晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

お墓参りに行ってきた

雨上がりの空は、朝から青空で気持ちよかった。

前日は、一日中大雨で、近隣の街では至るところ浸水したらしい。

お彼岸には、まだ早いがお墓参りに行くことにした。

当日だと渋滞で大変なことになるので、早めにいくことにしている。

考えることはみんなおんなじで、霊園はかなり混んでいた。

 

墓参りは、白井市にある松戸市営の白井聖地公園と船橋市にある船橋市営の馬込霊園である。

白井の方が私の両親の墓、馬込の方が妻の父の墓である。

どちらも、まわりを緑の山や林に囲まれて、ひろびろして気持ちのいいところだ。

末っ子の三男が生まれた頃に、私の父と妻の父が相次いで亡くなったので、子どもたちが小さい頃はよく墓参りに行っていた。

車でいくと、どちらも40分くらいだが、いつもぐるっと二か所をまわっていた。

当時、私は柏市民だったが、柏市は市営の霊園を持っていなかったので、姉の住んでいた松戸市の霊園にしたのだ。

 

自宅から車で20分くらいのところに、八柱霊園という広大な霊園がある。

八柱霊園は、東京都営で東京ドーム20個分という広さである。

昭和10年に開設されていて、妻の伯父さん夫婦は板橋からはるばる墓参りにみえていた。

庭園などもあり、これだけのものを昭和10年という時期に計画したということがすばらしいと思う。

都営の霊園で最も広いのは、多摩霊園で大正12年に開設されていて、東京ドーム27個分の広さだそうだ。

都営の霊園としては他に、青山霊園雑司ヶ谷霊園、染井霊園、谷中霊園、小平霊園がある。

 

私は、田舎で育っているので、お墓がとても気になってしまう。

村の中で、お墓がどういう場所にあるのか。

私の育った村では、集落から50mほどは離れた川に近い高台にあった。

近隣の村では、もっと集落に近いところにお墓があったような気がするので、それぞれの村によって違ってたんだろう。

旅行でいろんなところに行くようになったら、村を見下ろす丘の斜面にお墓があるようなところがあった。

村を見守ってほしい、ということなんだろうな。

 

考えてみたら、春のお彼岸の頃は秋田ではまだ雪が残っていたと思う。

春のお彼岸に食べるのがぼた餅で、秋のお彼岸がおはぎと言うらしいのだが、地域によってご飯やあずきの処理がいろいろ違ったりして、それによって呼び方も変わるらしい。

でも、我が家で母親がよく作ってたのは、ぼた餅ではなかった。

お米の粉(上新粉かな?)をこねてお餅にする、それをお湯にとおす。

お米の粉でも、白玉粉というのは、手間がかかっていて高価なものらしい。

和菓子とか作るのに使うんだろう。

そして、あんこにからめる。

これは、なんと言うのだろう。あんころ餅かな?

小豆を茹でて、ザラメを入れてあんこを作っていた。

白い砂糖ではなくて、ザラメだったけど、これも、安かったのだろう。

ちょっとだけ、塩を入れるんだよね。

そうやって作ってるのを、見るのが好きだった。

そのせいか、今でもあんこが好きだ。つぶあんがいい。

あんこが苦手だという人がいるが、不思議だな。

こんなに、うまいのに。

 

 

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花が咲く防災公園を歩く

買い物の帰りに、防災公園を歩いた。

前回来た時は、咲いてるのは菜の花くらいだったが、今はいろいろ咲いていた。

平日なので、人出はあまりなかったが、高校生のグループが何組かいた。

もう、高校は卒業式は終わってるのか。

 

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菜の花

菜の花は、まだ咲いていた。

 

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ユキヤナギ

ユキヤナギは、バラ科シモツケ属の落葉低木だが、日本原産らしい。

公園の外側を、ぐるっと歩いてみた。

 

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プリンセスミヤビ

プリンセスミヤビは、 さいたま市で発見された桜で、大島系山桜と緋寒桜との自然交雑種と推定されている。

 

 

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ヤブツバキは、学名、英名ともに、Camellia  Japonica(カメリアジャポニカ)だそうなので、日本原産なのかな。

まだ咲き始めで、つぼみがいっぱいついていた。

 

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ハクモクレン

ハクモクレンは、モクレンの仲間だが白い花をつける。モクレンの花は紫色である。

10mから15mの大木に成長する。

 

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サンシュユ

サンシュユは、中国原産のミズキ科の落葉小高木で、日本名の別名は、ハルコガネハナ(春黄金花)である。早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつける。

 

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スイセン

スイセンは、ヒガンバナ科スイセン属の植物で、色や形の異なる種類が多い。

漢名は水仙で、仙人のように寿命が長く、清らかであることから名付けられたということである。

学名は、narcissusで、ナルシストの語源になっている。

 

