晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

こどものいる平和な風景

今朝も、青空が見えている。

毎朝洗濯しているので、今日も洗濯物が乾くぞ、と思うとほっとする。

コインランドリーに通わなくてもいい。

ちょっと風があれば、申し分がない。

 

桜の花も、もう五分から八分咲きといったところかな。

木によっては、満開もありそうだ。

咲き始めてから、早かった気がする。

けっこういい天気の日が続いたからだな。

それにしても、桜が咲いてもわくわくする気持ちにはならない。

昨年の今頃、来年の花見は大丈夫だろうな、と考えていた。

こうなって来ると、来年の花見だってあやしくなる。

やっと、ワクチン接種が終わるかどうかだろうから。

 

2、3日前に、新柏のさくら通りを車で走っていたら、保育園の子どもたちが散歩していた。

おそろいの帽子をかぶって、手をつないで楽しそうに歩いていた。

散歩車もあったけど、乗ってるのは1人だけだった。

天気もよくて、気持ちいい日だったから、元気に歩いてた。

そんなグループが、いくつかあった。

あんな小さい子たちを、連れて散歩するのは保育士さんはたいへんだろうな、と思う。

でも、いっぱい歩いて、いっぱいお昼を食べて、いっぱいお昼寝するのだろう。

そういえば、我が家の三男が行ってた保育園は、ワイルドだったな。幼稚園か?

豚を飼ってて、雨でも散歩に行ってた。

 

自分が歳とって、孫も生まれたせいだと思うが、外を歩いていると小さい子どもが気になる。

やっと歩けるようになったような小さい子どもが、手はつないでるけどひとりで歩いている。

まだ2歳にもならないような子どもでも、ひとりで歩こうとしている。

教えられなくても、歩こうとする。

それを見ているだけでも、うれしい気持ちになる。

先日は、小さい子どもを3人つれた若いお母さんを見た。

たいへんだと思うけど、かわいさも3倍だなと思う。

孫娘も、もうすぐ5歳になる。

何でもしゃべるし、何でもわかる。

 

そういえば、馬や牛は生まれてすぐに、立ちあがる。

我が家でも、牛と山羊は飼ってたけど、産まれるところは見たことないかな。

テレビで、見たのかな。

どうして、馬や牛などの家畜は、あんなにすぐに立ち上がって、歩けるようになるのだろう。

人間だったら、6ヶ月くらいでハイハイ、10ヶ月くらいで立ち上がり、1歳でやっと歩く、そんなものだな。

でも、かなり個人差が大きいような気がする。

母親のお腹にいる期間が関係するのかな、と思って調べてみた。

馬は11ヶ月、牛は9ヶ月、山羊は5ヶ月、豚は4ヶ月といったところ。

人間は10ヶ月で、この違いはいったい何から来てるのだろう。

 

家畜というよりも、ペットというものになっている犬や猫はどうなのだろう。

犬の妊娠期間は62日で、56日で早産、65日で遅産になる。

猫も、犬と同じくらいらしい。

人間は、1歳で歩いて、独り立ちするのが元服かな。

元服は、15歳くらいと思っていたけど、どうもはっきり年齢が決まってるわけではないらしい。

5歳から18歳というのは、あまりにもアバウトだ。

現在は、20歳で成人で、18歳で選挙権だったかな。

野生の動物に比べて、人間は独り立ちに時間がかかるということだな。

どうして、こんなことになったのだろう。

 

 

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わかこゝろ⑥ 菅江真澄テキスト

十九日 つとめて浅間をたつ。
このあたりをさして、
 
「浅羽野にたつ水輪小菅ねかくれてたれゆへにかはわが恋ざらん」
 
と聞え給ふる。
 
この朝葉をあやまりて浅間といへるにや。
 
   鈴虫のふり出てながめ紅のあさはの野良やいざわけて見ん
 
松本を過ぎ村居をへて芝生に体らふほどに、きのくに牟婁郡田辺の里なる訓殷といふ人、姨捨山に在て一夜かたらひて、相しれるが通りけるを、こはいかに、なれ見し月の友がきよと、うちものがからひてくる。
 
この訓殷は香風とて、はいかいの連歌こゝろざし浅からず、さりければ、こたびの月にもざさらへ来て、姨捨山のながめに、
 
「捨られはかゝる野山やけふの月」。
 
香風は、田辺のなにがしの里のをさにて、
 
「世を旅にやどをかり田のほとりかな」
 
と、宗祇法師、文明のころ句ありたりけるをもて、庵つくりて、いますめりけるとか。
此友は、こよひ宣甫がやに、われは可児永通が家につきて、ふたゝびとてくれたるまどゐに、香風衣つゝみのうちより、十府の菅、宮城野の萩など、ふるさとのつとに折もて行とて、とうだして見せけるに、
 
