晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

林と森を眺めて、とりとめのないことを考える

私の住んでいるところは、光ヶ丘の台地上にあり、まわりよりも小高くなっている。

全体的に、東西南北を谷で囲まれているような感じである。

田んぼがあるような低地は、大津川の流れに近いところまで行かないとない。

ふだん、自宅近くを散歩していても、田んぼを見ることはできない。

だから、久しぶりに遠出をしたら、稲刈りが終わってしまっていた、ということになる。

 

この台地の見通しのいいところからまわりを見ると、緑の森が思ったよりも多く残っていることに気がつく。

里山」ということばがある。

集落、人里に隣接していて、人間の影響を受けた生態系が存在する山のことをいうらしい。

集落の生活の延長上にある山ということだろうか。

私の住んでる柏市も、隣接する松戸市でも、里山を保護していこうとする活動をしている。

里山といっても、現在は私有地である。

無断で立ち入ることは、できない。

そのような森や林を、地域の住民が立ち入って楽しめるように、所有者の了解のもとに、開放している。

もちろん、所有者にとっても、税制面などの処置があるのだろう。

www.city.kashiwa.lg.jp

www.city.matsudo.chiba.jp

 

車で走っていると、空き地や林だったところが、住宅地にされているところにいくつも出会う。

ずいぶんと長い間人が住んでないような住宅や、使われていない店舗はあちらこちらで見かける。

それなのに、新しい住宅は次々と作られている。

このところ、毎日のように通っていたコインランドリーの脇の空き地も、あれよあれよという間に、きれいに造成された。

まだ、住宅は建っていない。

何ヶ月か前には、片隅にカボチャの花が咲いていたんだけどな。

その奥の方は、鬱蒼とした森林がまだ残っている。

この森林も、いつかはなくなってしまうのだろうか。

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携帯電話基地局アンテナ

森林の手前に、巨大な携帯電話用のアンテナが立っていた。

こんなのを、いろんなところで見るような気がする。

ちょっとずつ形が違ってるような気もするので、キャリアごとに建設してるのだろうか。

ドコモ、KDDIソフトバンク、が三大キャリアで、これに楽天モバイルが加わるらしい。

森林をよく見ていたら、森の左手の上の方にアンテナの先端が見えた。

この森も向こう側に、もう一つアンテナが建っているのだろう。

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もう一つのアンテナが見える

私が、最初に使ったスマホPHSだった。

キャリアはウイルコムで、シャープのZERO3という機種だった。

PHSというのは、personal handy-phone system の略だそうだ。

当初は、personal handy phone でPHP だったらしいが、PHP研究所からのクレームで変えたらしい。

PHS基地局の出力は小さくて、数百メートルくらいしかカバーできなかったという。

PHSのアンテナは、電話ボックスの上にあると言われていた。

jp.sharp

携帯電話基地局の出力は大きいので、数キロメートルをカバーするらしいが、それでも日本全体を考えると、とんでもなく多くの基地局が必要になるだろう。

それぞれのキャリアがそれをやるのは、無駄が多いように思える。

もう少し、利巧なやり方があるんじゃないのかな。

 

私が、まだ勤めていた頃、駅まで歩いていたのだが、その途中に森があった。

ある時から、その森の隅で工事が始まった。

いったい何の工事だろう、と思っていた。

数ヶ月の工事が進むうちに、携帯電話の基地局アンテナということがわかった。

基地局から出る電波は、まわりの人たちの健康に害はないのかな、などと考えていた。

工事が終わって、これで完成だな、と思っていたら、そのうちに解体工事が始まった。

たぶん、まだ使ってないのに、どういうこと、と思った。

土地は、何事もなかったように、森だったところがただの空き地になった。

後で知った情報によると、土地は借地で、借地権者が所有者に無断で、契約をしてしまったらしい。

ウソのような、ほんとの話である。

誰かが、やるべきことをやらなかったのだろうが、あの建設費用はどのように処理されたのだろうと、思った。

世の中には、考えられないような不思議なことがあるのである。

 

 

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ロックの時代 14  ブーレ

ビートルズの「イエスタデイ」は、ポール・マッカートニーがギターの弾き語りでレコーディングした。

リンゴ・スターは、この曲にドラムを合わせるのは難しいと言い、ジョージ・ハリスンジョン・レノンは、もう一本ギターを追加することは無意味だと思う、と言いレコーディングには立ち会ったが、演奏はしなかったという。

結局、プロデューサーのジョージ・マーチンがアレンジした弦楽四重奏の演奏を、オーバーダビングした。

今となっては、「イエスタデイ」はこの演奏しか考えられない。

翌年1966年に、「エリナー・リグビー」という曲が発表されているが、この曲は弦楽八重奏がバックで、メンバーは演奏せず、ボーカルとコーラスである。

ヴァイオリン4、ヴィオラ2、チェロ2という編成らしい。

これもまた、「イエスタデイ」と同じで、弦楽あっての曲になってしまっている。

 

ジェスロ・タル   「ブーレ」

en.wikipedia.org

ジェスロ・タル」というイギリスのロック・バンドは、1967年に結成され、「ブーレ」は1969年の2枚目のアルバム「スタンド・アップ」に収録されていた。

イアン・アンダーソンがリーダーで、ボーカルそしてフルートを演奏していた。

フルート奏者のいる不思議なロックバンドだった。

長髪でヒゲモジャでブーツをはいて、バッハの「ブーレ」を演奏する。

今聴くと、ロックというよりもジャズである。

高校生だった私には、なんともインパクトのあるバンドだった。

この曲以外は、覚えていない。

「ブーレ」はその後、私のクラシックギターのレパートリーになった。

Jethro Tull Bouree live - YouTube

 