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ヒカンザクラ

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ヒカンザクラは、正式にはカンヒザクラ(寒緋桜)らしい。

花は、中輪の一重咲きで、釣り鐘状の下向きに半開きの形で濃い紅紫色の花弁をつけるのが特徴だそうだ。

確かに、下向きで半開きである。おもしろい。

 

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ハナモモ

ハナモモは、バラ科の落葉小高木である。

観賞用品種で果実はつきにくく、食用にならない。

 

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カワヅザクラ

カワヅザクラは、寒緋桜と山桜を親とする野生品種である。

寒緋桜由来の紅紫色の花弁と、早咲きが特徴で東京付近では2月から3月上旬に開花する。

 

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エドヒガン

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エドヒガンは、日本に自生するサクラ属の基本野生種の一つである。

春の彼岸ごろに花を咲かせることからヒガンザクラ(彼岸桜)、葉より先に花を咲かせることからウバザクラ(姥桜)とも呼ばれる。つまり、葉(歯)が無いという、言葉遊びである。

成長遅いが、サクラの中では最も長寿であり、巨樹に育ちやすい。樹齢2000年超の神代桜や、樹齢1500年超の薄墨桜の例がある。

 

一周したので、もう一度菜の花です。

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ナノハナ

 

花のことは、あまり詳しくないので、調べながら整理してみました。

なかなか、おもしろかった。

 

 

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人として Super Beaver

YouTubeのリアクション動画というのを見ていた。

Super Beaverという人が、「人として」という曲を歌っていた。

Super Beaverは、まったく知らなかった。

THE FIRST TAKEという動画で、バックはピアノとヴァイオリンとチェロである。

ほんとに、おどろいてしまった。

今どき、こんな歌をつくって、歌う人がいるんだ。

かつて、三上寛友川かずきをきいた時のような、おどろきだった。

でも、彼らよりもっとストレートだなと思った。

 

自分の感情とか思いを表現しようとしたら、何か工夫をする。

いろんな会話や物語に託したり、オブラートに包んだりする。

あまりにも裸のままだと、恥ずかしい。

だから、ことばをそのままでは使わない。

ここまで直球のままで、勝負しているのは見たことがない。

 

「人は騙す 人は隠す 人はそれでも それでも笑える
人は逃げる 人は責める 人はそれでも それでも笑える」

 

こんな歌詞は、初めて見た。

すげえ、と思った。

この曲は、今テレビドラマの主題歌になってるらしい。

この曲を主題歌に選んだ人も、すごいと思う。

このグループ?の曲は、他には聴いたことがない。

でも、キャリアはかなり長いらしい。

こういうスタイルでやってきたのなら、やっぱりすごい。

 

「馬鹿だねって言われたって
カッコ悪い人にはなりたくないじゃないか
人として 人として かっこよく生きていたいじゃないか」

 

なかなか、口にはできないことばである。

口にしようとしたら、ストッパーがかかりそうだ。

うまく思いが、伝わるように思えない。

 

YouTubeのリアクション動画のおかげで、今まで知らなかった音楽に出会っている。

最近欠かさずに見るリアクション動画が、いくつかある。

男女のカップルのもので、4組ほどある。

なぜか、白人系の男性とアジア系の女性である。なぜだろうか。

男性はデンマーク2人、ドイツ、カナダ。

女性は、1人はタイ系なのは分かったが、他の3人はわからない。たぶん、日系ではないと思う。

英語を使っているが、国はいろいろである。

どうも、リアクションのリクエストをしている人がいるらしく、同じアーティストが短期のうちに重複したりする。

アイナ・ジ・エンドという女の子の「オーケストラ」という曲も、これで初めて聴いた。

なんだこれは、と思った。こういうのも、ありなんだ。

LiSAさんの「HOMURA」もこれで聴いた。

すごい、と思った。久しぶりに、ゾクっとした。

 

テレビの音楽番組や情報番組を見てないので知らないことが多いのだ。

外国の方に、日本の音楽を教えられてるようなものだな。

いずれも、THE FIRST TAKEという動画のシリーズである。

画面に、マイクと歌手だけがいて、横顔を撮影している。

いたってシンプルなつくりである。

今の時代に、あっている気がする。

 

  

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ゲームは苦手だな

世の中は、デジタル、デジタルと言われて久しい。

でも、日本ではデジタル一辺倒にならず、それまでのアナログも残している。

たとえば、スマホの時代になっても、ガラケーも少ないながらずっと作っている。

妻のように、スマホの必要性を感じない人は、それまでのものを使い続けることができる。

昨年になって、やっとスマホに変えた。

これは、日本のバランス感覚というのかな、良いところだと私は思う。

たしかに、効率的、経済的ではないかもしれないけれど、準備ができないうちは無理やり淘汰しない。

そういう感覚は、日本のいろいろなものに、反映されている。

物事には、表もあって裏もある。多角的に見れば、いろんな見方ができる。

簡単に、これがいいあれはだめとやってしまうと、間違いのもとだ。

日本に古いものが、たくさん残っているのは、それと無関係ではないと思う。

 

