晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ピンホールカメラの世界

何年前くらいに、なるだろうか。

ピンホールカメラというのが、話題になったことがある。

ピンホールカメラというのは、写真レンズを使わず、ピンホール(針穴)を利用したカメラだそうだ。

被写体の光を、針穴を通して、像面に像を得るという、最も単純なカメラの方式なのだそうだ。

箱に、針穴を開けて、反対面にトレーシングペーパーなどを張った窓を作れば、外の景色などが直接観察できる、ということだった。

www.toshi-photo.com

外の景色などが写る、というのを読んでいて、子どもの頃の記憶がよみがえった。

小学生の頃、学習机がわりに使っていた座敷の文机の前の障子に、外の景色が映っていたことを思い出した。

上下左右は、反転していたが、カラーで映画のようにきれいだった。

障子の前には、木の雨戸があったので、その節穴がピンホールになっていたのだ。

私の住んでいた家は、たぶん典型的な農家の作りだった。

座敷が、二間あって、奥の間には床の間があった。

床の間の隣には、文机として使えるようなテーブルになっていた。

調べてみたら、「付け書院」というものらしい。

どうも、書院造の流れをくむものらしいが、どこの家も同じような作りだったと思う。

造り付けの文机の前は障子になっていたので、明るく読み書きができるようになっていた。

もちろん、障子の先には雨戸があったのだが、昔のことなので木製で節穴があったということだ。

子ども部屋などなかったので、中学生になって物置を、勉強部屋として使えるようになるまでは、そこを使っていた。

ibis-group.jp

 

この記憶を思い出したので、さっそくピンボールカメラもどきを、作ろうとしてみた。

ボール紙で箱を作り、針穴を開ける。

その対面には、薄紙を張ってスクリーンにする。

なんとか、スクリーンに景色は映ったが、まわりが明るいので、今ひとつ鮮やかさが足りない。

子どもの頃の、真っ暗な農家の家の中で見た、障子のスクリーンに映った外の景色が、いかに色鮮やかだったことか。

 

子どもの頃に読んでいた雑誌には、工作する付録が付いていた。

「日光写真」というのがあった。

型紙と印画紙を使って、日光の光で写真にするというものだたった。

「カラー映写機」というやつ。

カラーのビニール製のフィルムが付いていて、家庭の電球を使って、映像をスクリーンにうつすというけっこう凝ったものだった。

これは、あまりうまくいかなかったような気がする。

立体写真」もあったな。

左右に赤と青のセロファンが貼ってあるメガネで、赤インクと青インクでずらして印刷した画像を見ると立体的に見える。

これは、今でもあるんじゃないのかな。

ディズニーランドのシアターでも、似たような原理のメガネをかけたことが、あるような気がする。

 

いつの時代も、似たようなことをやってる。

映像は、やっぱり子どもにとっては、だいじなもので、忘れがたいものである。

 

 

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東雷神社 松戸市東平賀

流山の図書館に返す本があって、行くことにした。

最近は、歩くことにこだわっているので、歩くことにした。

先日行こうとした、北小金の東雷神社が方向が近いので、帰りに寄ることにする。

 今日は、陽射しがありそうで、歩くには暑いかなと思いながら、歩き始める。

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麗澤大学生涯学習センター脇の歩道

まずは、麗澤大学のキャンパスを抜けて行く。

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分断されたキャンパスを繋ぐ歩道橋

麗澤大学の学生宿舎脇を抜けて、流山市に入り向小金の住宅地を歩く。

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住宅地の空き地に、一面の葛の中に立葵が咲いていた

水戸街道を渡り、さらに行くとJR常磐線にかかる名都借跨線橋である。

なんと、車道なのに、登り降りは1車線で、橋上だけが2車線という不思議な橋である。

通称「譲り橋」であり、譲り合わないと渡ることができない。

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名都借跨線橋 登り降り車線

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名都借跨線橋 橋上車線

歩行者用には、階段と歩道がある。

橋を渡り終わると、国道6号線である。

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とうもろこしに花が咲く

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とうもろこしも食べられそう

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木の図書館

流山市立木の図書館に到着した。

ここは、流山市役所の出張所と図書館の複合施設である。

1階の出張所はやってるが、2階図書館は休館日だった。

こんなことを、何度やったことだろう。

気を取り直して、神社に向かうことにする。

 

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国道6号沿いを行く

国道6号線沿いに北小金方面に歩く。

途中で6号線は、JR常磐線を越えるので、その手前で線路方向に降りる。

地図を見ると、目的の東雷神社の手前に、前ヶ崎香取神社があるようなので、寄ってみることにする。

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6号線からJR常磐線を見る

JR常磐線に沿った道路を進んでいくと、前ヶ崎香取神社はあった。

香取神社は、経津主神を祭神とし、香取神宮を総本社とし、全国に400社あるといわれる。

関東地方に多いが、特に利根川と江戸川沿いに多く分布する。

10世紀以降に開拓された元低湿地だった土地に多いようである。

東葛飾の地域には、香取神社が多い。

しかも、社殿は台地上にあっても、近くを小さいながらも河川が流れていることが、共通しているような気がする。

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前ヶ崎香取神社

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前ヶ崎香取神社の創建年代は不詳であるが、明和5年の棟札が残っていることから、江戸時代には栄えていたと思われる。