ハービーマン 「メンフィス・アンダーグランド」

ja.wikipedia.org

ハービーマンは、ジャズのフルート奏者だが、ジャズとロックの境がなくなったクロスオーバーと呼ばれるものが出てきた時代だった。

この曲は、シンプルなリズムをバックに、軽快なジャズのフルートが乗って行くような感じで、私は気に入っていた。

そういえば、日本にも渡辺貞夫さんというミュージシャンがいた。

渡辺さんもフルートを吹いていて、軽快でさわやかな感じは、共通するものがあった気がする。

Herbie Mann    Memphis Underground

https://www.youtube.com/watch?v=BO_Lfk-8P5c

 

ハーブ・アルパート  「蜜の味」

ja.wikipedia.org

ハーブ・アルパートとテファナブラスという、ラテン系のグループはその頃ヒット曲がいろいろあって、誰でも知っていた。

マリアッチといったかな、とにかく軽快な音楽だった。

ハーブ・アルパートは、トランペットを吹いていたが、この頃はイージーリスニングが全盛で、トランペットと言ったら、「ニニ・ロッソ」と「ジョルジュ・ジューバン」だった。

「夜空のトランペット」は、どっちのヒット曲だろう。

ニニ・ロッソはイタリア、ジョルジュ・ジューバンはフランスで、しっとりしたトランペットだった。

Herb Alpert The Tijuana Brass     A Taste of Honey

https://www.youtube.com/watch?v=LGmQXuySF28

 

 

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稲刈りは終わっていた

用事があって、大津川の向こう側まで行った。

車を運転しながら、外の田んぼを見ていた。

田んぼは、ほとんど稲刈りが終わっていた。

穂を垂れた田んぼを散歩したのは、何週間前だったろうか。

稲の切り株からは、もう青い茎と葉が伸びていた。

これは、孫生(ひこばえ)と言われるものらしい。

今まであんまり意識したことがなかったけど、この辺りでは稲刈りって今頃だったかな。

まだ9月で、あんまり秋という感じじゃないのに。

私の育った秋田は、もっと秋になって稲刈りだったな。

 

稲刈りが終わった後は、田んぼで乾燥させていた。

稲架(はさ)というやつに、架けて自然乾燥させていた。

まあ、私が秋田の田舎にいたのは高校一年生までで、1969年である。

田んぼの仕事は、ほとんど手仕事で、やっと耕運機が入って、牛や馬の代わりに田畑を耕すようになっていた。

稲刈りをやってくれるコンバインという機械が入ったのは、私が田舎を出てからなので、詳しくはわからない。

稲刈りと同時に、脱穀も田んぼでやってしまって、籾だけにしてしまうらしい。

籾は持ち帰って、機械で乾燥させるわけである。

でも、何週間か太陽光を使って天日干ししたお米の方がおいしいので、自分たちが食べる分は農家ではそのやり方をすると聞いたことがある。

 

柏の近辺では、稲架掛けしてるのを見たことがない。

旅行していて、いろんな稲架を見たことがある。

ほとんどは、棒を一本立てて、それに稲束を架ける簡単なものだった。

高さもそれほどなく、一人で作業できるものである。

秋田の稲架は、縦棒を2本立てて、それに横棒を4本渡して固定してある本格的なものだった。

毎年のことなので、田んぼに稲架のための木材を保管して置く稲架小屋があった。

稲束が、できるだけ重ならずに、乾燥が効率できるように工夫したものだった。

稲束を架ける作業も、はしごを使った稲架の上の人と、下から二股の棒で稲束を渡す人の、2人で1組だった。

私は、子どもの頃から稲束を渡す仕事を手伝っていた。

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稲架は、私の育った秋田では、「はさ」だったが、地方によっては、「はざ」、「はせ」、「はぜ」、「はで」ともいうらしいし、「稲木」や「稲掛け」や「稲機」と呼ぶところもあるらしい。

変わったものでは、「牛」というらしいが、これは荷物を載せた牛に似ているということだろうか。

稲架について調べてみたら、多くの写真が出てきた。

どうも、東北や日本海沿岸そして長野県あたりだった。

気温が低く日照時間の短いのが、共通点かもしれない。

稲刈りの後の稲穂を乾燥させるというのは、とても重要だったのだと思う。

稲束を稲架掛けして、数週間天日で乾燥させるのだが、その間に初雪に降られた記憶がある。

 

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私が、田舎を離れた1970年頃から、日本の農業、特に稲作は大きく変わっていく。

それまでの、手作業から、どんどん機械が入って、機械化していく。

牛や馬を使ってやっていた田おこしや代かきは、トラクターでやる。

家族や親戚、それから村の人を頼んで総出でやっていた田植えや稲刈りも、機械でできる。

田植え機とコンバインを使う。

 

ja.wikipedia.org

 

でも考えてみたら、日本の農家はほとんどが小規模な兼業農家である。

とても、農業だけで生活はできない。

高価な農機具を揃えても、採算は取れない。

だから今は、農作業の委託というのがあるらしい。

結局は、大規模な農業経営へ移行するための過渡期なのだろうな。

 

 