よく、日本の会社などのFAXが、世界から笑われている。

たしかに、メールができるのだから、それで済むのではないか。

なぜ、今どきわざわざ紙にプリントする必要があるのか。

でも、PCをどこでも持って行けるわけではない。

デスプレィの表示をどこでもみんなで確認できるか。

条件が満たされれば、FAXは無くなるだろう。

これも、バランス感覚だと思う。

私が、退職する数年前から、職場の会議がペーパーレスになった。

プリントした会議資料を用意せず、サーバーに置いてあるファイルを参加者がPCで読み込む。

会議資料をプリントして製本する必要がなくなった。

ずいぶん以前に、全員にPCは配布されていたのだから、すでに条件はできていたのだ。

切り替えるのは、遅かったかもしれない。

 

我が家では、みんなが集まるとカードゲームをよくやる。

アナログなカードゲームが、今はかなり人気らしい。

長男夫婦が大好きで、いろんなゲームを持ってくる。

見たところ、カードゲームはほとんどが外国製で、ヨーロッパ製が多いようである。

内容は、多様なもののようだ。

というのは、ゲームに私は参加しない。

私は、ゲームが苦手なのだ。

ゲームそのものが嫌いではなく、何時間もゲームを続けることが苦手である。

 

どうしてゲームが苦手か、考えてみた。

就職して、職場で新人だった頃、仕事終わりに麻雀に誘われた。

麻雀は、やったことがなかった。

何回か、参加してルールも覚えた。

麻雀自体は、嫌いではないのだが、繰返しやることが苦痛なのだ。

3回くらいやってると、もう面倒くさくなる。

これは、俺には向いてないと思った。

誘われても敬遠してるうちに、誘われなくなった。

友人は、徹夜麻雀などをやってた。

私には、どうしてあうゆうことを繰り返し繰り返しできるのかが信じられなかった。

 

時代は、「酒、タバコ、麻雀」だった。これに「パチンコ」もはいるかな。

これは、サラリーマンのたしなみ?

不思議なのは、この中でタバコは勤務中でも大丈夫だったんだな。

時代とともに、勤務中は不可になり、さらに敷地内不可なんてことになった。

私は、タバコは吸わない人なので他人事だったけど、吸う人にとってはかなり深刻だった気がする。

仕事帰りに、パチンコ誘われて、けっこう行った。

でも、やっぱり自分には向いてないと思った。

パチンコ屋ってむかしは、駅前とか繁華街にあるイメージだったけど、最近は郊外で広大な駐車場のある店が多くなっている。

ちょっと寄っていくか、ではなくて、やるために出かけて来るのだ。

どうしてこんなに多くの人が集まるのだろう。

そこで使う金があったら、ほかに使い道があるのではないだろうか。

私には、理解できない世界である。

やっぱり、好きなのかな。

それは、もうしょうがないか。

世の中、そんなもんだな。

 

 

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地震と津波の記憶について

3月11日が近くなって、テレビは東日本大地震に関する番組を毎日放送していた。

この東日本大地震が起こる前の状況を考えると、1995年に「神戸・淡路大震災」(兵庫県南部地震)があったこともあり、関東大震災の再来を恐れるような雰囲気だった気がする。

神戸・淡路大震災は、震度7で死者6000人を越える戦後最大の自然災害であり、まだ記憶に新しかった。

首都圏の低地を、津波が河川の堤防を越えたら広大な範囲が浸水してしまうということも言われていた記憶がある。

しかし、地震に伴う火災などの方が大きい問題とされていたような気がする。

 

私の記憶をさかのぼってみると、中学校の時の教科書に載っていたチリ地震による津波三陸に大きな被害を与えたというのが強く印象に残っている。そして、田老町という地名が教科書に載っていたことをよく覚えている。

田老町というのが、被害の大きな地域だったと思っていた。

でも、調べてみたら違っていた。

チリ地震は、1960年(昭和35年)に、地球の裏側のチリで起こったマグニチュード9.5という東日本大地震をはるかに越える世界の記録史上最高の地震である。

三陸海岸には、6.1mの津波が押し寄せたそうだ。

田老町は、過去の津波による被害を教訓にして、10mの防潮堤を築いていたので被害がまったくなかった、というのが教科書の記載だったらしい。人間の、子どもの記憶はあてにならない。

田老町は、明治29年の明治三陸地震による14.6mの津波で、1959人が死亡している。

さらに、昭和8年昭和三陸地震よる津波では、911人が亡くなっている。

田老町以外では、十分にこれらの津波の教訓が生かせてなかったことになる。

チリ地震による津波では、岩手県宮城県などで、合計142名が亡くなっている。

 