同じ前ヶ崎の台地には、北部に前ヶ崎城址があることを考えると、神社の創建はさらにさかのぼるだろう。

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前ヶ崎香取神社拝殿

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庚申塔

境内は、南北に広がっているが、東側には住宅地が迫っている。

北側、西側は、農地と森林であり、南側は、道路を挟んでJR常磐線の線路である。

社殿はかなり古いものであるが、由緒のようなものは表示されていなかった。

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前ヶ崎香取神社拝殿

拝殿脇を通って、本殿にまわると、本殿はかなり大きな建物だった。

ほとんど、拝殿と同じくらいの大きさがあった。

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前ヶ崎香取神社本殿

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本殿の隣に、立派な境内社があったが、社名がわからなかった。

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境内社

ひとまわりして、拝殿方向を振り返ってみた。

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拝殿を望む

鳥居前の道路を、西に100メートルほど進むと、道は下り坂である。

低地に出たところで、線路下を隧道が通っていて、反対側に出る道がある。

地図を見ると、それと並行して川の流れがある。

根木内城址から北上してきた富士川である。

かつては、どれくらいの流れだったのだろう。

 


隧道をくぐって、さらに西方向に進む。

しばらく歩くと、東雷神社の入り口の登り坂出た。

ここは、境内のすぐ近くまで、JRの線路がせまっていて、歩道橋が鳥居前にある。

参道が、JRの線路のために削られてしまったのかもしれない。

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東雷神社鳥居

東雷神社の創建年代は不詳であるが、平成16年の境内の遷宮記念碑には、400年以上守ってきたとある。

 

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松戸市史料には、東雷神社の由来として次の文章がある。

いつ頃の、記録なのかはわからない。

 

東平賀字中通ニアリ。祭日ハ毎年十月十五日、氏子ハ東平賀全部境内官地ナリ。其ノ坪數二百八十八坪あり。

 

1坪≒3.3平方メートル、計算すると

288坪は、959.4平方メートルって、どれくらいの広さなのだろう。

記念碑には、昭和60年に火災のために、社殿を焼失したとある。

そして、平成16年に再建しているが、再建にあたって、神社所有地の一部を売却して、本殿拝殿の建設資金にしたということである。

現在は、本殿裏に森が全くなく、住宅地になっている。

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社殿の裏を見ると、拝殿と本殿はそれぞれ独立していないので、一体化しているのだと思われる。

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御神木

この東雷神社が、東平賀の村の鎮守の杜だったのだろう。

今は、まわりは住宅地が迫り、鉄道が境内の脇を通り、JR北小金の駅までもそれほどの距離ではなく、そのような雰囲気はない。

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遷宮記念碑

東平賀の地は、千葉に就職した私が、ひとり暮らしの後で、両親と住んでいたところであり、私にとっては思い出深いところである。

その頃は、この神社のことを知らなかった。

線路をはさんで向こう側の、本土寺に近いところに住んでいた。

本土寺も、知る人は知る、くらいでそんなに有名ではなかった。

今は、少し観光地っぽくなっている。

 

帰途は、根木内城址公園経由で帰った。

ただ、通り抜けただけである。

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根木内城址芝生広場

帰ってから、地図を眺めていた。

前ヶ崎香取神社は、鳥居の前を鉄道が通ってしまっている。

東雷神社は、参道のあたる部分が、線路で削られたのだろう。

根木内城址は、国道6号線によって城址の半分を失っている。

 

明治初期の地図を見ていると、鉄道も国道もない。

田舎の村の様子が、見えてくる。

集落の住宅は、まばらに散らばっている。

その風景が、浮かんでくる。

「どこでもドア」でも、ほしいものである。

ちょっと、行ってきたい。

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アプリ「古地図散歩」 明治初期 東平賀周辺

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アプリ「古地図散歩」 明治初期 東平賀広域

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アプリ「スーパー地形」 立体地形 東平賀広域

青色 標高10m未満 茶色 標高10m以上20m未満 緑色 標高20m以上

 

見てるだけで、楽しくなる。

散歩の必需品である。

 

 


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江戸川には渡し船があった

江戸川をサイクリングしていると、「渡場跡」の表示がされているのを、よく見る。

街道があるわけではないところにあるので、もっと生活に密着した渡場だったのだろうと思う。

江戸時代に、下総国葛飾郡の江戸川より西側部分が、武蔵国とされたので、それによって分断されたものがあるかもしれない。

江戸川など、かつての河川は洪水を防ぐために、河川の流れを大きく変更することがあったようである。

所有する田畑が、川向こうになってしまった、ということもあったかもしれない。 

 

江戸川の渡しといったら、「矢切の渡し」が有名である。

矢切りの渡しは、現在でも運行されている。

松戸市観光協会のよると、「矢切りの渡し」は有限会社矢切渡船が運営・運行していて、明治時代から杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる、となっている。

