晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

大町自然公園 市川市大町

天気予報では、全国的に暑くなるようなことを言ってたが、ちょっと遠出をすることにした。

緑の中を歩きたくなった。

それで、思い出したのが、市川市の大町公園である。

3週間ほど前に、孫娘を預かったときに、その公園の中にあるバラ園に行った。

その時は、まだちらほら咲き始めた感じで、さびしい感じだった。

もしかすると、バラはもう終わりかもしれないが、公園の半分くらいを占めている自然鑑賞園は、いつ行っても人出少なく、一面の緑を楽しむことができる。

 

www.travel.co.jp

garden-vision.net

距離を調べてみると、7キロほどで、歩いて2時間弱となっている。

昨年、鎌ヶ谷市立図書館まで歩いたことがあるが、そこより少し近いくらいである。

鎌ヶ谷市に向かう県道を同じように行き、途中で市川方面に右折すればいい。

 

自宅を出発したのは、10時半を過ぎていた。

到着は、正午を過ぎるだろう。

光ヶ丘中央公園

五香方向にひたすら歩いていると、途中で松戸市に入る。

さらに行くと、新京成電鉄の線路が見えてきて、県道もそれに沿って方向をやや東に変える。

渋滞していることが多い五香十字路を渡ってしばらく行くと、新京成の踏切がある。

新京成電鉄の線路は、大きく蛇行しているので、踏切が多い。

踏切の先には、広大な陸上自衛隊松戸駐屯地が見えてくる。

陸上自衛隊松戸駐屯地

駐屯地の敷地は、新京成の線路まで続いているので、また踏切を渡る。

松戸駐屯地となっているが、住所は鎌ヶ谷市くぬぎ山である。

新京成電鉄の線路は、山や川が邪魔してるわけでもないのに、大きく曲がりくねっている。

東武鉄道野田線やJR常磐線は、こんなに曲がってはいなし、もっとまっすぐである。

町や村をつないだら、こんなことになったのだろうか、不思議である。

くぬぎやま交差点で右折すると、それまでの県道57号から国道464号になり、市川方向に向かう。

しばらく歩くと、新京成くぬぎ山駅があり、また踏切を渡る。

新京成電鉄本社もあるらしい。

松飛台工業団地からの道が交差するが、なんとこのあたりは松戸市串崎新田となっていた。

正面に、北総鉄道の大町駅が見える。

北総鉄道大町駅

このあたりからは、「大町梨街道」がはじまり、市川市となる。

案内板もでていたし、道路地図にも表示されている。

大町梨街道

たしかに、梨農園が続いていて、「梨御殿」ということばがふさわしいような構えの農家がある。

過去の遺跡という感じではなく、今生きている屋敷門である。

屋敷門

大町駅から、5分くらい歩くと、大町公園の入り口に着く。

駐輪場があるが、2台しか停まっていなかった。

大町公園は、長田谷津という東西100メートルほど、南北に1300メートルほどの湿地帯に作られている。

谷津の外側は、標高26、7メートルほどであるが、谷津は標高12、3メートルで、まわりより10メートル以上低くなっている。

大町公園周辺 地形図アプリ「スーパー図形」

東西の斜面は樹木でおおわれている。

南北の遊歩道は、湿原を傷つけないように木道である。

いや、コンクリート製かな?

遊歩道を歩いていると、360度緑の世界である。

まわりよりも低くなっていて、斜面林があるので、緑しか見えないのである。

出発してから2時間ばかり歩きい続けてたので、休憩することにする。

入り口から500メートルほど行った斜面林の中に、「鑑賞植物園」という熱帯植物園がある。

立派な温室の中にいろんな植物があり楽しめるが、なんと無料である。

休憩コーナーで、缶コーヒーを飲む。

水のペットボトルも買って、水分を補給しながら歩くことにする。

熱帯植物園は、先日来たときに見たので、今日はパスする。

ふたたび、歩き出すが、遊歩道のまわりの湿地にはいろんな花も咲いている。

のんびりと、緑のなかを行く。

公園の真ん中ほどにあるバラ園に向かう。

バラ園

先日訪ねた時とは違って、バラ園は満開だった。

さまざまな種類が、これでもかというくらいに咲き乱れていた。

バラ園まで来ると、散策している人はかなりいた。
だいぶ暑くなってきたので、バラ園を過ぎて、さらに先の水路のある方まで進む。

そこは樹林が鬱蒼として、トンネルのようになっていて、苔もむしている。

南北に広がる公園の南端に、有料の駐車場があるが、すぐに満車になりそうである。

入り口近くには、有料の動植物園があり子どもに人気のレッサーパンダなどの小動物がいるので、ほとんどの客はここが目当てである。

時間も、午後1時を過ぎているので、帰路につくことにする。

バラ園まで戻り、ふたたび自然観察園を歩く。

ところどころに、掲示板があって、野鳥や花などの写真がある。

ホタルが繁殖している場所もあったが、夜は入場できないだろうから、見ることはできないだろう。

私は、田んぼの中の農家で育ったので、毎年夏はホタルが舞っていたものだった。

最後に、ホタルを見たのは、いつのことだろう。

帰りは、疲れもでて、しかも気温も高く、きつかった。

同じ道路なので、せめて反対側の歩道を歩く。

やっと、光ヶ丘団地まで戻って、公園のベンチに座ったのは、午後3時過ぎだった。

万歩アプリでは、21,000歩、17キロメートル。

 

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あきたのかりね⑧ 菅江真澄テキスト

十日 みちつきたりといふまゝ、ふねにのりて川ひとつ越て、雪のなか路をかいわけ行くば梭はしとて、木を間遠にあみたるに雪のいたくかゝりて、日のてれるに半けち行たるを、見るだにおそろしき谷川のどよみながるるを、人にたすけられて、からうじてわたりぬるに、はしもゆら/\といよゝ身もふるひて、やをら、はしわたり得しとおもふに、又、やぐらなどくだるにひとしうはしごおりて、いきつぎあへず、あせおしねぐふ。

やけ山といふところを越るとて、雪のたかねおりのぼりて行に、あらぬかたに道ふみ入たるは、柴人の、かりそめにかよひしあとならんか、はた旅人のまよひしすぢにや。

あとあまた見えたるを、かれかこれかと、越のなかつ(越中)国より薬あきなふ男二人さきだちて行をあないに、そがしりよりめぐるとて、

 

   まよひこしふみかふあとをしるべにてわけわづらひぬ雪の山路

 

かんぢきといふものをさしはきて、たか雪の氷たる上を、杣木曳おとす山賊にとへば、この山くだり侍れば、おくにゝて侍る〔秋田の領をいふ詩也〕と、たうとみてこたふ。

そりに、つま木つみてまれに行かふのみ、さらにこと人なし。

又山くだればみちいづこならん、あなたこなたにふみつきたるは、あら熊、ましらなどのけものの、わけたるあとなりけるとか。

はるけき谷そこに人のすみかありけるが、雪のしたになりで、けぶりのみぞ、ほそくたちける。

からくしてわりはてゝければ、路のかたはらの太雪にかくれず、いとたかやかなる柱に、なかばより貫木さし通して、田、はたけのものぬすみとりたらんものは、此はしらにくゝりつくべしとかいつけたり。

こは里/\の口にみなしたり。

ひねもす雪路にこうじて、たむろ沢といふ、家の三ある村にとまりもとむ。

滝の糸など見たらんがごとく垂氷のかゝりたるに、夕月の影さやかにうつろふをあふぎて、ながめたり。

 

   見るかげのさむけくもあるか夜とゝもにたるひに宿る月はすさまじ

 