昭和58年(1983年)に、秋田沖地震による津波があった。

正式には、日本海中部地震で震度5だったが、青森県秋田県山形県で10mを越える津波があった。

この津波による死者は、秋田県で79人、合計100人だった。

私にとってはこの津波はとても強く印象に残っている。

秋田県の死者79人の内、13人が遠足中の小学生だった。しかも、わたしが育った北秋田郡という同じ地域にある合川町というところの学校だった。

私の育った町は、青森との県境をなす白神山地にあり米代川の北岸にあったが、、合川町米代川の南岸に位置している。

海から遠く離れた所の子どもたちが、遠足で来た男鹿半島の海岸で津波に襲われたのである。

 

神戸・淡路大震災の1年半前の平成5年(1993年)に、北海道南西沖地震が起きている。

この地震は、奥尻島で震度6と推定されている。地震計が設置されていなかったので、推定である。

地震によって崖崩れが発生して建物が倒壊し、死者が出た。さらに、10m近い津波が海岸に近い街を襲い、合計200人以上の死者が出た。

 

このように、戦後だけでも津波をともなう地震を何度も日本は経験している。

さらにさかのぼれば、日本列島は東日本大震災級の津波に何回も襲われており、内陸何キロまで津波が到達したというような記録や石碑が残っている。

江戸時代に幕府が整備した宿場があった場所はこの津波の被害がなかったという研究結果もあることなどを考えると、原子力発電所などの建設において、津波に対する警戒が後退していたと言えるかもしれない。

30mや40mの津波の記録が残っており、10m程度の防潮堤は完璧なものでなく、避難が必須と言えるだろう。

 

しかし、戦後の地震に比べて、ケタ違いに被害の大きかった直下型の神戸・淡路大地震の衝撃によって、津波に対する警戒は薄れてしまったのかも知れない。

日本のような四方を海で囲まれた島国にとって、海面の上昇は重大なことである。

海面の上昇をシュミレーションできるサイトを見つけた。

グーグルマップの関連サイトらしい。

地球温暖化で、南極の氷が溶けたらどうなるか。

南極の氷が全部溶けると、それまで氷の重さで沈んでいた南極大陸が浮かんでくる。

その結果、海面は60mくらい上昇することになるらしい。

ほんとに、たいへんなことである。

flood.firetree.net

 

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海面が13m上昇した場合 津波による浸水と置き換えられるかな

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海面が60m上昇した場合 

 

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中高一貫教育校と小中学校併設校

平成28年から、私の住む柏市内で最も古い県立高校が中高一貫教育校になった。同じ敷地内に中学校があるので、併設型中高一貫教育校ということになるらしい。

併設型ではなく、連携型中高一貫教育校というのもあるらしい。

生徒募集を高校で行わなければ完全中高一貫教育校ということになる。

考えてみれば、これは私立の中学校と高等学校は昔からやっていたことではないだろうか。

問題は、義務教育が中学校までということだろうか。

 

なぜこんなことを書いているかというと、そろそろ卒業式の時期だなと考えていて、自分が小中学校併設校で、小学校と中学校の生活を送ったことを思い出したからである。

一つの敷地の中に、一つの校舎があって、それを小学校と中学校で使っていた。

職員室も一つで、小学校の先生と中学校の先生がいて、教頭先生と校長先生は小中学校兼任だった。

ウィキペディアの記事では、次のようになっている。

 

児童・生徒数の少ない過疎地などの学校では学級数も少なく、嘗てから小学校及び中学校で校舎、体育館、敷地等を共用する小中併設校が存在し、行事なども小・中学校合同で実施したり、校長も兼任する場合もみられた。

 

これは、あくまでも地域の人口の問題や財政上の理由で行われたもので、最近言われてるような、小中学校の連携や、小中学校の一貫教育とは関係のないものだったと思う。

 「人口の問題や財政上の理由」があるような町や村がどれぐらいあったのだろうか。ウィキペディアの記事では、過去形にはなっていなかったので今でも存在しているのかもしれない。

日本は、国土のかなりの部分を山地が占めている。そして、海で囲まれていて、小さな島や半島も多い。

街中で育ったような人には、小学校と中学校がいっしょになった学校があるなんて想像できないかもしれない。

私の育った町では、記憶によれば小学校が6校で、中学校は4校だった。でも、小中併設校は、私の学校だけだったと思う。

同じ町の人でも、併設校の存在を知らない人が多かったんじゃないかな。

 

私が中学3年生になった年に、町内の中学校4校が統合されて、町内に中学校は1校だけになった。

でもそれは、名目だけで4つの校舎になっただけで、実態はそのままだった。

 運動会と卒業式を一緒にやったぐらいである。

ほとんどともに過ごすこともなく、第1期卒業生となった。

その後、小学校も岩瀬川下流にある小学校と統合された。

廃校となった跡地は公民館になっているらしいが、行ったことがない。

 