江戸時代、軍事的理由により架橋が許されないことが多かった。

幕府は、渡場として関東16ヶ所を定船場(じょうふなば)として、指定した。

江戸川では、松戸、市川が定められている。

幕府は、この船場以外での勝手な渡船の禁止、女人・負傷者他、不審者の取り調べなどを規定した。

 

矢切の渡しは、このうちの松戸の船場であり、水戸街道の金町と矢切を結ぶもので、金町松戸関所が設けられた。

関所跡は、今は河川敷になっているが、「金町関所跡乃記」の石碑は、東京都金町ポンプ所の隣に建てられている。

市川の船場は、佐倉道の小岩と市川を結ぶもので、小岩市川関所は、現在の東京都江戸川区北小岩にあった。

この二つは、江戸幕府が定めた公式な渡しである。 

しかし、江戸川にはこのほかにも地元の利便のための渡しがあったようである。

 

流山市の江戸川土手は、約10kmほどである。

この10kmの範囲に、8箇所の渡し場があったことを後世に残そうと、地元の観光協会が8本の標柱を整備している。 

寺社参拝や商用の他、江戸川の改修などで分村や飛地ができたので、農作業用の渡しが必要だったらしい。

北から、次のとおりである。

深井新田の渡し、尼谷の渡し、六兵衛の渡し、半割の渡し

羽口の渡し、矢河原の渡し、丹後の渡し、幸房の渡し

その実態も、村が運営したもの、地元の有志で運営したもの、個人が運営したもの、とさまざまである。

規模も、馬や牛も運べて人なら30人も乗れるものから、もっと小さなものまであったらしい。

明治、大正、昭和と存続していたが、戦後交通事情の変化とよって、ほとんどが廃止された。

確かに、多くの橋が架けられるようになって、渡し船でなければという必要はなくなったのだろう。

サイクリングしていると、これは県道何号のなんとか橋、これは国道何号のなんとか橋、JR何線の鉄橋といった具合に、その都度下をくぐらないといけない。

 

今は、かつての船場は無くなってしまったが、緊急災害用の船着場が数ヶ所に作られている。

 

 

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濃口醤油と薄口醤油

関西の醤油は、色は薄いけど、関東の醤油よりしょっぱい、というのをむかし聞いたことがあった。

ほんとかなと、と思っていた。

私の育った秋田は、関東と同じ濃口醤油で、薄口醤油というのは見たことがなかった。

ただ、食材の色が変わることを、避けたいだけならば、塩分を濃くする必要はない。

不思議だなと思ったのだが、製法上そうなってしまうということらしい。

塩分を濃くすると、発酵の途中で菌が死んでしまう。

塩分を薄くすると、発酵がどんどん進んで色も濃くなってしまう。

ということは、薄口醤油は、旨味より見た目を選んだ。

濃口醤油は、見た目よりも旨みを選んだ、ということになるのかな。

関西の人にとっては、関東のうどんやそばの汁の濃い色にぞっとするらしい。

たしかに、それこそ文化の違いなんだろうな。

 

塩分濃度からすると、濃口醤油は16〜17%で、薄口醤油は18〜19%なのだそうだ。

まあ、これはあくまでも醤油自体の濃度なので、使用量で調整できる問題ではある。

あまり身近ではないが、他にも醤油の種類があるのだという。

 

白醤油、溜(たまり)醤油、再仕込醤油である。

白醤油は、塩分濃度が17〜18%で、主に三河地方で作られている小麦粉を主原料とする琥珀色の醤油なんだそうだ。

でも、日本農林規格(JAS) で、「しょうゆ」は、「大豆及び麦、米等の穀類」からつくるものとなってるので、白醤油を名乗るものは、9:1や8:1で大豆を使っているものである。

見かけたことがないような気がする。

 

溜醤油という名前は、聞いたことがある。

風味、色ともに濃厚ということで、お刺身用として売られてるのが多いらしいので、売り場で見てたのかな。

濃口醤油が、大豆と小麦を半々を原料とするのに対し、溜醤油は大豆のみを原料とし、あとは塩と麹のみであり、塩分濃度は16〜17%である。

醤油の原型なのかもしれない。

作り方も、味噌玉に麹をつけて、塩水につけて1年間熟成させるなど、とても手間がかかるみたいである。

とても、大量生産はできそうもない。

 

再仕込醤油というのは、知らなかった。

熟成期間が長いので、旨味が増加して濃厚らしい。

仕込みの際に、塩水ではなく濃口醤油を使う。

そのせいか、塩分濃度は12〜14%である。

 

なかなか、醤油の世界もむずかしいものである。

私は、子どもの頃から醤油が好きである。

そのかわり、ソースが苦手だった。

とんかつが好きで、外食してメニューから選ぶとだいたい、とんかつになってしまう。

ところが、お店のソースではなく醤油をかけていた。

ソースだと、肉のうまみがあの酸っぱさに負けてしまう。

醤油の方が、肉のうまみをいかすような気がしていた。

お酢自体は、好きな方なのにソースは苦手だった。

今は、ソースも最近はだいぶ大丈夫になってきたけど、とんかつはやっぱり醤油だな。

好みの問題なので、こんなものなんだな。

 

