晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ロックの時代13 ゲット・イット・オン

ロックという音楽を聴くようになった頃、今でも同じだけれど、日本以外だと英語が使われていた。

ヨーロッパのバンドは少なかったけれど、英語で歌っていた。

ほとんどは、アメリカとイギリスだったが、聴いているうちになんとなくわかるようになった。

どっちがアメリカで、どっちがイギリスか、ちょっとちがう。

どこが、どう違うか、というとむずかしい。

繊細さ、という単純なものではない。

よくはわからないが、イギリスのものに何か、屈折したものを感じていたのだろうか。

それが何からくるものか、わかっていなかった。

歴史からくる社会の違いがあったのだろうけど、その頃はわかっていなかった。

 

T・レックス 「ゲット・イット・オン」

en.wikipedia.org

初めてこのバンドの曲を聴いた時は、「テラノサウルス・レックス」と名のっていたと思う。

あの恐竜の名前そのままである。 

すぐに、「T・レックス」というシンプルなものになった。

グラムロック」の先駆けだったと思う。

“glamouros"(魅惑的)からきてるように、それまでのロックとは、一風違った雰囲気があった。

後に、日本のビジュアル系につながるのかな。

T. Rex - Get It On (1971) HD 0815007

https://www.youtube.com/watch?v=wZkTh_T75QY

 

フリー 「オール・ライト・ナウ」

ja.wikipedia.org

ブルースをベースにしたハードロック・バンドだったが、私はこの曲が好きだった。

この曲は、オーソドックスなブルース・ロックということになるのだろうが、ポール・コゾフのギターもポール・ロジャースのボーカルも、高校生だった私には好ましいものだった。

印象的なギタリストだったポール・コゾフは、25歳で亡くなった。

ボーカルのポール・ロジャースは、脱退後「バッド・カンパニー」を結成し、本国イギリスよりも北米で人気のバンドになった。

Free - All Right Now (Doing Their Thing, 1970) Official Live Video

https://www.youtube.com/watch?v=vqdCZ0yHNa4

 

デビッド・ボウイ 「スターマン」

 

ja.wikipedia.org

デビッド・ボウイは、大きなヒット曲はなかったけれど、日本ではずっと人気があったような気がする。

T・レックスのマーク・ボランと同様濃いメイクをしていて、グラムロックの代表的ミュージシャンだった。

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」にも出演していた。

この映画には、坂本龍一ビートたけしも出ていたのだな。

なんと、キャストを見ると、内田裕也三上寛、ジョニー・大倉もいる。

この作品は、映画館で観たはずだが、気がついてなかったかもしれない。

ミック・ジャガーとコラボして、「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を歌って踊っていたのも、印象に残っている。

あれは、いつ頃だったのだろう。

日本人好みの人だったと思うけど、亡くなってもう5年になるんだな。

David Bowie Starman (1972) official video

https://www.youtube.com/watch?v=sI66hcu9fIs

 

 

 

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江戸川ランニング コスモス畑を目指して走る

天気予報では、気温は上がらず雨も降る可能性が低いらしい。

久しぶりに、ランニングに出かけようと思う。

手賀沼は、ここのところけっこう行っている。

江戸川は、サイクリングは行ってるが、ランニングはしてない。

ランニングだと帰りがきついので、自転車ではなく車にする。

車を停めて、江戸川の土手に向かう。

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一茶双樹記念館

歩き始めると、広い敷地の邸宅があって、「一茶双樹記念館」という看板があった。

江戸時代の俳人小林一茶は、この東葛飾に俳句を通じた友人があり、流山もゆかりの土地であるらしい。

この建物の前は、よく歩くがまだ記念館には行ったことはない。

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真言宗豊山派 光明院

さらに歩くと、光明院という真言宗の寺院があった。

入り口の案内板を見ると、元の名称は長福寺で、菩薩形坐像という仏像があるらしいが、今日は先を急ぐので、通り過ぎる。

このお寺の隣は、赤城神社である。

背後に広い森があるので、お参りすることにする。

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赤城神社

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参拝したあと、江戸川土手の方向に歩き出すが、百メートルも行かないうちに寺院があった。

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曹洞宗 流山寺

流山寺は、コンクリート造りの一風変わった建物だった。

流山七福神のうちの大黒天であるとの、案内板があった。

大黒天は、ヒンドゥー教の神であるとある。

それにしても、七福神というのは不思議なものだ。

一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天であるが、それぞれヒンドゥー教、仏教、道教神道などに背景を持つものらしいが、日本ではセットになっている。

恵比寿さまが、唯一日本由来の神であるということだ。

お寺の前を通って、土手に向かう。

 

