埋れたり。

山口ノ堂に、武蔵坊が七道具負ひもて立(タテ)る、六尺(ムサカ)まりに作りて、いと/\近き世にすゑたるを見て笑ふ人多し。

九郎判官の館の跡高館といへるあり、武蔵坊が館跡、その外の兵等が住しあとも、みな畠となり山賤の住家となりぬ。

義経堂に登りてむとおもへど、雪のいと深ければ、ふたゝびいたらむ、はや日もかたぶきぬ、いでとて、こよひの神事にいそぐ。

道のかたはらの雪の中に八花形といふ処あり、そは国衡、隆衡が館ノ跡にて、外堀なンどは千町ノ田となれり。

此あたり雪いとふかし。

小堂(サゝヤカノダウ)あり、此堂の内(ウチ)に鉄塔(テツタフ)とて、いと/\大なる鉄塔(クロガネノタフ)の、なから砕たるあり。

そが内(ナカ)に女の黒髪(カミ)いたく納めたり。

いにしへ秀衡の室(ツマ)の、ぬけちりたるくろ髪をかく納められしものとて、今の世かけてしかぞせりける。

かくて摩多羅神の広前(ミマへ)にぬかづく。

いまだ人もこゝにいたらねば、今しばありて来らむとて、千葉某といふ人のもとに行なんとて人にいざなはれて行ぬ。

しかして此あたりを見わたす。

慈覚円仁大師陸奥国(ミチノク)修行(スギヤウ)のとき、白毛(シロキケ)のちりこぼれたるをあやしみ此毛を踏越(フミコヱ)て山に入り給ふに、白鹿にうちもたれて眠る老翁あり。

こは、いかなる人にておはしけるかと円仁とはせ給ふに、我は此山を守護(マモ)る翁とて、鹿とともにかいけちて見えず。

円仁、こは此山をひらきて、賤山賤等(シズヤマガツラ)がために仏法流布(ホトケノミヲシエ)あれと神の造(ツゲ)給ふにやとかしこみ尊みて、薬師如来を安置(スヱマツリ)て医王山毛越寺金剛王院といふ。

天台宗にてあまたの堂舎、あまたの衆徒なンど甍(イラカ)をならべて栄えたりし山ながら、元亀三(一五七二)年の野火にたちまちやけて、今は礎のみぞ残れる。

また嘉祥寺破壊(スタレ)こぼれたるときは、堀河院、鳥羽院の勅ありて、ふたゝび興して藤原ノ基衡の建りといふ。

また嘉祥寺におしならべて円隆寺といふも新(アラタ)に建立ありき。

その時の勅使は左少弁富任ノ卿也。

富任、三年(ミトセ)此平泉に住(スメ)り、その跡は勅使屋敷とて、今は島崎坊とて衆徒すめる也。

 

 

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