晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

はしわのわかば③ 菅江真澄テキスト

八日 つとめて、里の童を道あないとして、きのふの路をいさゝか分て、大金(オホガネ)といふ処の岨に、桜の二三本(フタモトミモト)たてるが朝風に吹さそふをうち見やり彳めば、童の小河に臨(ノゾミ)てものうかがふさま、何ならむとおもへば石斑魚(カジカ)の鳴なり。

水におりたち、ころ/\といふ声をしるべにすくひ上たり。

此石ふしは秋に鳴くものならずやといへば、をりとして時もさだめず鳴(サカブ)もの也と方言(イへ)り。

なほ此花を見やりて、


   汝れも又をしみやすらむ桜ちる山した水にかじか鳴也


童をさき立て拈花山正法禅寺(水沢市)にまうづ。

此寺の署扁(ガク)は光明皇后の真翰(ミフデ)也、吾国の鳳来寺の額(ガク)にひとし。

けふは釈迦仏(サカブチ)誕生(アレマシ)し日とて、れいの花葺(フケ)るさゝやかの堂の内に、あめつちをさして香水盤(ウブユ)の中にたてり。

大衆居ならびて、一日経ならんか、また、なきたまの名にや、いと細き卒堵婆に書(シタゝム)れば、この灌仏会にまゐりたるあまたの人とら、手毎にうけさゝげて皈る。

いにしへ此寺は法相三論宗などにや、いと/\ふるき精舎(テラ)也。

今曹洞にうつりて、南朝の頃、開山禅師の高弟無等良雄和尚は万里小路藤房ノ卿なるよし、其世は世にひめて語りしといへり。

此寺の庭に、源頼朝公実種(ミウエ)し給ひしか槲とてあり。

また大なる梅ノ樹あり、さるよしをもて大梅捻花山ともいへり。

此寺の辺(ワタリ)に石灰木石(イシワタ)あり、石麪(せきめん)あり、また黒蠟石(コクラウセキ)といふもの多し。

黒蠟石(コクラウセキ)あるをもて此あたりを黒石(クロイシ)ノ荘とよべり。

また山内(サムナイ)といふ処に出たり、妙見山黒石寺とて修験寺あり。

もと太上神仙を斎(マツ)りし寺にて、大同元年二月斐陀の番匠(タクミ)が集りて一夜の間(ウチ)に建し堂とて、いとふりし堂あり。とみなる事とて板なンど敷キもわたさず、残(タラ)はぬ処あり。

正月八日の神祭(マツリ)は祇園の削残(ケヅリカケ)、尾張の天道ノ社の祭の如(ゴト)、夕ぐるゝより小夜中カまで誰れとなう互に罵詈(ノゝシリ)、根もなきあだ事に枝葉(エダハ)付て、まが/\しう能リ■(ノリ)てうち笑ひ、堂をうち叩(タゝ)き火をたきたつれば、さばかり積りし大雪も、きさらぎ、やよひのごとく、みなけちはつる音せりといふ。鶏の初こゑたつころ、其長(タケ)三四尺斗リの級栲(シナ)の二重布(フタエノ)の長袋の内に、蘇民将来の神符(マモリ)を三四寸(ミキヨキ)斗の木に書(カイ)て、そを千札(チゞ)まりも入レて、袋には蠟を流し油をぬりて神武神仙の御前に備へ、山臥梭尾螺(カヒフキ)、経よみ、いのり加持してその長袋(フクロ)を群集(ヒトムレ)の中カへ投ゲやれば、左右に方(カタ)分ケて素裸(マロハダカ)に出(イデ)たち、犢鼻襌(タフサギ)もつけず、その袋をわが方へ取らむ、此方(コナタ)へ奪(ウバ)ひてむと上へを下へ捻(ネヂ)あひ、ひこしらふ。

かゝるあらそひに、むかし犢鼻褌(タフサギ)の前垂(サガリ)を、袋の端(ハシ)に持からみて力まかせに捻(ネヂ)合ひ、曳(ヒキ)に引ほどに陰囊(フグリ)破れて死たる人(モノ)あれば、犢鼻襌(ハダマキ)てふものはゆめ/\身にまとはずとなむ。

