晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

「タァバン」のカレー

久しぶりに「タァバン」のカレーを食べに行った。

私の誕生日ということで「タァバン」にしてくれた。

私だけではなく、家族みんなのお気に入りの店である。子どもたちが、中学とか高校の時からで、もう10年以上通っている。

一度行くとすごく満足感があるので、そんなにしょっちゅう行くわけではないが、何ヶ月か経つとまた行きたくなる感じだ。

お昼には、カレー弁当もあるので、時々買って家で食べたりする。安くてボリュームいっぱいで、満足する。

インドネパール料理となっているが、ネパールの方が経営されていると思う。

店内の掲示や扱っている飲料などがそれらしいような気がする。

インド料理をよく知らないので違いがよくわからない。

私の行動範囲内でも、カレー屋さんと中華屋さんは新規開店をこの数年見かける気がする。

中華屋さんも、大陸系と台湾系があるようだが、これは四川料理とか台湾小皿料理などと看板にある。

私の観察によると、インドカレーとあるのがインドの方ので、インドネパール料理とあるのがネパールの方のだと思う。

カレーも中華料理も、日本人は大好きだからこんなにお店があるんだろうな。

 

いつもは、家族それぞれが好きなものを注文してる。

私は、チキンカレーとライスそして生ビールが定番である。ライスと生ビールをおかわりして、それで満足である。

今回は、初めて食べ放題と飲み放題付きのサービスコースを家族四人で注文した。

カレーは3種類選べておかわりができる。カレーとナンもおかわりができる。そして、飲み物もおかわりができて、しかも私の好きな生ビールも含まれている。

それで、料金が信じられないくらいリーズナブルだ。

最初に、サラダとシークカバブ、タンドリーチキンなど肉料理3種が出てきた。

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私は、いつも肉料理は食べていない。それなのに、調子に乗って食べたもので、満腹になってしまった。

キーマピザというのも初めて食べた。

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ナンの中に、キーマカレー?が入ってた。

ライスのおかわりどころではなかった。生ビール3杯と冷たいラッシー1杯で、満足。

「タァバン」は、カレーはもちろんおいしい。辛いだけではない、うまみとコクのある日本人好みの味だと思う。

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そして、焼きたてのナンがうまい。

気になるカレー屋さんは、いろいろ行ってみるが、「タァバン」にかなう店はない。

長男が、就職して関西に転勤していたことがあるが、たまに帰宅すると、「タァバンのカレー食べたい」と言ってた。

 

私たちの世代は、テレビの黎明期が少年時代である。 

その頃は、今もあるS&Bの赤い缶のカレー粉でカレーライスを作った。中学生の頃にカレールーやレトルトのテレビCMが流れるようになったのかな。

カレーは、みんな好きだった。「鍋っこ遠足」でも作っていた。

タァバンのカレーは日本式のカレーとは、まったく別物である。

でも、どっちも好きだ。

 

 

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国名について調べてみた② 都道府県への移行

律令制による令制国という古い国名に興味があって、調べはじめた。

 

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調べているうちに、これはどうも現在につながっていることなんじゃないか、と思うようになった。

これは、私の勉強のための覚書です。

 

現在の都道府県制は、1都1道2府43県である。

明治4年(1971年)に、廃藩置県により藩は県となり、1使(開拓使)3府(東京府京都府大阪府)302県となった。これは、藩や天領の境界がそのままで飛地もあり府県行政に支障があった。

すぐに、第一次府県統合により整理合併し、1使3府72県になった。

明治9年(1976年)に、さらに第二次県統合により35県まで減らした。

しかし、沖縄県の設置及び分割運動などにより、最終的に1庁3府43県となった。

開拓使は、北海道庁となった。

分割運動により、分立した県は次の通りである。

徳島県福井県鳥取県富山県佐賀県、宮崎県、香川県奈良県

 徳島県 高知県から分離して発足した。

 福井県 嶺北が石川県から分離、嶺南が滋賀県から分離して、合併して発足した。

 鳥取県 島根県から分離して発足した。

 富山県 石川県から分離して発足した。

 佐賀県 長崎県から分離して発足した。

 宮崎県 鹿児島県から分離して発足した。

 香川県 愛媛県から分離して発足した。

 奈良県 大阪府から分離して発足した。

 

この後、合併分割は行われず、現在に至っている。

 都道府県をよくみてると、律令制による令制国がその元になっていることがよくわかる。令制国は、68ヶ国である。明治初期の北海道の11国の新設、出羽国及び陸奥国の分割により最終的に84ヶ国となった。北海道の11国を除くと73ヶ国となり、府県数との差の分が複数の令制国を統合して府県を成立させたことになる。

 

①  令制国の国が、そのまま県になってる例。

以下の、15県は、令制国がほとんど同じ領域のまま県になっている。しかし、令制国の名前が県名に使われている県はまったくない。

 