   色深きこと葉の花も折まぜて萩の錦をみやぎのゝ原
 
あるじの宣甫にかはりて、
 
   菅こものなゝふに宿しわかれなばたえずも人をふみにしのばん
 
二十日 香風にわかるゝあしたになりて、
 
   わかれてもおなじかりねの草枕むすびてあはんよな/\の夢
 
その夜、姨捨山によみたりける歌の冊子に、ものかいてと人のいへば、いなびがたくて、
 
「ひさかたの天のひかり四方に明らけく、あまねく世にみつのとし、そめわたる木々の葉月、もちのこよひを、手を折/\の空にむかひ、水の面にてる月なみをかぞへて、おもふかぎりうちむれて、旅衣わもひたちぬるに、われもおなじう、みすゞかる科埜のくににありて、いざいきねと人のさそふにうれしう、心あはたゞしく、此夜をば捨山にのぼりて、いかめしきいはほの上なる、莓のむしろにまどゐして、いまだ夕くれはたぬよりまちまたれて、見もしらぬ高根のあたりにこゝろをやりて、むなしく見やりたるほどもなう、やをらさしのぼるかたは、山のいくへも波のやうに見やられ、ふもと行水のしろがねをながせるかと、千曲の川なみよるともわかず、つな舟も、月にひかれてながしやしてむ。
 
わけのぼる人のけはひの、こゝかしこにあらはれて、虫のこゑ/\風のたゝずまひ、木草の露も、よしある月のこよひなりけりと、こゝらの人の、ながめたる心のくまもあらで、世中はみな、此月の中にこもりてやあらん。
 
かゝるたぐひなき大空の光にや、なぐさめかねし男のこゝろまでおもひ出られて、猶いにしへの人にものいふこゝちすれば、いかにおもふとも、いとゞいへば、えに、こゝろくるしくて、あふぎたる人々のこりなう、心こと葉のをよぶべきかはと、たゞ声をのむに、さなんめりとて、はぢらひてやみぬ。
 
さればとて、人わらはれなる一ふしもかなと、より集ひて、旅なる硯まかなひいだして、人のながめたるに、われも、かたくななるひとくざをとてしるしぬ。
 
世に見ん人のめにはつゝましけれど、此月のにほひに、あくがれ来れるしるしとも見ん、人のこゝろのそこまで清らかにすめれば、言の葉のみちのまどひもなう世にてりかゞやかし、ひかりまされるこそ、こよひの月のはゐならめかも」
 
 

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日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて②

我孫子市立図書館から借りてある4冊の書籍を読んでいる。

気にかかる箇所の文章を抜き出そうと思う。

 

フランシスコ・デ・ザビエル 「聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄下」 岩波文庫

アルーべ神父 井上郁二 訳

 

ザビエルは、ポルトガル国王ジョアン3世によって、インドのゴアに派遣された。

天文18年(1549年)に、初めて日本にキリスト教を伝える。

薩摩、肥前、周防を経て、京に入り、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、後奈良天皇征夷大将軍足利義輝への拝謁を誓願したが、ならなかった。

ザビエルは、膨大な書簡をインドや欧州に送っている。

日本に初めてキリスト教を伝える宣教師として、苦労の多い毎日だったのであろう。

内容は多岐にわたっていて詳細なものであるが、その中に、次のような文章がある。

 

日本の信者には、一つの悲歎がある。それは私達が教へること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救はれないことを、非常に悲しむのである。

亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。

そして私に、或は施與、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだらうかとたづねる。私は助ける方法はないと答へるばかりである。

この悲歎は、頗る大きい。

けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先とともに、永劫の苦しみの處へは堕ちないやうにと望んでゐるから、彼等の悲歎については、別に悲しくは思はない。

しかし、何故神は地獄の人を救ふことができないか、とか、何故いつまでも地獄にゐなければならないのか、というような質問が出るので、私はそれに彼等の満足行くまで答へる。

彼等は、自分の祖先が救はれないことを知ると、泣くことを已めない。

私がこんなに愛してゐる友人達が、手の施しやうのないことに就いて泣いてゐるのを見て、私も悲しくなつて来る。

 

人々が求めているもの、必要としているものと、キリスト教があたえてくれるものが、かみ合っていないのである。人々は、祖先や亡くなった人のために祈っているのである。

日本における布教の困難を感じさせる。 

 

神は私達を、贅澤の出来ない國に導き入れることに依つて、私達にこんなに大切な恵みをお施しになった。即ち、私達が肉體に與ようと望んでも、この土地では、こんな贅澤はできないのである。

日本人は自分等が飼ふ家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。

彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。

但し彼らが食べる草(野菜)は豊富にあり、又僅かであるが、いろいろな果物もある。

それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身體をもつて居り、稀な高齢に達する者も、多數居る。

従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私たちの體質は、僅少な食物に依つて、いかに健康に保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている。

この國に於て、私達の身體は、皆、頗る元気であるが、願わくは神の思召しによつて、私たちの霊魂も、元気であらんことを。

 