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江戸川土手より三郷方面

雨天が続いていたので、江戸川は泥水の色である。

空も一面雲で、薄暗い。

サイクリングならば、流山橋を埼玉県に渡り、三郷から東京方向に南下していた。

今日は、ランニングなので、千葉県側の土手をそのまま、松戸方向に南下することにする。

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いつもは、自転車で北上して来る土手を、反対に南下して行く。

肌寒いくらいの気温であるが、走り始めていると土手を渡る風が心地よい。

武蔵野線、ガス管橋、つくばエクスプレスと橋を越えていくと、松戸排水機場に着く。

江戸川と並行する坂川から分岐して来た坂川放水路が、ここで江戸川と合流するが、立派な水門があって、水量を調整している。

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坂川放水路と松戸排水機場の建物

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江戸川と合流

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松戸排機水機説明板

説明板によると、東京側を江戸川と並行して流れる中川や綾瀬川も、三郷放水路や綾瀬川放水路によって、それぞれがつながっていて、増水の際にはその流水量を調整することにより、洪水を防いでいるとのことである。

 

ひさしぶりのランニングは、快調に走れた。

柴又帝釈天の向かいにある矢切りの渡しまで行こうと思っていたのだが、出発が寄り道で遅れたので、河川敷にある「コスモス畑」まで行くことにした。

「コスモス畑」は、上葛飾橋の近くにある。

家族で、何回か来たことがある。

初めて「コスモス畑」を見た時は、一面に花が咲き乱れていて感激した。

 

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樋野口川の一里塚

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一里塚説明板

松戸市では、江戸川土手を公園のように整備している。

土手を遊歩道として、休憩できるように一里塚には、ベンチなどが設置されている。

しっかりしたトイレもあるので、散歩やランニングしていても、安心である。

一里塚は、古ケ崎と矢切りの渡しにもある。

もちろん、江戸川には他の市にもそのような施設はあるが、それぞれ、一ヶ所くらいしかない。

 

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ゲートボール場の整備中

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コスモス畑に近くなったら、年配の方が大勢集まっていた。

どうも、ゲートボール場の芝刈りをしているらしい。

でも、ゲートボール場って芝だっけ。

ゲートボールは、すっかり日本の老人の生活に定着したようだな。

もし、ゲートボールがなかったらと思うと、やっぱりあってよかったものだろうな、と思う。

 

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コスモス畑 花はまばら

コスモス畑に到着したが、花はまばらだった。

茎はとても高く伸びているのに、花が少ない。

何年か前に、江戸川が増水して、河川敷が長い期間にわたって冠水した。

そのせいか、その後コスモスの花のつき方が悪くなった気がする。

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何百メートルもあるコスモス畑を歩いていると、地元の保育園の子たちが世話してる畑があった。

茎は、他よりも背が低く、花の数は似たようなものだ。

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コスモス畑を過ぎて、江戸川の水辺に出てみた。

生い茂った雑草をかき分けて、水辺に近づくと水の色はいつもと違って濁っている。

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土手に登って、ひと休みする。

川向こうに見えるスカイツリーが、いつのまにか霞んでいる。

どうも、スカイツリーのあたりは雨が降っているらしい。

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そろそろ、帰らないと雨に降られてしまう。

走り始めると、コスモス畑に先ほど気づかなかった石碑が見えた。

戻って、石碑の近くに行ってみた。

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石碑の内容は、平成7年から河川敷にコスモス畑を、整備してきたことが述べてあって、その10周年の記念碑だった。

土手の斜面は草が刈ってあって、そこで鳩の群れが何か食べていた。

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それが、何に驚いたか、突然飛びったって行った。

いったいなんだったのか、私も驚いた。

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走ったり、歩いたりしながら、流山橋まで戻った。

案の定、途中で少し雨に降られた。

それでも、それほど強い降りでもなく、無事車まで戻ることができた。

 

 

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秋田もろこしと大館のお菓子

昨日は、南部せんべいのことを書いた。

そうしたら、秋田のお菓子も食べたくなってきた。

やっぱり、秋田もろこしだなと思ったが、南部せんべいと同じように全国的には知られてないだろう、という気がした。

ほとんど、スーパーのお菓子売り場で見たことがない。

「もろこし」ってなに?と言われたら、落雁の仲間かなというしかない。

落雁というのは、米などから作った粉に水飴や砂糖をまぜて着色し、型に押して固めて乾燥させた「打ちもの」と呼ばれる「干し菓子」である、となってる。

原料は、米だけではなく豆、栗、蕎麦なども使われるらしいが、「秋田もろこし」は他ではない小豆(あずき)の粉が使われている。

そのせいか、やさしい風味が口に広がって、上品である。

かみ砕くよりは、口の中で溶けていく感じなので、最近は一口サイズの小さくてかわいい感じのものが、多くなってる気がする。

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秋田もろこし ウェブサイト「食と暮らし学」より

nanmoda.jp

「もろこし」は、秋田県で全県的に食べられているものだと思う。

私は、10代で秋田を離れてしまったので、今ひとつ自信がない。

私が育ったのは、秋田県の北東部の大館市の近辺である。

大館は、いちおう秋田藩の支城があった城下町だったので、古そうな和菓子屋さんがあった。

秋田を離れてからも、姉や親戚はいたので、よく帰郷した。

子どもの頃から好きだった和菓子を、おみやげに買ったり、もらったりした。

これらのものは、大館のローカルなものだと思う。

 

