自分がどういう人か、考えてみるとまったく分からなくなる。
自分がいったい何者であるのか。
何十年も、自分と付き合ってきたはずであるが、なかなかことばにできるものではない。
自分が、ひとからどういうひとであると思われているか。
このほうが、すこしイメージしやすいも知れない。
いろいろと考えられるのだが、あることに気がつく。
ひととの付き合い方に応じて、それぞれに自分の一面しか見せてないのではないかな、という気がしてくる。
いくら、何十年付き合っても、相手に応じて一面しか見せていない気がする。
たぶん、話しても通じない人にはそういう話はしない。
それは、お互いにそうだと思う。
一面であるにしても、自分であることに違いはない。
自分は、ひとからどういう人だと思われたいのか。
それは、結局自分はどういう人でありたいかになるのかな。
私は、人見知りで、話下手で、人とのコミュニケーション能力の足りない人間である。
そのために、高校、大学と友人といえるものをもたなかった。
いや、持てなかった。
よく考えると、持とうとしていなかったかも知れない。
小学校、中学校は、まわりが幼なじみばっかりで問題にならなかっただけだった。
就職して、比較的こじんまりした職場だったので、なんとかなった。
私は、細かくて繊細な人よりは、おおまかでのんびりした人だとみられたいと思った。
その方が、自分が楽だなと思ったから。
たぶん、本来の自分はそういうものを持っていたらしく、そいう人に近くはなったと思う。
最近、孫娘に、「じいじ」と言われます。
「じいじ」と言われるたびに、そうだ俺はじいじだったと思い、じいじの役柄が身についていくような気がします。
孫娘は、俺のことをじいじと認識している。
なにか、不思議です。
子育てのころは、「おとうさん」役でした。
我が家は、「パパ」ではなく、「おとうさん」でした。
こどもが、親にしてくれるというけど、演じているうちに身についてきたのかな。
いろんな役柄が回って来たり、オファーしたりするってことなのかな。
そんなことを、繰り返してきたのかも知れない。
「三つ子の魂百までも」というけど、そのまんまではないにしても、つながってはいる。
変わらないものはある。
変われないものもあるで。
でも、変われるものも、あるような気がする。
66年生きてきてそう思う。