 

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新聞はこれからどうなるんだろう

新聞購読は、3年ほど前にやめた。

それでも、年に何回かは、また購読しませんかという、勧誘の電話がある。

一昨日にも、電話があったばかりだ。

もともと、熱心な読者ではなかったのだが、退職してほとんど読まなくなってしまった。

就職してひとり暮らしをはじめた時に、近所の新聞店に行って申し込んだのを覚えている。

それから40年は、購読していたことになる。

スポーツ欄や読書欄、それにテレビは何をやるかな、くらいでパラパラ見てた。

それくらいだったら、タブレット見てればなんとかなるものばかりである。

新聞を読むのも、習慣のひとつとして、やってたのかもしれない。

朝起きて、新聞読んで、出勤する、という流れである。

出勤がなくなったので、流れが変わったわけである。

新聞について、そんなにこだわりはなかったので、完全にやめるまでは、妻に任せていくつかの他社の新聞にしていたこともあった。

新規だと、景品などのサービスがあるらしい。

こだわりはないといいながら、何十年か同じ新聞社だったけど。

 

新聞だけではないけれど、この業界はこのままの形では生き残れないだろうな、と思うことがある。

たとえば、自動車業界とかテレビ業界とか。

いくら、100年以上続いて、世の中の中心みたいな業界でもだ。

でも、「このままの形では」というのが、ミソだな。

 

新聞が、はたして今のような形態で存在している意味があるのか、これから存在していけるのか。

ニュースなら、テレビやラジオもあるし、スマホタブレットで提供されている。

新聞が手元に届く、ずっと前に人々に情報は届いている。

そんな時代に、紙に印刷した印刷物を、人間がお客まで届けるということが、必要なのか。

新聞の原稿の締め切りは、もっとも遅い版で1時半なのだそうだ。

朝、起きて6時ごろに読む新聞の記事は、1時半現在のものだ、ということである。

速報性という点では、もう勝負にならない。

かつて、新聞配達といえば、高校生や大学生のアルバイトだった。

そういうアルバイトは、この20年くらい見かけてない。

もしかすると、もっと遡るのかもしれない。

私の観察だと、新聞配達は専業の人がやっているのだと思う。

たぶん、ひとりの配達員の担当範囲は、広くなっている。

だから、朝というよりも深夜くらいから、配達のバイクの音が聞こえる。

きっと、3時間以上はかけてるのでは、ないだろうか。

 

新聞は、あんなに大きな紙に印刷している。

一部あたりの、紙面の面積はどれくらいになるのだろうか。

測ったことはないが、かなりのものである。

そこまでしているのに、読み捨てである。

資源回収に出されて、再生紙となる。

何年も保存する書籍ならともかく、資源の使い方としては、どんなものか、ということになる。

新聞社はどこも、だいぶ以前からネット購読というものを、やっていると思う。

どれくらいの、割合になってるのだろうか。

あまり、高いパーセントではなさそうである。

 

新聞購読数は、ネット時代が始まった2000年には、5300万部あったのが、年々減少し2020年には3500万部というところらしい。

これからも、この傾向は変わらないだろう。

日本人は、基本的に生活習慣を変えない傾向がある。

私のように、退職して新聞購読をやめる人は、少ないと思う。

たいていは、そのまま購読を続けるだろう。

でも、身近なところで私の3人の息子のことを考えても、新聞を購読していない。

これからも、購読することはないだろう。

若い新規購読者を確保することは、困難だと思う。

新規購読者が減っていって、急激ではないかもしれないが、確実に購読者は減って行く。

そして、いつか経営が困難なところまで減ってしまう。

もちろん、各新聞社も生き残るための方策は考えていることだろう。

ただ、すでにさまざまな情報を得られるウエブサイトがあることを考えると、今の新聞社の延長上に生き残りを考えるのは、なかなか困難なように思える。

私が考えてみたのは、新聞は広い範囲で総合的に情報を提供していたが、それがもう必要とされてないのであれば、専門化するしかないかと思ったのだが、それはもう存在してるかもしれない。

 

日本の場合、救いは急激な変化ではなく、穏やか緩やかな変化であることである。

前にあげたように、自動車業界やテレビ業界も同様である。

どちらも、若者が離れていってるというのが、大きいと思う。

充分な準備期間を、有効に活用するしかない。

 

 

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江戸川放水路と旧江戸川 サイクリング・プラン

サイクリングで、遠出しようとしたら、利根川コースか江戸川コースである。

利根川コースは、手賀沼サイクリングコースを経て、手賀川沿いに進み、我孫子市布佐で、利根川のサイクリングコースに到着である。

ここまで、20km程の道のりである。

さらに、利根川を流れとともに東に走ると、成田市竜台の長豊橋である。

この橋は、茨城県河内町と繋ぐものであり、私の利根川最長の地点である。

ここまでで、36kmであるが、この先は未知である。

車でなら、佐原の道の駅まではよくいくのだが、さらに20kmちょっと走らなければならない。

 