 令制国名       府県名

大和国(やまとのくに)                                奈良県

甲斐国(かいのくに)                                  山梨県

近江国(おうみのくに)                                 滋賀県

上野国(かみつけのくに)と下野国の一部 群馬県

下野国(しもつけのくに)の大部分    栃木県

越中国(えっちゅうのくに)                           富山県

讃岐国(さぬきのくに)                                   香川県

阿波国(あわのくに)                                       徳島県

伊予国(いよのくに)                                       愛媛県

土佐国(とさのくに)                                       高知県

肥後国(ひごのくに)                                       熊本県

日向国(ひゅうがのくに)                                宮崎県

信濃国(しなののくに)の大部分     長野県

紀伊国(きのくに)の大部分       和歌山県

肥前国(ひぜんのくに)の一部      佐賀県

 

②  複数の令制国を一つの府県にした例

 

702年に大宝律令が制定されて、令制国に移行するにあたって、それまでの国造が治める国から、中央から派遣される国司によって治められるようになった。

しばらくの間は、国分割や統合、国名の変更があったが9世紀以降は、まったく変更がなく明治まで1000年以上が経過している。

徐々に形骸化が進んではいたが、江戸時代でも大名や旗本などの官職として守や介など国司の等級が使われていた。

また、令制国の範囲内に、幕府の直轄領や大名の領地である藩が並立していた。

府県制を整備していくために、財政規模のバランスなどを考慮していたために、複数の令制国を統合したり、郡単位で他の県に移動させるようなことも行なっている。

1000年以上の令制国制度、200年以上にわたる江戸時代の藩制度、その中で他国だったもの同士が、同一の府県の中に存在することになったのだから、問題は簡単なものではない。

府県制が成立して一世紀経過した現在でも、それが尾を引いている現状がある。

 

府県名    令制国

福井県    若狭国(わかさのくに)と越前国(えつぜんのくに)                                                  

京都府    山城国(やましろのくに)と丹後国(たんごのくに)と丹波国(たんばのくに)          

大阪府    河内国(かわちのくに)と和泉国(いずみのくい)と摂津国(せっつのくに)の一部

三重県    伊賀国(いがのくに)と志摩国(しまのくに)と伊勢国(いせのくに)の一部と紀伊国(きのくに)の一部

愛知県    尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに)

静岡県    遠江国(とおとうみのくに)と駿河国(するがのくに)と伊豆国(いずのくに)

神奈川県   相模国(さがみのくに)と武蔵国(むさしのくに)の一部

千葉県    上総国(かずさのくに)と下総国(しもふさのくに)の一部と安房国(あわのくに)

岐阜県    美濃国(みののくに)と飛騨国(ひだのくに)と信濃国(しなののくに)の一部と越前国(えつぜんのくに)の一部

石川県    加賀国(かがのくに)と能登国(のとのくに)

新潟県    越後国(えちごのくに)と佐渡国(さどのくに)

兵庫県    摂津国(せっつのくに)の一部、丹波国(たんばのくに)の一部、但馬国(たじまのくに)、美作国(みまさかのくに)の一部、播磨国(はりまのくに)、備前国(びぜんのくに)の一部、淡路国(あわじのくに)

鳥取県    因幡国(いなばのくに)と伯耆国(ほうきのくに)

島根県    出雲国(いずものくに)と石見国(いわみのくに)

岡山県    美作国(みまさかのくに)、備前国(びぜんのくに)、備中国(びっちゅうのくに)

広島県    備後国(びんごのくに)と安芸国(あきのくに)

山口県    周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)

福岡県    筑前国(ちくぜんのくに)と筑後国(ちくごのくに)と豊前国(ぶぜんのくに)の一部

大分県    豊後国(ぶんごのくに)と豊前国(ぶぜんのくに)の一部

長崎県    肥前国(ひぜんのくに)の一部と対馬国(つしまのくに)と壱岐国(いきのくに)

鹿児島県   薩摩国(さつまのくに)と大隅国(おおすみのくに)

 

 ③  明治元年(1869年)の令制国の新設と分割された国について

 

北海道が置かれて、五畿八道となり、11国が新設された。

 五畿 大和、山城、摂津、河内、和泉

 八道 東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道、北海道

渡島国(おしまのくに)、後志国(しりべしのくに)、胆振国(いぶりのくに)、石狩国(いしかりのくに)、天塩国(てしおのくに)、北見国(きたみのくに)、日高国(ひだかのくに)、十勝国(とかちのくに)、釧路国(くしろのくに)、根室国(ねむろのくに)、千島国(ちしまのくに)

当初、開拓使が置かれ開拓使十年計画が行われ、 1882年に廃止され、札幌県、函館県、根室県が置かれた。その後、北海道全体を管轄する北海道庁が設置された。

 

陸奥国(むつのくに)の分割

磐城国(いわきのくに)、岩代国(いわしろのくに)、陸前国(りくぜんのくに)、陸中国(りくちゅうのくに)、陸奥国(りくおうのくに)

府県名     令制国

福島県     磐城国の大部分と岩代国の大部分

宮城県     陸前国の大部分と磐城国の一部

岩手県     陸中国の大部分と陸前国の一部と陸奥国(りくおうのくに)の一部

青森県     陸奥国の大部分

 

出羽国(でわのくに)の分割

羽前国(うぜんのくに)、羽後国(うごのくに)

府県名     令制国

山形県     羽前国羽後国の一部

秋田県     羽後国の大部分と陸中国の一部

 

