晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた⑧ 菅江真澄テキスト

此事終(ハツ)れば、れいの優婆塞出(イデ)キて法螺を吹キ太鼓(ツヾミ)うてば、もろ/\の神供(ヒモロギ)をおろし、円居(マドヰ)しける衆徒(ホフシ)の前に居(スヱ)るをいなだき、神酒(ミキ)たうばりなンど、やゝ此直会(ナホライ)はてて、衆徒ひとりすゝみ立てこわづくりして、

 

「上所(シヤウドコ)、下所(ゲドコロ)、一和尚(イチワジヤウ)、二和尚(ニ)、三和尚、其(ソノ)次々(ツギ/\)の下立(ゲりフ)新人(シムニフ)まで穀部屋(コクベヤ)へ入給(イラヒタヘ)と申」と、いと長やかによばふ。

是を喚立(ヨビタテ)と云ひて中老の役(ワザ)也。

御仏(ミホトケ)の脇方(カタハラ)より、承仕とて衆徒一ト人リ出て、

 

「上所、下所、一和尚、二和尚、三和尚、そのつぎ/″\のげりふ、しむにふまで、こくべやへいらひたへと申スな」

 

と、いらふを聞(キイ)て、こゝら群(ム)れ集(アツマ)る祭見の中より、

 

「瓠(フクベ)鎗(ヤリ)で突(ツク)といふが痛(イタ)い痒(カユ)いと申スな」

 

と小ごゑに真似すれば、大ごゑにて、どよめき笑ふ事久し。

やをら田楽はじまりぬ。

 

高足(タカアシ)、腰鼓(クレツヾミ)なンどせしとは姿(サマ)かはりて、此処(コゝ)に舞ふ田楽の小法師等(ラ)は、胡桃木(クルミノキ)の膜皮(シラカワ)もて編たる大笠の、軒に垂(シデ)とりかけたるをかヾふりて、山吹色の袖テ広ロ衣に袴着て、桶の蓋の如(ゴト)なるいと/\薄き太鼓を胸にかゝへて、此三人が舞(マ)ふ。

こは■(木+篙)(サヲ)に登(ノボ)り飛(ト)び/\躍(ヲドリ)て、今見る、焼豆腐さませし曲(ワザ)はせざりけり。

烏帽子にしでとり掛たるが出たり、是をしてでんといふ。

物の上手をもはら仕手(シテ)といふは師手也、能(ノウ)なンどに師手(シテ)、脇(ワキ)あり。

『盛衰記』に、知康はくぎやう(屈強)のしてでいの上手にて、つヾみの判官と異名によびけりと見えたるも、師手(シテ)弟(テイ)の義なるにやといへり。

小鼓(ツヾミ)、銅鉄子(ドビヤウシ)、笛、編竹(サゝラ)に、はやしたて、めぐり/\て踊りはつれば、あまたの衆徒太鼓うちて、

 

「そよや、みゆ、ぜんぜれ、ぜんが、さんざら、くんずる、ろをや、しもぞろや、やらすは、そんぞろろに、とうりのみやこから、こゝろなんど、つヾくよな」

 

とうたふ。

是を唐拍子(カラホウシ)とて、えしもそれとは聞キわくまじかりき事ども也。

 

此からほうし終(ヲヘヌ)れば、しで掛ヶ烏帽子ひきれたる、わかほふし、ひとり/\踊りぬ。

里人是を

 

「兎(ウサギ)飛(バネ)」

 

といふ。

此曲はつれば黒き仮面(オモテ)かけて、うらわかき衆徒出て、あらぬふりして、うち戯れて入ぬ。

そのさま能(サルガウ)の狂言(ワザヲギマヒ)のごとく、間(アハヒ/\)にかゝる戯をのみなし、また三冬(サムトウ)の冠とて、笏のごときものを三ところに立(タチ)たるそのさま、熱田ノ社の正月(ムツキ)ノ十一日のべろ/\祭に、兆鼓(フリツゝミ)ふる神人(カウニム)の冠のごときかうぶりをいたヾき、白衣清げに着なし、王(ワウ)ノ鼻(ハナ)の面(オモテ)をかヾふりて、左ンの袖(ソデ)に水精(スイサウ)の数珠(ズヾ)掛け鳩(ㇵト)ノ杖(ツヱ)を衝(ツキ)て、右ギに白幣(シラニギテ)を持(モチ)、桑の弓、蓬の箭をおひて祝詞(ノリト)立ながらとなふ、ひめたる事とてつゆも聞えず。

 

また、れいの小法師あまた出て鈴うちふりて、たはぶれ唄(ウタ)うたひ、ざわめかしてはせ入りぬ。

老女の面(オモテ)をかけてきぬかづき、神の御前に蹲りてくしけづるまねをし、神を拝礼(ヲロガミ)、たちよろぼひた(倒)ふれ、ぼけ/\しきさましける、是を「老嫗舞(ウバマイ)」といふ。