十一日 けふもひねもす雪の山路を分てたどる/\、雄勝郡西馬音内の庄、にしものないの里につきぬ。

十二日 雪いやふりたれば、えゆかで暮たり。

十三日 けふはこゝのまちなり〔市たつことを町とはいふ也〕。

鮭のいを、鮭のはらゝ子、なにくれあきなふ棚の上なる、鮭の頭ひとつぬすみとりて、蓑の袖に引きかくしたるを、あるじの女見つけて、どす〔人をのりたる詞。又しら人、こくみのやまうあるを、どすとはいへり。〕ぬす人、ものいだせよ。

いな、しらじ。

いふな、たばこふくとて、やに入たるひまに手さしいだし、とくとりたるを、すき見〔かくろいて、ものゝひまよりのぞくをいふ、透見なり〕しるに、がア〔下摺女などのつねの詞なり〕ぬすみたり。

比代の銭いだせ。

はたらずともやるべし。

はたるとは、せむる也。

かゝるふるきこと葉の残りたるを、此あらがひに今聞たるもおかし。

日くれんとするより風吹おちて、雨は、ゐにゐてふりぬるに、そぎた、くちて、やねあばれたれば、いたくもりて、こなたかなたとをるところもなう、ふすまうつして蓑とりおほい、笹のついまつ〔松のやにを、すゞ竹の葉に巻て、ともし火とせり。是をまつやにといひ、又さゝたいまつといへり〕ともして埋火近うよれば、風あららかにおこりて、やもゆるぎもて行ば、あまたの家より起出て、此風しちまにせんとよばふ声/\せり。

あがみのきたるを見て、あるじの老たる女あきれて、足の具もも笠も、きたまへとわらふ夜あけなんといふころ、しばしと枕とりぬ。

十四日 風おさまりて雪あられふる。

われひとりおき居て、手ならひにたゝう紙にものかきつつ、更たるる家つまに月のさし入たるを、

 

   むら時雨ふり来ぬほどは板ぴさしもりてやこゝに月かげぞさす

 

此三日四日この宿にありてけるに雪いやふり、ふヾきに、えいでたゝず。

けふのまちにかよはん料にとて、雪俵、又たはらぐつといふものを人毎に作りて、そがなかに足さし入て、たはらの袴きたるがごとに太雪ふみならしありき、ひやこ〔寒きをいふ〕さはら〔虚言せしといふ詞なり。是をさはらとも、又はなたまけるともいふ也〕にはあらじと、いひ捨てやに入て、やがて春は、めばらん柳の枝をさしくべて、落ちりたるふみのやぶれにて、あを鼻おしぬぐふ。

せなあぶり、はらあぶりといふことをして帯ときあたる。

母さし入て、此雪よ、あなさむ。

わらしよ、てうせずと火くべてよ。

柴こ〔何子、かこと、国のならはしにて、子もじ付ていふことつねなり〕もてこと、火のへたのみさらで明たり。

わらしとは童をいへり。

めらしとは、わかき女をいふなり。

十九日 いまだ明ぬより、おぢ、起出よといふ〔弟をおぢといひ、妹ををばといふならはしなりけり〕。

また、と(外)はくらしといへば、けしね〔米をいふ、かしよねならん〕鼠のものせしぞ。

あねは、いづこにふしてけるぞ。

あねとは、あるじのめ(妻)をいへり。

何太郎がかゝ、何子がかゝとゝと、さらにさして名を呼ぶことなし。

夜あけはてゝ雪みちふみしだき、杉の宮(西馬音内の東ニキロ)といふところに至る。

三輪の神をうつし奉るといふ。

まことや、ふるきみやしろとおぼえて、としふる杉むら立り。

里の翁の来て、比御神はいにしへ、やまとの国みわの神垣より、とびてこゝにうつり給ふなど、われしれるかほにかたる。

みちのおく栗原郡宮城県)大日嶽のこと記したるふみに、

「戈宮四座〔伝云八千戈神、経津主神武甕槌神三神也〕一社在於羽州駒形荘杉宮村〔古伝三輪碕邑也〕所祭神一坐三輪大明神同体也、謂之杉宮大神宮、殿猶存有祭日別当云々」

といふことあれば、此みやしろ戈の社(「戈の」を墨で消してある)のひとつにやあらん。

御物川(おもの川といふ〕を渡りて柳田村といふ、さゝやのやのみ多くならびたるに入て、草彅〔いにしへ源よしいゑ公いで羽の国に入給ふのとき、弓もて、のもせの草のつゆなぎはらひしとて、くさなぎと呼給ひしとなん〕なにがしといふ、なさけある翁に宿こへば、雪消なんまでこゝにあれなど、ねもごろにいひてけるをたのみて、けふは暮たり。

かくてこゝにつれ/\゛と明しくらしてけるに、冬ごもりせんために、あしのすだれ、いなごものむしろもて雪垣といふものすとて、やのめぐりをおしかこふに、ほどなうゆきのいたくふりて、このもかのものわいためもなく、たゞ、かく日数雪とゝもにふりつもりて軒もかくれ、ひきゝやねなどは棟もしらず雪のいやたかうかゝりたるを、里の子かいしきといふものを手毎に持て、やのうへの雪をかいおろしたり。

朝夕ふみなれたる三の径もあとなければ、かのたはらはきて、ふみならし/\通ふ。中垣のあなた近となりへいかんにも、雪袴〔ちぐさ色のあさばかまなりしなのぢにて行袴といへり〕といふもの着て、蓑帽子〔みの頭巾なり、又馬のつらといふこと葉なり〕をかづきて行かよひたり。

あな、つらかましない〔かくばかりつよきといふこと葉なり〕ふき〔吹雪をいふなり〕なりけりと、声をふるはして行に、なにたまげる〔おどろくことをたまげるといふ、消魂と書けるにやあらん歟〕よ、いつも冬はかゝるものにこそあらめといふを、しりなる男、こや、くたましない〔又くだまともいひてさまたげあること也〕やつかな、はやいきねと、みの打たゝいて過るを、ゆるさじと戯れていきたり。

たかきやね、木のうれなどより、雪の落ちる音すさまじ。

朝に硯のふたあけてけるを、やの翁が見て、此しが子〔しがとは氷をいふなり〕よ、水のしみて、ふで子〔たゞ筆といふこと葉也〕もとられ侍らじと、埋火の辺に近くさし入て、ものかくかしらつき、いづらを雪とやたどらん。

いづれの日も、人、けふしはじめて入来れば、たゞ、めでたしといひて入ぬるは例のこと也。

わらはおふたる老女あさきぬをかづきて、雪垣のうちにかしらさしいりて、けさははア、がいな風にてはア、わろし。

いゑのわらしが、つれ出よ/\と、はたりしまゝに来しが、はや煙草ふき時也〔巳のときばかり、けぶり吹て休らふ、たばこふきどきといふ〕とていぬ。

たまたま、近き里の、なにがしがやに行とてこゝを出るに、野も田づらも、ひとつの真白に波のより来るやうにゆき吹わたるは、たゞ、海のうへなど行かとおぼふ。

田はたけ、岨、河つらなどを真すぐにいかんには、かんぢき〔又かち木ともいふ〕とて杉のさえだ(小枝)おしわがねて、くつのごとくさしはきたり。其いにしへ、よしいゑ(義家)のうし、あべのやからをせめたまはんとて軍いだし給ふに、俄に大雪のふり来て、路かいけちてちからなければ、兵にあふせて、あたりの杉の枝折らせ、これをおしわがね縄もでつゞりて、さしはきたるに行ことやすし。

かかるときよりいまし世まで、ものし侍るかんぢき也と里人のいへり。

其頃雪時ならず、水無月にふりしとなん。

其いはれは、あべのやからは神宮寺の淵とて、そこなきところにすむ、あやしのいろくず(魚)の子なれば、時しにあらぬ雪ふらせけるじち(術)も待りけると、あやしのものがたりするは、かんじきのはかせとやいはんか。