「練屋のバナナ」というのが、一番好きだった。

「練屋のバナナ」は、最中である。

バナナの形の皮の中に、バナナのフレーバーの餡が入っている。

子どもごころにも、なんて上品なおいしさだろう、と思った。

最近は、ひとサイズ小ぶりな、ミニバナナも出ている。

 

www.neriyakashiho.com

nanmoda.jp

 

島内製菓の「大文字」というお菓子は、我が家の息子たちが子どもの頃、大好きだった。

秋田に行くたびに、おみやげに買っていた。

島内製菓は、私にとって懐かしいお店である。

高校時代、新聞部にいた私は広告をお願いしに通っていた。

このお菓子は、毎年大館市鳳凰山で行われる「大文字送り火」にちなんで、つくられたものだと思う。

慰霊と無事息災を願った「大文字送り火」は、昭和43年に始まったらしいので、大館に昭和44年から住んでいた私は、それを見ていたはずだ。

 

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大文字 島内製菓

お菓子の「大文字」は、とてもシンプルな、ものだ。

小豆の餡がたっぷり入ってるのが、子どもたちの気に入ったのだろう。

今でも、ときどき食べたいな、と言ってる。

 

子どもの頃に、父親がときどき「あけがらす」というお菓子を買ってきてくれた。

大人っぽいお菓子だな、と思っていた。

その後食べるたびに、好きになっていく気がする。

「明けがら寿」(あけがらす)は、砂糖、クルミ、寒天だけを原材料としている。

見た目も、食べた感じも、すっきりしていると思う。

shop.yamadakeigetudo.com

「あけがらす」は、かつては山田桂月堂さんだけで作っていたと思うのだが、今は大館市内の和菓子屋でレシピを共有して、「大館のお菓子」にしようとしてるようだ。

 

子どもの頃に食べていたお菓子が、50年後の今も変わらず作られて、売られているのはうれしい。

大館のお菓子は、私の住んでる所ではもちろん売ってはいないが、ネットショッピングで買うことができそうだ。

帰郷する機会も少なくなったので、使ってみようと思う。

いつまでも、残っていてほしいものだ。

 

 

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南部せんべいが食べたい

ここしばらく、スーパーへ行くと南部せんべいを探していた。

なかなか、見つからない。

スーパーは、歩いて行ける範囲で6カ所くらい、車で行くところは倍くらいになる。

南部せんべいは、どこのスーパーでも置いてあるわけではない。

だいたい、3店のうち1店くらいの割合でしか、置いてない。

どこにあるか覚えればいいのだが、どうも学習能力がない。

同じことを繰り返して探している。

やっと見つけたのは、「ヤオコー」というスーパーである。

製造会社は、「東北みやげ煎餅株式会社」で、所在地は青森県上北郡東北町である。

touhokumiyage.shop

私の住んでいるあたりのスーパーでは、今ひとつ「南部せんべい」は認知されていないようだ。

あったとしても、せんべいの売り場ではなく、他のお菓子売り場にあったりする。

南部せんべいのことは、このブログでも何回か取り上げている。

私は、子どもの頃に南部せんべいを食べて育ったので、定期的に食べたくなってしまう。

南部せんべいは、名前のように旧南部藩で生産・消費されてきたもので、もともとは非常食だったらしい。

南部藩ということで、岩手県青森県東部がその範囲である。

秋田県の北東部の鹿角郡も旧南部藩であったので、その隣接している大館市とその周辺も南部せんべいの範囲だったのだろう。

私の生まれ育った町も、大館市の隣だったのだが、売ってはいたがどんなところで作っていたのかはわからない。

 

関東あたりで、「せんべい」といったら、草加せんべいになると思う。

草加せんべいは、私の妻の大好物だが、堅くてしょっぱい。

調べてみると、「せんべい」世界も、奥が深い。

奥だけではなく、幅も広いと思う。

いわゆる「せんべい」は、米粉を原料とした米菓煎餅であり、醤油を塗ったものである。

しょっぱいだけではなく、砂糖やザラメを塗ったり、ソースやジャムを塗った甘いものもあるらしい。

ボンチ揚げのような揚げせんべいもある。

これらは、どうも焼いたり揚げてから味付けをしてるようだ。

 

