晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

かすむこまかた10 菅江真澄テキスト

廿八日 毛越寺のふる蹟見なんとて田の畔づたひして、礎の跡なンどにいにしへをしのぶ。

 

廿八日 毛越寺の衆徒某二人、日吉(ヒエ)ノ山に登り戒檀ふみにとて旅立ければ、此法師たちに、故郷に書(フミ)たのむとて、

 

ふる里を夢にしのぶのすり衣おもひみだれて見ぬ夜半ぞなき

 

と、そのふみにかき入れたり。

 

廿九日 けふもとし越なりとて家々の門餝り、窓てふ窓のあるごとに、あらたに、しりぐへ繩ひきはえ、しで

かけて、とし忌(ミ)せり。

此月は小にて、けふ正月(ムツキ)は極(ハツ)る也。

 

ニ月朔日 けふは松の林に竹の森とて栗の樹(キ)の鬼打(オニウチギ)立て、正月(ムツキ)の門松竹荘飾(カザル)にひとし。

こと郡にては厄年(ヤクドシ)の人あれば歳直入(トシナオシ)とて祝(イハ)ひして、むつきのことたつごとにすれど、此磐井ノ郡はおしなめてしかり。

何事も胆沢ノ郡とはことにして、としの始めの門松も栗の木を庭中に立て、つま木をあまたとり束(ツカ)ね置(オキ)て、竹のうれに餅さしはさみて、田ノ神、星祭の守礼(マモリ)なンどおしたる下(シタ)にさし、十五日には臼(ウス)、杵(キネ)、鉏(スキ)、鍬(クハ)にも竹(タカ)はさみ餅をさしそなへ、十八日まで十五日(モチイヒノセク)の小豆粥(カユ)を喰(ク)ひ、此日、稲の穂のたなごばらみにはらめる形(サマ)に太箸(フトバシ)を作りて、その稲姙身(イナバラ)箸(バシ)にて十八日(ジウハチ)粥(カユ)を咋(ク)ひをへて、太箸(イナバシ)を十文字(クモデ)に級皮(シナ)にて縛(ユハヘ)て、ほたき屋の梁を投越(ナゲコ)して、その箸を屋根裡(ヤバラ)に打立(ウチタテ)る例(ナラハシ)なり。

また此郷(ムラ)の近隣(チカドナリ)ノ里なる山ノ目といふ処には、門松も根こじたるわか松をたて、その枝に正木(マサキ)の蔓(カツラ)をうちからまき餝るといへば、

 

君が代はまさ木のかづら長かれと千歳を松の枝にかくらむ

 

ニ日 厄年祝(トシナホシ)に行かふ人とら道もさりあへず、雪もたひらになりぬ。

上中(カミナカ)下みなうちあげしゐろりのもとには、若男(ワカゼ)どもあまた酒のみうたふに、たきたつる榾(ホダ)の火燄(ホノホ)たか/″\ともえて、火(ヒ)の散(コ)、火棚(ヒダナ)の煤(スゝ)に付てければ、鼻(ハナ)すれ/\とて指もて、みな、おのが鼻をすりにすりぬ。

しかすれば、火棚(ヒダナ)てふものゝ煤(スゝ)に、火埃(ヒホコリ)の付たるを鎮(シズメル)る咒(マジナヒ)なりといふ。うべならん火消ぬ。

 

三日 よべよりいたくふりぬ。

今朝は若水汲(ムカフ)はてなりとて、此大雪(オホユキ)ふみ分(ワキ)てくみもて来(キ)けり。

やをら年繩(トシナハ)とりをさめて、けふは注連縄(トシナハ)ひきの祝言(イハヒ)とて小豆粥食(ク)ひ酒飲(ノミ)て、ひねもすうちあげあそぶ。

 

四日、五日は風吹つれど、

 

六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。

琵琶法師来りぬ。

是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面(バチメン)ニ化(カハ)りたるが多し。

曾我(ソガ)、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事(ホンジ)、あるは千代(チヨ)ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄瑠璃をかたれり。

こたびは「むかし曾我也」声はり上て、

「ちゝぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばはゝいかヾせん」

と、語り/\て月も入りぬ。

明なばとく出たゝむとて枕とれば、ひましらみたり。

 