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私の日本酒コレクション④

晩酌の日本酒を、それまでの紙パックから四合瓶に変えた時に、このシリーズを始めた。

ところが、毎晩1合くらいづつ飲んでも、4日しか持たない。

ちょっと抑え目にしても、5日くらいのものなので、1週間持たないのである。

あまりにもせわしないので、写真を撮るのも忘れてしまう。

めんどうなので、紙パックに戻してしまった。

紙パックは、2リットルくらいなので、四合瓶の倍以上ある。

しかし、紙パックは味気ない。

かと言って、一升瓶はあまりにも邪魔である。

勤めていた頃は、晩酌はビールだった。

それで、平日は休肝日にして、週末に解禁したりしていた。

仕事をしていると、そういうケジメができるけど、今のように毎日が休日だと、なかなかそういう切り替えが難しい。

生活のリズムを、変えてみることを考える必要があるかもしれない。

 

梅一輪 純米古酒 梅一輪酒造

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純米酒 梅一輪 純米古酒 精米歩合麹米50%掛米70%

千葉県山武市松ケ谷

梅一輪酒造は、九十九里浜に流れ込む木戸川の近くに位置している。

九十九里浜に近いところであるが、近くまではいったことがあるはずだが、酒造会社があるのは気がつかなかった。

「純米古酒」というのに、惹かれて買ってしまった。

古酒というが、何年ものかはわからない。

見事なくらいに、濃い琥珀色である。

キリッとした、味わいで有る。

 

純米酒の持つ旨味と、熟成した香りが調和した芳醇なお酒です。(ウェブサイトより)

加茂錦 純米吟醸酒 無濾過酒 加茂錦酒造

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純米吟醸酒 加茂錦 精米歩合60%

新潟県加茂市仲町

売り場を見ていたら、米袋のような紙袋に入っていて目をひいた。

「無濾過酒」と書かれていて、品質の保持のために光を避けるための袋らしい。

無濾過の酒は、お酒の色が黄金色に見えたり、滓が発生することがあると書かれてあったが、気がつくようなことはなかった。

とてもまろやかな味わいで、飲んだことのない感じだった。

紙袋には、次のようにあった。

 

「無濾過なわけ。

このお酒は自然な味、風味を楽しむため精密濾過をしていません。

濾過をすると色は透明に近づきますが味も一緒に抜けてしまうからです。

濾された成分にはさまざまな旨味、風味など豊かな成分が残っています。」

j-s-p.or.jp

 

稲里純米 石透水仕込み 純米酒 磯蔵酒造

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純米酒 稲里純米 精米歩合60%                                                           
茨城県笠間市稲田

先日、茨城県城里町のキャンプ場に行った際に、地元の温泉のお土産売り場で買ったお酒である。

隣町の笠間市の酒造会社のお酒だった。

JR水戸線稲田駅は、笠間駅の隣の駅である。

稲田石という花崗岩の大産地であるらしい。

車で走ってると石屋さんが、多くあった気がするが、駅方面に行ったことはない。

石透水仕込みというのは、御影石の大地から湧き出る良質の地下水を使ってるということのようです。

飲み口は、かなりガツンとした感じで、強い酒である。

isokura.jp

 

京姫 匠 純米吟醸酒  京姫酒造

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純米吟醸酒 京姫 匠 精米歩合60%                                                                                                 京都市伏見区山崎町

京姫酒造のお酒は、以前にも飲んだことがある。

瓶のラベルが、オシャレである。

色づかいとか、字体のデザインとか、目をひかれる。

日本酒売り場で、どれにしようか迷っていたら、近くにいた息子がこれがいいなじゃない、と言ったので決めた。

香りも良く、飲み口がすっきりで飲みやすい。

日本酒は、ほんとにそれぞれ違うものである。

www.kyohime.co.jp

 

私が、日本酒を買うのはほとんどがスーパーの酒類売場である。

スーパーの日本酒の品揃えは、店舗によってとても差が大きい。

私がこだわってる純米酒関係は、ほとんど置いていない店もある。

通常は客層など考えて、品揃えするのだろうが、ほんとに考えているのか頭を傾げてしまうような店もある。

日本酒の酒類は、大きく分けて、純米酒醸造酒、それ以外の普通酒がある。

純米酒醸造酒もそれぞれ4種類あるので、合計9種類あるのだと思う。

でも、売り場の陳列棚を見ていると、このような考慮して整理されているのに、ほとんど出会ったことがない。

せめて、お酒についての最低限の知識がある人に、担当してもらいたいものである。

 

 

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電柱と電線について

今日は、洗濯物を乾燥させるために、コインランドリーに行った。

住んでる集合住宅が、大規模修繕のために、最近ベランダが使えない。

しょうがないので、コインランドリーを利用することが多い。

青空で天気はいいのに、コインランドリーで乾燥というのも、なんかもったいない。

洗濯は、おもに私がやることが多いので、けっこう忙しい。

待ち時間に、駐車場のベンチに座って、風景を見ていた。

最近は、ベンチで時間待ちをしてることが多い。

天気さえよければ、建物の中や、車の中でよりも、その方が気持ちいい。

正面に車道があるので、道沿いにある電柱と電線が目に入った。

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空と雲の写真を撮るのに、電柱と電線が邪魔だということを先日書いた。

それ以来、電柱と電線が気になってしょうがない。

そのうちに、電柱というのも、背の高いのやら低いのやら、種類のあることがわかった。

電線も、太いケーブルから、何本も束になったようなもの、さらにそのまわりをクルクルの巻きつけたようなものもある。

電柱、電柱というけれど、考えてみたら「電信柱」(でんしんばしら)というのもあったじゃないか、と思いついた。

これは、「電信」だから、電話線のための柱ということだろうか。

 