自分たちの肉食中心の食生活を、日本人の質素な食生活と比べている。

家畜を屠殺して、食すということについて、なんらかの思うところがあったような文章である。

 

彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に、創造主のことを認められないと言つた。

又、若し神が善なら、そんな悪い者を造る筈がないと云ふのである。

それに對して私達は、神はそれ等を皆善いものとして造ったが、彼らが自分勝手に悪くなったので、神は彼等を罰した。

その罰は永劫に續くと答へた。

すると彼等は、神はそれ程に残酷に罰するものであるなら、憐れみのない者だ、しかも若し神が、私達の教の如く、人間を造ったのが本當なら、何故こんなに悪い悪魔がゐて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。

何となれば、私たちの教によると、人間が創られたのは、神に奉仕し奉るためであるから。

又、神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、且つ、罪の傾きを持った者としては造らないで、悪い傾きのない者として造つたはずだ。

又此の原因は、善い原因となることはできない。

何故なら、地獄のやうなひどい處を造つたからであり、地獄へ堕ちた人間は、私達の教によると、永遠に其處に居なければならないのだから、神には憐れみがないといふ。

又神が善ならば、こんなに守りにくい十誡などは、與へなかった筈だといふ。

 

彼等は、他の国でもこんな声を相手にしていたのだろうか。

宣教師としての、資質の問われる日々だっただろう。

現在、日本におけるキリスト教徒は191万人だそうである。

200万人近くいるのだから、たいしたものだとも言える。

ただ、16世紀に上のような文章が書かれていたことを考えると、これらの問いかけに対して、何百年の間、充分な答えを用意できなかった、とも言える。

 

川崎桃太 「続・フロイスの見た戦国日本」 中公文庫

 

ルイス・フロイスは、スペイン人であるがポルトガル宮廷に仕え、1548年にボアに赴き、そこでザビエルに会っている。

1563年、長崎に上陸し、日本語や日本の風習を学んでいる。

1569年、将軍足利義昭を擁していた織田信長に対面する。仏教界に不満を持っていた信長は、フロイス畿内での布教を許可した。

1597年に、長崎にて65歳の生涯を終える。日本での長い布教活動の中で膨大な書簡と「日欧文化比較」や「日本史」などの著作を残した。

 

この書は、フロイスの研究者である川崎桃太氏が、フロイスの著書「日本史」の中から、16世紀日本の人物、事件・風俗、文化などを紹介したものである。

この中で、フロイスという人について次のように述べている。

 

フロイスという作家は、見たこと聞いたことをたちどころに文章化できたため、宣教師として必要でないことまで書いてしまった。「君の書き物は冗漫に過ぎる」。さすがの巡察使ヴァリニャーノも呆れて、ヨーロッパでの印刷を拒んだ経緯がある。生涯このフロイスという宣教師は上司のもとでは不人気であったようだ。興味を持ってはならないことに熱中する癖があったからだ。でもこの欠点?が、信長、秀吉の活躍とその素顔を活写して現代の日本人を熱狂させているのではないか。歴史とは皮肉なものである。

 

「日本史」は、日本におけるキリスト教布教史として書かれたものである。しかし、ヨーロッパの後進が日本に赴く際の資料という当初の趣旨を逸脱した、膨大なものになってしまった。

中公文庫で全12巻というボリュームである。フロイスが実際に会った戦国大名を中心に当時の日本の状況を描いているようである。

織田信長豊臣秀吉大友宗麟大村純忠有馬晴信の名前が並んでいる。

次には、フロイスが書いた文章を読みたいので、探してみよう。

 

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お寺があって神社もある

私は、城址城郭や神社仏閣にとても興味がある。

WEB上には、いろいろな情報をデータベースとして利用できるサイトが多くある。

EPWINGという電子辞書形式のファイルを作ることを、熱心にやっていた時期があった。

神社の情報を集めて、「神社辞典」を作ったことがある。

その時に、神社について調べてみた。

日本全国に、神社が10万くらいあることがわかった。調べ方で違ってくるかもしれない。

文部省の調査だと81158となってる。お寺は、77256だそうだ。

神社といっても、誰でも知ってるような香取神宮鹿島神宮のような立派な神社から、小さな建物があるだけの神社まで、いろいろである。

日本では、ある程度の規模の集落があったら、必ず神社がある。

集落のみんなで、管理して運営してるのだ。

 

村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓

 

唱歌の「むらまつり」は、そんな村の神社の光景である。

 

よく、日本人は無宗教とか信仰心がないと言われる。

でも、無宗教で信仰心のない国に、こんなに神社や寺があるはずがない。

宗教や信仰に対しての考え方やあり方が、他の国と違っているのだと思う。

決まりきった考え方で、物事を決めつけたら間違いのもとだ、ということだろう。

 