江戸川コースだと、流山橋で江戸川土手に出られるが、距離は8kmほどである。

利根川に比べて、とても行きやすい。

江戸川の場合、関宿方面に向かう北コースと、東京湾方向に向かう南コースがある。

北コースだと、埼玉県吉川市に渡れる玉葉橋までは、16kmほどである。

さらに北上して、関宿城博物館まで脚をのばすと、合計40kmである。

2度ほど行ったことがあるが、自転車でこの距離はけっこう走りでがあって、帰りがきつかった。

 

これに対して、南コースだと流山橋三郷市に渡り、南下することになる。

いつものように、柴又帝釈天までだと、18kmである。

さらに南下して、千葉街道まで出て市川橋を渡ると21kmであり、ここで市川市に入って北上するのが、通常のコースである。

3年ほど前に、ここで市川橋を渡らず、さらに南下して江戸川放水路まで行ったことがある。

そこは、旧江戸川と新江戸川の分岐である。

ここまで、27kmほどである。

旧江戸川には、江戸川水門が設けられて、水量の調整ができるようになっている。

新江戸川は、1919年に完成した江戸川放水路であり、1965年から正式に江戸川とされた。

 

3年前は、江戸川水門で旧江戸川を渡り、市川市に入り、さらに行徳橋で江戸川放水路を渡って、土手沿いに北上して、帰宅した。

旧江戸川は、西岸が東京都江戸川区であり、東岸が市川市浦安市であるが、地図を見た限りでは、ほとんど河川敷はなく、川からすぐに住宅や工場が迫ってるように思える。

ラジオの番組で、東京の0メートル地帯で育った人のメールを読んでいた。

台風が近づくたびに、家中で床上浸水に備えていたそうだ。

東京の東部は、ほとんどが海抜数メートルの地域である。

いくら、川の流れは変えることができても、土地自体を高くすることはなかなかできない。

堤防を水が越えなくても、雨水が行き場を失って街をにたまってしまうのだろう。

旧江戸川西岸を東京湾目指して、南西に行くと一之江で南下してきた中川に合流する。

明治頃の地図を見ると、旧江戸川は中川と合流せず、南下して東京湾に注いでいる。

中川が流れを変えて、旧江戸川に合流するようになったのは、昭和になってかららしい。

人間は、すごいことをやるものである。

さらに、南下すると「葛西臨海公園」である。

一度、家族で遊びに来たことがある。

川向こうは、「東京ディズニーランド」であるが、何回来たかはわからない。

 

新江戸川である江戸川放水路は、地図で見ると旧江戸川に比べて、川幅も広く河川敷もあるように思える。

実際は、どんな感じなのか見たいものだ。

江戸川水門までは、確かにサイクリングコースがあったが、その先がどうなっているかである。

はたして、自転車で走れるような道か、どうか。

葛西臨海公園までは、32kmなので距離的にはなんとか走れそうではある。

行くのはなんとかなるが、問題は帰りである。

少し、近場でトレーニングが必要かもしれない。

近いうちに実現したいと、思っている。 

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アプリ「古地図散歩」 明治初期の江戸川

 

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アプリ「古地図散歩」 現在の江戸川

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すわのうみ⑤ 菅江真澄テキスト

長殿よりは四人めのしもとやらん、山吹の袂なるが、ゆだすきかけて待居給へば、上下きたる男、藤刀といふもの、ちいさき御錦の?より取出して、ぬきはなちてそお長殿にわたす。

長殿とりて、山吹色なるそうぞくしたる祝にわたす。

そのかたなを、柱のうへにおきてのち、又、長き繩とりもてわたす。

ゆだすきしたる祝、刀にひとしく柱のかしらよりあてゝ、きだみつけて、さわらの枝、柳の枝、きさのさえだ、かのはなもてゆふ。

又、矢一もとゆふ。

又、三の枝をゆふ。

はかた矢一もとゆふ。

又、かたなにひとしくくらひて、きだみめつけて、二ところゆふ。

前に同じ。

かく左右ゆひわかちて、なはのこれば、藤刀に合てきりはなちてけり。

又、柏のかれ葉に糀もりて、折箸にてぬひとをして、ふたつ糀もちてふたつかく。

四ツをその御柱にさして、やの中ほどの処に立て、はらへよみ給ふに、北なるやにて、御神楽の声きこへぬ。

かしは手三ツ聞えて、後はかぐらやみぬ。

かの御神の童を、桑の木の膜を繩によりていましめて、其なはかくるとき、たヾまづ/\とよぶ。

ともしやしてとらす。

祝らん箱なるふみよみ行ひてのち、大紋きたる男わらはをおひてまかり出る。

長殿藤かづら茂りたる木のもとにむかひて、やつくりたりしとき、やねさせるひなのときものを、八ツなげ給ふやつがりにやありけん。

又すはのくにのつかさよりまいらせ給ふ、馬のかしらをねんじて、なげ給ふ。

此馬いととくはしらせて、小供らあまた追めぐる。

そがあとより御贄柱かたげて、御神のわらはおひたる男、はたおほん宝といひて、ながき鈴のごとやうなるものを五ツ、錦の?に入て、木の枝にかけて、そろ/\とはしりて、はしりめぐること七たびにしてみなかへりぬ。

