「いわてのやま」は、天明8年(1788年)6月半ばから、7月初めまでの日記である。
蝦夷地への渡航を思い立ち、南部領と津軽領の境のあたりである野辺地を目指す。
郷里の三河を出発して、信濃、越後、出羽と、蝦夷地を目指して津軽の地を踏んでから四年の月日が流れていた。
当時は、蝦夷地は飢饉がひどく、津軽に避難する人が多く、渡航するどころではなかったのだ。
やっと蝦夷地が落ち着いて、渡航が可能であるとの見通しがついたのだろう。
水沢、前澤の旧知の人々に別れて、旅の途につく。
船で北上川を北上したり、盛岡では、それまで雲で見えなかった岩手山が、急に晴れて山頂が見えた。
それが、この日記の題名となっている。
渋民村といえば、石川啄木の育った村である。
金田一京介は、盛岡中で啄木の親友だった。
金田一京介は、盛岡で生まれ育ったようであるが、その姓の「金田一氏」のゆかりの地であると思われる。
この二人は、菅江真澄がこの南部の地を旅していた100年の後に、この地に生まれたのである。
考えてみると、100年という期間はそれほど長い時間ではないように思える。
「いわてのやま」は、小型本で全36丁、図絵10図である。
真澄の日記は、通常は日記名が、ひらがなで表示されている。
しかし、原本の表紙には、万葉仮名のような漢字で書かれていることが多い。
たとえば、この日記「いわてのやま」は次のとおりである。

使われている漢字は、普段使われていない漢字があって、どうやって呼び出していいものかわからない。
今回の旅の終着点の野辺地は、現在の青森県東部の陸奥湾沿岸にある。