④  都道府県名について

都府県名については、令制国の名称がまったく使われていない。令制国が、そのまま府県に移行したような場合にも。

これは、これまでと違う行政組織を作るという意図があったからではないだろうか。

北海道については、当初県を設置する方針だったのを、道全体を管轄する組織の方が効率的であると判断した時点で、新しく作ったものだった道名を使ったものであろう。

 

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デラシネ

五木寛之氏のエッセイ集に「風に吹かれて」というのがあって、そのなかに「デラシネ」ということばがあった。

彼の作品を読んだのは、この著作が初めてだった。たぶん、「風に吹かれて」というタイトルに惹かれたのだと思う。

デラシネ」は、フランス語で、日本語にすると「根無し草」である。

「根無し草」は、デジタル大辞泉では次のようになっている。

 1 地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
 2 浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。

「根無し草」は、変なことばである。「根無し」といいながら、根はある。根を張る場所、土地がないのである。

 

彼は、自らのことをデラシネと言っている。

1932年、福岡県に生まれた彼は生後間もなく教員だった父とともに、朝鮮半島に渡った。

ソ連軍進駐の混乱の中で、母親を亡くし、父と幼い妹、弟とともに1947年に引き揚げている。年齢を逆算すると15歳である。

エッセイ集は、「風に吹かれて」のほかに「ゴキブリの歌」「地図のない旅」が出ていて、小説より先にエッセイの文章を読んでいたと思う。

エッセイは、内容は広い範囲にわたっているが、私の記憶に強く残っているのは音楽関係である。

ひとりは、アタウアルパ・ユパンキである。アルゼンチンのフォルクローレの歌手でありギタリストである彼のすばらしさについて書いていた。

西洋のものとは、まったく違う感性、日本人にとっては近しいものを感ずるが、しかし、同じとは言えない。歌声と同様に、ギターの音色もなんとも言えないものである。

私のレコードコレクションの中に4枚あった。

もうひとりは、藤圭子である。

彼は、藤圭子について「これは『演歌』でも『艶歌』でもなく、間違いなく『怨歌』である。」と書いている。

同時に、彼女の今の輝きは時代と交差した瞬間的なものだろう、というようなことも書いていたと思う。

宇多田ヒカルもすばらしい歌手だが、藤圭子はまったく違ったものを持った歌手だった。

彼は、「艶歌の竜」というレコードプロデューサーを描いた作品を書いていて、私は高校時代に芦田伸介が演じるテレビドラマを見た記憶がある。

藤圭子のレコードも同じく4枚持っていた。

 

横浜に出てきて学生生活を始めた頃から、彼の小説を読み始めた。私鉄の最寄駅の前に貸本屋があり、借りて読んで、返して借りて読むということを繰り返していた。

「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」、「海を見ていたジョニー」、「青年は荒野をめざす」など。

デラシネであることを自覚していた五木氏の作品にある無国籍的なもの、日本的なものと違うものを感じていたと思う。

1966年の「さらばモスクワ愚連隊」がデビュー作だったが、それから数年しか経っていなかったが、すぐに作品集が発売された。24巻が3年間にわたって、順次発売された。その半分は購入したと思う。

 

フランス語の「デラシネ」は、根無し草、転じて故郷や祖国から離れたもしくは切り離された人を意味するという。

彼もまた、その意味でデラシネだったのだろう。帰ってきたはずの祖国日本は、根を張れる土地ではなかった。だから、「風に吹かれて」だった。

根を張っていた土地から離れたことが、自分の意志であったにせよ、自分の意志でなかったにせよ、その思いは同じだと思う。

そういう思いを持った人は、世界にたくさんいることだろう。

日本にも、きっとたくさんいる。

私も、この地に住むようになって40年以上になる。

ここに根っこを張ってるか、と言われると少し微妙かも知れない。

 

 

 

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手賀沼ランニング

市役所に、用事があって行った。

市役所からは、手賀沼は近い。

ちょっと、走ってこよう、と思いそのまま走れるジャージで出かけた。

柏ふるさと公園となりの柏市中央体育館の駐車場、に車を置いて出発する。

 

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北千葉導水路の空気弁室という施設が、数百メートルごとにある。

上が、板張りになっていて木のベンチがある。

ちょっとかわいい感じがする。ときどき休憩する。

 

 

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北千葉導水路は、こんな太い埋設管が往復分二本埋められているらしい。

直径3.2mだったかな。やっぱり、すごいなあ。

 

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導水路の説明看板。

 

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北千葉導水路第二機場。

利根川から汲み上げた水手賀沼に注ぐ。

ビジターセンターもある。

利根川関係の展示も充実していたのだが、今は、展示スペースが狭くなっているようだった。

 

 

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走る時は、こんな展望台を目印にする。

勝手に、命名して楽しんでいる。

これは、「第一砦」北柏から我孫子まで一望できる。

そして、「第一ストレート」。

 

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増築工事中の道の駅しょうなん。

完成予定2024年となってたけど、そんなにかかるのかな。

もう、ずいぶんできてる気がする。

 (写真をサイズ変更したら変に劣化してしまった。)

 