気になるので、調べてみた。

電力会社が送電・配電のために設置するのは、「電柱」もしくは「電力柱」であり、通信会社が通信用ケーブルを支持することを目的に設置するのは「電柱」もしくは「電話柱」又は「電信柱」であるとなっていて、どちらも「電柱」でも間違いではない。

でも、背の高い電柱は、電線やらケーブルが何段にもなっていて、何種類もあるようだ。

そういうのは、「共有柱」や「共架柱」というやつらしい。

電力を送電するための電線は、電柱の1番上や2番目の段にある。

あの白い「碍子」というのが目立っている。

陶器でできているから、絶縁ということなんだろうけど、「がいし」ってことばを、久しぶりに思い出した。

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電線の下にあるのが通信関係のケーブルなんだろうが、どれがどれだかわからない。

普通の電話線、それから光ケーブルがあるし、ケーブルテレビ用のケーブルのあるだろうし、有線放送というのもあったかな。

電柱は、ほとんどは電力会社が所有してるのだろうから、使用料をもらうんだろうな。

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そういえば、私の住む集合住宅の敷地内に、高圧電線の送電のための中継の巨大な鉄塔がある。

送電塔というらしいが、一般的には15m〜55mらしいが、どれくらいあるのかな。

転居してきた時には、すでにあったので作られてから40年以上にはなると思う。

それが、近いうちに建て替えになるらしい。

ところが、建て替え後の鉄塔は、現在のものよりも大きいものになるということだ。

どうも、隣の中継塔が建て替えができないらしい。

その分を、カバーするために、送電塔を高くするということかな。

たしかに、数百メートル離れた送電塔に行ったことがあるが、土台のまわりは敷地に余裕がなく住宅が迫っていて、工事が難しそうである。

建て替えのことを、考えなかったのだろうか。

工事となれば重機なども必要だろうが、建設はともかく、解体はできるんだろうか。

 

全国のインフラが、老朽化していて、それに対応していかないといけないということを、最近聞く。

戦後の高度経済成長から、半世紀経とうとしているのだ。

いろんなものに、寿命がきているのだろう。

鉄道の鉄橋というのがある。

道路の橋などは、大きな川にいくつ架かっていることだろうか。

日本にはダムもある。

これらは目に見えるけど、やっかいなのは目に見えない地下にあるやつかもしれないな。

上下水道にガス管、毎年道路を掘り起こしてるけど、そろそろ、そんなことしなくてもいい方法を考えてもいいんじゃないかな。

 

 

 

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菅江真澄の図絵

菅江真澄の著作の特徴は、文章だけではなく図絵を多く使っていることだと思う。

世の中には、紀行文を残した人は多いと思うが、文章とともに絵をも描いた人はそれほどはいないだろう。

菅江真澄全集においても、巻頭の数十ページは図絵を掲載している。

その巻の内容によって、図絵のページ数はかなり多少の差が大きいが、ほとんどは白黒写真であり、初めの一枚か二枚だけがカラー写真である。

1970年代の発行であるせいか、写真の品質はあまり良くはない。

それでも、真澄の直筆の絵と文章を楽しむことができる。

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いなのなかみち たなばた  全集第1巻の巻頭にある絵

菅江真澄の自筆の著作の多くは、秋田県立博物館と大館市立粟森記念図書館の蔵書となっている。

久保田藩の藩校であった明徳館から、真澄は地誌「雪の出羽路 平鹿郡」などの編纂を委託されていた。

その縁があって、真澄は著作の多くを生前に明徳館に寄贈した。

明治になって佐竹家に移管され、その後辻兵吉氏の所有となるが、秋田県立博物館に寄贈され現在に至っている。

これらの著作は、秋田県立図書館のデジタルアーカイブとなっていて、ネットで閲覧することができる。

da.apl.pref.akita.jp

真澄が亡くなった時に書斎に残されていた著作は、墓碑建立などに協力した人たちに片見分けされた。

明治になって、旧久保田藩士であった真崎勇助氏が収集し、のちに粟森教育財団に寄贈した。

現在は、大館市立粟森記念図書館の蔵書となっており、ネットで閲覧できるとともに、PDFファイルをダウンロードすることもできる。

lib-odate.jp

 

菅江真澄全集は、すでに活字になっている文章を読むことになる。

しかし、ネットで閲覧できるのは自筆本を写真にしたものである。

筆を使って書かれた文章は、私には読むのは難しい。

とは言っても、真澄の文字は丁寧に書かれているので、時間をかければ私でも解読出来るかもしれない。

真澄の著作は、自分のための覚書ではなく、旅先で出会った人々に見せて読んでもらうものでもあった。

達筆だけれど、繊細な真澄の文字は、活字とは違って息づかいのようなものを感じさせる。

それにもまして、真澄の絵には何とも言えない魅力がある。

今までも、全集に掲載されていた絵を見ていて、面白いなとは思っていた。

最近、これらの図書館が提供している菅江真澄の著作原本を見ていて、彼にとって著作の中で、文章と同じくらい、いや文章を凌駕するくらい絵というものが大きな部分を占めていると感じた。

膨大な著作のうち、私はまだほんの少しの部分しか見ていない。

旅日記などでは、文章の中に挿絵程度の絵が添えられている。

しかし、地誌などにおいては、絵が中心で、その絵の空白部分に文章があるというものもある。

 