宗教のことを考えていて、とても気になるのがヨーロッパのことである。

ヨーロッパは、今ではキリスト教国ということになっている。

カトリックプロテスタントの状況が、それぞれの国で違ってはいるだろう。

でも、キリスト教は中東の方から後になってやってきた宗教である。

キリスト教が来る前のヨーロッパを考えてみる。

西ヨーロッパと中央ヨーロッパの大部分は、ケルト人が住んでいたらしいから、ケルト神話の世界だったろう。

そして、ギリシャにはギリシャ神話があり、ローマにはローマ神話があった。

北欧には、北欧神話がある。いや、北欧神話ゲルマン神話に含まれるのか。

いずれも、多神教である。ケルト神話では、300を越える神がいたらしい。

 

そこに、一神教ユダヤ教の流れを汲むキリスト教が入ってくる。

4世紀に、ローマ帝国はミラノ勅令によりキリスト教を公認し、さらにキリスト教を国教とし異教は禁止されることになった。

一神教キリスト教が国教となったのだから、当然それまでの多神教の神話の世界は異教ということになったはずである。

ほんとに、神話の世界はそこでなくなってしまったのだろうか。

なんらかの、折り合いをつけたのだろうか。

そこでいったい、どういうことがおこったのか。

何がかわったのか、それが知りたい。

 

ここで、日本のことを考えるとおんなじような状況になっている。

八百万の神々がいたところに、仏教が入ってくる。

仏教は多神教と言えるだろうから、そこがヨーロッパの場合とは事情が違う。

ところが日本では、神道と仏教の折り合いをつけるために、本地垂迹という考え方をすることにした。

さまざまな仏が、化身として日本に現れた権現が、日本にいる神々である、ということにしたのだ。

神仏習合の考え方により、神社内に神宮寺がつくられるようになった。

これは、明治維新で「神仏判然令」が出るまで、1000年以上続いた。

 

現在のヨーロッパでは、神話がどういうかたちで残っているのだろう。

ローマ帝国キリスト教を国教としたのは、政治的に利用しようとしたのだと思うが、その辺をヨーロッパの人たちは、ほんとのところどう思っているのかは、知りたいところである。

 

 

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ゴルゴ13 さいとうたかを

先日、妻がゴルゴ13の最新巻を借りてきてくれた。

最新刊は、第199巻で2020年12月に刊行されている。

内容は、長編2編が掲載されている。

「オクトパスの疑似餌」脚本協力 横溝邦彦

ニューヨークの大手銀行の自社サーバーに大規模な攻撃を仕掛けた相手の狙撃を依頼される。

「黒白の演出」 脚本協力 氷室勲

アメリカのある都市で市長選挙に絡み地元マフィアのNo.1を狙撃するよう依頼を受けた。

各タイトルには、脚本協力者名が表示されている。

199巻という巻数は、日本では4番目になるという。上位3番までは、碧南一家、超人ロック、タンマ君というのだが、私はどれも名前も知らなかった。

 

ゴルゴ13は、1968年に初回が発表されている。

私が、中学3年生だった年に始まったことになるが、初めて読んだのは就職した20代の頃だと思う。

友人が、ゴルゴ13を全巻持っていたのだ。

その頃は、まだ第50巻くらいだったような気がする。

連載している漫画雑誌を買うようなことはしなかったので、友人から借りて読んだ以降は、自分で新書版を買っていた。

そのうちに、買わずにレンタルですますようになってしまった。

漫画の蔵書は、ゴルゴ13だけではなく全て、かなり以前に処分してしまった。

 

ゴルゴ13は、スナイパー(狙撃手)である。

報酬を条件に、依頼者から狙撃を請け負い実行する。報酬は、原則先払いである。

狙撃の対象は、人間とは限らず、物品あるいは事象の場合もある。

依頼者は、必ずゴルゴ13と直接に会って依頼の内容や事情を話さなければならない。

ゴルゴ13の条件を満たせば、依頼が成立する。

そこには、正義とか善悪という価値判断は、入り込まない。

 

これに対して、私が思い出してしまうのは、テレビでやってた「必殺シリーズ」である。

最初のシリーズは、1972年の「必殺仕掛人」らしいのだが、毎年タイトルが変わっている。

そのあと、仕置人や助け人というのもあって、藤田まことが主役になるのは、1974年からの第4シリーズ「必殺仕置人」からである。

必殺シリーズは、弱者の恨みを晴らすために、裏の仕事を遂行するというものである。

「合法的には裁くことができない悪人に復讐する」という点では、勧善懲悪であるがただの正義の味方ではなく金銭を受け取って仕事をやる殺し屋である。

 そこが、ゴルゴ13とは大きく違うところである。

 

連載が始まってから、50年以上になる。

ゴルゴ13は、どうしてこんなに続いているのだろうか。

ゴルゴ13が活躍する舞台となるのは、地球上のいろいろな国々である。

そして、狙撃の依頼者はさまざまな問題の中にいる。

民族問題もあるし、宗教問題だったり、経済問題だったり、情報問題など、我々の目に入ってくるようなすべてのものがその対象になっている。

国と国だったり、ある国の国内問題もある、会社や組織間のトラブルだったりもする。

今のコロナの問題も、もう少ししたら取り上げられるだろう。

いくらでも、ゴルゴ13が活躍する場所はある。

 