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これは「第二砦」。

毎年夏には、一面の蓮の花になるのだが、今年はまったくダメだった。

どうしてかな。

 

 

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これは「ピラミッド」。

眺めもいいし、寝転がって空も見れる。

 

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「第三砦」。

手賀沼の東端「曙橋」、北岸「我孫子市」、「手賀大橋」がよく見える。


今日は、この辺で引き返そうかな。

 

 

 

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薪小屋で仕事をする

 旅行先でパン屋の前を歩いていたら、店の前に薪が積んであった。

どうもピザ窯のための燃料ということらしかった。

私は、ピザがかなり好きである。パスタよりピザが好きだ。

なので、気になってしまった。

 

まだ、ピザを食べたことのない学生時代に読んだ狐狸庵先生の作品に、

女子学生と「ピッツァ」を 食べた、とあって、

「ピッツァ」とは、いったいどういうものだろうと、思ったものだった。

「ピッツァ」でよかったかな、と思ってネットを見ていたら、

「ピッツァ」と「ピザ」は、まったく別のものです、とある。

ほんとかな?

イタリアのが「ピッツァ」でアメリカのが「ピザ」ということらしい。

これは、冗談だろうか?

 

でも帰ってから、考えてみた。

今どき、ピザ窯に薪を使うだろうか。

もし、使うとしたら毎日かなりの量になるだろうし、それだったら薪小屋を用意して保管して置くだろう。

あれは、お店の飾りだったのかな。

 

薪小屋といえば、田舎の我が家にもあったな。

薪ストーブが煮炊きのためのかまどでもあり、暖房のための道具でもあった。

そのための薪は、一年中必要なものだった。一年間分だとかなりの量になる。

家の敷地の中に、かなり大きな薪小屋があった。

山から切り出した木材を、薪小屋の中に積んであった。

木材は1メートルくらいの長さに切られていた。

切り出したばかりの木材は、その重量の半分以上は水分らしい。

時間をかけて乾燥させる必要がある。

水分の多い木材は、燃えにくいし、煙が出て、臭くなる。

 

木材は、ストーブで燃やせる薪にしなければならない。

1メートルばかりの木材をストーブに入れやすい30センチちょっとの長さに、ノコギリで切る。

それから、燃えやすい太さになるように斧で割る。

どちらも、力があればできるというものではない。要領が要る。

我が家は、父が出稼ぎで不在だったので、男手は私だけだった。

小学校の中学年くらいから、ひとりで薪小屋での仕事をやっていた。

ノコギリは、一本切るにもかなり力と時間がかかる。

斧での薪割りは、時間はそれほどでないが、瞬発的な力の使い方が必要だ

経験を積むと、だんだんと上達していった。

 

ストーブは、ブリキ製の薄い鉄板でできたものだった。

今は、鋳物製の高級なものがある。これだと、熱の効率もいいだろう。

着火には、杉の葉の乾燥したものを使った。茶色に変色したトゲトゲのやつである。

それから、薪を燃やすのは慣れないとできないかもしれない。

鍋での煮炊きと同時に、ヤカンでお湯を沸かすことができた。

古い農家だった父の実家には、備え付けの立派なカマドがあった。でも、新しい分家だった我が家にはなかった。

薪ストーブは、暖房器具でもあった。

でも、囲炉裏もあったな。

囲炉裏は、四角い木枠の中に灰を敷き詰めて、

その真ん中に、木炭を熾していた。

自在鉤というのがあったので、それに引っ掛ければ鍋で煮炊きをできないことないかな。

部屋を暖めるものではないので、近く寄って温まるしかない。

 

今になって考えるのは、薪にした木材はどう手に入れたのかな、ということ。

我が家は、山林を持っていなかったはずだ。

でも、村の共有林みたいのがあった。

あれは、村の運営のために使ってたと思うけど、

村の人たちも、自由に木材を切り出して使ってもよかったのかな。

子どもだったので、そこまでは知らなかった。

 

 

 

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いなのなかみち⑧ 菅江真澄テキスト

 

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十日 夜あけはつれど、くらき空は、こしあめのふれば也けり。

 

   雨づたふ軒ばの露の玉くしげふたこの里は明るともなし

 

日たけて当特がもとより、この雨さうざうしからん、晴間もとめて、とひこなど、ふみにいひをこせければ、さちにをやみたるに、あるじをはじめいざなひて、そのやどに至る。庭の萩真盛なれば、

 

   われもしかこひてやしたふけふこゝに色なる萩の宿をたづねて

 

あるじまさひとり、返しせり。

 

   咲みちて匂ふその香は萩よりも君が詞の花にぞありける

 

十一日 因信がやをつとめていづるに、あるじ、又来りてよ、二日三日もとまりがてら、かならず待侍るなどいへるとき、

 

   又いつと契て末を松の葉のふたこの里に三夜とまりなん

 

けふも小雨そぼふるに、あまづゝみして出たつ。みちのかたはらの家の軒に、男女のかたしろ風にふかれたるは、七月の星に手向しを、そのまゝに、とりもをさめざりけり。慶林寺といふに入て文的上人にまみゆ。上人、むかしよみける歌とて、あまたかいたる冊子を見せ給ふに、