秋田県立図書館と大館市立粟森記念記念図書館は、菅江真澄の著作を写真データで提供している。

しかし、この二つの図書館の提供方法は、違った方法を採用している。

秋田県立図書館のデジタルアーカイブは、検索して見たい作品が見つかると、それをクリックしてページのサムネイルを選択すると、そのページが表示される。

しかし、データをダウンロードはできず、表示される写真の解像度もそれほど高くないので、拡大すると細部はぼやけてしまう。

自筆本「菅江真澄遊覧記」は89冊で、国の重要文化財になっている。

これに対して、大館市立粟森記念図書館の場合は、作品のリストが表示されるので、クリックすると、PDFファイルが表示され、ダウンロードもできる。

写真の解像度も高く、拡大しても細部まで、比較的鮮明にみることができる。

図絵集7冊、随筆10冊、雑纂13冊、日記12冊、書写本4冊、和歌集1冊、地誌2冊があり、秋田県有形文化財になっている。

 

菅江真澄の図絵は、墨だけで描かれているものもあるが、多くは彩色されている。

描かれている対象は、風景が多いが、道具類などの物を描いたものが多いのが、他にはあまりないことのように思われる。

そのわりには人物を描いたものは少ないような気がする。

旅の途上でのものはスケッチ的にさっと描いていて、たぶん充分に時間のある時はじっくりと書かれている。

真澄は、200年前の人である。

このような風景の中を旅して、絵を描いていた。

 

秋田県立図書館の菅江真澄デジタルアーカイブを見ていたら、リストの最後に「真澄翁北海道雑稿其の他」というのがあった。

真澄は、三十代後半に蝦夷に渡り、3年ほどを過ごした。

この作品集は、その頃に手元にあった文章や絵を整理したものだと思われる。

だから、必ずしも対象が蝦夷地のものではなく、時期もさまざまかもしれない。

これを見ると、真澄がどのようなものに、興味や関心を持っていたのかがわかる。

 

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解像度が低いので、文字などは読むのは難しい。
でも、絵は見てるだけで楽しめる。
本人も、楽しんで描いていたのだろうな。


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いろは歌をいつ知ったのだろう

「いろはにほへと」が、意味のある歌であるということを知った時は、ほんとに驚いた。

しかも、「かな」が重複してなくて、すべてを使ってあるという。

ただの記号みたいなものだと、思っていたから、ビックリである。

歌といっても短歌ではなく、七五調の歌謡である今様という形式らしい。

しかし、私は小学校や中学校でこれを習った記憶はない。

教科書のどこにも、「いろは」のことは書かれていなかった。

だから、知ったのはずいぶん後のことで、いつ頃だっただろう。

 

いろはにほへと ちりぬるを   色は匂えど 散りぬるを

わかよたれそ つねならむ    我が世誰ぞ 常ならむ

うゐのおくやま けふこえて   有為の奥山 今日越えて

あさきゆめみし ゑいもせす   浅き夢見じ 酔いもせず

 

「いろは四十七文字」ということになっているようだ。

七五調で四行だから、四十八文字のはずだが、二行目が七五ではなく六五になっている。

いろは歌」は、いつ誰によって作られたかは、諸説あってはっきりしないようだ。

仏典の中の言葉を、学僧が意訳したのではないかという説もある。

それによると、元になったことばは次のものである。

 

諸行無常 是生滅法

生滅滅己 寂滅為楽

 

いずれにしても、いろは歌はかなを網羅していることから、11世紀頃からかなの手習いの手本として使われるようになり、江戸時代にはさらに広く用いられるようになったそうだ。

私が学校で習ったのは、「五十音図」である。

今になって思うのは、とても大事なことは教えてもらってないということだ。

「あいうえお」が、母音であることは習ったかもしれない。

でも、カ行やサ行は習っても、それが「子音+母音」というものだということは、教えてもらってない。

ローマ字を習って、どうもカ行ではkが、サ行ではsが、それぞれのキーであるらしいとは分かったが、それが何を意味するかは明確に教えられたことはない。

 

同じようなことは、英語を習った時にもあった。

教科書に新しい単語が出てくると、発音記号が書かれていたと思う。

もしかすると、教科書ではなく英和辞典にあったのだろうか。

でも、その記号がどのような発音を表しているのか、習っていない。

私が、授業中にぼーっとしていたわけではないと思う。

ただ単に、先生がスルーしただけなのか、そもそも発音記号についてなど教えるようになっていなかったのか。

 

「いろは」も、「あいうえお」も、英語の発音記号も、あの頃にしっかり教えてもらいたかったなあ、と思う。

最も大事なことが、抜け落ちていたのだ。

そこがよく分かってないから、日本語と外国語がどんなところで違っているかが、よくわからなかったのだと思う。

私は、なぜか言葉というものがとても気になる人なので、いろんなことに引っ掛かったりする。

外国の言葉を聞いた時、日本語に似てる響きを感じたり、それほど違和感を感じないことがある。

日本語にはまったくない響きだったり、とても発音できないと思う言葉もある。

日本語は、母音の占める割合が大きいから、心地よく聴こえる、というようなことが言われてた気がする。

反対に言えば、子音の占める割合が小さいということかな。

まあ、専門的なことはよくわからないのだが、小さい頃にもっと違った角度からことばについて考えさせてもよかった気がする。

 

 