タイトルに脚本担当者名が表示されているように、最も重要な役割だと思われる。

映画を制作するような方法で、作っているらしい。

何人かの脚本担当者が、並行して長時間をかけて物語を作っていく。

さいとうたかをさんは、プロデューサーなのだろう。

作画の担当者も、大人数でやってるようだが、ゴルゴ13の顔だけはさいとうさんが描いていると言ってた。

みんなやりたがらない。微妙に違ってしまうらしい。

 

最新巻を読むと、マスコミなどを通して表面的には知っている問題が取り上げられていることがある。

その問題の核心に、ゴルゴ13は入り込んでいく。

なるほど、そういうことか、と思うことも多い。

ゴルゴ13の行動は、今までの行動から予測できるものがあり、ワンパターンと言えなくもない。

そういう意味では、この作品の魅力はやはりゴルゴ13の目を通して見えることを、読者に提供していること、になるのではないだろうか。

 

 

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日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて①

外国に行って、初めて日本がどういう国かがわかる、というようなことはよく言われる。

日本にいる限りは、それが当たり前なので意識して考えることがない。

私の数少ない海外旅行の経験で、感じたことがある。

家族でカナダのバンクーバーに行った時、ホテル近くのスーパーマーケットに出かけた。

いろんなものが量り売りになっていた。

日本だったら、何種類かの容量でパック詰になってるだろう。

無駄が出ないだろうが、面倒である。

日本もむかしは、こうだったのかも知れない。

後日、他のスーパーにも行ったが、同じ方式だった。

 

日本で暮らしていれば、日々の生活や目に見える風景は当たり前すぎて、それを記録しようとは思わないだろう。

他の国に行って、今までの記憶と違ったものに出会ったときに、これはなんだと思う。

バンクーバーで、町外れの市場に行くことにした。

歩けそうな距離だったので、歩いて行くことにした。

ホテルのあるにぎやかな通りから、500メートルくらい歩いたあたりで、ふと気がついた。

まわりの街並みの雰囲気が、それまでと変わっている。

凄惨というのか、近づいてはいけない感じの雰囲気の一角だった。

とにかく、早く通り過ぎたくて、まわりを見ないように、息を止めるようにして通り過ぎた。

今まで、経験したことのない感覚だった。 

 

 日本とは違った国で育った人が、日本へ来たら自分が暮らしていた国と比べて、いろいろと感じることがあると思う。

それは、日本で生活していたら、当たり前のことである。

だから、日本人はそういうことについて、書いたりはしない。

そんなことを考えていて、図書館で日本旅行記、訪問記、滞在記の類いを探していた。

なかなか見つからなかったが、我孫子市立図書館で4冊借りてきた。

明治後期に来日したイギリスの写真家ポンティング、そして幕末期にフランス海軍士官として来日したスエンソンの著作である。

あと2冊は、戦国時代にキリスト教伝導のために来日した宣教師のスペイン人ザビエルとポルトガルフロイスである。

戦国時代よりもっと古いのって、あるのかなと考えてみた。

室町時代から江戸時代にかけて朝鮮が派遣した「朝鮮通信使」というのが何回かあって、記録も残っているらしい。

もっと古いものを考えてみた。

 

魏志倭人伝」があるじゃないか。

邪馬台国だとか卑弥呼とかで話題になる「魏志倭人伝」。

魏志倭人伝」は、正確には、三国志の魏書中の東夷伝倭人条であるらしい。

中国では、それぞれの王朝が正史といわれる歴史書を編纂している。その王朝が終わってから作るのだろうから、次の王朝が編纂するのかな。

だから、それぞれの歴史書倭国や日本についての記事が残っている。

 

魏志倭人伝から、風俗などの文章を抜き出してみる。

魏は、220年から265年に存続していた国なので、その頃の倭国についての記述ということになる。

 

其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
「その会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。」


見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年
「大人を見て敬する所は、ただ搏手し、以って跪拝に当てる。その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。」


其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差序足相臣服
「その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは、二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すに、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸、宗族を没す。尊卑は各差序有りて、相臣服するに足る。」

 

酒を好むとあるのだが、この頃の酒は何から作っていたのだろう。どのような酒だったのか、興味深いところである。

長生きで、100歳もあるということだけど、ほんとだろうか。平均寿命は、どれぐらいだったのだろう。

 

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見るスポーツとやるスポーツ

私が子どもの頃、テレビで中継してるスポーツといったら、大相撲とプロ野球だった。

大相撲は、今ではNHKだけで放送しているが、その頃は民法でも放送していた。

大人たちは、取組の勝敗を予想するよう投票のようなことをやっていたと思う。

大相撲は、家族みんなで楽しむものだった。

村の神社には、奉納相撲?用の土俵があって、お祭りの時に相撲大会をやってた記憶がある。

学校に相撲部はなかったが、町内の相撲大会はあって選抜メンバーで参加していたようだ。

 