長殿の庭に御社あるなる、そが御前にて、あらはのなはときてはなし給ふとなん。

御祝のつかさは明神の御末のながれにて、御くに司もおなじ。

長殿も守屋のをとゞの御末にてわたらせ給ふとかや。

其かへるさ、ふげん堂の花を見つゝ行ば、はや酉のときちかし。

御社を拝みてかへる。

常世のぬしは、道にてふとまみへし人ながら、ものねもごろにかたらひて、こよひはあがもとにといひて、同じみちをかへる。

夕月夜のかげ、海つらにうつるなどおかし。

この海を鵝湖といひけることは、もろこしに信州といふところに、水うみあれば、それにたぐらて、からうたの家より名づけつ。

小坂といふ処にいとよき桜ありけるが、月のかげにあらはれたるもおもしろくて、

 

   月かげのさやかならねどいもかすむをさかの花やこへがてにみん

 

かくて其処にとまりて、よもすがらものかたらひて、朝とくあらやしきてふ処を出てかへりぬ。

此あたりの山に、風越のみかねといひけるありと、人のいへり。

 

   風越のみねよりくだるしづのおが木曾の麻衣まくりでにして

 

かくなん聞えたるは、伊奈郡いゐだなる山を風越といふ。

しら山をまつり奉る。

かゝるを、もはら里人は、それといへど、いづらをいづらとわきがたがりけらし。

木曾のあさ衣といへば、いゐだののがかひへならん。

高遠の里なる青山大人、このとし六十になり給ふけるとて、から歌やまとうたをかきあつめ給ふこそ、たけきものゝふのこゝろも安らかに、せきのふづ河のなみしづかに、わたらひたてまつらしめたまへと、御うた/\の花の言の葉のなかに、柴になふ山賤らが、にげなきことばもて、ならひたらぬもはづかしけれど、去年の老松わかくりそしほの色をふくみて、ちよ万代の春の栄をよろこびて、そのこゝろをのべ侍るのみ。

松為殿といふ事を、

 

   すえ遠き千代もかわらじ高砂のまつをむかしの友とちぎりて

 

 

 

 

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郷土史や市町村史は何のためにつくるのか

どこの市町村も、市町村史編纂事業というものをやっている。

郷土史と言われることも、あると思う。

もっと範囲を広げると、都道府県史というものになり、全体として自治体史などとも呼ばれている。

自治体にとって、過去にどのような経過を経て現在にいたったかということは、これから将来どのよう進んでいくべきかを考える際に、とても重要な資料となるということだと思う。

 

私の住む柏市は、すでに平成7年から平成12年までに、全3巻の「柏市史」を刊行している。

 「原始・古代・中世編」、「近世編」、「近代編」からなり、それぞれ1000ページを越える大部であり、販売価格も5000円前後である。

とても、個人で購入するようなものではない。

柏市は、平成17年に沼南町と合併した。

沼南町も、昭和54年に「沼南町史」を刊行している。

合併を受けて、「柏市史編さん委員会」を柏市教育委員会文化課に設けている。

その基本方針の中で、次のように述べている。

 

『収集した歴史資料は本市及び市民の共有財産であり,本市を理解しよりよい 「まちづくり」の基本資料として保存管理し,活用していく。』

 

 大きな目的は、歴史資料を収集して散逸を防ぐことや、これらの歴史資料を市民みんなで共有することにより、自分たちの街について知り、街の未来を考えるときに役立てようということだと思う。

 

柏市の市史の場合だと、先に述べたように分厚い書籍が、3冊で合計3000ページを越えるものである。

市町村の規模などにもよると思うが、だいたいは似たようなものだろう。

基本的には、紙に印刷した書籍として完成させ、保存しているのがほとんどである。

多くの編纂委員が、長い日数を費やして、会議を重ね、原稿を書き、検討して、完成させたものだと思う。

そのほとんどは、市立図書館をはじめ、柏市の施設、そして他の自治体の図書館などにも寄贈されるのだろう。

 

全国の市町村や都道府県について、ネットで調べてみると刊行した書籍について紹介してあるサイトは、どこでも設けている。

だいたいは、単に書籍の概要や目次くらいについて述べてあるだけである。

ところが稀に、自治体史の書籍の内容そのものを、サイトに掲載してある場合がある。

それは、刊行した書籍の内容をPDFファイルにして、掲載してる例が多い。

閲覧者の都合を考慮して、Flash版やHTML版など電子書籍を用意しているサイトもあった。

自治体が、都市部だからとか、政令指定都市だからとか、そういうものはほとんど関係ないようである。

自治体が、住民と情報を共有しようとしている姿勢があるか、そうでないかとういうことだと思われる。

私が、見つけたいくつかのサイトから、すぐれていると思われるいくつかのサイトについて、紹介したい。

 

www.city.misawa.lg.jp

 

www.city.noboribetsu.lg.jp

 

www.city.nara.lg.jp

 

www.city.susono.shizuoka.jp

 

www.library.city.takatsuki.osaka.jp

kameyamarekihaku.jp

 

www.lib.fussa.tokyo.jp

数千ぺージに及ぶ素晴らしい自治体史を、だいたいは数百部から数千部を刊行する。

ほとんどは、図書館の蔵書となる。

そのような立派な書籍は、館内の閲覧だけ認められていて、貸し出しは認められてないことが多い。

詳しく調べてみたい場合には、何日も図書館に通わなければならない。

そんな暇な人は、なかなかいない。

自治体のサイトに自治体史があれば、いつでも誰でもどこからでも、アクセスすることができる。

 

