晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた⑨ 菅江真澄テキスト

「是はもろこしのごかん(後漢)のめいてい(明帝)の御代に、かぶむと申ス老人にてさふらふ也」

 

と老翁(オヂ)、老嫗(ウバ)両人(フタリ)出(デ)て、己(オノ)がむすめの死(ミマカリ)し事をなげき、塚にをみなへし、おしこぐさの生たるを記念(カタミ)の色と見つつ、涙に袖をぬらしたるさま也。

また「姨捨山」を舞ふ。

いと/\恐(オソ)ろしく、むくつけき男(ヲノコ)の仮面(オモテ)かけ、髪ひげわゝけたるが出(イデ)ぬ。

またおなじさまに女の仮面(オモテ)に、髪は、おどろと乱レたる狂女の姿して出たり。

その女の詞に、

 

「旅の人に、ものとひまゐらせたくさふらふ」

 

男いらへて「いかにさふらふぞ」

 

「原部山(ハラベヤマ)にかゝりて善光寺へは、いづくをまゐりさふらふ」

 

「あら多の人や、なにのもの見か、さふらふぞ」

 

「あのわらはべなにを申ス。

なに、あの男、ものぐるひの女こそ、幼少五ツのとし親におくれ、伯母(ヲバ)に養育(イヤウイク)せられて人と成(ナ)りさふらひしが、女がとかう憎(ニク)むよて、八旬(ハチジユン)に余る老母を腹部山(ハラベヤマ)へ捨置(ステオ)き、やかん(野干)の食(ジキ)となすによて、その怨霊(ヲリヤウ)にて、かやうにくるふなれ」

 

こは、男も女もものにくるふさま也。

 

姨捨山とはさふらふらむ、おもひもよらぬはらべやまかな」

 

なンど、互(トモ)にものあらがひして、やがて諏訪のみやにいたりしとうたひて、

 

「おもしろき社檀につきてさふらふ、宮人をもまたばやとおもひさふらふ」

 

やをら宮奴(ミヤツコ)も出来てくさ/″\のものがたりをして、宮奴、神をすゝしめ鈴ふれば、神鈴)ミスヾ)の音のおもしろからぬよと、ものぐるひの女うたひて、またうたふ。

 

「秋の野に、すだく鈴虫、業平の小鷹狩リ、みよりのたかの鈴ならば、それは神にもいやまさん」

 

と、うたひ/\て、はてぬ。

さるがうなンども、かゝる俳優(ワサヲキ)よりやはしまりけむかし。

御燈(ミトモシ)なンどもなから消行キ鶏(トリ)もいくたびか鳴ぬ。

戯れ小法師も衆徒も酔(ヱイ)て謡曲(サルガウ)うたひ、また順礼唄を聞つゝこゝをたちづるとき、鈴木常雄

 

見るになほしのばれぞする此寺のありしむかしのすがたばかりは

 

とありしを聞て、

 

夜もすがら聞くも尊しこゑ/″\にうたふも舞ふものりのためしを

 

千葉氏の家に帰り来てしばしとてふしぬれば、ひましらみたり。

 

廿一日 人々、よべのこうじにやあらむ、いぎたなうひるになりて起つれば、手あらひものくふうちに坏とりいそぎぬれば、好キ人ははやさしむかひ、いなふねのいなにはあらで、最上川といふ白(オホサカヅキ)をを挙(アグル)もあり。

()鏡のいとく大なるをもてつぎめぐれば、ゑひにゑひて、御殿、隼、三ケの瀬とつぎ給へなンど、なほ最上河のあらせの波を酒に譬て濁る酒を飲べくあらんなンど、下戸の並居を見て、賢しとものいふよりはとて、ひたのみにのみぬ。

床の上に鳥足の文字かゝりたるはなにならんと見れば、「心静酌春酒」といへることなり。

あなおもしろし、をりにあへり。

是を題とあれば、

 

山まゆもゑめるばかりの長閑さにむかふもあかぬ春のさかづき

 

また常雄。

 

たのしさよこゝろのどけき春の日にあかでぞめぐる千代の盃

 

村上良道。

 

春風の吹もしづけき此屋戸にあかでぞくまんちよのさかづき

 

かくて長き日もくれたり。

 