関西では、生地自体に味付けしてから焼いているものが多いみたいである。

私の知ってるところでは、四国高松市の「瓦せんべい」がある。

これは、名前どおり堅くて甘い。

京都の「焼き八ツ橋」も、この仲間になると思う。

「生八ツ橋」が今は有名かも知れないが、本来は焼くものだったらしい。

子どもたちが小さい頃に、舘山や鴨川、勝浦など千葉県南部の安房方面によく行った。

そのあたりには、「房州名物鯛せんべい」というのがあって、子どもたちが大好きだった。

kameyahonten.co.jp

これは、どう考えても鯛の形はしているが「瓦せんべい」の仲間である。

千葉南部は、安房や勝浦という地名があるように、関西からの移住した人々がつくったところなので関西の文化圏なのだろう。

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南部せんべい (ウエブサイトから)



南部せんべいは、米菓煎餅とは違って、原料は小麦粉である。

調べてみたところ、小麦粉を原料としたものは、岩手県一関市の「亀の子せんべい」、東京都大島町の「牛乳せんべい」、三重県上野市の「かたやき」しかない。

南部せんべいは、もともとが非常食で、甘くなく、揚げたり鍋に入れたりしていたものらしい。

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せんべい鍋 まだ食べたことはない (ウエブサイトから)

その後、いろいろバリエーションが増えて、私の子どもの頃には、ピーナツが入った甘いものと、黒ゴマが入ったちょっと塩味のものがあった。

ゴマ入りが好みだけれど、たまには甘いピーナッツ入りも食べたくなる。

同じせんべいという名がついているが、草加せんべいとはまったく別物である。

草加せんべいのように、堅くもしょっぱくもない。

適度な歯ごたえと、やさしい甘さと塩加減で、ときどき食べたくなってしまう。

スーパーの売り場担当者が、せんべい売り場に並べない気持ちもわからないではない。

 

 

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福満寺 柏市大井

2週間ほど前に、「雨上がりの手賀沼サイクリング」に出かけた際に、サイクリングの途中で大井の福満寺に寄ってみた。

「将門王城跡」を訪ねた際に、福満寺の山門前には行っていた。

王城跡は、福満寺の近くにあるのは確かなので、あわよくば見つかるだろうと思ったのだが、やっぱりわからなかった。

福満寺の境内を、ひとまわりしてみた。

記録は保留にしていたので、今回のブログに載せる。

 

福満寺は、柏市大井の地に、奈良時代に創建されたという天台宗の寺院である。

寺の由緒書によると、

福満寺は、1200年ほど前の第50代桓武天皇の御世(781〜806)に創建され、開山はは権大僧都法印尊慶上人です。

承和11年(844)の薬師堂の棟札に「下総国相馬郡南相馬庄大井郷別当福満寺」とあり、天台宗の寺院として周囲の神社を統括する別当寺院であったことがわかります。

となっている。

 

天台宗の開祖最澄が、天台宗を開宗したのが、延暦25年(806)であるので、福満寺の創建はもう少し時代が下るのではないだろうか。

平将門は、生年903年没年940年と言われているので、すでに福満寺はあったことになる。

 

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福満寺の境内は、竹林に囲まれた窪地にあった。

今回は、寺院の裏から登っていった。

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六地蔵

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四国八十八ヶ所

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高野山巡拝記念碑

福満寺には、他の寺院では見たことのない光景があった。

斜面一面に、境内社それともお堂?、が並んでいる。

その前面に、本四国八十八ヶ所高野山巡拝記念碑があるので、参加者が境内社を寄贈したのだろうか。

いや、このような場合は、寄贈ではなく、奉納?というのだろうか。

ひと回りしてみたのだが、なかなか経験できない感じのものだった。

他の寺院にも、あるものだろうか。

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日暮玄蕃乃墓

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大井の七人影武者伝説の里

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将門大明神発見

将門大明神が、境内にあることがわかったので、戻って探してみた。

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将門大明神

本堂の隣に、小さな祠があって、それが「将門大明神」だった。

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竹林に囲まれる

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福満寺のある大井の地は、古くから栄えたところであったらしく、奈良時代正倉院の記録にも残っている。

 

「和名抄」下総国相馬郡六郷の1つ。正倉院調庸関係銘文の両口布袋に「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部麻呂 調并庸布一端 天□(平)十七年十月」「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部弟荒戸口矢作部広足調并庸布一端」とあり,当郷の住人2人の名が見える(正倉院宝物銘文集成)

 

大井郷の矢作部麻呂さんと矢作部広足さんが、庸として布を納めた、ということだろうか。

 