 

   法の師かくる衣のそれならでひろふ詞の玉の数かず

 

夕ぐれちかう、もとせばの郷に帰りきぬ。

 

十三日 くれなんころほひ、めのわらは、七日のゆふべにひとしうよそひたち、

「おほ輪にござれ、丸輪にござれ、十五夜さんまのわのごとく」

とうたひ、ささらすり、むれありく。

手ごとに、まつ持出て門火たく。

はた、五尺斗の竹のうれに、たえまつもやしたるけぶり、むらむらとたちむすびあひて、空くらし。

やに入り、たままつりする、あか棚にむかへば、世になき母弟の俤も、しらぬ国までたちそひたまふやと、すゞろになみだおちて、水かけ草をとりてながめたり。

 

   この夕ありとおもへばははき木やそのはらからの俤にたつ

 

十四日 青松山長興寺に、施餓鬼会をこなひありけるにまうでぬ。

門の左右なる柱に、「入甚原門頓解無生之妙理、登正覚地倶円実相之真如」といへりけるは、もろこしの心越ぜじの、めでたく書給ふ也。

みほとけの前には、「広開甘露門転無上法輪」の幡をはじめ、ななの仏のいろいろはたに、つらやかれたる鬼の朱なるも、みな秋風にふかれ、みまへの接竿の、雨にぬれてひるがへるもたふとげに、汝等鬼神衆、我今施汝供此食徧十方一切鬼共と、みずきやう聞え、かねうちならすをまちて、さしたる小幡われとらんと、老たるわかき、あらがひひこしろひ、みなやり、もとどりはなち、こひぢのかゝりたるかほの、あせぬぐひぬ。

やをら尊師ひとりすゝみ立て、さゝげもののりうごうを、よもに投げたまふをまちまちて、まくり手に小供等ひろふ。

甫無薩怛佗も、ややよみはつれば、みないにき。存者福楽寿無窮といへることを、

 

   世にすむはさちたのしみにながらへてのぶるいのちの限やはある

 

亡者離苦生安養といふこころを、

 

   なき人はくるしき海をこぎ出て安きみなとに舟とむるらし

 

十五日 残るあつさにえたえず、近きほとりまで夕すゞみしてんとて、足にまかせて、びはばしも過ぬ。

今しばしとてゆけば、床尾の岳いとくらう、雨雲たちおほふ。

そのあたりは雷を斎ひまつるといふ。

 

   むら雲のへだてにくらき遠方は又もや雨になる神のみね

 

桔挾が原までいたれば、こがねもちくひねとて、れいの粟のもちひ、おしきにのせていだしぬ。此もちを折句に、

 

   この宿にかりてやいく夜ねもしなんもゝ草ちぐさちらぬ限は

 

まつほどに、月のさらにもれ出る光も見えねば、いざ、かへりこんとふりあふげば、なる神のみねにまつの火見えたるは、雲間の星とあやまつべう見つゝ帰れば、ようべのごとく、小供おどりの声さはに、とよみ間えたり。

 

十六日 蘆田村のおく山に、鏡石とてありけるを見に行しかば、その高さ、いつさか斗の黒きいは、かべのごとく、谷なかにつとさし出たり。

石のつらは、うるしぬりたらんがごとに、近づけば人のかたち、木々のすがたも、あらはにうつりたるもあやし。〔天註--山城国金閣寺の北、紙屋河の辺り鏡石あり。石面は水晶のやうにて、影を遷すこと、まことのかゞみのごとし〕

 

   うごきなき例とや見んかヾみ石くもらぬ御代の光うつして

 

鏡石てふことを折句歌に、

 

   かく斗かげもさだかに見つるかないくばく露やしもにみがきて

 

二十日 牛伏寺にまうでんとて、犀川をあさとく渡て、

 

   秋もまた朝河わたり衣手のぬれて涼しく野山ゆかなん

 

桔挾原にいづれば、名にしおふきちかう、をみなへしの盛、おかしう見つつ分れば、此野には石弩あり。

家づとにひろはんなどいひもて、傘松と名いふが、野中にひともとたてり。

これなん、みちふみまよふ人の道しるべとせりけるなど、行友のかたりければ、

 

   里遠きひろ野にまよふ旅人のかさてふ松やさしてたのまん

 

遠近の山は、もゝヘの濤のよりくるかと、たちへだつる中に、いとするどく、鉾などふりたてたらんがごときを、いら/\が嶽といふ。

此たけは、高さ、はかりもしらず、ゆめのぼりえし人なく、麓は、ちよふる木々そびへたちて、世にたとへつべうかたなしとなん。

雪しろう見ゆるに、戯れてよめる。

 

   白雪のけたずちよふる山伏のすゞのいら/\高くこそ見れ

 

露いと多く、行そでにこぼれかゝれば、

 

   誰が袖も萩が花すりぬれてけふ露分衣きちかうがはら

 

熊の井といふ泉、わきながるゝところあり。

 

   よな/\は清き流にをのが身の月やうつさん里のくまの井

 

内田村のさし入に、食斎堂とて建るに、あみだほとけのおましませり。

こゝにしばしやすらひ、御前に在てひぢ枕に眠り、松風さとふくに夢もいざなはれて、

 