人のり、よねつみたるなど雪車あまたひくなかに、くすしなどは、とみなるやまひにやいそぐならん、雪のいたくかゝりたる、ものみより〔そりに、こしのごとくつくりのせたり。是をつねの旅籠のごとく作りて、こごそりといひ、又箱そりといふ〕つら、いさゝかいだして、ひかれ行ありさまを見つつ、

「初みゆきふりにけらしなあらち山こしのたび人そりにのるまで」

といふ、ふる歌のこゝろおもひあはせたり。

行かふ人は、めすだれ、又めあてともいひて、うすものをぬかよりおほひかけたり。

こは、眼のやまうなきためなり。

 

 

 

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フランス式彩色地図原図をじっくりとながめる

この何ヶ月か、近隣の図書館を所蔵の古地図のために訪ねていた。

柏市立図書館、流山市立図書館、松戸市立図書館、鎌ヶ谷市立図書館、千葉県立西部図書館。

このすべての図書館まで、歩いて行ってきた。

このブログでも、何回も書いている「フランス式彩色地図」を求めてである。

その成果として、柏近隣の地図のカラーコピーを、合計25枚手に入れることができた。

そのうちの一枚を、じっくりと眺めようと思う。

地図の上部に、この地図のタイトルが書かれている。

今回は、私にとってはサイクリングやウォーキングでよく訪れている大津川を含んだ地図を見てみようと思う。

この地図のタイトルは、次のとおりである。

「千葉県下総国南相馬郡大井村及東葛飾郡増尾村近傍村落」

大津川が地図の南から北に流れ込み、地図の上部で手賀沼に合流している。

現在は、この地域は柏市になっている。

大津川の東部は、かつては沼南町だったが、平成の大合併柏市となっている。

この地図は、明治13年に作成されているが、この時点では旧沼南町の地域は南相馬郡であった。

明治30年南相馬郡は廃止され、東葛飾郡編入された。

ちなみに、同じ南相馬郡に所属していた我孫子市の地域の北部の利根川の川向こうは、下総国北相馬郡であった。

下総国常陸国の境は、利根川ではなく、鬼怒川とその支流の小貝川であったらしいからである。

この地域の地図は、フランス式彩色地図原図の復刻版として発行されたもののうちの、千葉県北西部E3という7枚のセットである。

他の6枚のタイトルは、こんな感じである。

千葉県下総国葛飾郡駒木村近傍

千葉県下総国東葛飾郡小金開墾地及近傍村落

千葉県下総国南相馬郡布施村我孫子宿近傍測図

千葉県下総国南相馬郡柴崎村及茨城県同国北同郡取手駅近傍

千葉県下総国南相馬郡鷲野谷近傍村落

千葉県下総国南相馬郡泉村印旛郡名内邨落

 

そして、左側の欄外上部に測図の年月が表示されている。

それを見ると、地域の西部の4枚は明治13年10月となっていて、東部の明治14年10月が1枚、11月が2枚である。

欄外下部には、担当者の所属・職名・氏名が記載されている。

測手と副手との二人での一組の編成である。

測手は、すべて「少尉」である。

少尉というのは、将校の最下級の位らしい。

調べてみたら、連隊付もしくは中隊付、又は小隊長に充てられるとなっている。

少尉も、歩兵少尉、工兵少尉とある。

手書きで書かれているので、判読の難しいのがあったがどうも「砲兵少尉」らしかった。

副手は、軍曹や伍長もあるが、半分くらいは測量課雇となっている。

軍人ではなく、アルバイトということなのだろうが、どういう人が雇われていたのだろうか。

もう少し詳しく知りたくて、ネットを検索していたら、「日本の測量史」というサイトを見つけた。

上西勝也さんという方によるサイトで、詳細な情報を豊富な写真とともに知ることができる。

uenishi.on.coocan.jp

このサイトから、次のようなことを知ることができた。

西南戦争の結果、正確な地図の重要性を感じた日本陸軍が、地図の作成に着手し、それが迅速測図であること。

明治13年に、日本陸軍士官学校卒業生のうち30余名を迅速測図の要員として、参謀本部測量課附に任命したこと。

「フランス式彩色地図」は、地図表現方法について、ドイツ式と比べて、色彩豊かに手書きしたものを言ったもので、測量そのものは違いが無いこと。

明治17年(1884年)から、迅速測図を元にした地図が出版されたが、縮尺は2万分の1で変わらず、墨一色刷りのドイツ式の一色線号式図式だった。また、測量原図が一面当たり縦25×横20センチメートルだったのが、出版図では合計240面、横長の縦37×横46センチメートルが64面、縦長の縦53×40センチメートルが176面と混在していた。

地図の北部

この一面の地図には、多くの情報が網羅されている。

たとえば、村名を拾ってみる。

柏村、戸張村、名戸ケ谷村、増尾村、逆井村、高柳村、藤心村、塚崎村、藤ヶ谷村新田、若白毛村、大井村、箕輪村、五条谷村、

寺院では。

長全寺、正光寺、妙林寺、少林寺、万福寺、妙蓮寺、慈本寺、宗寿院、宗森院、妙照寺

神社は、同名もある。

羽黒祠、香取祠、香取社、聖社、八幡社、八幡社、八幡社、熊野祠、神明祠、稲荷社、三峰社、浅間祠、稲荷社、香取社、

河川や道路は、ほとんど自然にできたままのように、細くて曲がりくねっている。

地図の南部

村落には、住居が□の記号で表示されている。

これで、その戸数や村の住居がどのように配置されていたかがわかる。

北部の地図の左上に、戸張村がある。

手賀沼湖畔にあって、古くは戸張城もあった古い村である。

戸数を数えてみたら、50戸以上はありそうだった。

柏村方向に道が続いていて、正光寺というお寺があり、香取祠と羽黒祠という神社もある。

集落の周辺は、畑になっているが、水田は北部の手賀沼湖畔に一ヶ所だけである。

村はずれの山に、梨の表示がある。

地図の全体を見たが、梨という表示は他に、藤ケ谷村新田に一ヶ所だけあった。

果樹系はほとんど無く、茶畑は旧沼南側にかなり点在していた。

大井村香取社を同村字栗山より望む

フランス式彩色地図の魅力のひとつは、欄外のスケッチである。

もしも、このスケッチがなかったならば、この地図の印象は違ったものになったろう。

この地図セットの7枚のうち、1枚にはスケッチがなかった。

この迅速測図のメンバーにも、絵画の不得意な人がいたのだろうか。

これだけの地図を作るために、測量をするのにどれだけの日数を要したのだろう。

たった2人のチームで、どのようにして一面を埋めるだけの情報を集めたのかと思うと、信じられない気がする。

どういうふうにして、作業をしていたのか、のぞいてみたい。

この測量に関係していた人たちによる記録は残されていないか探してみたが、見つからない。

やはり、この測図は陸軍の軍人が行ったもので、最高機密だったのだろうから仕方ないかも知れない。

大井村三峰社

 

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おんぶ紐が抱っこベルトに変わった頃

孫娘が、もうすぐ6歳になる。

来年は、早いもので小学生になる。

今の時代も、小学生はランドセルを背負っている。

孫娘は、紫色のランドセルがいい、と言っている。

赤と黒しかなかった我々の時代、数種類しかなかった息子たちの時代と違って、何十色もある中から選べるのだ。

そのかわり、何ヶ月も前に予約しないと手に入らないらしい。

考えてみれば、何十色も色数があったら、見込みで作ってしまう訳にはいかない。

受注生産でないと、リスクが大きすぎるのだ。

なかなか、大変なのだなあ。

 