平将門王城の地に比定されている大井の地であるが、これについては角川日本地名辞典では、次のように述べている。

 

将門記」「今昔物語集」巻25によると平将門が新皇となった折,都を下総国狭島郡の亭南に定め,「相馬郡大井の津」を京の大津としたという。「地理志料」は大井の津を現在の沼南町大井付近とみているが,「地名辞書」は現在の茨城県藤代町配松付近に推定し,当郷もその近辺かという。

 

また、福満寺山門脇の幟にには「大井の七人影武者伝説の里」と書かれている。

北斗七星の妙見信仰にちなんで、七人の影武者がいたとされるもので、

坂巻、石原、石戸、吉野、富瀬、久寺家、座間の七家がそうであるが、何家かは子孫の方が住んでいるらしいが、地名として残っているものもあるらしい。

私の知ってる限りでは、このうちの富瀨は柏市の東端に地名としてある「布瀨」であり、「久寺家」は手賀沼を挟んで北岸に「久寺家」という地名として残っている。

その他は、柏近隣ではよく見かける苗字である。

 

福満寺の南方には、「車の前五輪塔」がある。

五輪塔自体は、室町初期に建立されたものらしいが、この場所については伝承があるらしい。

平将門の側室車の前が、遺児とともに隠れ棲み、将門の信仰していた妙見菩薩を祀るお堂を建てその菩提を弔ったと伝えられている。

森と畑に囲まれてひっそりとあるみたいです。

 

さらに、福満寺のかなり東方に「将門神社」がある。

将門の次女如春尼、又は三女如蔵尼によって、創建されたとされる。

所在地は、柏市岩井で、「岩井」は将門の本拠地だった猿島郡岩井からつけられたといわれている。

「将門神社」を称する神社は、全国にあまりないらしいが、手賀沼を挟んで我孫子市日秀(ひびり)にも、将門神社がある。

こちらは、将門の母が相馬郡の「県犬養枝女」でこの地で幼少期に育ったという伝承があるためである。

どちらの地にも、将門調伏を祈った成田山新勝寺に対して対抗する風習が残っているらしい。

 

サイクリングで行ける範囲内なので、そのうちに足を伸ばしてみたい。

 

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白髪は親譲り

今日は妻と出かけていたので、昼食のためにお店に入った。

斜めの席は小さな子供連れの家族だった。

食べ始めてしばらくして、ふと目を上げたら、赤ちゃんと視線が合った。

赤ちゃんがじっと、私を見ていた。

あれっと思ったが、こっちもあまり見てもと思って、視線を外した。

赤ちゃんは、お母さん抱っこされていて、まだかなり小さかった。

少し経ってからまた見たら、くりくりした目でまだ私を見ていた。

興味深そうに見ているので、相手をしてしまうとまずいかもしれないと思って、やめておいた。

 

赤ちゃんから、じーっと見られるのは、何回か経験している。

隣の席の赤ちゃんの相手をしていたら、やけになつかれてしまったこともある。

私は、それほど赤ちゃんに好かれるような顔立ちとかではないと思う。

どうしてかなと思うのだが、考えてみて思い当たるのは、白髪頭である。

真っ白というほどではないが、かなり白い。

赤ちゃんは、自分のおじいちゃんと似ているのに反応してるのかもしれない。

 

白髪が目立ちはじめたのは、40歳前後くらいだと思う。

初めのうちは気になって、カラーリンスとかをやっていた。

ところが、どうもそういうものにアレルギーがあるらしく、頭の皮膚がかゆくてどうしようもない。

まして、白髪染めなどとんでもないということで、何もしないようになった。

それからは、白髪には抵抗しないことにした。

しょうがないことだと、思うことにした。

 

私の白髪は、親譲りである。

母親は白髪だったし、母方のおじいちゃんも白髪だったので、白髪の家系である。

父親の家系は、禿げる家系である。

父は、30代ではもう頭の上部は禿げていた。

父の実家のおじさんたちは、おでこが大きく後退していた。

私としては、白髪でも、髪が無くなるよりはいいか、と思っていた。

とはいっても、60代になってからだいぶ髪が薄くなっている。

もう、あんまり気にしてはいない。

 

高校生の頃に、髪の毛に金髪が混じっているのに気がついた。

髪の毛が、金色に光っている。

これは、いったい何だろうと思った。

今考えると、それは白髪の前兆だった。

黒い色素が薄くなると、金色に見えるのだろうか。

まぎれもなく白髪になったのは、それから20年近くなってからである。

 