   はかりなき齢をとへば御仏のみまへにこたふ松風の声

 

虫の声したるとき、いざなひし可臨の句あり。

 

   石仏のうしろに鳴やきりぎりす

 

荒河を渡り金峯山にのぼる。

前に水すまずつねにながるゝは、山たかう岸くづれゆけば、河水、すめらんことあたはじとなん。

牛伏寺のこなた風天雷天をかたにうつしたるに、赤うし黒うしふしたるかたちを、木にて作りたる堂あり。

うしのもてはこびし大般若経は、ことさやぐからふねのつみ来るを、いづれの御世にかをさめ給ふとなん。

あるはいふ、紺のそめ紙にこがねの文字なるが、いさゝか斗残たるともいへり。〔天註--御法のこと、前にしるしたれば、ここにはくはしからし〕牛伏寺の観音菩薩にたむけ奉る。

 

   たぐひなき仏の法のたふとざに立もとをらで牛やふしけん

 

   うしぶしのよし河なみはにごるともくまなく水の月やすむらん

 

   牛と共にわれもふさばや萩の原            可臨

 

   ちる柳御堂の軒にまひにけり             同

 

あるあげまき、金色の石ひろひ来けり。

此河上よりながれ来など、これなん山色てふものにて、かねほりのわざしける人、こがね、しろがねなど、それぞれに見るならひありけるといへり。

此水上に、こがね産るる山やあらん、さりければ金峯山の名もありけるものか。

此かへさは、きちかうがはらにくれたり。

 

 

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Windows95 以前以後

インプレスのPCWatchというサイトに、山田祥平のRe:config.sysという記事が連載されていて、ときどきのぞいていた。はっきり言って私にはレベルが高すぎて内容がよくわからないことが多い。でも私は、三分の一か四分の一しかわからないようなのを読むのが、けっこう好きなのだ。

PCだけではなく、オーディオ機器などの専門的な記事などもわからないながらに見たりする。

それを見ていたら、過去記事で8月に「Windows 95から25年 〜そして何が変わったか」というのがあった。さっそく読んだ。

変わって欲しいところが変わってない、というのが山田氏の結論のように思える。アプリや設定の扱いなど。

山田氏の観点とは違うかと思うが、私も、肝心なところが変わってないと思う。

 

私は、1976年に就職し、2015年に退職した。

Windows95が発売された1995年は、私が勤務生活していたちょうど中間の年だった。

職場には、デスクトップのワープロはあったが、パソコンはなかった。

発売当時のお祭り騒ぎは、テレビで見ていた。パソコンもないのにWindows 95を、買ったとか、買わないとか話題になっていた。

職場にあったワープロNECの文豪で、表計算の真似事のようなことができた。

数字を入れた表を作って、演算機能というのを使うと、パソコンのように自動計算とはいかなくても、ちょっと手間をかければ複雑な計算ができた。それまでのプリンタ付き卓上計算機よりはずっと楽だった。

当分、職場にパソコンははいりそうになかったので、個人用にノートパソコンを買った。 

DEC(デジタル・イクィップメント・コーポレーション)のハイノートというノートパソコンだった。OSは、Windows3.1 だった。

安かったのでこのOSを選んだが、やっぱりWindows 95にしたくなったが、ハードディスクの容量が足りなかった。そこで、今は死語になってる「圧縮ドライブ」というのを使った。時間をかけてドライブを圧縮すると、容量が見かけは大きくなり、とりあえず、Windows 95をインストールすることができた。

ノートパソコンは、ほとんど個人の趣味用に使っていた。

1998年、Windows98が発売された。Vaioのデスクトップを買った。ビデオカメラで子どもの動画を撮っていたので、これをパソコンで扱おうとしたのだが、Vaioはビデオの入力には対応していたが、これを扱いやすいmpegファイルに変換するには、とんでもなく時間がかかった。

私の趣味である音楽もパソコンで扱えることを知って、手持ちのレコードを音楽ファイルに変換したり、レンタルしたCDをmp3にして入力していた。

 

職場では、卓上ワープロのRUPOを使っていた。これは、ワープロであるにもかかわらず、パソコンソフトLotus123が搭載されていた。

その頃、表計算ソフトでは最も使われていたソフトだった。マイクロソフトからは、エクセルはまだ発売されておらず、マルチプランというソフトが出ていたが、あまり使い勝手は良くなかった。

しかし、マイクロソフトがエクセルを発売し、Windowsにエクセルとワードをバンドルするようになると、Lotus123と一太郎は存在感を失っていった。

私は、自分の仕事にLotus123を活用していた。特に、Lotus123のマクロ機能は、素人の私にも使えるもので仕事を効率化できた。

データの並べ替えや抽出、そして印刷を自動化できた。

マクロ関数に関するマニュアル本を買って勉強していた。最も一所懸命勉強した時期だった。

 

2000年、業務が大きく変更される。それまでの、紙ベースで報告していたものが、パソコンによりオンライン処理されるようになった。職場には、専用の端末が配置された。

紙の報告書を審査、提出するための会議のため出張する必要もなくなった。

たぶん、一般的な職場より数十年は遅れていたと思うが、やっと人並みになったかなという感じだった。

そして、定年退職になった。

 