うばまひ入ればまた若小法師、産婦(コウメル)まねしてたはぶる。

 

しかして若女の温顔ノ仮面(オモテ)に、水干にみだれあしの画(カタ)ぬひたるに精好の袴着て、鈴と扇とをもて舞ふ、是を「坂東舞」といへり。

また禰宜(ネギ)とて布衣、烏帽子にて二尺(フタサカ)まりの竹の尖(ウレ)にわらをわがねむすびつけて、是を持て此舞ふ前に踞(ウヅクマ)る。

坂東舞をへて法師の顔に附髪(ツケガミ)ゆひて、わがどちは、ものしらぬものなれど、あまたの人を笑(ワラ)はせて来(ク)べしと楽屋よりたのまれて出たり。

人のわらへば我が役はすむ也、いざ笑ひてよといへば、人みな大ごゑをあげてわらひどよめけば、さらば、よしや世中とて入りぬ。

小法師二人、児(チゴ)装束(サウゾク)に扇をさしかざしてこゑたかく、

 

「王母がむかしの花の友、桃花の酒をやゝすらむ、さうまん是を伝へて、今が我に至るまで、栄花の袖をひる返す」

 

と、返し/\うたひて入ぬ。

またたはぶれ事はじまり、出来(イデコ)/\唄(ウタ)うたはんにといへど、とみにもいでこざりければ、やよ/\と呼べどさらに人ひとりもいでねば、おのれひとり唄(ウタ)うたひてはせ入ぬ。

かくて京殿といふが出(イテ)ぬ。

 

「吾(ワレ)は都堀川の辺リに住む左少弁富任とはわが事也、たいしやう(太上)きんしう(今上)二代〔堀川院鳥羽院〕の勅願でんかのめい、くいやうのしやうちなり、青竜、白馬〔青竜白馬寺〕の旧法(キウハウ)をつたへて」

 

と、いとながやかにとなへて、

 

「いかに有吉(アリヨシ)やさふらふらむ、小人衆徒の前にて、らんぶの一トさしも、げざむ(見参)入よ、なうありよし」

(有吉詞)

 

「ほふ、ひえのやまは三千坊、坂本は六ヶ所、大津の浦は七浦八浦九浦十浦、粟(アワ)田口、かぢむろ、つちうてば、てへ/\こはいかに」

 

と、太鼓の小撥(ホソバチ)の如(ヤウ)なるものを左右の手に持て舞ふ。

 

「みやこをいでて街道はる/″\と、日数経て、あづまの旅にも成(ナ)りぬれば、京をしのぶのすりごろも、松山越えて衣河、そのごむぜむ(御前)こそ恋しけれ。

いかに、あれに見ゆるはありよしか、はつと申たれば、口の小(チイサ)き木銚子にて、清(スミキツ)たる濁(ニゴリ)酒(ザケ)を給(タマ)ふ、此ごんぜんこそ恋しけれ。

十二一重のきぬのつまをとり、立出させ給ふ御すがた、げにもらうたげなる風情して、一首はかうぞあそばされける。

 

「朗(サエ)る夜の月にあやめは見えにけるひく袖あらばともになびかむ」

 

「この有吉は、つきほろけたる、うす檜皮(ヒハダ)のをのこにてはさふらへども、やがて歌の御返事を申ス、これ咳病(ガイビヤウ)こゝちにて」

 

とて、かの小撥(ホソバチ)の如(ゴトキ)ものもて己(オノ)が黒半仮面(クロキワレオモテ)の鼻うちおさへて、鼻声になりて、

 

「わがとのゝ東くだりのよな/\に御前(ゴムゼム)ありよし月をながめむ」

 

「いざせんな、あらおもしろや」

 

有吉は富任の従者(ズサ)なり。

富任扇の本末(モトスヱ)をとりて、

 

「しら玉椿八千代経てん」

 

とうたひ舞(マエ)ば、有吉も舞ふ。又

 

「心解(トケ)たる」

 

と富任がうたへば有吉声おかしう、

 

「氷とけたるウ」

 

と、烏帽子をうちふり打ふりもて舞ひ、富任、有吉も入れば、また戯(タワフ)るゝわかほふし、ゑひごゑに歌うたふ。

やをら、たばふれほうしの入れば「延年」といふ詠曲(ウタイモノ)あり、そは「をみなへし」、「姨捨山」、「とヾめ鳥」、「そとわ小町」也。

二年(フタトセ)に、この中の四曲(ヨサシ)を舞ふ式(タメシ)也。

此度は女郎花、姨捨山を舞(マ)ふ也。

をみなへしを舞ふ。

 

 

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