妻は、東京で生まれ、育っている。

1学年10学級くらいある学校に通っていたのだろう。

私の育った環境を理解してもらうのは、むずかしい。

1学年1学級という小さな学校で、小学校と中学校が併設されて、そんなに小さい学校なのに、もっと小さい分校を持っていた。

なんと、保育園から10年間同じ顔ぶれで育ってるのだ。

町内に、高校はなかったので、だいたい隣町にある高校に通った。

高校受験の時は、朝自宅から出発したら試験に間に合わないので、前日に町の旅館に泊まっていた。いや、なんとか間に合ったかも知れないが、大雪でも降ったら行けなくなる、ということだったのかも。

先生が引率して、修学旅行みたいだったな。

 

日本全国には、きっとこんな所がいっぱいあったんだと思う。

私が、郷里を離れて50年になる。

交通網や通信網の発達で、日本はかなり同質化したと思う。

それでも、町で育った人間の想像を越えたようなものが、全国にはまだまだあるだろう。

日本は、広いのだ。

 

 

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わかこゝろ⑤ 菅江真澄テキスト

十六日 つとめて神宮寺といふ寺にまうづ。
このみてらのふみにいはく、彦火々出見尊の妹姫、おはんこゝろ世にさかなうおましまししかば、此かぶり山に捨られ奉りしより、山は姨捨の名におへりとか。
此こと、いづれのふみにかありけん、
 
「わが心つきはてぬとや庵さす姨捨山の入相の空」
 
と、慈鎮大とこのよみ給ひしも、此ふる寺などのことにやあらんか。
善光寺にまうでんとて、そのすぢをわくる。
行ずりの、うちつけにものかたらふは雛川清歳とて、もゝふねのはつる、つしまのくにより来ける、よベ見し人なり。
をさなきより朝鮮に渡り、ことさやぐことの葉をまねび、ことかよふをわざとせりけれど、身に、いさゝかあやまりおかして、かくさすらへありく。
路の辺に休らひ、諺文して、なにくれと、ことやうにかいなし、その国のこと葉もて、かれはかく、これはかくぞいふめるなど、ときかたらひてけるに、浅茅山の梢しぐれん色も、うへかたのやしほにそむるも、名も竹敷の浦間のもみぢ、われ行て見まほし、いかになどこととひかはして、
 
   たかしきの浦の栬葉よる波にちらすなゆめとたちや出けん
 
とてやれば、此きよとし、越のくににまかるとて、わかれたり。
飯形やまといふ村をへて、塩崎といふやかたに、よねたはらおふ男あまた身にあせしてゆきかふに、弓のごとくおし曲たる篠を、国の名にはへいちことて、うしにつかねつけて行は、戸隠山よりとり来れるさゝ竹なれば、太雪にふして、かくなんまがれりとか。
此うしひきも、よねおひ集ひたる子らも、あないきぐるし、水ひとつとて、やの門にこひのみぬ。
 
   余所めさへみつるはくるししはさきやからきうき世を渡る里の子
 
こたびの雨に水いやたかくあふれて、塘などところ/\やぶれたれば、丹波嶋を左に人て、ひろき河原に出たり。
うばそくひとり酒にゑひて、あらぬふしいひて過るあり。
又、かれが唄ふを聞ば、
 
姨捨山にてるがかみ姪子にこゝろゆるすな」
 
と、声もしどろに行くは、をば捨山の観音ぼさちのかたはらに在て月見てんとのぼりく人ごとに、ぜにこひとりて、鈴ふりたる、かたゐのけんざ也。
たぶれたる一ふしながら、此姨捨山の、いにしへよりの諺ならんとおかし。
小松原といふところに出て、綱引ふねにひきわたされて、小市といふなる村につき、鈴花河になりてふな渡あるも、れいのつなひく舟なり。
行/\て善光寺のみてらに至りぬ。まうづる人多く、にぎはへるさまは、むかし見しにことかはらず。
しばしみまへに在て、ぜむかうじといふことを句ごとの上において、
 
   せきあへずせぶなみだにかきくれぬうき身のつみをしれる心に
 
見まほしきかたも、とはまほしきこともあれど、とく/\かへりなんといざなへる人のいへれば、ふたゝびといひて、みてらのかどわきのやどりにつきぬ。
ひるより空うちくもりて、月見んことこそかたからめとかたりつゝ、
 
   月や見ん河中嶋に雲のなみたちなへだてそいざよひのそら
 
十七日 あしたよりくもりて、やがてふり出たり。
雨づつみしてすゞはなの川に来つれど、川長もあらで、いかゞせんと人々来とゞまりてためらひ、こはいと浅し、われまづ瀬ふみてんと、さきだてる人のあるにつれて、さ渡りてんとてみな水にさし入て、おもふことにあさければ、たぶれうた。
 