個人的なことを言えば、この25年で最も大きな変化はインターネット環境だと思う。

Windows95の頃、インターネット接続している間は、電話が使えなかった。今は、WiFiがあり、Lanコードもいらないし、スマホもあるし、いつでもどこでもネットができる。

これから、パソコンの世界はどうかわっていくのだろう。

 

 

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人との出会い

4歳の孫娘と一緒に、東海方面へ旅行に行ってきた。

メンバーは、長男夫婦と長男のお嫁さんのご両親そして私たち夫婦である。

長男夫婦が、旅行を企画してくれた。

孫娘のお祝い事のたびに、一緒に食事などをしてきた。

そのときに、そのうちに一緒に旅行したいですね、と話していた。

こんなご時世なので、いろいろと大変だったと思うが、長男夫婦が骨を折ってくれて実現した。

孫娘を囲んで楽しい2泊3日の旅だった。

お嫁さんのご両親ともゆっくり話をすることができた。

お嫁さんのお父さんは東京、お母さんは広島出身の方である。

 

30年以上前に、同じようにまだ2歳くらいの長男を囲んで旅行していた。

妻のご両親と妻の二人の弟と私たち夫婦で旅行した。

妻のご両親は二人とも東京で生まれ育った方だった。

私の両親は参加できなかった。父が体調を崩して入院退院を繰り返していた。

旅行を提案したのは妻の弟だったと思う。

まだ赤ん坊だった長男を囲んでの楽しい旅だった。

その後、次男、三男が生まれたが毎年の行事になった。

でも、三男の誕生の頃、私の父と妻の父が相次いで亡くなった。

私の母も参加するようになり、妻の母親や弟達と出かけるようになった。

それは、子供達がかなり大きくなるまで続いた。

 

人は、いろんな人たちに囲まれて成長していく。

さらに、自然や文化など風土といわれるものの中で育っていく。

そして、人は生きていく中でいろいろな人に出会う。

それぞれに、違うところで違うものにかこまれて育ってきた人たちである。

そういうことを、最初に強く思ったのは妻と結婚した時である。

結婚することになり、妻の家族や親戚に会う機会があった。

妻は、東京で生まれ育ってきた。

私が知っている人たちとは、何か違っていた。

妻の父と妻の弟との会話も、まるで落語みたいだなと思った。

私は、秋田の自然豊かな中に生まれ育ってきた。

親子の関係も、秋田には秋田のものがある。父親や母親に対して、妻や妻の弟のようには振る舞えないと思うことがあった。

山や川が遊び場で、野山のものを食べていた。そういうことは、いろんなものの見方や行動に影響しているだろう。

それぞれに、違ったものにかこまれてきたのだ。

結婚式には、秋田の親戚たちが貸切バスで来てくれた。

新郎の挨拶で、私はこんなことを言った。

結婚は二人が出会うだけではなく、

お互いを育んでくれた人や風土と出会うことだと思う。

ほんとに、そんな気持ちでいた。

 

妻と出会う前からの、長い付き合いの山友達がいる。

新潟、山梨、東京、そして私が秋田。

それぞれが、全く違う環境で育ってきたもの同士で、山に登っていた。

お互いの実家を訪問し、泊まらせてもらったこともある。

大都市圏の周辺に住んでいれば、全国のいろんなところから来た人たちがいる。

そういう方と、知り合う機会も多いと思う。

私の最初の職場のメンバーも、北海道こそいなかったが、東北から九州まで揃っていた。

日本は、一つの国ではあるけれど、それぞれの都道府県で、いや同じ都道府県の中でも地域によって自然や文化など風土といわれるような違いがある。驚かされることがあったりする。当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったりする。

そういう人たちとの出会いは、面白いものだなあと思う。

 

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馬橇の鈴音

忍ぶ川」という映画が、1972年5月に公開されている。

主演は、栗原小巻さんと加藤剛さんだった。

私は、映画の原作となった三浦哲郎氏の小説を読んでもいないし、特に栗原小巻さんのファンでもなかった。でも、この映画を見た記憶がある。

1972年は、私が横浜に出てきた年である。高校時代、毎月映画館に通う映画少年でもあった私がその延長で話題の映画を見たのだと思う。

映画のストーリーは、ほとんど覚えていない。

印象的だった、ひとつの光景だけが記憶にある。

 

栗原小巻さん演じる女性は、加藤剛さん演じる恋人の青森県の実家に泊まっている。

三浦哲郎氏は、青森県八戸市の出身ということなので、加藤剛さん演じる恋人は三浦哲郎氏の分身なのだと思える。

実家は、雪が降り積もった中にあり、しんしんと冷え込んでいる。

そこに、遠くから鈴の音が聞こえて来る。

それが、だんだんと近づいて来る。

女性は、二階の戸を開け外を見る。

すると、馬橇を引いた馬の行列が通り過ぎて行く。

馬橇には、山で切り出した材木が積まれている。

鈴を鳴らしながら、何十頭の馬橇が進んで行く。

 