父は、ふだんはあまり服装に気を使う人ではなかった。

でも、お出かけする時は、いつも背広に帽子をかぶっていた。

残っている写真を見ると、おしゃれに帽子をかぶっている。

それなりに、寂しくなっている頭を気にかけていたのだと思う。

私は、帽子はあまりかぶらない。

ランニングやサイクリングの時に、かぶるくらいである。

でも運動用のキャップだと、よく飛んでしまって、めんどうである。

おしゃれの帽子もいいなとは思うが、私の性格向きではないかも知れない。

 

 

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手書きの天気図と気象衛星の写真

今週は、しばらく天気の悪い日が続くらしい。

天気予報では、傘マークが並んでいた。

私たちの生活には、テレビの天気予報は欠かせないものに、なっている。

ときどき、予報が外れて、なんだよ、ということはあるが、だいたいはあたる。

天気予報の的中率は、85%くらいらしい。

たいしたものである。

今は、気象衛星もあるので、雨雲の写真もあって、一目瞭然である。

雲の流れもわかるので、週間の予報もできる。

 

天気予報といえば、天気図である。

大きな日本地図に、いろんな表示ができる。

小学生の頃に、天気図を書いた記憶がある。

白紙の天気図用紙が配られて、先生が場所ごとの天気や気圧や風向きなどを読み上げた。

それを、聞いて用紙にデータを書き込む。

最終的には、気圧の同じ等圧線を結んで完成だった。

考えてみたら、小学生には高度すぎる気がする。

5、6年生だと思うが、担任が理科が専門の先生だったので特別だったのかな。

天気図の記入は、どこの学校でもやってたのだろうか。

それとも、中学時代と思い違いだろうか。

 

天気図用紙は、今でも売っている。

「ラジオ用天気図用紙」となっていて、NHKの第二放送で天気図記入のためのデータを放送しているらしい。

今は、気象予報士の制度もできて、予報を業務とする会社もあるけれど、かつては予報を必要とする業界などは、自前でそれを準備しなければならなかったのだろう。

いや、気象協会というのはあったと思うが、個々の要望に応じたことはやってはくれなかったのかな。

私が、登山を始めた頃には、天気図を用意することはなかったが、もう少し前の時代は必需品だったのかもしれない。

 

テレビの天気予報は、毎日のように見ている。

そして、天気予報の気象予報士の方は、長い期間担当していることが多い。

顔と名前を知ってる気象予報士の方は、かなり多い。

気象予報士の国家試験は、1994年(平成6年)に第一回が行われたそうだ。

受験には、年齢や学歴などの制限はなくて、一般知識と専門知識の学科試験と記述式の実技試験がある。

現在の気象予報士は、10840人で、最年少は11歳11月、最年長は74歳11月ということである。

気象予報士のうち、予報業務許可事業者に就職しているものは700人程度、そのうち現象の予報を担当しているのは400〜450人ということであり、現実に気象予報を職務とすることは、かなり狭き門となるようだ。

ただ、気象予報に直接関わらなくても、いろいろな業界において、気象情報の分析や、気象コンテンツの作成は重要性を増していると言われる。

身近なところでは、スーパーやコンビニの、特に食べ物関係は、天気や気温によって、売り上げが大きく違ってしまうというのは、よく聞く。

 

気象観測所は、全国に60ヶ所あるということだ。

これは、昔ながらの有人の施設だと思う。

今は、この他に1300ヶ所の無人の観測所がある

その他にも、気象観測ボランテアみたいなのがあって、登録したメンバーがスマホで撮影した写真やデータを送るシステムもあるらしい。

これによって、観測点を増やすことができ、予報を完璧に近づけるんじゃないかな。

最近は、局地的に豪雨や突風などの災害が多い。

私の住む街は、南北にかなり広いので、結構天候の違いがある。

北部でひどく雨が降ったのに、南部ではまったく降らなかったりする。

そういうローカルな気象の変化に対応できそうだな。

 

 

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人が生きた証し

「人間は二度死ぬ」ということばがある。

ある方が、これは古代ローマとか中世ヨーロッパとかの思想家のことばかと思って、引用しようと出典を調べると、近代の俳優のことばだった、と書いていた。

俳優が誰かは、書かれていなかったので、調べてみた。

調べた結果わかったのは、俳優は松田優作さんだった。

ほんとに、これが正確なのかわからない。

「人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ。」

松田優作さんは、このように言ったらしい。

人間にとって、最初の死は肉体的な死である。

そして、その人を知る人の記憶から消えた時に、ほんとの死が訪れる。

そういうことだとすると、もっと以前に同じようなことを言った人がいても、おかしくはないような気がする。

 