現在は、プロスポーツはいろいろある。

サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール。

ゴルフ、卓球もあるし、フィギュアスケートなどウインタースポーツもある。

どれがプロで、どれがアマチュアなのか、もうよくわからない。

マチュアでも、スポーツを続けるには資金が必要である。

かつては、オリンピックはアマチュアスポーツの祭典と言ってた気がするが、サッカーあり、野球あり、ゴルフあり、プロ選手ばっかりである。

マチュアスポーツの祭典は、どこへ行ってしまったのだろうか。

 

私が子どもの頃は、野球が唯一と言っていいスポーツだった。

しかし、高校へ行ったら、いろんなクラブ活動があった。

新聞部に入ったのだが、窓の外はウエイトリフティング部の練習場だった。

出入りのドアの前は、吹奏楽部の練習場で、毎日すばらしい演奏が大音量で響きわたっていた。

夏になって、全県総合体育大会があるので、新聞部は取材のために遠征した。

私は、テニスと剣道の担当になった。

どちらも、ほとんど見たことがなく、ルールも知らなかった。

テニスのポイントの数え方がわからない。

剣道なんて、何がどうなったのか、見ててもわからない。

近くにいた人に、教えてもらった。

 

われわれの世代なら、誰でもキャッチボールや草野球はやったことがあったと思う。

二十代の頃に、少年野球の指導している人が言ってるのを聞いた。

もう、野球部だけに運動神経のいいのが集まってくるわけじゃない。

サッカー、バレーボール、バスケットボールに散らばってしまう。

田舎はともかく、もう野球が特別なスポーツではなくなっていた。

いろいろある中の、一つのスポーツでしかなかった。

時代は、多様性の時代になっていた。

それが、40年以上昔のことである。

 

ところが、社会はその変化について行ってなかった。

テレビ局は、どこも野球中継だけをやっていた。

私は、グローブとボールを持っていて、我が子たちとキャッチボールくらいはやったことがある。

でも、草野球を友だちとやったことはないと思う。

今の子どもたちに聞いたら、野球チームに入ってるような子以外は、野球をやったことがないのじゃないかな。

たしかに、私は野球部に4年間在籍していたので、野球に対しては愛着はある。

でも、マスコミが今だに野球を特別扱いしていることには、すごく違和感がある。

 

高校野球に対する扱いは、やりすぎだと思う。

高校生がやっているのは、野球だけじゃない。

マイナーなものが、いろいろある。

もう少し、バランス感覚があっていいと思う。

 

 

どうして英語が話せないのか

どうして英語が苦手なのだろうか。

私を含めて、日本人全体についても同じことだろう。

自分のことを考えてみても、中学校で3年間、高校で3年間、英語を学んでいる。

大学でも、英語は必修単位になってたと思うので、いくつかの科目をやっているはずである。

合計すると8年くらいになる。それなのに、日常会話もろくにできない。

学校の授業だけで、英語がペラペラというのは聞いたことがない。

私の世代などは教科書主体の授業で、会話形式などはやったこともない。

テープを使ったヒアリングも、やっていない。

もっと、下の世代だったら、また少し違ってくるだろう。

そんなものでも、受験科目を英語でやってなんとかなった。

話すことはできないが、英語の文章ならなんとか意味はわかる。

英語の歌が好きで、よく聴いていた。聴いただけでは、歌詞は聞きとれないところが多い。

歌詞が印刷してあれば、意味はわかる。それが、現実である。

 

よく言われるのは、日本では英語を使う必要がないから、上達しない。

日本で生活する限り、英語を使わなければならないという機会は、ほとんどない。

職業によっては、英語が必須という職場はあるだろう。

観光立国政策によって外国人観光客が増えているので、そのような機会は増えてくるだろう。

仕事上、英語を必要とする人も多くなると思う。

2回ほど、海外旅行に行ったことがある。

地元の市場などに行ったのは、楽しい思い出である。

もう少し、英語が話せたらもっと楽しめただろうと、思ったものだった。

 

どこで得た知識だったか、忘れてしまったのだが、高等教育において日本人が英語を必要としないのが、理由の一つではないかという説があった。

日本では、ほとんどの専門書が日本語に翻訳されているので、大学や専門学校においても英語を必要としない、というのである。

自国語に翻訳した専門書が刊行されていない国では、英語の専門書で勉強しなければならない。

アジアの日本以外の国は、自国語の専門書が少ないので英語で学んでいる、というのだ。

たしかに日本は、出版大国でもあるかも知れない。日本語の書籍を輸出するとは思えないので、日本国内の需要でまかなえるのだろう。

内需の国」というけれど、こんなところにも現れているのだろうな。

でも、これはほんの小さな理由だろう。

 