我が家は息子が3人で、それぞれ3歳違いだった。

だから、3歳以下の小さい子を抱えていた時期が、10年くらいあった。

時代は、1980年代から1990年代にかけてである。

日本の社会は、高度経済成長から、日本列島改造による地上げブーム、バブル期となる。

長男が、まだ2歳前くらいの時に、賃貸住宅から転居した。

そしたら、すぐにブラックマンデーで世界的な株価大暴落があり、日本ではバブルが崩壊した。

長期の経済低落の時代がはじまった

 

この10年間は、大変でもあったけれど、今思えば楽しい時代でもあった。

たぶん、日本の子育てが大きく変わっていたのではないだろうか。

ベビーベッドや乳母車は、買わなくてもレンタルで借りることができた。

まだインターネットにはなっていなかったが、宅配便が普及してきて、月単位で借りれば、品物が自宅まで届いて、期間が終了すれば引き取ってくれた。

それまで、出かける時は、おんぶ紐で背中におんぶしていたのが、抱っこベルトに変わった頃でもある。

友人に、私よりも2年ほど早く赤ん坊が生まれていたので、いろいろアドバイスを受けた。

友人は、出かける時は、父親である自分が赤ん坊を抱っこすると、言っていた。

赤ん坊は、母親よりも父親が抱っこした方が、体力的にも安心だからというので、なるほどと思い自分も実行していた。

そのうちに、ガッチリした造りの乳母車も、アルミでできた折り畳み式でコンパクトなものになり、安価なものが発売されるようになった。

それまでの箱状の大きなものではなく、椅子状のものなものなのである程度成長しないと使えないが、折りたためばエスカレーターに乗れて、電車にも持ち込める。

 

ハイキングなどに出かける時に、抱っこベルトだと足元が見えにくい。

そのうちに、こども用の背負子のようなものが発売された。

背負子というのは、荷物を運ぶために、木の骨組みで荷物を乗せて運ぶもので、山小屋などでも使われていた。

こども用の背負子は、アルミパイプの骨組みで子どもが座るイスのようになっていて、それを背中合わせに背負って歩くようなものである。

最近は、これを使っているのは、ほとんど見かけないような気がする。

正式な名称は何だったか覚えてないのだが、昔の写真を見ていると、これを使ってハイキングに出かけている。

山好きの私としては、出来るだけ家族一緒に出かけたかったのだ。

 

こどもは、自転車に乗るのが好きである。

近所のおもしろい遊具のある公園を探して、いろいろ走り回ったものである

最近の自転車用の子ども椅子を見ると、しっかりしたつくりである。

固定用のベルトもしっかりしているし、風除けや雨除けがあったりする。

私が使っていた頃は、ほんとに簡単なものだった。

 

それまでは、キャンプなどというのは重い荷物を背負って出かけなければならなかった。

それが、カーキャンプ場が各地に作られたのも、その頃である。

テントを張る場所まで、自動車で行くことができるので、荷物を運ぶ手間が要らなくなった。

しかも、テント自体の張り方も手軽なものになっていった。

これは、20年も前のことだったが、今回のコロナ禍で、再度のブームになってるようだ。

たしかに、密を避けようとしたら、考えられる選択かもしれない。

これからも、どんなふうに変わっていくのだろう。

 

 

 

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欧米人のおなまえ①

NHKのテレビ番組「日本人のおなまえ」が、3月末で終了した。

姓氏や地名などにとても興味がある私は、楽しみにしていた番組だったので残念である。

レギュラー化してから、5年になるらしいが、そのうちに再開しないものだろうか。

おなまえと言っても、姓名のように、「姓」と「名」から成っている。

この番組は、主に「姓」つまり苗字・名字を取り上げていた。

姓氏ということもあるが、「姓」(かばね)や氏(うじ)となると、厳密に歴史的に調べると難しくなってしまいそうだ。

日本には、30万もの苗字があるらしいし、いろんな切り口で問題を扱うことができるだろうから、いくらでも番組は作れそうである。

 

先日、「アルビノーニとボッケリーニ」という記事を書いた時に、欧米のなまえはキリスト教の浸透によって、聖人にちなんだものが多いらしいので、ヘブライ語由来のなまえをを調べたらおもしろいだろうと書いた。

旧約聖書新約聖書は、本来ヘブライ語で書かれていただろうから、そこに登場する者たちの名前もヘブライ語だろうと思ったのである。

ここで言う名前は、苗字のようなファミリーネームではなく、ファーストネームといわれる「個人名」である。

そこで、ヘブライ語由来の名前についてのサイトを調べてみた。

そしたら、「ヘブライの仮庵」というサイトの中に、「ヘブライ語が起源の名前一覧」というページがあった。

www.asahi-net.or.jp

このページのリストには、ヨーロッパで使われているヘブライ語由来のなまえが、アルファベット順に並んでいる。

数えてみたら、80種類ほどあった。

中には見たことのないものもあるが、ほとんどは見かけたことがあるものである。

そして、半分くらいはかなり使われていて有名な人もいる。

80種類というのは、なまえ全体ではたいしたことのない割合だが、実際に使われている割合はけっこう高いのではないだろうか。

 

このリストから、いくつかあげてみる。

 

Ann(アン)、Anna(アンナ)、Anne(アンヌ、アンネ)

ヘブライ語のChannah (ハンナー)より「慈しみ」の意味があるらしい。

聖母マリアの母のなまえ。

これから派生した愛称形に、次のものがある。

Anita(アニタ、アニータ)

Anette(アネッテ、アネット)

Annie(アニー)

Nancy(ナンシー)

アンネというと「アンネの日記」ですが、彼女はユダヤ系ドイツ人でした。

 

Daniel(ダニエル)
ヘブライ語のDaniyyel (ダーニイェール)より、「神は私の裁き主」。

旧約聖書』に登場する預言者

Dan(ダン)は、愛称形、Dana(ダナ)は女性形。

私の学生時代、ダニエル・ビダルというフランスの女性歌手がいて、何回も来日していました。

ダニエルは、女性にも使うのだな。

 

David(デービッド、ダヴィド、ダビデ
ヘブライ語のDawid (ダーヴィード)より、「愛される者」。

古代イスラエル王国の王様の名前。

デビッドといったら、私にとってはデビッド・ボウィです。

むかし、モンキーズのメンバーにデイビィ・ジョーンズ(Davy Jones)という人がいたけど、DavyというのもDavidの愛称形なのだろうか。

 

Elizabeth, Elisabeth(エリザベス) 
ヘブライ語、'Elisheva` (エリシェヴァ)より、「私の神は豊穣」。

派生形として。

Eliza(エライザ)

Elisa(エリサ、エリーザ、エルザ)

Elise(エリーゼ)

Betty(ベティ)

Lisa(リサ)

Liza(ライザ)

誰でも知ってるエリザベスは、やっぱりエリザベス女王でしょう。

正式な名前は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・オブ・ウインザーなのだそうです。

姓と名前の間に、オブ(of)が入るのは高貴な人であるということなのだろう。

 

「キラキラネーム」ということばがある。

ネガティヴな意味で使われることが、多いような気がする。

私は、ポジティブな意味も与えてもいいと思う。

法的な制約の多いファミリーネームに比べて、ファーストネームと呼ばれる個人名は、命名する親に任されている。

子どもに対する親の希望や夢が込められていると言える。

そういう意味では、聖書にある異国の名前をこどもに命名したのは、キラキラネームに通じるものがあるのではないだろうか。

インターネットで世界中がつながってしまった現代では、名前の世界も国境がなくなって行くのではないかな。

 

 