   いさとくもあさ河わたれすゞ花のさかりにふらば水はまさらん
 
いくばくの里はあれど、きのふ来しすぢなれば、みなかいもらしつ。
ふたつ柳に来り、野中に、おほきさ、うしのかくろへる槻のもとに、人あまた居たり。
 
   心ある人やあふぎてたちまちのつきの木かげにいづるをやまつ
 
しほさきよりはこなたにある里の名は、なにとがいひしと、門にさしのぞく女のあればとふに、いらヘ、さらにせでにげ入たり。
何にくるふ女ならんとおもへば、しりよりくる男、この村の名を、わかき女などははぢらひて、ことところの人には、えこたへ侍らず。
こは、いかにひめてかといへば、いな、屁窪と申がおかしとてわらふ。
げにや、こたへざりけりと、人おとがひをはなちてかたらひ過て、いなり山になりて、古了といふくすしをとぶらひ、しばしといへど行さきいそげば、やがて、さるがばんばも雨ふりてのぼり、見し姨捨はあなた、一重山はこなた、千曲河を見やり、わけて青柳のすくに来けり。
わかき女二人、雨にぬれしと麻衣をかつぎ、うたうたひ過るに、和泉式部の物語おもひ出て、
 
   これも又いなりの山の近ければあをやきぬらん里の乙女子
 
此ところに宿つきたり。
 
十八日 太刀崎よりのぞめば、左のたかねより太谷の底まで、まくだりに糸引くだしたるやうに細みちのあるは、あらしといひて、柴かりつかねて、みねより落す、そのすぢなれば木草の生ふことなけん。
其昔の聞えたり。
 
   山賤が峰よりおとす柴車あらしのみちや音のをやまぬ
 
みな見たるすぢなれば、かいもらしぬ。
こよひは浅間のいでゆにとまりてんとて、其みちをわけて至る。犬飼のをとゞとかや、さすらへ給ひしころ、おく山に、湯けぶりのたつをはる/\と見やり給ひて、ゆあみ給ひしをはじめにて、人ごとにこゝを、いぬかひの御湯と、その名たかう世に聞え渡りぬ。
捨遣集物名の歌にいはく、
 
「鳥の子はまだひなながらたちていぬかひの見ゆるやすもりなるらん」
 
とあるも、いぬかひのみゆを、よみたりけるにこそあらめ。
湯もりがやかた、自庵といふにとまりたり。このゆふベ、
 
   みねの庵雲なとざしそこよひまたこゝにゐまちの月やながめん
 
直堅のいはく、月いづるとて、さねてんとて、
 
   旅衣かたしきまでは月もやゝ出て野はらの露にやどれる
 
いで湯にいきてんとて至りて、
 
   出るゆのふかきめぐみを身にぞしるいかにあさまの名にながれけん
 
 

地図ソフトと地図サイトとカーナビ

郷里の秋田で「村おこし」の活動を行なっている団体から機関紙が、年に数回送られてくる。

今回の大きな記事は、郷里出身のヴァイオリン製作者の松田鉄雄さんが大館市に寄贈した楽器を使ったコンサートが開かれるというものだった。松田さんは、アメリイリノイ州在住だが、母の実家のある村の出身だったので、話は聞いたことがある。

そして、付録としてドローンで撮影した集落の写真が載せられている。

車社会になって、広い車道が真っ直ぐに集落を通るようになっているので、私の記憶にある村とは違ったものになっている。

上空から見た村々は、とてもこじんまりとしたものに見える。

地上で目の高さから見たものとは、まったく違う世界だ。

下流の私の集落から、登って行って、7つ目の集落は山瀬ダムの写真である。ダムに沈んでいるのだ。

写真を趣味とする従兄がドローンを使って撮影したものだった。

 

ドローンは、ラジコンヘリコプターである。

ただのラジコンなら、私が子どもの頃からあった。

ラジコン飛行機とラジコンカーがあったと思うが、とても高価だった。

今のドローンがすごいのは、ヘリコプターだから空中で停止できることに価値があると思う。

ラジコン飛行機と違って、ピンポイントで移動ができる。

そして、カメラが小さくて軽量になったので小さなドローンに搭載できる。

しかも、写した画像を瞬時に操縦者に送ることができるので、操縦が容易である。

空中から目標のものに近づいて、詳細な画像を撮影することが可能になった。

 

トヨタ自動車が、自動車をネット化するみたいなことを言ってたのは、10年以上前のことだと思う。

あれは、今どうなっているのだろう。

それを聞いた時に私が思ったのは、これでカーナビのデータ更新しなくても最新データのカーナビが使える、ということだった。

でも、そんな気配がない。

我が家は、トヨタ車だけど10年近く前のものである。

最新車は、どんなものになってるんだろう。

カーナビがネットにつながっていれば、サーバーの地図データにアクセスすればいいので、カーナビ個体にインストールする必要はない。

ネックは、車ごとにネット接続の契約が必要になることかもしれない。

カーナビを作っている会社も、今までと事業のやり方を大きく変換しなければならない。

 