この光景をスクリーンで見た時、俺もこれを見たことがある、と思った。

小学生だった私は、暗くなった雪景色の中に、同じ光景を見ていた。

シャンシャンシャンという鈴の音が、今でも耳に残っている。

昼に山で切り出した木材を、馬橇まで運び、積み込んで進んでくるともう暗くなっていたのだろう。

 

森林鉄道もあるはずだが、雪の積もる季節には走れない。

除雪は到底し切れないからである。

夏の野山よりも、雪山の方が切り出した木材を扱いやすいのもあったと思う。

まだ、トッラクなどない時代である。

馬車と馬橇だけが、輸送の手段だったのだろう。

 

父は、払い下げられた国有林の木材を切り出して運び出す仕事をしていた。

本人は、「山師」という言葉を使っていた。

「山師」ということばには、いくつかの意味があるがそのうちの一つである。

その仕事のために、何人もの人を雇っていた。

ある晩、酔いつぶれた父が、若い衆に馬橇で運ばれて帰ってきた。

家族で迎えた場面を覚えている。

仕事が一段落してのご苦労さまの飲み会だったのだろう。

父は、お酒は強くなかった。

家では、ほとんど飲まなかった。どちらかと言うと、甘党だった。

 

それから数年で、馬橇も森林鉄道もなくなる。

トラック輸送に代わってゆく。

 

20代の頃に、北海道に何回か行った。

襟裳岬経由で、帯広に着き釧路に向かう前に待ち時間がかなりあったので、帯広の街を散策した。

歩いているうちに、郊外になり帯広競馬場に着いた。

柵の外から中を見ていたら、レースをやっていた。

ばんえい競馬だった。

土の上を土俵を載せた馬橇をひっぱって競い合う。雪ではなく土の上である。

馬は、もちろんサラブレッドではない。道産子でもない。古くから農耕馬として使われてきたばん馬(ばんえい馬)である。

私の田舎でもやっていたことを思い出した。

町中の農家のおじさん達が、自慢の馬を大声で叱咤激励していた。

雪のない季節にやっていて、お祭りだったと思う。「馬力大会」と言っていた

今でも、北海道や東北ではローカルな催しとして残っているようだ。

公営競馬では、帯広競馬場でのみ行われているらしい。

 

 

 

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きりたんぽ

鍋物の季節である。

スーパーにはいろいろな鍋物のスープと食材が並んでいる。

私は、秋田出身なので、「きりたんぽ」である。

今でこそ、どこのスーパーの売り場にも真空パックの「きりたんぽ」と「比内鶏スープ」があるが、かつてはどこにも売ってなかった。

どうしても食べたくて、母親ときりたんぽを作ったことがある。

つぶしたご飯を、菜箸に巻きつけて、ホットプレートで焼いてみた。

「きりたんぽ」は、秋田県北部の郷土料理である。あくまでも、家庭料理なので、お店では食べたことがない。

食材は、きりたんぽと鶏肉であるが、そのほかは家庭によって違うと思う。我が家は、牛蒡と芹だった。今は、たいてい舞茸などが入っているが、きりたんぽをつくる冬には、キノコ類は塩漬けくらいしかなかった。今は、キノコ類はいつでも手に入れられる。

芹を探して、スーパーをいくつも回ったことがある。芹がどうしても見つからなかったことがある。芹の入ってないきりたんぽは「きりたんぽ」ではなかった。

 

郷里の大館市では、きりたんぽをつくる会社がいくつもあるようだ。比内鶏の名前になっている「比内町」は、合併で大館市になっている。

当時は「きりたんぽ」で使う鶏肉は自家調達だった。その辺を走りまわっていたニワトリが使われた。だから、「きりたんぽ」は、めったに食べられないご馳走だった。

人がたくさん集まる機会に作られていた。杉の細い棒につぶしたごはんを巻きつけたものをいっぱいつくる。これが、たんぽだと思う。鍋に入れるために、たんぽを斜めに切る。それが、「きりたんぽ」。言ってみれば、焼きおにぎりみたいなものなので、鍋に入れてもくずれにくい。

杉の細い棒は片方が尖らしてあって、それを囲炉裏の灰に刺して炭火で焼いていた。

それは、おじさん達のしごとだった。

おじさん達が世間話をしながら、たんぽを刺し変えて向きを変えていた。

わたしは、それを隣に座って見ていた。

 

「きりたんぽ」は、手間と時間がかかる。手早くすぐに食べたい時は、「だまこもち」にする。きりたんぽのかわりに、つぶしたごはんを、だんごにして鍋に入れる。焼いてないので、くずれやすい。

 

できた「きりたんぽ」は大勢で、どんぶりで食べた。

一冬に、一回か二回くらいしか食べる機会はなかったと思う。

だから、今でも食べたいな、と思う。

 

それとは対照的に、お餅はあまり食べたいと思わない。

父親が出稼ぎで不在だったので、私が母親と餅を何臼かついた。

冬の間、お餅を食べていた。

言ってみれば、嫌になる程食べたので、今は苦手である。

 

「きりたんぽ」は、誰でも知っている料理になった。

どこでも売っているようになった。

50年前とは、ずいぶん変わった。

 

 

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