七日 ふたゝびといひて千葉の家を出たり。

高館の猫間(ネコマ)が淵(フチ)のふる蹟(アト)、梵字が池のあせたる跡(アト)、中尊寺になりぬ。此あたりに勅使清水といふあり。

いにしへ按察使中納言顕隆卿こゝにくだりおはして、此水めし給ひしといふ。

文治のいくさに焼(ヤカレ)残りたる庫(クラ)の内に、牛黄、犀角、象牙の笛、水牛ノ角、紺瑠璃ノ笏、黄金ノ沓、玉幡、黄金華鬟〔以玉餝之〕、蜀江錦、ぬひめなき帷、こがねの鶴、しろがねの燈籠、南(ナム)廷鉑(テイハク)、なほくさ/″\の物ぞ多かりける。

そを右大将頼朝公わかちて、葛西ノ三郎清重、小栗ノ十郎重成なンどいふ人とらに此宝器(タカラ)どもを給(タマ)はりし事は『東鑑』をはじめ書(フミ)ごとに見えたり。

そを見て御館(ミタチ)の栄えたりし世ぞしのばれたる。

また『奥州征伐記』二ノ巻に

 

「文治三年云々、秀衡が病気の様子を尋ね給ふに、顔色老(オヒ)おとろへ最期近く相見えたれば、もはや相果申つらむと言上しける処に、奥州より秀衡が使者として、由利ノ八郎惟平鎌倉に来る。

鷲ノ羽千尻、矢根、駿馬三十匹、金作ノ太刀三振、砂金等進上す。

これは秀衡がかたみのこゝろ也云々」

 

と見えたり。

なほその篤厚(アツシ)事をおもふべし。

かくて衣川の土橋をわたりて、やがて前沢の駅(ウマヤ)に出(イデ)て、霊桃寺の長老かねてねもごろにものし聞えたまへば、しばし物語して上ハ野の徳岡にいたりて村上が家にやどる。

 

八日 けふは疫癘(エヤミ)ノ神のあまくだります日とて、是(コレ)避(サケ)る祭リとて粢餅(シトギ)をつくりて、しる小豆(アヅキ)にかいまぜ、そを烹(ニ)て神に奉り、人みな喰ふめり。

荒神アラガミ)祭(マツ)リのよしにや、また吉田の疫神斎(ヤクジンサイ)、津嶋の御葦流(ミヨシナガシ)の如(ゴト)に鎮疫斎(チムエキサイ)なンどおこなへる神事(ワザ)ありけるか。

 

この九日、十日、十一日、十二日、十三日、十四日と日をふる雪に、たヾ埋火のもとさらずふみ見つゝをれば、人の訪(ト)ひ来て、二月の木の股(マタ)さき、三月の蛙(カヘル)が目がくしとて零(フ)り、雪のはては涅槃(ネハン)なりといひ諺(ナラハ)しさふらふ也なンど語りぬ。

 

十四日 けふは空晴て長閑なれば、雪ふみならし、わらまきちらし、莚しきて童あまた群れ集りて、笛吹、太鼓、銭太鼓、調拍子(テビラカネ)にはやして鹿舞(カセギオドリ)の真似(マネ)をし、また田植踊(タウヱヲドリ)のまねして遊び、また箱の蓋(フタ)を頭に戴(イタダキ)て念仏舞(ヲドリ)のさまをし、また劎舞(ケムバヒ)てふ事せり。けむばひは、けむまひを訛りていへる也。

此劔舞(ケムマヒ)てふものは、いか目の仮面(オモテ)をかけ袴着(キ)、繦(タスキ)して髪ふりみだし、軍扇を持(モチ)、また太刀はき、つるぎをぬきて舞ふ。

此劔儛(ケムマヒ)を高館物化(タカダチモツケ)ともいふ也。

そはいにしへ、高館落城の後さま/″\の亡霊あらはれし中に、さる恐(オソロ)しきものゝあらはれしかば、そのあらぶる亡魂(ナキタマ)をとぶらひなごしめんとて、物化(モツケ)の姿(サマ)に身を餝りなして念仏をうたひて、盂蘭盆(ウラボン)会ごとに舞つる也。

品こそかはれ、遠江ノ国の戈が谷(ガケ)の念仏盆供養にひとし。

それを、男童(ヲノワラハ)の春遊びにせしもあやしかりき。

 

十五日 けふは仏の別れ(涅槃会)なりといひて、寺々にまゐる人いと多し。

 

七八日もことなければ、きのふまで日記もせざる也。

 

 

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