スマホに地図アプリが入っていて、徒歩だけではなく、カーナビとしても使うことは可能だ。

混み入った場所を走る時に、スマホのナビ機能を使ったりしている。

はじめて地図ソフトが出てきたのは、Windows95の頃だったと思う。

私は、仕事上の必要があったので、アルプス社の「プロアトラス」シリーズを使っていた。

アルプス社のソフトの地図は、紙の地図帳のようにきれいなのが売り物だった。

地図ソフトには、あとマップル社の「スーパーマップル」シリーズがあった。

初期の頃、個人的に手に入れたことがあった。

同じ地図ソフトでも、大きく流儀の違うものだった。

私の印象だと、マップルの地図は位置データによる、点と線を活用した地図だった。

アルプス社のは、地図の画像データを基本としたものだったと思う。

このソフトから、PDA用に地図データを切り出しができる機能があって、それをソニーCLIEに入れて持ち歩けるようになった時は、感激したものだった。

それが、ネット時代になって、両方を合体させたものになって行ったのだろう。

しかし、オフラインのソフトは、オンラインの地図サイトに押されてしまって、2013年にプロアトラスは販売終了している。

スーパーマップルは、業務用の地図やナビ用に業務を拡大しているらしく、今も新版を販売しているようだ。

 

Yahoo!地図やGoogleマップのサイトを開けば、都市地図が出てくる。

表示方式を切り替えると、航空写真に切り替えることができる。航空写真となっているけれど、これは衛星写真なのかな。

飛行機を飛ばして日本列島をカバーするのは大変なことだ。人工衛星は24時間回ってる。

今は、精密な写真も撮れるのだろう。

地図に、雨雲情報や台風情報を重ねることもできる。

東日本大地震の後、放射線汚染情報のオプションも作られていた。

しばらく、私はその情報を見ていた。

確かに、原子力発電所の事故のあと、私の住む千葉北部のあたりは福島同様に汚染されていた。

事故後の、雨雲の移動によるものだった。

でも、地図サイトで汚染状況を見れることは、一般的にはほとんど知られてなかった。

しばらく経ってから、思い出して見てみたが、汚染情報のオプションはもうなくなっていた。

 

私のように地図が好きな人間には、地図サイトは最高の場所である。

航空写真に切り替えれば、どこへでも飛んで行けるのだ。

 

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黒ビール、ホッピー、そして日本酒

黒ビールが飲みたいなと思い、スーパーの売り場に行ったら置いてなかった。

他の店にも行ったが、置いてない。

去年までは、置いてあった気がしたのだが、やっと見つけたのはギネスの缶ビールだった。

ギネスもいいのだが、ちょっとお高い。

去年までは、発泡酒タイプのもあったはずだ。

いろんなスーパーに行くたびに、お酒の売り場をのぞいていた。

いろいろ回って、4種類置いてあるところを見つけた。

むかしは、キリンビールから瓶でも出てたのにな。

製造中止になった訳ではないらしい。

あんまり売れないのだろうな。

 

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私は、本来ビール党である。

勤め人の頃は、毎晩、晩酌はビールだった。

1日のケジメだと言って、飲んでいた。

退職して、主夫になって台所に立つ時間が長くなって、日本酒をちびちびやるようになった。

そうすると、さすがに夕食時は飲まない。

そのうちに、黒ビールが飲みたいな、と思うようになった。

黒ビールはコクがあるので、何杯も飲む気にはならない。

コップ一杯で、充分である。

かつては、充分に飲んで最後に締めで飲んでいた。

黒ビールは、淡色麦芽と濃色麦芽ブレンドしていて、高温で焙煎乾燥させて作る濃色麦芽の色合いによって黒い色になるらしい。

 

 20代の頃、千代田線沿線を友人たちと飲み歩いていた。

今でもあるが、ホッピーを飲ませてくれる居酒屋があった。

今は、酎ハイ全盛時代かもしれないが、ホッピーもその仲間である。

知らない人のために説明すると、ホッピーはアルコール度1%以下のビールである。

焼酎を割るためのビールなので、作り方によってはアルコール度の超高いビールができる。

その頃よく行ってた居酒屋に行くと、まわりは肉体労働の強そうな方々ばかりで、我々はその中で静かに飲んでいた。

ホッピーの瓶は、今でも酒類の売り場にあったりする。

黒ビールタイプも確かあったはずである。今度、探してみよう。

 

その頃から、ウイスキーや日本酒は苦手だった。

アルコール度の高い酒を飲むと、むせてしまうのだ。

だから、宴会ではもっぱらビールを飲んでいた。

そういえば、山に登る時にはワインを持って行った。

頂上で、アルミ製のテルモスに入れて持って行ったワインをみんなで飲んでいた。

すばらしい展望を見ながら、乾杯していたのだ。

なぜか、ワインを持って行くのは私の担当だった。

 

年を取ると、ビールもそんなにいっぱい飲めなくなる。

いっぱい飲まなきゃいいだろう、ということでもあるが、トイレもやたら近くなるし。

日本酒のうまさが、だんだんとわかってくる。

ウイスキーも試してみたが、やっぱりむせてしまってまだ苦手だった。

酒の飲み方が、変わってきたのかもしれない。

ゆっくり飲むようになったのだと、思う。

考えてみたら、ドブロクをつくってる家で育ったのだったんだよな。

おふくろに、ドブロクの作り方をちゃんと教えてもらうんだったな。

 