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あきたのかりね⑦ 菅江真澄テキスト

三十日 しほこし(塩越)をたつ。

大汐(塩)越(象潟町)の村を出て、飛(金浦町)といふところに至る。

いにしへ、みちのおくのしほがまひとつとび来けるとて、今神とあがめて、村をもとびと附たり。

そが沖のとびしま(飛島)、波路はる/\゛と見やられてけり。

金浦(コノウラ)といふ磯やをこへて芹田(仁賀保町)のつなふねわたり、あまはぎといふ河にかり橋かけたり。

此河、水いさゝかありて沙ながるゝ川ながら、是をわたらんとてあしさし入れば、ぬま田などのごとく、はぎふかく入て、旅人こゝに、いのちうしなふことあまた也。

もしわたらんとならば、ところの人のこゝろまめやかなるを、あないにしてこゆべし。

又、かく橋かけわたすこともありと、人しんじち(真実)にをしへたり。

しほやくところありけるに、

 

   もしほやく海士のとまやの夕けぶりたつをしるべに宿やからなん

 

いくばくの路くれて、かたはらのたかき柱を星のひかりにたどらんしるべとして、こをちからにもとめ/\くれば、柱〔雪のころ、みちまどはぬ料に、みちのくのかたはらにいとたかき柱を立、あるは、くゐせをさせり〕たえて見えざるは、いかゞあらんとおもふに、つゞみ、かひ、かねをならして人の声どよみたり。

こは、いがゞと見るに、火のたかうもえあがりたれば、行すぢ、いとあき(明)に見えたり。

火のわざはひにこそありけれ。

や、ひとつあるにとへば、本荘(本荘市)といふ里といらへぬ。

いま家ひとつやけたるさはぎに行かひしげく、みちもたどらで、いさゝあゆみて里のはしに宿もとめたり。

あるじの女ともし火とり出て、あが袖のぬれたるを見て、埋火のもとにたもとをほしていねたまへなど、ねもごろ聞えたるに、

 

   たび衣浦つたひきて寄る波のよるこそしらね袖はぬるとも

 

かんな月(十月)の朔の日すなご坂といふをこへて梅田(埋田‐本荘市)に至る。

比あたりのやま/\みな、もみぢたるが、さんごの梢立るごとに、こと木は露見えざりければ行がてに見つつ、山は、にぬる(丹塗る)かと行人のめづるに、

 

   二月に咲花よりも紅の梅田のさとのにほふ?葉

 

みやうち、玉の池(本荘市)、相川〔つなふねの渡しあり〕(鮎川‐由利町)たてじ(立井地)、くろさわ、妙(明)法、滝沢川(以上由利町)といふへたに来けり。

此水上は鳥海山のみねより落て、水とければ、舟のくり/\としてつきぬ。

このゆふべ、前郷(マエコウ)(由利町)といふ村にいねたり。

二日 あさとくいで来れば、きのふの雨風なごりなふ吹晴て空いとよし。

をみのうち(大水口)、いかず(五十土)をへて、小菅野(コスゲ)(由利町)といふところの見えたるに行とて、

 

   山陰に一すぢ見ゆるかよひぢや小菅のさとの冬がれの頃

 

がり(蟹)沢、なかの岡、山田、上条、きのふわたりし河をふたゝび渡りぬ。

あなたのへた、こなたの岸に葛をつなぎて、市にや行けんあまたの人を、ひまなふわたいたるを、

 

   行かひはまさ木のかづらくりかへし引手あまたにわたす舟人

 

よし(吉)沢(以上由利町)にあがりて玉坂、前杉(矢島町)などいふところをくだりて、矢島の郷に泊る。

三日 霜すさまじ。

水みな氷ゐたれど空のあたゝかさ、いはゆる春ならん。

けふはうらふれにやあらん、こゝちそこなひて、よべの家に休らふ。

比里より汐(塩)越(象潟町)にゆくは、山をくだればいとちかしといへど、

雪の降けるにおぢて、本荘〔本荘にいたれば四十八町を一里として十二里のみちをゆきてけりとか。やんぢを行ば六里の道にて汐こしにいたるといふ〕におもむきてゆく。

魚うる海士のかへるといふは、はた/\といへる、いをあきなふ也。

こと国に見ぬいをなり。

この鰰(ハタ/\)といふ魚は、冬の空かき曇り海のうへあれにあれて、なる神などすれば、よろこびて、むれりけるとぞ。

しかるゆへにや、世に、はたた神といふ。

さるゆへならん、此あたりは冬に入て、なる神たび/\゛せり。南の国とはことなる空也

文字のすがたも魚と神とをならびたり。

四日 鰰のいを、なにくれのいをうる市たちぬ。

五日 二箇部〔しほこしの辺のはまを、にかぶといふ〕に生れしといふあき人の云、過て来給ひし川?といふところの辺に、しらいとの滝など、おかしきが、みつあり。

こは、鳥海のみねより落滝、つながるゝなり。

それにかけ渡したる白木橋といふは、たづねて侍る奈曾白橋これなりといふに、

「いではなるなそのしらはしなれてしも人をあやなく恋わたるかな」

といふ名どころ也。

あまたの人にとひつつ、しらで過来しはくやしかりき。

 

   たづねこし其かひなそのしら橋をしらであやなく恋わたりぬる

 

又ある人、寂蓮法師

「あまをぶねやそしまつたふ浪のうへにこぎのくあとは松のひとむら」

とのたまひしは、象潟にてやあらん。

八十八潟九十九森といふ一ふしの歌にてもしられ侍るといふは、いかゞあらん、しらじ。

六日 里過ぎ山越れば山河あり。

よべの雨にやまさりけん、水ふかくして舟わたさねば、伏見村(由利郡鳥海村)に宿かる。

乙女ら、ほださしくべて、むまだ〔科ともいふ木の也〕といふ木の皮を糸によりて袋にせりけるとて、是をつむじといふ物に巻て、手しろ〔手代といふなり〕もてすりまはし、又藤かづらを糸によるとて、よなべにせり。

此手しろの音のみ枕にひゞきけるとおもふに、とりの鳴てければ、

 

   しづのめが手にとる糸のながきよをくりかへしなくくだかけのこゑ

 

なにくれとものおもへば、いねもやられず。

又いつかこゝにみつかん草枕一夜ふしみの夢の余波を

七日 けふも霙ふれば、ふねいださじなどいひあへるに、雪のいたくふりて、往来たゆばかり、は(わ)づらひとなりてければ、

 

   けふも又おなじやどりに呉竹の伏見の郷にふたよ明なん

 

八日 きのふより雪をやみなくつもりて、わらやの軒にひとしくなりて、竹の林など、岡のごとくふしかくれたりけるに、

 

   みどりなるいろこそ見えねおしなべて雪にふしみの里のたかむら

 

九日 やの上より雪のくづれ落るが、つちのふるひうごくがごとし。

日のほのかにてれば、梢の雪すこしちりて、むら雀など、がなたこなたに、すみかもとむ。

 

 

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アルビノーニとボッケリーニ

いつからか、アルビノーニとボッケリーニがお気に入りの音楽家になっていた。

だいたい、このふたりを交互に聴いている。

もともとは、私のお気に入りはシベリウスだった。

けれども、シベリウスはけっこう重厚である。

もっと気楽に、音楽を聴きたくなっていた。

 

ja.wikipedia.org

アルビノーニは17世紀のヴェネツィアのヴァイオリニストであり作曲家である。

名前は、正確にはトマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニTomaso Giovanni Albinoni)である。

ja.wikipedia.org

ボッケリーニは、18世紀のトスカーナ大公国のチェロ奏者であり作曲家であった。

名前は、リドルフォ・ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccheriniだ。

 

私は、音楽も好きだが、姓名とか地名についても、とても興味がある。

なので、この二人の名前を見て、ジョバンニもルイジもどっかで見たことがあると思った。

ジョバンニは宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」だし、ルイジはディズニーのドナルドダックじゃなかったかな。