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くめじのはし② 菅江真澄テキスト

松本につきたり。
牛楯といふ処に、おもしろき滝のありと聞て、見にいかんとて清水村を通る。
こゝは、
「夏来ればふせやがしたに休らひて清水の里に栖つきにけり」
とは、いにしへ人もながめ給ひし名どころ也。
〔天註--またしらぬ人を恋せば科野なる清水の里に袖ぞ沾ける、とも聞えたり。又おなじ名播磨にもありといふ〕
此処に、柴かきゆひめぐらしたるなかに、きよげにわきかへる水あり。
かゝる泉をさして、うべ、里の名の清水とも、ながれたらんにやあらんか。
 
   たび衣むすばぬ袖も涼しきは清水の里にきたる也けり
 
しばし見とどまりて政員。
 
   立よりて聞も涼しき里の名の清水のもとに過る袂は
 
かくてゆく/\、又まさかず。
 
   友にけふ千里も行む思ひしておもひこそやれあすの別を
 
となんながめけるに返し。
 
   こぬ秋も袖ぞ露けき旅衣あすの別をけふにおもへば
 
宝輪寺におはしける尊翁法印、此月ばかり、佐久郡のなにがしの寺に行てんとかねて聞え給ひしかば、人伝にやる。
 
   おもひやるあつさはいかにあらがねのつちさへさくの水無月の空
 
兎川寺てふ寺の南に、春見たる薄河はながれたり。
 
   行袖に秋風まねく薄河ほの聞渡る音の涼しさ
とながめてすぐれば、政員。
 
   岸辺なるかげもうつりて薄河波を尾花のよるとこそ見れ
 
みちしばし来れば、
「逢阪やしみづにうつる影も見ず関路へだつる霧原の駒」
とながめしところにて、今は牧こそあらね、桐原の名のみにたちたる里あり。
やに入て休らへば、荷鞍おきたる馬いくらもひきくるは、貢のよねもてはこぶといふ。
 
   治れる御世にひかれて霧原の駒もみつぎを奉るらし
 
けふなん諏方のみやしろに、水無月はらひのかんわざありけるにまうづとて、人さはにゆきたり。
 
   けふといへばみそぎを須羽の海つらに祓やすらん風の祝子
 
やゝ牛館村になりて滝あらんかたもしらねば、みち行翁にものとはせければ、みちさきに立て、腰なる鎌に、たがくさうちはらひ、うちはらひ、雄滝といふがおちくるにあふぎたり。
上なる処にちいさきかん社あり、なにの神とかとへば、あまつ水をこひたいまつる御祠とぞいふめる。
まそで、いと寒きまでたゝずみて、
 
   涼しさは冬ともいはん岩かねに時雨て落る山のたきつせ
 
まそのごとく時雨のあめにことならず、霧ははるゝ日もなけんと、けぶりうち吹てかたる。
政員のながめ聞えたれど、わすれたればかゝず。
遠かたに王箇鼻とて、さかしき山見ゆ。
こゝをしぞきて、わきつるみちのかたはらの麻生のほとりに、細く水の行に、一葉をとりて手あらひて、あめつちの神に奉る。
 
   たび人の麻葉折て行水に流すやけふのみそぎなるらん
 
日くれて湯の原といふ処に宿つきぬ。
いはゆる筑摩の御湯となん。
「わきかへりもえてぞおもふうき人は束間のみゆか降士のけぶりか」
と、殷富門院のながめ給ひしを、修理大夫惟正、このくにのかみにて侍りけるとき、ともにまかりて源重之
「出る温泉のわくにかゝれるしら糸はくる人たへぬものにぞありける」
と、後拾遺に見えたりける此歌をはじめに、今はもはら白糸の湯と、世の中にいひながして名におへり。
 
   しらいとの名にひきながす言の葉に見ぬ世をみゆのもとにこそしれ
 
まさかず湯桁にありて、
 
   世のわざもしばしはこゝにしらいとのかゝる湯あひにわすれやはせぬ
 
ふん月朔の日けふはこゝにとどまりて、ひねもす湯あびす。
温濤の滝とおちくるかたには、こゝらのやまうど集ひたる中に、法師ひとり、さしまじらひおはしけるに、いづこよりかととへば、吉備の穴の海の辺とのみいらへ給ふてけり。
かりねの宿に帰り来てとひしかば、玉嶋の里なる円通寺に住給ふなる、国仙和尚にこそありけれ。
こはいかに、わが叔父なりけるぜじの、のりのこのかみにて、つねに聞をよびて、世中に名だたる人に、ゆくりなう今まみえしもうれしく、なにくれとかたらひて、
 
   いや高きみねこそ見つれたび衣きびの中山よしわけずとも
 
ぜじのふせやも近う、ずんさの僧達あまたの声にて、みず経聞えて、やをら、はつるころとぶらひて、なにくれの物語をす。
此ぜじの云、近きとし、君につかうまつりし士の、いがゞしたりけん、うつゝなう心みだれてとしころありつる人に、われつたなう、
「捨し身は心もひろしおほ空の雨と風とにまかせはててき」
と、ながめて見せしかば、これを三たびずし返し/\て、やがて気も心も涼しうなりて、ふたゝび君につかへしことありなど聞えしに、この歌の末の、きもじを、はといひかへて、
 
   すてし身は心もひろし大空の雨と風とにまかせはてては
 
として、その人の返しやし侍らんといへば、ぜじ、おとがひをはなちてわらひたまへば、近くまどゐしたる僧もほゝゑみたり。
二日 けふなん政員、もとせばに帰るといへる。
別、いとどものうくて、
 