世界で自国語として最も使われている言語は、中国語だと思う中国だけで14億人の人口だそうだ。

次に使われているのは、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどで使われている英語だと思うが、どれくらいの人口になるのだろう。

しかも、英語を公用語としているインドの人口は13億人を越える。インドには、400を越える方言があるという。

他にも、公用語ではなくても、英語が話せる人々は世界中にいっぱいいる。

ヨーロッパは、地続きなのでフランス語やドイツ語は、フランスやドイツの国以外にも公用語になっている国があり、それを日常語にしている地域があるそうだ。

一つの国の中に複数の公用語があるような国では、英語の存在は貴重なものなのだろうか。

 

結局、英語を使わざるを得ない状況になれば、話せるようになる。

その選択肢しかなければ、選ばざるを得ないってことかな。

 

 

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落語と歌舞伎

菅江真澄は、宝暦4年(1754年)に三河国で生まれ、文政12年(1829年)に出羽国角館で亡くなった。

天明8年、郷里を離れ信濃を経て、出羽、陸奥蝦夷と北国への旅に出た。

信濃においての著作「いなのなかみち」の本文は、次のようにはじまる。

 

このひのもとにありとある、いそのかみふるきかんみやしろををがみめぐり、ぬさたいまつらばやと、あめの光よもにあきらけき御世の、おほんめぐみあまねくみつといふとし、長閑き春もきさらぎの末つかた、たびごろもおもひたち父母にわかれて、春雨のふる里を袖ぬれていで、玉匣ふたむら山をよそに三河路を離て、雨にきる三野のなかやまをかなたに、みすずかる科埜の国に入つるまでの日記は、しら波にうちとられたればすべなし。

 

菅江真澄の文章は、擬古文という文体で、書かれている。

擬古文というのは、江戸時代の国学者が積極的に用いいた文体で、平安時代の文体(中古日本語)をまねた文体である。

なので、感覚としては源氏物語や更科日記を読んでるような感じである。

ことばや言いまわしが、少しわかりにくいところがあり、何度も読み返してしまう。

 

松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に伊賀国で生まれ、元禄7年(1694年)に旅行先の大阪で亡くなっている。

元禄2年(1689年)、崇拝する西行の500回忌の年に江戸を立ち、東北から北陸を経て、美濃国大垣までの旅を紀行文「奥の細道」として残した。

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。

 

松尾芭蕉の文章も擬古文ということになるのだろうか。

菅江真澄の文章と比べると男性的な印象である。

漢文の読み下し文のようである。

これは、どのような違いから生まれたものだろうか。 

 

擬古文という言葉は、明治初期の小説家たちが江戸時代の井原西鶴に代表される浮世草子をまねた作風にも使われれるようだ。

尾崎紅葉幸田露伴樋口一葉などがその代表らしい。

そういえば、樋口一葉の「たけくらべ」を読んだときに、なんてわかりにくい文章なんだろうと思った記憶がある。

つまり、江戸時代の文章を真似して描いていたのだから、ふだん自分たちが使っていることばではなかったということなのか。

それで、有名な二葉亭四迷の言文一致運動になるのか。

ということは、書き言葉と話し言葉が必ずしも同じではなかったということだろう。

「だ」とか「ます」とか「です」という言い方は、このころから一般化したらしい。

 

歌舞伎というものを、数回だけだが見たことがある。

見る前は、歌舞伎は日本を代表する伝統的な舞台芸術みたいに言われているし、敷居の高いものだ、というイメージがあった。

きっと「能」とか「狂言」などのイメージと重なっていたのだと思う。

実際に見た歌舞伎は、まったく違和感のないわかりやすいものだった。

考えてみたら、歌舞伎は江戸時代の流行りの大衆芸能で、普通の町人相手の人気商売なのだからわかりやすくなければならないものだったろう。

今のアイドルみたいなものでも、あったのだろう。

歌舞伎の世界が今でも、時代の先端を行くようなものに挑戦しようという試みをやったりしてるというのは、本来の歌舞伎のあり用を自覚してるからかなという気がする。

あまり高尚になるものじゃないと言うことだ。

 

落語好きの友人がいて、落語を聞きに出かけていた頃があった。

落語は、古典落語といわれる古いものでも、普通に聞くことができる。

落語は、聞いてる人に話しかけるような話術なのだから、当然話し言葉である。

古典落語というのは、聞いて覚えて受け継がれるのだろうから、かなり江戸時代のものがそのまま残っているだろう。

江戸時代の話し言葉と現代の話し言葉は、どれくらい違うものだろう。

3代目三遊亭圓朝という幕末から明治への転換期に活躍した落語家がいる。

青空文庫に「文七元結」という噺があったので、載せてみる。

 