西洋人の名前が、国によって同じ名前が違った呼ばれ方をするというのは聞いたことがあったので、調べてみた。

かつて使ったことのあるサイトを探した。

springsnow.sakura.ne.jp

サイト名は、「怪しい」となっているが、内容はいたって真面目ですばらしいものである。

ヨーロッパのことばは、大きく分けてゲルマン語族、ラテン語族、ケルト語族、ギリシャ語族、スラブ語族、フイン・ウゴル語族などに分類されるらしい。

英語はゲルマン語族であり、イタリア語はラテン語族である。

 

ジョバンニ(Giovannni)を調べて、おどろいた。

ジョバンニは、英語でジョン(John)なのだ。

ドイツ語のヨハン(Johan)や、フランス語のジャン(Jean)、スペイン語のフアン(Juan)は、綴りからなんとなくわかる。

でも、スコットランド語のイアン(Ian)やロシア語のイワン(Ivan)などは、よく目にする名前だが、これがみんな同じとは思わなかった。

springsnow.sakura.ne.jp

次に、ルイジ(Luigi)を調べた。

英語では、ルイス(Lewis)であり、フランス語でルイ(Louis)である。

しかし、ドイツ語ではルードヴィッヒ(Ludwig)となる。

さらに、異性形として女性用の名前が生まれている。

たとえば、ルイサ(Luisa)、ルー(Lou),ルル(Lulu)などがあり、おもしろい。

springsnow.sakura.ne.jp

 

テレビのニュース番組では、ウクライナ問題を取り上げている。

ウクライナ大統領のウォロディミル・オレクサンドロヴィチ・ゼレンスキー(Volodymyr Oleksandrovych Zelenskyy )とロシア大統領のウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(Vladimir Vladimirovich Putin)については、毎日のようにその姿を見ている。

二人の名前のウォロディミルとウラジーミルは、ウクライナ語とロシア語で表記が違うだけで、同じ名前らしい。

私にとっては、「ウラジミール」という名前は、20代の頃にクラシックを聴き始めた頃、世界的なピアニストであったウラジミール・アシュケナージのものである。

彼は、ユダヤ系のロシア人だった。

その後、指揮者としても活躍し、日本の音楽大学の教授も務めたらしい。

今は、スイスに住んでるのだろうか。

 

そして、アメリカ大統領ジョー・バイデンであるが、正確にはジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニアJoseph Robinette Biden Jr.)ということである。

ジョセフ(Joseph)は、スペイン語でホセ(Jose)である。

私のお気に入りの歌手ホセ・フェリシアーノ(Jose Feliciano)は、プエルトリコ系だったので、スペイン語だったのだろう。

しかし、おどろいたのはイタリア語だとジュゼッペ(Guseppe)になることだ。

ジュゼッペといったら、「ピノキオ」の「ジュセッペじいさん」である。

springsnow.sakura.ne.jp

 

ヨーロッパの言語は、それぞれに大きく違っているように思われるのに、名前については共通したものが多いようだ。

それは、キリスト教の浸透によって、キリスト教の聖人の名前を命名しようとしたことから来るのだろう。

ヘブライ語由来のものがどのくらいあるかは、わからないがそのあたりを調べるとおもしろいだろうな。

 

 

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水底の星々 冬佳影さんの時代小説

冬佳影さんの時代小説を読んでいる。

このところしばらく、野村胡堂さんの銭形平次捕物控を読んでいたが、今は中断している。

銭形平次捕物控は、青空文庫の作品リストを見ると、あと70作品くらいは残っているようである。

まだ、入力されていないものもあるようなので、実際にはもっと多いだろう。

たまたま、スマホのSDカードのbookフォルダに、冬佳影さんの作品を入れてあるのを見つけて、読み始めたら止まらなくなって、読み続けている。

 

冬佳影さんの作品に出会ったのは、15、6年前のことである。

どんな経緯だったかは覚えてないが、ネットで「スワン ナダ ストーリー」というサイトを見つけた。

そこに、いくつかの時代小説があった。

読み始めたら、おもしろくて、ほとんどを読んでしまった。

何に惹かれたのだろうか。

作品のほとんどをコピーして、保存していた。

作者である冬佳影さんという人が、アマチュアの小説家らしいということ以外には、まったくどういう人かわからなかった。

 

時代は江戸時代、場所はほとんどが江戸であるが、そうではない地方の場合もある。

登場するのは、社会の底辺にいる人たちである。

乞食の少年や、賭場にかかわる者たち、浮世絵の彫師なども登場するが、表に出せないようなあぶないものに手を染めている。

侍もいるが、廻組などという目付の手先として、同じ侍を監視したり、密かに暗殺したりという、汚れ役を強いられている。

岡っ引きの子分の「下っ引」は、まわりから「犬」扱いされている。

捕物のような華やかな、役割ではない。

いづれも、やるせない世界の、やるせない物語である。

光のない、明日のない生活を淡々と描き、光が見えるかどうか、それとも幻なのか、というように終わる。

どうして、こんな作品を読んでしまうのだろう、と思う。

今回の文章のタイトルの「水底の星々」というのは、彼の長編小説の作品名である。

主人公が子どもの頃に幼なじみの女の子と近所の占い師の女性から、井戸の底の水面に未来が見える、と教えてもらったことからきている。

 

冬佳影さんの作品はだいたい読み終わってるつもりでいたが、読み返してみるとそうでもなかった。

読んだ記憶のない作品もあった。

10年以上経っているので、その後書いた作品がないか探してみた。

検索しても、ウェブサイトは無くなっていた。

単行本として発行された書籍も無いようだった。

ただ、Amazonkindleストアに彼のページがあった。

そこには、このように記載されていた。

パソコン通信時代からスワム・ナーダとして時代小説の執筆を開始。以来、インターネット上で継続的に活動をしている。現在、KDPを中心に、時代小説、アクション、SF、ホラーなどジャンル横断的に小説を発表中。最近の興味の中心は、敗戦後からの近代史。」

KDPというのは、「kindle ダイレクト パブリッシング」ということで、初期費用なしで、個人が紙の書籍や電子書籍を出版できる仕組みらしい。

紙の書籍が最大60%、電子書籍が最大70%のロイヤリティを受け取れるとなっている。

数えてみたら40冊あって、有料で販売されていた。

紙の書籍としてではなく、電子書籍として発行されている。

今は、そのように活動している作家も多いのだろう。

どれくらい新しい作品があるかは、まだ確認していない。

 

私は、20代までは小説を読んでいた。

日本文学の全集も持っていたし、ドストエフスキーロマン・ロランも読んだ記憶がある。

それが、ぱたっと読まなくなった。

小説のようなものが、面倒くさくなったのだろう。

それでも、考えてみると、少しは読んでいる。

推理小説好きの友人に薦められて読んだのが、「マルティン・ベック」のシリーズ。

スウェーデンの警察小説で、マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーの夫婦の作品である。

マルティン・ベックという警察官を主人公にした全10冊のシリーズらしいが、私が最初に読んだのは第4作の「笑う警官」だった。

たぶん、5、6冊読んでいる。

彼をとりまく個性的な同僚たちや、犯罪をとおして描かれるスウェーデンの社会などが、とても印象深かった。

 

そして、このブログにも書いたことのある、ディック・フランシスの競馬犯罪小説。

図書館のリサクル本のコーナーから持ち帰ったことがきっかけで、読み始めた。

イギリスの騎手出身の作家である彼の作品から見えてくるイギリス社会の様子は、とてもおもしろいと思う。

日本の競馬界とは、まったく違う競馬の世界があるようだ。

40冊以上ある彼の作品から、まだ読んでいないものを見つけて読んでみようとしているのだが、なかなか進まない。

 

