「忠衡密渡蝦夷ニ」といふくだりに
「其夜泉三郎忠衡は、郎徒共に暫く防キ矢を射させて後は館に火をかけ、自害の体にもてなし裏道より遁れ出て終蝦夷にこゝろざし、津軽ノ深浦へとぞ落行ける。
頃は六月廿日余り、深浦の港は兼て秋田ノ次郎が謀ひにて、交易渡海船一艘此港に泊して松前蝦夷の安否を聞居たりしが、忠衡は姿をやつし、主従十人余り賈人(アキビト)の体に見せ、羽州秋田の者なるが、平泉へ商売の為に久しく滞留し此度松前へ渡海せん為と偽り、此船にこそ来りつれ。
又忠衡がはからひにて、義経の御台所、姫君のいまだ四歳になり給へるを抱き、思ひ/\に姿をかへ深浦の辺に忍びおはせしが忠衡介抱し奉り、増尾十郎権頭兼房が一子、増尾三郎兼邑とて少年十六歳なりけるが、御台、姫君の御先途を見届け奉らむと高館の城を忍び出、泉三郎が方に隠れ住みしが、此度御供にぞまゐりける。
其外秋田が郎徒、並に船頭、水主、梶取合三十余人、六月廿九日の黎明に深浦の港を出帆せしが、折しも心に叶ふ追風なかりしかば、小泊といふ処に数日泊して順風を相待しに、松前船一艘此港に着岸しける。
如何なる船やらむと思へば、秋田次郎尚勝が郎徒松前の者を従へ、蝦夷の白紙鼻より来りし船なり。
忠衡主従、御台をはじめみな/\大に悦び、急ぎ郎徒に遇ひて様子を聞クに、義経主従恙なく松前に着岸し、夫より今は端(クチ)蝦夷白紙鼻といふ処におはしける云々」
と見え、また「海存、尚勝帰于日本ニ」といふくだりに、
「既に義経、上の国に凱陣し給ひければ、亀井、鈴木を始めとし伊勢三郎も仮墨太〔今云亀田〕より来り、志夫舎理(シブシヤリ)の勝軍を祝しける。
いまだ学業熟し申さず候(サフラ)へば駒形嶽に皈り、彼異人が教しごとく仙道に入て再び神通を得ば、いよ/\君を守リ奉るべしと、諸大将にも懇にいとま乞をぞなしける。
義経も、此度汝が来る功にあらずンば志夫舎理(シブシヤリ)の大敵を討取ル事難からむと、いとヾ名残を惜み給へども、元より留る気色なければ御暇をたまはり、又々渡り来るべし、我も此嶋を従へなば巡り会ふべき折こそあらめと、日本渡海の船など下知し給ひければ秋田ノ次郎尚勝進み出て、某も君に従ひ奉り、君の武徳を以て年来ノ仇敵丹呂印(タムロイム)を討し事、日来の本望何事か是に如(シカ)ん。
然る上は一ト先本国に立皈り妻子にも遇ひ、重て再び此地に渡り、尚も兵粮運漕は某沙汰し申べしと義経に懇に暇乞し、常陸坊海存、並に松前の安呂由(アムロエ)と共に同船し、上ノ国の海浜より本国へぞ出帆しける。
係りし後は松前より上ノ国までの通路自由にして、蝦夷の人民太平をぞ謡ひける云々」
と見えたり。
〔按ルに、上ノ国に大平山あり、また天河(アマノカワ)といふ港川あり、それを今マ浦人天河(テンガ)太平といふはいにしえの諺にや〕しかして上の国にて嶋麿君誕生あり。
また秋田ノ次郎尚勝一とせまり本国に在りて、こたびは妻もろとも松前へ渡りぬ。
其物語に云、
「秋田次郎尚勝は、常陸坊海存と共に過にし六月の末に松前を出帆し、海上難なく日本の地へ着ければ常陸坊と別々になり、商人の姿に身をやつし本国秋田に帰りしが、頃は日本建久二年鎌倉の武威盛にして、過にし文治五年八月には、奥州に頼朝自ラ軍兵をひいて御館(ミタチ)攻め給ふ。
厚加志山(アツカシヤマ)〔真澄按、重槲山にして、柏木などいと按茂きを厚しといふ。
