晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

自分のこと

自分がどういう人か、考えてみるとまったく分からなくなる。

自分がいったい何者であるのか。

何十年も、自分と付き合ってきたはずであるが、なかなかことばにできるものではない。

 

自分が、ひとからどういうひとであると思われているか。

このほうが、すこしイメージしやすいも知れない。

いろいろと考えられるのだが、あることに気がつく。

ひととの付き合い方に応じて、それぞれに自分の一面しか見せてないのではないかな、という気がしてくる。

いくら、何十年付き合っても、相手に応じて一面しか見せていない気がする。

たぶん、話しても通じない人にはそういう話はしない。

それは、お互いにそうだと思う。

一面であるにしても、自分であることに違いはない。

 

自分は、ひとからどういう人だと思われたいのか。

それは、結局自分はどういう人でありたいかになるのかな。

私は、人見知りで、話下手で、人とのコミュニケーション能力の足りない人間である。

そのために、高校、大学と友人といえるものをもたなかった。

いや、持てなかった。

よく考えると、持とうとしていなかったかも知れない。

小学校、中学校は、まわりが幼なじみばっかりで問題にならなかっただけだった。

就職して、比較的こじんまりした職場だったので、なんとかなった。

 

私は、細かくて繊細な人よりは、おおまかでのんびりした人だとみられたいと思った。

その方が、自分が楽だなと思ったから。

たぶん、本来の自分はそういうものを持っていたらしく、そいう人に近くはなったと思う。

 

最近、孫娘に、「じいじ」と言われます。

「じいじ」と言われるたびに、そうだ俺はじいじだったと思い、じいじの役柄が身についていくような気がします。

孫娘は、俺のことをじいじと認識している。

なにか、不思議です。

子育てのころは、「おとうさん」役でした。

我が家は、「パパ」ではなく、「おとうさん」でした。

こどもが、親にしてくれるというけど、演じているうちに身についてきたのかな。

いろんな役柄が回って来たり、オファーしたりするってことなのかな。

そんなことを、繰り返してきたのかも知れない。

「三つ子の魂百までも」というけど、そのまんまではないにしても、つながってはいる。

変わらないものはある。

変われないものもあるで。

でも、変われるものも、あるような気がする。

66年生きてきてそう思う。

 

 

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