今は、自家用だったらドブロクを作っても大丈夫だったかな。

むずかしい条件があったかな。

よく、濁り酒って売ってるけど、私の記憶だとあれはドブロクではない。

もっとまろやかなものだった気がする。

 

 

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松ヶ崎城址 柏市松ヶ崎

北柏方面に行く機会があったので、松ヶ崎城址公園に行ってきた。

数日前に、その前の道路を通った際に、早咲きの桜が満開なのを車窓から見ていた。

妻と2人で、近くにコンビニでお昼を買って歩いて行った。

下から見ると、城址公園の山全体が桜に見える。

中腹に駐車スペースが5、6台分あるが、そこまでのアプローチがわかりにくい。

平日だったので、公園を散策しているのも、4、5組だった。

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桜の下に腰をおろして、まわりを見ていると近くの桜に鶯が集まっていた。

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公園全体は、なだらかで芝生でおおわれている。

1才くらいと3才くらいの男の子が、ちょっと離れたところで遊んでいたので、2人で見ていた。お母さんは、近くで見守っていた。

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だいぶ前に、妻とこの松ヶ崎城址に来た頃はかなり殺風景な感じでした。
今は、綺麗に整備されて気持ちいい感じです。

河津桜は、地元の団体が2回に分けて、100本植えたそうです。

きっと、週末はそれなりに人も集まるでしょうが、静かで気持ちよかったです。

 

ところで、今年の正月明けに、この松ヶ崎城址に来ています。

その時は、江戸川、運河、利根川とサイクリングした帰り道寄りました。

ブログのための記事も書いたのですが、なにしろ帰り道だったので疲れてしまって記憶が曖昧で、文章の内容が中途半端で、投稿せずに保留にしていました。

この際なので、合わせて投稿します。

 

(2021年1月 )

 利根川サイクリングコースのあと布施弁天にお参りをした。

そのあと、松ヶ崎城址に寄って帰ることにした。

布施弁天から、新大利根橋からの県道と並行する旧道を進む。布施入口の交差点をさらに直進して、坂を下ると地金堀を渡り交差点を左折して、北柏駅方面へ向かう。

しばらく行くと、両側にコンビニのあるあたりで、向かい側に「松ヶ崎城址」の看板が見える。

コンビニで自転車を止めて、昼食を購入する。

歩いて、松ヶ崎城址に向かう。

住宅地を抜けて、城址を登る。

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広々として、気持ちがいい。

古い研究書籍や訪問記事の写真では、鬱蒼とした樹林の中に、遺跡があったが、現在は樹林の多くは伐採されており、大きな切り株が残っている。

長年にわたって、住宅化されることもなく、城跡が樹木で覆われていたために、遺跡が削平されることなく残されたのだろう。

写真のように、見通しがよく、城がどのようなものだったがよくわかる。

 

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松ヶ崎城址は、平成16年に柏市指定文化財(史跡)に指定されて、平成21年から一般公開されている。

柏市のホームページの内容をまとめると、次ようなものである。

松ヶ崎城跡は、手賀沼を見渡す台地にある戦国時代(15世紀後半~16世紀前半)の中世城跡である。

台地先端部に土塁と空堀に囲まれた方形単郭の郭を主体に、古墳を転用したとされる櫓台跡や台地斜面には腰曲輪が残されている。

曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋が当時のまま良好に残されており、門跡、柵跡、溝などが確認されている。

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土塁が見える。

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門跡 発掘の結果確認出来たと書いてある

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土塁

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もっと大きな古墳を利用した物見台

 

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土塁

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虎口

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土塁

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松ヶ崎城址説明板

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古墳

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これが三つ目の古墳

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利根川サイクリングの帰りに、松ヶ崎城址に寄った。
帰ってきて、この文章を書いていて、後悔した。

充分に疲れていたので、写真もいっぱい撮ったのだけれど、文章にしようとすると記憶がとても曖昧である

写真と文章がつながらない。

お城には、お城だけを目標にして来よう。ついでに、寄ったんじゃだめだな。

 

松ヶ崎城は、手賀沼と地金堀に囲まれた台地の先端にあったはずである。

手賀沼が見えるはずの方向は、樹木が繁っていて展望がない。

展望があったとしても、手賀沼干拓によって遥か彼方に後退していて見えないはずだ。

すぐそばには、巨大な物流倉庫がある。

そして、国道6号線、JR常磐線があって、北柏の住宅地が1000メートル以上あって、やっと手賀沼が見える。

国道6号線と旧水戸街道は、並行したり交差しているが、江戸時代は水戸街道のすぐそばに手賀沼があった。

そういう風景を、今は想像するしかない。

  

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