もうひとつが、シャーロク・ホームズだった。

コナン・ドイルの名前やホームズのことは知っていても、読んだことがなかった。

シャーロックホームズを読んだのは、青空文庫を知ってからである。

青空文庫にもホームズものは掲載されているが、翻訳ものは著作権が関わってくるので、新しく翻訳した方が入力者になっているようだった。

ネットを探していたら、シャーロック・ホームズ全集を翻訳したサイトもあったので、それを読むことができた。

だいたいは読んだ気がするが、読みもらしてるのもありそうだな。

このシリーズが書かれたのは、明治の中ぐらいから昭和の初め、ということだ。

 

どうして、こんな人たちの小説を読んでいるのだろう。

私にとっては、時代や国が遠い方が、自分に身近なものよりも、想像を働かせるにはいいのかもしれない。

 

 

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柏ウォーキング②

柏市立図書館本館に出かけることにする。

目的は、所蔵されている地図のコピーである。

それだけだと、それほど時間もかからないので、あと二か所寄ることにする。

柏駅に近いところにある「鹿島神社」と建物名はわからないがやはり柏駅に近いところにあるビルである。

鹿島神社は、国道6号線東武鉄道を越える陸橋の近くにあって、ずっと気になっていた。

陸橋の上から見下ろす感じだが、駅に近いわりには緑に囲まれて静かそうだった。

たぶん、初めて見かけてから、40年以上になるのに未だに行ったことがない。

もうひとつの気になるビルというのは、なんと3、4階のビルなのに外壁が木の板張なのである。

なんて、センスが良いのだろうと、通りかかるたびに思っていたが、ゆっくり観察したことがなかった。

これは、柏駅に近い職場に通っていた頃だから、もう15、6年前には知っていたはずである。

自宅を出て歩き始めると、団地の公園があり、その前に欅が2本ある。

剪定されて葉がつくような枝が全く無くなり、オブジェのようになっていた。

こういうのを、「強剪定」というらしいのは、団地の管理組合の役員をやったときに知った。

そんな状態なのに、太い幹から細い枝と若葉が出ていた。

樹木の生命力は、すごいものである。

新柏駅柏駅の間で、東武鉄道の踏切を渡る。

先日にブログで、東武鉄道野田線は「東武アーバンパークライン」と変わったけれど、車両は変わっていない、と書いた。

今回撮った写真を見たら、車両は変わっていた。

TOBU URBAN PARK LINE

ふだんは歩かない東武鉄線の西側を、柏方向に歩いた。

線路際に出て、ふと電柱の住居表示をみると「豊四季」なっている。

こんなところが、「豊四季」なのかと驚いた。

JR常磐線の北側には、URの豊四季台団地があるし、柏駅の次の東武野田線の駅は豊四季駅である。

「豊四季」というのは、明治時代に開拓のために入植地の村なのは知っていた。

その後、新しい地名が増えていって、「豊四季」という地名は北と南に離れてしまったらしい。

水戸街道にぶつかり、柏方向に歩いていると、ある工務店の店頭に目を引くものがあった。

 

そのとおりである。

「止まない雨はない。」

交差点で、左に曲がりJRの隧道をくぐる。

国道6号沿いに、歩道を進むと東武鉄道の線路に架かる陸橋である。

神社の森が見えて、赤い鳥居もある。

歩道を降って、鳥居に向かう。

柏駅から、それほどの距離でもないところに、JRと東武鉄道、そして国道6号と三方向を囲まれている。

それにも関わらず、ひっそりとしている。

人影はまったく無く、静かである。

由緒によると、豊四季の鎮守として、明治22年に創建された。

日本建国に際して、東国経営の任にあたった開拓の神である香取大神を、開拓の村である豊四季の鎮守とした。

柏市には、他にも「十余二」という開拓の村がある。

いずれも、明治政府が士族等の救済のための事業として行われたものである。

旧士族が多かったので、他の農村とは流儀などが違ったらしく、農村の合併が行われた時代にも、他の村との合併を拒み続けたらしい。

 

次に、柏駅近くのクレストホテルの近くにあるはずの外壁が板張のビルに向かう。

クレストホテルは、帝国ホテルグループのホテルで、羽田空港や成田空港への長距離バスの発着所にもなっている。

目的のビルを探してみたが、どうも見つからない。

それらしいビルはあるが、外壁は板張りではない。

建物の周囲の2メートルくらいもコンクリートではなく、板を敷き詰めていたはずだ。

私が、柏駅に近い職場に勤めていたのは、10年くらい前のことだ。

もしかすると、その後に板張りからふつうの外壁に変えたのかも知れない。

私の記憶では、柏には、外壁が板張りのビルが、もうひとつあったはずである。

図書館の後で、寄ってみよう。

 

図書館で、地図の整理棚からフランス式彩色地図を取り出す。

フランス式彩色地図というのは、このブログで何回もとり上げている。

明治初期に、日本陸軍が作成した手描きの地図である。

正式には、「迅速測図原図」であり、印刷発行するための原図であったのだと思われる。

図面自体の大きさは、ほとんどA4判を縦にしたものと同じくらいだが、縦が3cmほど短い。

これはあくまでも、地図作成のための原図だったのだろう。

実際に発行された地図は、これを横に2枚つなげた大きさのものだったようだ。

 

千葉県については、北西部地域分が7セット発行されているが、柏市立図書館ではその第1から第4までのセットが所蔵されている。

そのうちの柏と我孫子が含まれている第3のセットは、すでにコピーしたので、今日は残り3セットをコピーすることにする。

コピーの申込書に記入して、窓口で許可を得る。

3セット18枚、サイズにかかわらず、カラーが1枚40円、白黒10円である。

彩色地図なので、もちろんカラーコピーを選ぶ。

間違えないように、ゆっくり時間をかけて、一枚一枚処理する。

とりあえず、今日の目的は終了。

 

図書館を出て、次のビルに向かう。

近くに、地ビールの店があったことを思い出したので、寄ってみる。

まだ飲んだことがないので、一度飲んでみたい。

木〜日曜日 17:30〜21:30 

ここまで来るのは、むずかしいかな。

 

もうひとつの板張外壁のビルは、郵便局の隣にある。

このビルは、最近も車で通りかかっているので、間違いない。

でも、じっくりと観察したことはない。

写真を撮っていたら、監視カメラがあった。

3階建てのビルであるが、1階は黒いレンガの様なもので、2階3階は木材の色がかなり暗い色調の外壁なので、離れると木材とはわからない。

なかなか、渋いと思う。

これに比べると、ホテルの近くにあったビルの色調は明るくて、華やかさがあった気がする。

木材なので、そんなに年数的に持たないのだろうか。

このビルは、広告会社のビルだった。

なるほど、納得である。

一階には、はさみマークの看板があったので、理髪店が同居してるようだ。

向かいには、カフェができている。

少し前までは、和服のお店だった気がするけど、思い違いかな。

コロナ禍で、大変な時期だけど、少しずつ変わって行くのだなあ。

 

この後は、のんびりふらふらと帰った。

出発11時 帰着3時。

1万4千歩 11キロ。

 

本日の成果は、フランス式彩色地図のコピー18枚。

本来は白かったであろう紙の色は、黄色く変色している。

100年以上も昔のものなのだからしょうがない。

むしろ、一枚も欠けず保存されていたことを、喜びたい。

なんと、900枚近く残っている。

目を近づけるとこんな感じだが、担当者によってかなり違う

途中で、地図を保管するファイルを買った。

A4サイズのサイドインファイルだと、A3サイズであるこの地図を収納できる。

こんな感じで収納する。

しばらくは、これを楽しむことにしよう。

 

 

 

 

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あきたのかりね⑥ 菅江真澄テキスト

甘八日 きのふのやうに雨風すれば、はが/\゛しからじ。

はる/\゛ヽこゝをさし来て、ほゐなうかへらんもうければ、晴ぬかぎりは、

「海士のとまやにあまた旅ねぬ」

と、顕仲朝臣ののたまひしも、げにもとおぼへて、けふはあたり見ありく。

此磯のなのりそを神馬藻といふは、いにしへ神功皇后、このなぎさにみふねよせ給ひて、御馬やしなはんに秣なければ、磯菜、にぎめなど、はた、なのりそをもはら秣にぞし給ふより、此草を神馬草と、しか書ける。