かつては、書籍を作ろうとしたら、執筆者が原稿用紙に書いて、それを印刷所で和文タイプライターや、ワープロで印刷のための準備をしていた。

しかし、今は執筆者自体が、PCで入力している。

すでに、自治体史という書籍ができる前に、電子データができているのである。

自治体のサイトに掲載するために、特別な準備は要らない。

必要なのは、住民と情報を共有するという姿勢だけである。

 

平成の大合併前には、3200ほどあった市町村が、1700に減少してしまったそうだ。

ということは、合併した市町村は市町村史を作りなおしたことだろう。

いや、まだ進行中かも知れない。

市町村史を何のために作るのか。

それを、しっかり踏まえてほしいと思う。

資料を収集し、管理保存する、そして活用する。

最後の、「活用する」が大事なのだ。

それを考えれば、立派な書籍を作ればいいということではない。

どのようなものができているのか、それをどう活用しようとしているのか、知りたいと思う。

 

 

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茂侶神社 松戸市小金原 後編

小金原団地を目指して、歩き始めた。

今は、光ヶ丘・酒井根の台地と小金原団地の台地の間の低地にいる。

しばらくして、小金原団地の建物が見えて来た。

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小金原団地の斜面の下には、小さな川が南から北に向かって流れている。

これが、上富士川で、根木内城址公園の東部を過ぎて、さらに北上し富士川と名を変え、平賀川の流れを合わせて、運転免許センターのある前ヶ崎で、坂川に合流する。

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小金原イチョウ通り

小金原団地の中央部にある小金原公園を、久しぶりに歩いた。

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公園を抜けると、小金原中央商店街である。

入り口に、体育館があったのだが、こんなのがあったか記憶がない。

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商店街は、いくつかシャッターが閉まったままのものもあった。

かつて、東武と西武の二つのスーパーが向かい合っていたのだが、東武の方はドラッグストアになっていた。

父が入院していた病院は、サービス付き高齢者住宅になっていた。

病院だった名残に、一階にはクリニックがあった。

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 近くに、交番や郵便局本局もあって、小金原団地の中心である。

大きな通りをはさんで、向かい側に古い商店が並んでいる。

和菓子屋さんや肉屋さんは、昔ながらに営業していたので、うれしくなった。

この近くに、茂侶神社はあることになっているが、とてもそんな雰囲気はない。

商店が途切れたところから、脇道に入って進むと、斜め前方に背の高い樹木が見えた。

100mくらいのところで、右手に突然鳥居が現れた。

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小金原茂侶神社

小金原茂侶神社は、延長5年(927年)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社であるといわれている。

しかし、延喜式には「下総国葛飾郡茂侶神社」とあり、この地域に茂侶神社を称する神社は3社ある。

流山市三輪野山にある茂侶神社と船橋市東船橋にある茂侶神社である。

延喜式にある茂侶神社が、この3社のうちどれであるかは確定されていない。

江戸時代にこの地には、水戸徳川家の鷹場があり、徳川光圀もたびたび訪れており、この神社の由来を調べさせたとの記録があるらしい。

その関係もあって、社殿の修復の際には、水戸徳川家が手当を支出されていた。

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境内社石碑

神社の歴史が古いだけあって、境内には樹齢の長そうな巨木が多く見られた。

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御神木

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小金原茂侶神社拝殿

本殿を見ようと、拝殿の脇を進む。

本殿は、樹齢の古い巨木がおい繁っていた。

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小金原茂侶神社本殿

茂侶神社の境内は、南北に細長くなっている。

鳥居から拝殿まで石畳が続いているが、境内の東側はほとんど余地がなく、住宅が迫っている。

境内の西側は、石畳とは並行でない団地内の道路となっている。

鳥居と本殿は、きれいに南北の方向になっていた。

だから、神社の敷地は、南側が広く、北側が狭くなっている。

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本殿裏から振り返る

茂侶神社の「もろ」ということばが気になっていた。

「茂呂」という苗字の人には会ったことがあるが、「茂侶神社」というのは、先の三社以外にはないようであるある。

小金原茂侶神社の境内には、由緒のようなものはなかった。

しかし、流山の茂侶神社は旧称が「三輪神社」といわれていたらしく、住所も流山市三輪野山であり、奈良の三輪山と関係があると言われている。

三輪山の旧名が、御諸山(みもろやま)であることを考えると、延喜式の「茂侶神社」は、流山の可能性が高いかもしれない。

近いうちに、訪ねてみたいと思う。

 