   いとつらき別をやせん玉ほこの道のちまたのこのもかのもに
 
此返しとはあらで、まさかず。
 
   別路のちまたに残る言の葉を又逢ときにかくとかたらん
 
三日 夜あけなんとしける頃手あらひ、近きさかひにおましましける薄大明神にまうでんとて、朝開のみちをゆき/\て、その里になりて神籬を見奉れば、みやしろの左に、軒とひとしう高き、はたすゝきをあまた植たりけるを、あない、みたまへ、この芒はもろつまの須須支とて、ことすゝきとはかはれりなどおしへたり。
うべと、ひろまへ近うよりてぬさたいまつるとて、
 
           ぬさとれば薄のみやのほの入/\゛とあけの玉籬風の涼しさ
 
   奉る薄のみやの神垣にかこふ尾花が袖のしらゆふ

 

 

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スマホという最強ツール

外へ出かける時に、とりあえず確認するのは、サイフとスマホである。

それがあれば、大丈夫である。

スマホがあれば、旅行に出かけても、写真もビデオも撮れる。

デジタルカメラは、持ってるがこの何年も使っていない。

デジタルのビデオカメラは、処分してしまった。

スマホ」の略称が定着してしまった「スマートフォン」が、最強のツールになったのは、やはりカメラとしての機能が充分なものだったからではないだろうか。

もちろん、携帯電話としての機能、そしてミニPCとしての機能があって、それに写真とビデオを撮れるカメラの機能がある。

それが、あの小さな個体に一体化しているのだ。

それだけで、完結できるというのはすごい。

他の何かを繋いだり、カードを差し換える必要がない。

 

長男が生まれて、歩き出し、片言を言うようになった時、ビクターのビデオカメラを買った。

その頃のビデオカメラは大型で、肩にのせて撮影していた。

フルのVHSテープを使っていたので、でかいはずである。

今なら、テレビ局のカメラマンが、外で使っているような感じだ。

今の感覚から言ったら、とんでもなく高かったと思う。

普通のVHSテープが使えたので、レンタルの映画などがそれで見れた。

ビデオデッキは、カメラに比べたら金額は半分以下だったろう。

1980年代の後半の話である。

 

次男が生まれた時に、いただいたお祝いで小型のビデオカメラを買った。

ソニーのHi8というコンパクトなビデオカメラだった。

テープが、カセットテープのように小さくなっていた。

それまでのような黒いスーツケースのようなかさばるのではなく、大きめのカメラケースくらいになっていた。

その他に、フィルムを使うカメラで写真を撮っていたのだから、我ながら忙しいことをやっていた。

写真のアルバムが、毎年何冊か増えていった。

 

PCが、一般に普及して行くにつれて、フィルムを使ったカメラはデジタルカメラに置き換わっていった。

私も、デジタルカメラにしたが、それはxDピクチャーカードというメモリーカードを使うものだった。

xDピクチャーカードは、富士フィルムオリンパスが共同開発したものだった。

今でこそ、その頃いくつもあったメモリーカードの規格は、淘汰されてSDカードとUSBメモリだけが残っている。

ソニーメモリースティック東芝スマートメディア、サンディスク等のコンパクトフラッシュと言った具合だった。

 

デジタルカメラの普及とともに、ビデオカメラもデジタル化していった。

我が家も、ソニーデジタルカメラを購入したが、保存媒体はまだテープだった。

こうして、記録されたテープが多く多く残されたが、再生する機器が使えなくなる中で、アナログのデータをデジタル化できないままに、時間が過ぎていった。

PCを使ったデータ変換は、所要時間など考えると、あまり現実的ではなかった。

今になって思えば、ビデオデッキを使う方法が、合理的だったろう。

アナログ録画したものを、一旦ビデオデッキに移してデジタル化したものを、DVDに保存する。

そのような時間の余裕がないままに、再生できる機器はなくなり、記録されたテープも散逸してしまった。

 

考えてみると、世の中を一世風靡したような、規格や機器も、それほど長い命があるわけではない。

カセットテープのウォークマンは、消えてしまったし、CDだって過去のものになりつつある。

10年、20年でもたいしたものだ、ということかもしれない。

今は最強のツールであるスマホは、どのように変わっていくのだろう。

それとも、他の何かに置き換わるのだろうか。

 

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キャンプに行ってきた

久しぶりに、キャンプに行った。

だいぶ前に、長男に誘われていた。

我が家の分は、キャンプ場付属のケビンを予約してくれた。

長男家族は、昨年から、家族でキャンプを始めた。

こんな時勢だから、どんなもんだろと迷ったが、孫娘を除いて2度目のワクチン接種は全員終わってるし、気をつけて行けばいいかなと、行くことにした。

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我が家が、最後にキャンプに行ったのはいつのことになるだろうか。

長男が中学生だった頃だと思うが、もう記憶は曖昧である。

その頃は、テントや寝袋も家族分あったし、ひと通りのキャンプ用品はそろっていた。

ずっと押し入れの奥にしまい込んであったのを、だいぶ前に処分した。

オートキャンプ場が各地にでき始めた頃で、我が家は千葉県南部のキャンプ場に出かけていた。

道具は揃えていたが、それほどの回数は出かけてないかもしれない。

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フォレストピア 七里の森

今回出かけたのは、茨城県北部の栃木県との県境にあるキャンプ場だった。

長男夫婦と孫娘が、持ち込みテントサイトに、テントを張って泊まる。

我が家は、私たち夫婦と次男、三男の4人は、ケビンに泊まることになった。

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このキャンプ場は、元は城里町の町営の総合野外活動センターだったらしい。