又此みてらに、このふるごとをたぐえて磯の翁のいひけるは、いかゞにやあらん。

かなたこなたと島を見やられたるに、はま風あららかに吹て、みの、かさ、吹もていかんとせし。

遠かたに見えたる尾上のしまこそ、別しまにやあらめ。

こゝをせに聞えし、

「わかるれどわかるともおもはず出羽なる別のしまの絶しとおもへば」

可保のみなとは、いづことしる人なし。

過来し、かもの浜(鶴岡市)にやあらんか、其名の似りけり。

懐中記に、

「君を見ねばかほのみなとに打はへて恋しきなみのたゝぬ日ぞなき」

と聞えたる歌あるをおもひ出て、尚ゆかしかりき。

甘九日 雨よべよりをやみなくふりて、浪の音さはがし。

さうじ(障子)のあなたに女盞とりて、ゑひなきになきて、あらぬ戯いふは、かみ長とて、この磯のくゞつ(遊女)也。又人にひめしのびて、夜更て戸ぼそ叩くるあり、是をこもかうむりといひ、はた、なべといふひと夜づまもありと、相やどりの旅人の集りて、むつがたりにせり。

古城のあとをゆんでに、中橋といふ川べたより小舟さゝせて、妙見嶋〔天註‐‐妙見祠は潟のへたに在〕、いなりじまに人の行とて小橋わたるを、入道島のかげよりほのかに見やりつつ、岸につりする男女やがて棹を捨て、しぢみ、黒貝、うば貝などひろひありく。

ふねは、まとしま、けんかい島をめぐるに、雨いとよく晴たり。

能因嶋よりむかふ方は、鳥海山のすがたは、ふじ(富士)を、やよひの末卯月のはじめつかたみたらんやうに、かのこまだらのしら雪に、雲ひとすぢながれたるごとにかゝりぬ。

此山は大物忌の神のしづまり給ふ、麓は蕨の岡より、のぼりまうづるみねなり。

此かたのきしべによこほる山を、大ひらといふ。

此山の辺をむかしのふるみちといへり。

藻かり舟の集ひありくは、ながれ藻をかりてつらねあみて、馬のせにかけて寒さをしのがせ、まち人は夜のものふすまとす。

名を、きさがた蒲団といへり。

鍋粥島、兵庫しまこぎ行に、あしの穂に鶏の尾羽まぜてあみたる笠〔毛がさとてもはらせり〕をきて、みのゝ袖をかゝげ、ちいさき舟をとばせて、「おそさ/\とふたこゑ三声」とうたふは、ふな音頭といふ歌也けり。

やがて此あま人舟よせ、とがま、こしよりとりて玉藻かりとるは、からすじま、椎島、まがくし、今津しまといふ。

松のむらたてるに鷺の居たるは、雪のふるかとまどふに、此舟の近づくにおどろかされて、みなたちぬ。

しゝわたり、つゞきしまとやらんは、糸引渡したらんがごとし。

大嶋、めをとしま、松のふたもと生るゆへにや。

いくばくの島の中におやしまといはんは、苗代島、ひらしま、ならしま、べんてんじま、蛭子島。

こゝらのしまかげに鵜の觜をそろへていをゝくひ、はねをひらけて、岩のうへにゐならびたりけるを見つゝこぐとて、

   おきつ島鵜のゐる石にふねよせてなみかけ衣象潟の浦

席岨、天神嶋、大春など見やり、大平の瑞に相がれたるは田の神の社なり。

守夜神をまつると聞えたる。

なべて潟のへたは田面畑にて、秋は五くさのみのりたるをかりつかね、小舟いくばくもこぎ出で、鳥のながめいやますと人のいへり。

鴨うかびたらんがごとに、ちいさきしまいと多きを、さしめぐらし/\来れば、あさりの小舟ひとつこぎよるに、たちさはぐおしかもの羽音は、うしほの涌くるかとまどひぬ。

大潮越、こしかけの八幡の社、こなたに見えたる冬木立の中にしろき幡のひるがへりたるは、しら山の神をまつり奉る御社。

蚶満寺〔蚶といふ貝多きゆへきさがたといひ、しかいふより、きさみつる寺といふべきを、神功皇后のふるごとをいひ、しほひるに、しほみつにのことにたぐえて干満寺の聞えありけるならん歟〕の西に舟つきて、しばしおりぬ。

西行上人の「波に埋れて」とのたまひし桜は、水の上に枝さし出したり〔いにしえのさくら枯て、こと木うへけるとなん〕。

此朶ごとに紙ひきむすびたるは、なにの願ひにやあらん。

はまひさしのやうなるところに石あり。

これや親鸞聖人こし(腰)し給ひたる石と、めぐりおしかこひ、いしぶみにしるしたり(潮越淨専寺、肥前国西方寺建之とあり〕。

合歓(ねむ)の木の冬かれたるかたはらに、「象がたの雨やせいしが」と記したるは、世に多き、はせをの翁のつか石なり。

みじかき黒ごろも着たるほうし、かのこしかけ石にいやして、

「松しまやをしましほがま見つゝ来てこゝにあはれをきさがたの浦」

と、聖人のふる歌をひたにとなへて、なもあみだと、ねんず(念珠)ならして去ぬ。

ちかき世の遊行上人の歌とて、

「いつかとはおもひをこめて象潟のあまのとまやに秋風ぞふく」

と、人の語りしをおもひ出たり。

いざ日もくれなんとて、かれあし茂りたる中を舟引出して、磯ひと山など見やりつゝ、もとの岸にやをらあがりて、三熊野の神あがめたるいはねにのぼり遠近見つつ、あまが崎、さいの神、とがさき、不動さき、此あたりはあら浪うちよりて、潟見しめにはおそろしくおぼえたり。

「おしまれぬ命もいまはおしきかなまたきさがたを見んと思へば」

此歌、時頼ぎみ此ながめにうかれて、十首の歌よみ給ふ其ひとつ也けり、外はもらしつ。

行かふ人の、アツシといふ蝦夷の嶋人の木の膜におりて、ぬひものしたるみじかき衣をきて、ちいさきゑぞかたな〔まきりといふ小刀なり、蝦夷人是をエヒラといふ〕こしにかけ、火うち袋そへたり。

つり海士は、たぬの〔手布なり〕につらつゝみて毛笠をかうむりて、男女のけぢめも見えで、あちこちとのぞみ、さしめぐらしたり。

かなたこなたと見ありきて筆にまかせて、

   きさがたのあはれしりとや夕まぐれこぎつれかへる海士のつりぶね

   としふとも思ひしまゝに蚶潟のあはれをしむる夕ぐれの空

   旅衣わけこしこゝに象潟のうらめづらしきゆふ暮のそら

こゝらの島は夕霧にかくろひて、いたゞきのみいさゝかあらはれたるに、舟人の行か、棹の音のみ聞えてまどふ。

かなたの海つらはあららかに、むら立る巌に浪うちいれ、くゞりよる音のすさまじう聞えたり。

其いにしへ、かゝるところみな潟ながら、浪にまさご(真砂)うちはこび潟あせて、かくくがとなりぬ。

其島のおもかげは、岡ひきゝ山のごとく残りたりといふ。

まことにしかり、此浦のながめは、たゞこゝろしゞまになみだのみこぼれて、いとゞふるさとをおもふ。

   なみ遠くうかれてこゝにきさがたやかつ袖ぬるゝタぐれの空

とばかりありて、やにさし入たり。

 

 

 

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