記憶から消えた時がほんとの死、なるほどと思った。

そして、亡くなった父と母、それから姉のことを思った。

父は、もう30年も前に亡くなっている。

三男が生まれる前に、亡くなっているので、長男はかろうじて父の記憶があるかもしれないが、次男ははたしておぼえているか。

数年前に亡くなった母は、孫やひ孫に囲まれていたので、ひ孫の記憶にもしっかり残っている。

私より五歳上だった長姉は、50代半ばで病気で亡くなった。

病室のベッドの上で、自分の生まれたばかりの初孫を抱いて、何日か後に亡くなった。

その初孫は、今年大学生になった。

人、それぞれである。  

 

三度目の死もあるのではないかと、言ってる人もいるらしい。

その人が残したものが、無くなった時が三度目の死なのではないか。

技術系の人だったら、それは橋だったり、道路だったりするだろう。

大工さんだったら、神社だったり、寺院だったり、住宅だったりする。

文章を書く人だったら、書籍として残る。

松田優作さんのように俳優だったら、映画として残る。

それが、その人と明確な関係が残されてる場合もあるだろうし、曖昧な場合もあるだろう。

そのようにして、その人が関わったものが残っている。

三度目の死は、ずいぶんと長い年数を経て訪れるだろう。

 

「人は二度死ぬ」という言葉を見ていて、同じような言い方があったと思った。

思いあたったのが、「007は二度死ぬ」である。

日本を舞台に制作されて1967年に公開された映画である。

調べていて妙なことに気がついた。

原題は、“You Only Live Twice"なのである。

「二度死ぬ」ではなく、「二度生きる」なのである。

 「007」シリーズの原作者であったイアン・フレミングが来日した時に、松尾芭蕉の俳句にならって、英文俳句をつくった。

"You only live twice:Once when you're born,And once when you look death in the face." (人生は二度しか無い。生まれた時と死に直面した時と。)

もともと、英語にある慣用句“You only live once"(人生は一度っきり)をもじったものだという。

これだと、死に直面した時に、自分の人生の意味を知るということだろうか。

これが、映画のタイトルになったらしいが、日本語に訳されたものは微妙にニュアンスが違ったものになっている。

 

これと似たようで、ちがう言葉が他にもある。

フランスの思想家ルソーは、「エミール」の中で次のように述べている。

「わたしたちはいわば二回この世に生まれる。

一回目は存在するために生まれ、二回目は生きるために、はじめは人間に生まれ、次に男性か女性に生まれる。」

赤ん坊として、この世に誕生すること。

思春期を経て、ひとりの人間として生きていくこと。

そのことを、言ってるのだろう。

 

考えてみると、日本で言われている「人は二度死ぬ」ということは、人を外側から見ている気がする。

生きている人と人の関係で、人間というものが成り立ってる、ということをどこかで聞いたことがある。

それに対して、あとであげたことばは、人を内側から見ていることになるのかな。

 

 

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昆虫すごいぜ!

テレビの電源を入れたら、「昆虫すごいぜ」という番組だった。

香川照之さんが、進行する昆虫研究の番組だった。

香川さんは、カマキリのかぶりものをかぶっていた。

昆虫研究というよりも、昆虫オタクの香川さんによる昆虫採集の番組らしかった。

以前にも、一、二回この番組を見かけたことはあったが、じっくり見たことはなかった。

今回は、今まで放送したもののスペシャルらしかった。

なので、通常はどんな放送内容なのかよくわからない。

香川さんは、この番組では「カマキリ先生」ということになってる。

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画面の写真を撮ってしまった

今回の対象は、タガメで2年前にコスタリカにロケに行った内容が放送されていた。

なんと、この番組は2016年から放送されているらしい。

番組の最後まで見てしまったが、香川さんの昆虫に対する愛情というか、のめり込み方が並大抵ではないことを感じた。

香川さんは、私の好きな俳優さんであり、気になる人であったのだが、少し見方が変わった。

本人は、「本当にやりたい仕事にめぐり会えました」、「これが僕の代表作です」、と言ってるらしい。

 

私は、田んぼに囲まれた農家で、生まれて育った。

だから、昆虫たちはあたりまえに、いつでもどこでもいた。

夏になれば、田んぼの上は蛍が乱舞していた。

あたりまえすぎて、昆虫について特別な関心を持って、のめり込むことはなかった。

それでも、ファーブルの昆虫記は小学生の頃に読んでいる。

高校一年の夏に、隣町の市街地に転居した。

町の中心地だったので、畑も田んぼも近くにはなかった。

町はずれにある高校まで、毎日徒歩で登校していた。

むしろ、高校のまわりの方が畑があった気がする。

 

子どもの頃を思い出すと、「佃煮(つくだに)」という食べ物があった。

佃煮は、小魚や貝などを、醤油と砂糖で甘辛く煮つけたものである。

イナゴの佃煮があったことを、思い出した。

イナゴやバッタの、イナゴである。

海の小エビの佃煮もあったのだから、陸のイナゴも似たようなものだった。

素材を丸ごと使っているのだから、栄養的にも文句のないものだったのだろう。

最近は、佃煮といってもあまり存在感がないかも知れない。

佃煮の行商は、定期的に田舎にも来ていた。

東京の佃島の漁師たちの、常備菜・保存食だったというのは、よく知られていた。

 