蘇民将来の神符(ミフダ)を掌(トリ)得たる組(カタ)には、その年田畠(タナツモノ)の能ク豊登(ミノル)といへり。夜しら/″\くとなれば袋を摑破(ツカミヤリ)、また取り持(モ)て雪踏みしだきはせ出て、小河の氷ふみ破(ヤブ)り飛入て、淵(フチ)に身を潜(カク)レむとするを曳(ヒキ)止めなンど、世にめづらしきあらがひ祭也。

妙見山黒石寺には、慈覚円仁大師の作の薬師仏ノ仏形(ミガタ)をひめおける寺也。

野道しばしへて黒石(クロイシ)ノ郷(サト)に出たり。

路の傍(カタハラ)に四阿(アズマヤ)めける小屋建(コヤタテ)て、その軒に貨銭(ゼニ)二貫を長緡(ナワ)につらぬいて掛たるに、童(ワラハ)、老人(オユ)などの居て、ひるさへいみじう守りぬ。

此銭あやまりて盗れたらん時は、母貨(オヤゼニ)に子(リゼニ)あまた添へて、これをもてその禍(ツミ)を贖(アガ)ふ、つぐなひ貸(オヒタミ)也といへり。

あないせし童は此里なれば、ものとらせて別たり。

伊(胆)沢ノ郡に渡るに加美川(北上川)の舟とくも出ず、暮てのりぬ。

月おもしろくつきたり。

六日入村(前沢町川岸場)にきて相知る鈴木常雄の家(モト)に入りて、  


   旅衣月と花とにかたしきて楽しき宿に又こよひねむ


夜もすがら、あるじとともに語りぬ。

 

八日 けふの初午ノ祭見に中尊寺にいなんと、六日入りをたちて前沢(マヘザワ)駅(ウマヤ)に出(デ)て、霊桃(レイタウ)寺に訪(ト)ひて寺の上人をいざなひ漆寺の前を過るに、朽たる桜の蘖(ヒコバエ)花咲たるを、


   枯れし枝も花の恵をうるし寺となふ御法のしるしならまし


うまやのはしなる大桜見てむとていたる。

大桜ノ社あり、不動尊を祭る。

いと大なる一重の山桜あり、此さくら、人たけ立ッところにてはかれば三丈四五尺めぐるといふ。

信濃ノ国市田(下伊那郡高森町)の大桜には勝りぬべし。

こは秀衡時代の花也といへり、此木あるをもて此村を大桜とはいふ也。また遠田郡に大桜あるてふ、そはいかならむ。


   雪をつみ雲をあつめてひともとにかゝるさくらの花をこそ見れ


衣川村(平泉街)に来る。世に衣といふ処多し、近江の志賀ノ郡も衣河あり、その外国々にも聞えたり。此処(コゝ)に検断(ケムダム)桜とて名あるさくらあり、秀衡の世に、検断の役するもの置(オカ)れたる処也。

またいにしへ、安倍ノ貞任の館ありし跡にて、義家公


「ころものたてはほころびにけり」


と弓に箭をはぎ、むかひ給へば、


「としを経て糸の乱れの古(フル)しさに」


と貞任、矢つぎぱやに返しまをしたりしなンど語らひ、やをら其処にいたれば、


   衣川みぎはの桜きて見ればたもとにかゝる花の白浪


此衣川も、今はむかしと大に流のさまかはりたりといふ。

高館落城(オチ)のとき武蔵坊弁慶、衣河を渡らむとてわたりしが、をりしも洪水(ミヅデ)て、みなぎる波を分ヶわづらひ、うちものを杖につき中の瀬といふ処にしばし彳ムほどに、きしべよりは矢ぶすま作リて射かくる箭をひし/\と身に射たてられて、中ノ瀬にふし流れたり。