それが、昨年あたりに現在の名称に変わったようだ。

フォレストピアという名称のキャンプ場は、日本全国にありそうなので、民間のキャンプ場運営組織に移譲したのかもしれない。

施設の案内図を見ると、テニスコート、水遊び場、スペースキャビンというのが、使用禁止になっている。

今回のコロナ禍によるものだろう。

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とりあえず、みんなでテントを設営した。

テントサイトは、うっそうとした森林の中と、明るい斜面があったが、見通しの良い斜面にした。

朝柏を出発して、守谷SAで待ち合わせ、高速を1時間くらい走り、友部ICで一般道へ出て、キャンプ場に着いたのは、11時前である。

むかし私が使っていたような、寝袋を並べるためだけのテントではない。

今のテントは、寝室、居間、キッチンなどの役割をできるような作りになっている。

設営しやすいようになってるとはいえ、やはりそれなりに時間を要する。

今回は、人数が多かったから良かったが、2人ぐらいでやるのは大変だろう。

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私たちの宿であるケビンは、テントサイトの上の斜面にある。

建物の前まで、車が入れるようになっている。

高床式で、8畳間に、押し入れを改造したような2段ベッド、台所、シャワー、トイレ、という作りで、けっこうきれいだった。

ただ、寝具は無しで、寝袋を借りるか持ち込みである。

ケビンは、大きいタイプもあって、そちらは10畳二間らしい。

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むかしと違って、今はキャンプ場で焚き火ができる。

もちろん、地面に直で焚き火はできない。

焚き火用のシートやブロックを敷くか、焚き火台が必要である。

やっぱり、焚き火は楽しい。

私は、田舎育ちなので、焚き火は得意である。

落ち葉や小枝や木の皮に火をつけ、だんだんと太めの木にうつしていく。

持ち込んでいた木炭や薪木も混ぜて燃やしていくが、燃えているのを見てるのはおもしろい。

他に、カセットコンロもあるので、ご飯はそっちで炊いた。

 

孫娘は、さくらの枯葉を拾ってきて、燃やしていた。

キャンプ場内の車道沿いに、桜並木があって、落ち葉が拾いきれないほどに積もっていた。

枯葉を火に入れると、大きな炎が立ち上がるので、喜んで拾っていた。

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キャンプ場は、かなりの広さがあるので、散歩してみた。

キャンプサイトの脇の車道を歩いて行くと、ペット同伴者用のエリアがあった。

そこで道は、左に降って行く。

現在は使われてない水遊び場だった。

小さい子どものいるファミリーが多かったので、ここが使えないのは残念だな。

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道は行き止まりなので、戻ることにする。

キャンプファイヤーができる広場があったが、その周りにもいくつかテントが設営されていた。

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さらにその上は、ケビン棟がある斜面である。

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地図には、キャンプ場まえに車道があって、その向かい側に放牧場という表示があった。

そちらに歩いてみたが、牧場らしいものは見えず、キノコの栽培施設と販売所があった。

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もしかすると、放牧場はこの裏にあるのだろうか、それともなくなってしまったのだろうか。

農家の敷地の端に、家畜小屋のようなものが、使われていないらしく放置されて、朽ちていた。

子どもの頃、見かけたような建物だったので、なつかしくなってしまった。

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暗くなってくると、焚火の炎が闇の中に映える。

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薪は、はじめは煙を出し、それから炎をあげて燃えるが、そのうちに炎は出ずに真っ赤になった。

いや、赤くはない、何色と言ったら良いのだろう。

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我々は、ケビンに引き上げる。

畳の上に、寝袋用のシートを引き、その上に寝袋を敷く。

かつての寝袋はサナギ型だったが、最近のものは長方形である。

身動きが少しはできるが、やっぱり寝苦しい。

睡眠の浅いままに、朝を迎えてしまった。

荷物の片付けをして、テントに向かう。

 

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山の斜面の下の方に、朝霧がかかっていた。

長男が自家焙煎したコーヒーをいれてくれた。

出発の前日に、焙煎したばかりと言ってた。

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テントは設営も大変だったが、撤収も大変だった。

夜露に濡れていたので、広げて乾かしながら、畳んでいかなければならない。

 

孫娘が言うには、キャンプは2番目に好きなのだそうだ。

キャンプは、今回で5回目くらいらしいのだが、夏の初めに親子で行ったキャンプ場の近くの渓流で遊んだのがとても楽しかったらしく、気に入ったらしい。

何が1番目に好きなのと聞いたら、「1番はホテルと温泉」なのだそうだ。

そこで、近くにある「ホロルの湯」という地域の温泉にみんなで行った。

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そういえば、孫娘のパパである長男も赤ちゃんの頃から温泉が大好きで、おじいちゃんに抱っこされて入っていた。

親子は、似るものだ。

そのあとは、水戸でお昼を食べて、帰ったらもう夕方だった。

寝不足だったらしく、ぐっすり眠れた。

 

私の子ども時代、家族旅行などしたことがなかった。

まわりを見ても、みんな同じようなものだったろう。

そんな時代だったし、旅行などという余裕はなかった。

東京育ちの妻は、ささやかながら家族旅行をしてたようなので、地域の違いもあるだろう。

結婚して長男が生まれて、妻の家族たちとの旅行が、私にとって初めてだったと思う。

まだ一歳くらいの長男を囲んで、妻の両親と妻の弟2人と私たちの夫婦だった。

なんか、今回の顔ぶれと同じ組み合わせだな。

 

 

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