手塚治虫先生は、「オサムシ」という昆虫の名前を、ペンネームに使った。

同じように、昆虫に対して思い入れのある方は、多いのだろう。

私には、そこまでの思いはない。

しかし、都会の人たちのゴキブリへの態度には違和感がある。

どうして、あそこまで嫌うのだろう。

それが、ゴキブリの生息する場所にあるのだろうということは、わかる。

衛生的ではない場所で、生活していると思われている。

清潔好きな人たちにとっては、我慢できないのだろう。

ほんとにそうなのか、という気がしないでもない。

 

ゴキブリの古名は、「 あくたむし」や「つのむし」だったらしいが、江戸時代に「アブラムシ」と呼ばれるようになった、とある。

明治になって、「ゴキカブリ」の「カ」が欠落して、「ゴキブリ」が、定着した。

現代の人たちにとっては、虫はいない方がいい存在なのだろう。

「虫もいないような場所は、ろくなものではない」という田舎育ちの私のような人間のことばは、説得力がないだろうな。

 

 

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菅江真澄の足跡

菅江真澄は、天明8年(1783年)に、30歳で郷里三河を旅立っている。

そして、それから46年後の文政12年(1829年)に、秋田にてその生涯を終える。

菅江真澄は、その間に多くの著作を残している。

その紀行文、又は日記にはやはり多くの図絵を含んでいて、私たちはそれによって、真澄が見ていたもの、感じていいたものを知ることができる。

その間に、真澄は郷里の人たちと手紙によって連絡を取り合っていた形跡はあるが、三河に帰郷した記録はない。

 

真澄は、江戸時代後期のひとであるが、その頃の人にとって自分の生まれ育った土地を離れて旅するということはどうのようなものだったろうか。

江戸や京へ行くことは、あり得たかも知れないし、伊勢参りもあっただろう。

しかし、出羽国陸奥国は、はるか遠い異国だったのではないだろうか。

まして、蝦夷地は幕藩体制の範囲外にあっただろう。

ロシアが蝦夷地の周辺に出没し、脅威を与えていた。

真澄は、その蝦夷地でも四年もの長い年月を過ごしていた。

ただの風流の人ではない。

 

内田武志氏と宮本常一氏が編纂した「菅江真澄全集」は、全13巻からなっている。

そのうちの、4巻が日記であり、いわゆる紀行文である。

さらに、4巻は秋田藩の依頼により、調査作成した地誌である。

日記の内訳は、次のようになる。

 

信濃  1783年5月〜1784年7月  

   「いなのなかみち」、「わかこゝろ」、「すわのうみ」

越後  1784年7月〜9月   

   「くめじのはし」      

庄内  1784年9月      秋田  1784年9月〜1785年8月  

   「あきたのかりね」、「おののふるさと」

津軽  1785年8月〜10月

   「そとがはまかぜ

陸奥  1785年10月〜1788年6月

   「けふのせはのの」、「かすむこまかた」、「はしわのわかば

   「ゆきのいさわべ」、「いわてのやま」

津軽  1788年6月〜7月

   「そとかはまつたい」

蝦夷地  1788年7月〜1792年10月

   「えみしのさえき」、「ひろめかり」、「えぞのてぶり」

   「ちしまのいそ」

下北  1792年10月〜1795年3月

   「まきのふゆがれ」、「おくのうらうら」、「まきのあさつゆ」

   「をふちのまき」、「おくのてぶり」、「おくのふゆごもり」

津軽  1795年3月〜1801年11月

   「つがろのおく」、「すみかのやま」、「そとがはまきしょう」

   「ゆきのもろたき」、「つがろのおち」、「つがろのつと」

   「にしきのはま」

秋田  1801年11月〜1829年7月

   「ゆきのみちおくゆきのいでわじ」、「しげきやまもと」

   「ゆきのあきたね」、「すすきのいでゆ」、「にえのしがらみ」

   「うらのふえたき」、「おがのあきかぜ」、「みかべのよろい」

   「かすむつきほし」、「おがらのたき」、「にしきぎ」

   「とわだのうみ」、「ひなのあそび」、「ひおいのむらぎみ」

   「おがのはるかぜ」、「おがのしまかぜ」、「おがのさむかぜ」

   「のきのやまぶき」、「かつてのおゆみ」、「つきのおろちね」

 

これが、全集にある日記の全てである。

このブログに掲載しているのは、まだ初めの3編である。

真澄の長い旅は、はじまったばかりである。

 

 

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