 さてお短いもので、文七元結の由来という、ちとお古い処のお話を申上げますが、只今と徳川家時分とは余程様子の違いました事で、昔は遊び人というものがございましたが、只遊んで暮して居ります。よく遊んで喰って往かれたものでございます。何うして遊んでて暮しがついたものかというと、天下御禁制の事を致しました。只今ではお厳しい事でございまして、中々隠れて致す事も出来んほどお厳しいかと思いますと、麗々と看板を掛けまして、何か火入れの賽がぶら下って、花牌が並んで出ています、これを買って店先で公然に致しておりましても、楽みを妨げる訳はないから、少しもお咎めはない事で、隠れて致し、金を賭けて大きな事をなさり、金は沢山あるが退屈で仕方がない、負けても勝っても何うでも宜いと、退屈しのぎにあれをして遊んで暮そうという身分のお方には宜しゅうございますが、其の日暮しの者で、自分が働きに出なければ、喰う事が出来ないような者がやりますと、自然商売が疎になります。

 

落語を聞いているように読むことができる。なんの違和感も、わかりにくいところもない。

これはたぶん、明治初期の文章であるが、江戸時代もそんなに違いはないのではないだろうか。

話し言葉は、そんなに大きく変わるものではないと言えるのかもしれない。

こうやってみてみると、町民たちは普段話してる言葉で文章も書いたり読んだりしていたが、教養のある人たちは、擬古文という普段は話したりしないことばで書いていたのだと思う。

面倒くさいことを、やっていたのだ。

しかも、国文学系の人たちが擬古文を使っていて、儒教などの漢文を教養の中心にしていたような人たちは漢文読み下しの文章を書いていたのかな。

現在は、だいたい書き言葉と話し言葉はおんなじようになってると思う。でも、まったく同じって訳ではないかな。

 

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花粉症とアレルギー

花粉症の季節がやってきた。

今年5歳になる孫娘に、花粉症の症状が出たので検査したら、いくつかのアレルゲンが見つかったと、先日来たときに言っていた。

まだ小さいのに、悩ましいことだ。

悪化しないければ、いいのだが。

 

我が家も、私以外の家族は花粉症の症状に苦しんでいる。

秋田県で秋田杉に囲まれて育った私は、なぜか症状はない。

ただ、年をとるにつれて、香辛料に対する反応がひどくなっている。

特に胡椒系にはとても大きなくしゃみが出るが、この香辛料過敏症がアレルギーから来るものかはわからない。

食事中にくしゃみが出るたびに、家族の冷たい視線を感じ、食卓を離れる。

ちょっと目がかゆいかなぐらいは感じることがあるが、自分が花粉症であるかは微妙である。

そこまで、困るような症状はない。

私には姉が2人いるが、下の姉がウルシに弱かった。

子どもの頃のことだが、ウルシの木にさわらなくて、木に近づくだけでウルシにかぶれた。皮膚が広い範囲でただれていた。アレルギー体質だったのだと思う。

自宅の近くの道路のそばに、ウルシの木があったのだ。

私も、上の姉も、木に触っても大丈夫だったし、父や母も、アレルギーではなかったと思う。

 

妻は、子どもの頃からアレルギー体質だったらしく、皮膚が弱い。

虫刺されもなかなか癒らず、跡が残ってしまう。

その体質は、3人の息子たちも受け継いでいる。

孫娘の父親である長男は、3歳の時に気管支喘息で入院した。

気管支喘息は、気管支炎が悪化して気管支が狭くなってしまい呼吸が難しくなる。

診察に行った近くの病院で、血液中の酸素量がとても低下していてここでは対処できない、と言われ、市内の救急病院になっている大学病院に送られたのである。

付き添いができない救急病院に、親から離れて1週間の入院は、かわいそうだった。

まだ幼い息子はもちろん、親の私たちも心が対応ができなかった。

私は、仕事帰りに病室に寄っていた。

その時に、気管支喘息について勉強した。

そして、アレルギーの三大症状が気管支喘息アトピー皮膚炎と花粉症であることを知った。

気管支喘息は、夜中に症状が悪化するので、しばらくは、病院の救急病棟に何度通ったことだろうか。病院の正面玄関よりも、裏の救急の入り口から入ったことの方が多かった。

何年かして、スイミングクラブに通うようになって、呼吸器が発達したのか、症状がなくなった。

 

アレルギーは、 外来の異物(抗原)を排除するために働く、生命にとって不可欠な生理作用である免疫反応が、特定の抗原に対して過剰に反応するものであり、自らにとって有害な反応になってしまったものである。

花粉症の抗原が、スギ花粉をはじめとした植物の花粉であるのは確かにしても、これほどまでに多くの発症者が生ずる原因については、ハッキリしていないようだ。

抗原であるスギ花粉が大量に飛びかっているはずの地域で、かならずしも花粉症の発症者が特に多いわけではなく、むしろ都市に移住して年数が経過すると症状が現れると言われる。

このような状況を考えると、自動車排気ガスなどによる大気汚染によって、体になんらかの物質が蓄積されるのではないかとも考えられる。

もともと持っていた遺伝的な体質との関係はどうなのかとか、考えているとどうもむづかしい問題になってしまう。

 

 

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