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アプリ「古地図散歩」 明治初期 茂侶神社付近

地図アプリでこの辺りを見ると、茂侶神社は、「茂侶社」と表示され、まわりは畑になっていて、住居の表示が多くあり、かなり大きな村だったようだ。

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アプリ「スーパー地形」茂侶神社付近

茂侶神社の参道が、きれいに南北になっているのがわかる。

 

帰り道、歩いていると、あちらこちらに緑の森が見える。

それは、どうも農家の裏にある林のようである。

里山というのだろうか、そういう森がまだこの辺りは残っているのだ。

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下田の杜あたりの森

光ヶ丘に戻りながら、小金原を見る。

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この森が、いつまでも残っていてほしいものである。

 

腰をおろしたのは、3回ほどで歩き続けた。

2時間くらいで、8キロくらいだった。

思ったよりも、近いものだ。

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アプリ「スーパー地形」 小金原周辺

青色が、標高10m未満、茶色標高10m以上20m未満、緑色標高20m以上である。
酒井根と小金原の間は、南北に低地が続いていて川が流れている。

 

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茂侶神社 松戸市小金原 前編

数ヶ月前に、北小金本土寺を訪ねた帰りに、常磐線に架かる陸橋を渡っていて、近くに「東雷神社」というのを知った。

変わった名前の神社だとは思ったが、帰り道で疲れていたので、次の機会にすることにした。

たぶん、「ひがしいかずちじんじゃ」と読むのだろう。

「雷神社」というのは聞いたことがあるので、なんで「東」がつくのか考えていたら、東平賀全部を氏子とするとあるので、「東平賀」からきてるらしい。

近隣の地図を見ていたら、「茂侶神社」というのが、小金原団地の中にあった。

流山街道にも、「茂侶神社」というのはあったが、訪ねたことはなかった。

小金原団地の中央部に近くて、松戸北郵便局や小金原中央商店街もあって、かつてよく行った所であるが、由緒ある神社が近くにあるとは知らなかった。

そこで、目的地変更で、「茂侶神社」に向かうことにした。

 

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光ヶ丘団地メイン通り

自宅を出発して、光ヶ丘団地に出ると、妻の母が入院している病院がある。

通り過ぎて、さらに進むと、「酒井根合戦跡」というところに出る。

太田道灌と千葉孝胤が酒井根の地で戦い、太田道灌が勝利したものである。

鎌倉公方扇谷上杉家重臣太田道灌は、国府台から出陣している。

この時点で、千葉家宗家は滅亡していて、千葉孝胤は臼井に敗走するが、生き延びて千葉宗家を継承することになる。

酒井根には、首塚、胴塚、刀塚などが、数十あったと言われるが、今は二つの塚が残っている。

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 光ヶ丘団地の南端まで、向かう。

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孫娘お気に入りの遊具

交差点を渡り、酒井根の集落にある酒井根八坂大神に向かって歩く。

酒井根」という地名は、この辺りが葛飾郡相馬郡の境であったことから付けられたといわれる。

柏の隣の沼南や我孫子は、明治30年葛飾郡ととなったが、それまでは相馬郡だった。

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酒井根八坂大神

道路脇に神社の大きな看板が、出ている。

酒井根地区の産土神(うぶすなかみ)  (家内安全・子孫繁栄・農耕の神様)  八坂大神」

八坂神社ではなく、八坂大神である。

ここまで、自宅から900mくらい、南方にある最も近い神社である。

同じような看板を、旧水戸街道南柏駅に近いところにある神社で見た。

あれは、住所は今谷上町だったと思うが、何地区になってたかな。 

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江戸時代享保18年に、再建されたとあるが、創建は弘安年間(1278〜1288年)とのことです。

境内社として多くの神社が、合祀されています。

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本殿を見ようを、拝殿の脇を行くとピンポンと何か警備の音響が響きました。

今は、物騒な時代なので、こんな設備も必要なようです。

早々に、引き上げることにします。

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本殿

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アプリ「古地図散歩」 明治初期 酒井根八坂大神付近

酒井根は、このあたりでは大きな集落だったようです。

八坂大神は、「八坂神社」と表示されていて、100mほど南方に、「天満宮」と鳥居の表示があるが、現在はなくなっている。

明治初期の地図を見ても、多くの住居が集まっているのが確認できます。

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少し離れて八坂大神の森を見る

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アプリ「スーパー地形」 酒井根・下田の杜周辺

八坂大神の脇を、南北に通る県道を渡って、小金原方面に歩いていく。

途中に、「酒井根下田の杜」という 里山を通り抜ける。

 

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下田の杜に入って行く

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下田の杜は、四方が住宅地になっている高台で、その斜面に囲まれた低地である。

畑や田んぼ、まわりから流れてくる流水が集まる池もある。

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下田の杜の守り神「フクロウ」

畑や田んぼの脇を歩いて行くと、池があった。

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NPO法人が運営しているらしい田んぼ

池には、おたまじゃくしがいっぱい泳いでいた。

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四方を取り囲む森から、チョロチョロと水が流れ込んでいた。

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森から離れて振り返ると、こんな緑に囲まれている

 

 

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