廿二日 人々出たゝむといへば空くもりたり。

雪ならむとて、けふも、あるじめくなり。

なによけむとて鮏(サケ)の散子(ハラゝゴ)、鮭(サケ)ノ鮓(スシ)、くろがら、あか魚、とりならべて海遠き山郷(ヤマザト)はこゝろにまかせじ、此氷頭(ヒヅ)鱠にて一ツまゐらせたくといへばまた飲(ノミ)て、価なき宝といふとも、このひと杯(ツキ)のにごれる酒にはなンど、はやうた唄ふこゝちにゑひぬ。

常雄、顔はあしたより夕日のてれるがごとにて、

 

をりにふれて思ひぞ出むもろともに今をむかしの余所にしのばヾ

 

とあるのを見て、その筆をかりて、その紙のはしに、

 

おもひ出て袖やぬらさむもろともにいまをむかしの余所にしのびて

 

けふも、ひねもす酒宴(ウタゲ)のみにてくれたり。

 

廿三日 天気(テケ)よければ出たつ人々をこゝに別れて、我(オノレ)ひとり止りて、此あたりのふるきところ/″\見てむといへば、なほ、いつまでもありてなンど懇’ネモゴロ)にいへり。

廿四日 廿五日 雪ふれゝば出たゝず。

あるじの翁ノいへらく、いつも花の内は雪のふれるもの也といへり。

十五日の削花、また皮木(クロギ)の稗穂(ヒエボ)、削木(アカギ)の粟穂(アワボ)、また麻(アサ)からなンどを庭の雪に正月(ムツキ)尽(ミソカ)まで餝(カザリ)立れば、しか、花のうちとはいへるなり。

 

廿六日 空晴て長閑也。

けふなむ達谷村(平泉町)にいたりて山王の窟見んとて、千葉某あないして深雪(ミユキ)ふみしだき、かついたりぬ。

いと/\高き窟(イハヤド)の内に堂を作り掛(カケ)たり。

よこたふ梯(ハシゴ)はる/″\と登れば内間ひろげ也。

真鏡山西光寺とて坂上ノ将軍田村麿の建立にて、百八体の毘沙門天を安置(スヱマツリ)、鞍馬寺を摹(ウツ)したる処といへり。

そのいにしへ赤頭(アカガシラ)、達谷(タカヤ)などいふもの此窟(イハヤド)に籠(コモレ)るを、此君うち平(ムケ)給ひしといふ。

大なる円相(マロガタ)の裡(ウチ)にさゝやかなる田村将軍ノ霊像(ミガタ)をすゑまつる、そが右の方には、もろこしの軍扇をもたまへり。

正月二日(イニシフツカ)の夜は手火炬(タヒマツ)を投合(ナゲアハ)ふ祭あれば、板鋪、柱みな燋(コゲ)たり。

此むつきの二日の火祭を追儺(オニヤライ)といふ、そのため、しか、ところどころむかしより焦(ヤカエ)たりといへり。

百体八軀(モゝマリヤハシラ)の毘沙門天王も、としふりこぼれて、今、はつかばかり残れるをすり(修理)して十体(トハシラ)ばかりたてる也。

蛇歯(ヲロチノハ)、鬼(オニ)ノ牙(キバ)などの宝物(ミタカラ)あり、中尊寺に見しものにひとしかりき。

梯子(ハシゴ)下(オリ)来(キ)ぬ。

五尺(イツサカ)ばかり高く、鼻垂(ハナタレ)大仏とて岩面(イハヅラ)に刻たり。

こは源義家将軍弓の上彇(ウハハズ)もて彫(カキ)給ふよし、某(ナニ)仏(ホトケ)の頭(ミグシ)にやといへり。

姫待が滝といふあり、また、かづら石といふあり。

此滝のもとに達谷(タカヤ)麿身を潜(ヒソメ)て、女の来るを捕(ト)りて家面蔓(カヅラ)もてつなぎ、この岩に縛(ユハエ)おきたるよし。

また、葉室中納言某ノ卿の御娘をも捕りしものがたりあり。

此処(コゝ)に九葉の楓(モミヂ)とて尖(トガリ)九ツありて、秋はことにやよけむ楓樹(カへデ)ありとて、やゝ日影に解(トケ)わたる雪かき分て朽葉拾ふ。

また崩山(クヅレヤマ)といひ五郎櫃(ゴロビツ)森ともいふ山あり、いかなるよしの名なるにや、知るてふ人もなし。

五串(イツクシ)の滝なンど見べき処いと/\多かれど、雪消(ケ)なばふたゝびとて千葉の家に帰る。

 

 

 

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