きしに立たるうまいくさども是を見て、こと武者は流にしたがふ、いかに弁慶一ト人リ水上に流れ行事、見よ/\ふしぎさよと、寄手の兵等(ツワモノラ)あきれたりといへり。

そは、いにしへは衣川の末、北上川〔古名加美川也〕の上の方へ落たり、今は加美川の下に落ぬ。

その洪水(オホミヅ)のとき、衣河も上(カミ)川もひとつになりて大海のごとなれど、弁慶はつねに見なれし中の瀬にのぼりつれど、多くの軍に射(イ)立られて、衣川水筋にしたがひて衣川の下へ流レたるを、今の世かけて、弁慶は川上に流(ナガレ)しとのみいひ伝へ、また、あぶり串さしつかね釣(ツ)りおく巻藁(マキワラ)てふものを、出羽、陸奥の方言(コトバ)に弁慶といふも、武蔵坊が、箭を蓑(ミノ)のごとくおびたるさまを、まきわらに串さしたる姿に似たるよりいふとなん、里の翁の語りぬ。

かくて中尊寺にいたれば、あるとある堂の戸みなおしひらきて、白山(シラヤマ)姫ノ神社(ミヤシロ)の拝殿は、かねて、かゝる料に間広げに作りなしたるに、白き幌(トバリ)ひたれ、白き帽額(モカウ)引わたしたり。

おひとつうまといひて白き神馬(ジメ)、獅子愛しとて、ぼうたん手ごとにもたる童子(ワラハ)なにくれとねり渡りはつれば、白山ノ神の御前に幔(トバリ)うちまうけたる舞台にのぼりて、そうぞきたつ田楽開ロ祝詞をはれば、若女ノ舞、老女ノ舞なンど、いと古風(フル)めかしきさま也。やをら衆徒集りて、さるがうはじまりぬ。

法師(ホフシ)の頭(カシラ)に宿髪(ツケビン)てふものにして髮髻(カミユイ)、墨衣(スミゾメ)の袖をぬぎかけ、あるは、まくりでにつヾみうち、笛吹囃しぬ。

この田楽、をとめ舞、うば舞などに事かはりて今めかしけれど、舞(マ)へる装束(サウゾク)は国ノ守より寄附(ヨセ)給ふものとて、めでたく奇麗(キラ)をつくしたり。

今朝より風たちしがいよ/\吹つのりて、あまた立ならび茂りあひたる大杉のうれもゆら/\吹れ、枝葉の落散れば、人みなふりあふぎ空のみ見つつ、頭にものおほひ、もの見る空もなく、法師の附髮(ツケガミ)も吹やられ、かなづる扇も風にしぶかれて、こゝろのまに/\さしもやられず。

いざ帰りなむと立騒ぐ上に、大なる杉の枯枝の落て頭うち、ぬかより血の流レたりなどなか/\の騒ぎ也。経堂、光堂の方へ逃ちる人もあり。

また老嫗(ウバ)杉(スギ)とていと/\大なる空樹(ウツホギ)あり、此木としふりて香馥(ニホヒ)はなはだしければ、国ノ守めして「みちのく」と銘給(ナヅケ)ひしといふ。

その木も今は吹折レ、今はたふれなんなど、人みなをしみ語らふ。

中尊寺に、薄墨桜(ウスズミザクラ)とていとよき花のありしが、枯て今はなし。

そを弁慶ざくらといふ、むかし武蔵房やうゑたりし花にや。中尊寺を出て義経堂にのぼりて人々ぬかづく。

源九郎判官の由来(ユエヨシ)はこと処にもしるし、また、『清悦物語』とはいさゝかことなれり。

また、此君の事をつばらかに記(シル)したる『義経蝦夷軍談』といふいくさの書(フミ)には、泉三郎忠衡、また金剛別当秀綱、亀井、片岡をはじめ、御家人ひとりも残りなくみな松前に渡り、秋田ノ治郎尚勝兵粮を運送(オクリ)、此人とら大に戦ひ蝦夷治りて、上ノ国といふ処にて、御台所若君ひとところ誕生ありて、嶋麿君と申事なンど見えたり。

人々を別れて、此平泉の相知りたる民家に泊る。

 

 

 

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