此地青葉山の近きに在り〕に合戦あり、終に御館(ミタチ)ノ泰衡は家人河田ノ次郎が為に討れ給ふ。
奥州も鎌倉殿の有(ウ)となりし事を聞キ涙を流しける。
されど本国秋田は静にして渡海も自由なりければ、密に兵粮の為米穀を積て蝦夷に送り、又蝦夷の産物云々など本国へ積のぼせ交易日頃に十倍云々なンど見え、また奥蝦夷未曾久(ミソク)は蒙古と合戦度々に及びしが、程(ホド)なく義経諸軍勢を催し、前後八年の間に未曾久の乱を静め蝦夷を一統し、太平の政行れける云々。
秋田次郎尚勝も後は松前にいたり住み、義経も後に未曾久に住み給ひ末はもろこしに至り給ひし事とおもはれたり。
さりけれど御家人身方、みな命をまたくし蝦夷国を治めたまひし。
うべも、平家の入水せし人々の末今も処分に在るを見て、その世ぞしのばれたる」
此平泉の金堂、講堂、法華堂、南大門、大阿弥陀堂、小阿弥陀党、慈覚大師堂、無量光院、白山社、日吉社、祇園ノ社、天神ノ社、熊野十二所ノ社、金峯山、鏡山、隆蔵寺、伊豆権現ノ社、護摩堂なンどかぞふるいとまなき其(ソノ)甍々(イラカ/\)も、ただ礎を見るのみ、いとヾその世ぞしのばれたり。
また金雞山(キンケイサム)といふ山あり、そは清衡の時世ならむか、黄金(コガネ)の鶏(ニハトリ)雌雄二翼(メヲフタツ)を鋳(イ)させて、埋みおかれしよしをもて金鶏山とはいへり。
こゝにうたふ
「旭さすタ日輝(カヾヤ)く木の下(モト)に、漆(ウルシ)千盃(セムバイ)こがね億置(オクオク)」
といへるは、此金鶏山をさしていふといへれど、此歌はいにしへの童謡ならむか。
出羽、陸奥に、いさゝかの違(タガ)ひはあれど処々に在り。
かゝるふる所、かなたこなたと見ありき千葉氏の家(モト)にいたり、日のくら/″\になりて宿を出る。
此あたりの事は『吾妻鑑』にみなしるし給へど、つばらかにはえしも聞えず。
しかして摩陀羅神ノ御堂(ミダウ)に入りぬ。
宝冠ノ阿弥陀仏ませり、此みほとけの後裡(ウシロ)の方に此御神を秘斎(ヒメイツキ)奉(マツレ)り。
摩多羅神は比叡(ヒエ)ノ山にも座(マセ)り。
まことは天台の金比都権現(コムピラノカミ)の御事をまをし、また素盞烏尊ともまをし奉る也。
また太秦(ウヅマサ)の牛祭(ウシマツリ)とて王の鼻の仮面(オモテ)をかヾふり、たかうななどをいなだき牛に乗り、手火炬(タヒマツ)うちふりて摩吒羅神の御前をはしる。
また弘法大師の祭文あり、此事『都名所図会』につばらか也。
やをら神祭(マツリ)はじまれり。
まづ篠掛(スズカケ)衣着(キ)たる優婆塞出(デ)て、
「八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を」
と太鼓(ツヅミ)百々(タウ/\)うち鳴(ナラ)して謡(ウタ)ひ、また
「千代の神楽を奉る」
とうたひ、宝螺吹たて神供くさ/″\そなへ奉りて、隆蔵寺の法印紅色(クレナヰ)の欝多羅僧に、みなすいさう(水晶)の念珠(ズズ)をつまぐり、浜床(ハマユカ)の上に座(ノボリ)あまたの衆徒(スト)居ならびて、優婆塞は入りぬ。
御誦経(ミズキヤウ)の声尊く常行三味といふ事をおこなひ、梵唄(ボムバイ)なンどもうたひはつれば、阿弥陀経を誦(ヨミ)つゝ立て神の御前をおしめぐり、また柳の牛王といふものを長き竹のうれに夾(ハサミ)て、さゝげもてめぐれり。