晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

けふのせはのゝ 菅江真澄テキスト

津軽から矢立峠を越えて、秋田藩に入り大館の街を通り、山中の沢尻という宿で、「そとがはまかぜ」の日記は終わっている。

大館は、私の郷里であるが、天明5年(1785年)というから250年も前に、菅江真澄が通り過ぎたと思うと、感慨深いものがある。

大館は、秋田藩の支城があった城下町である。

津軽藩南部藩との国境に近い大館は、一藩一城の江戸時代に、例外的に支城の設置が許された。

しかし、真澄の日記には大館の街についての描写はまったくない。

沼尻の宿に泊まったのは、8月25日である。

「けふのせばのの」は、その翌日の8月26日からはじまっている。

真澄は、当時南部領だった鹿角郡を通過し、9月初めに二戸郡から、盛岡に着く。

さらに、花巻、黒沢尻を経て、10月1日に、仙台藩江刺郡の片岡に到着するまでの日記である。

 

日記の名前の「けふのせばのの」は、漢字にすると「毛布の狭布」である。

「毛布」(けふ)は、鹿角の地が古くは、「けふの里」と言われていたことからきている。

「狹布」(せばのの)は、この地の特産の反物で、通常のものより幅が狭く、細布ともいわれ、鳥の羽を織り込んだものが、上物とされたらしい。

小学館デジタル大辞泉では、次のようになっている。

「古代、奥州から調・庸の代物として貢納された幅の狭い白色の麻布。」

12世紀の書物『無名抄』には、こうある。

「けふの細布と云は、みちのおくに鳥の毛にして織ける布なり。多からぬものにて織なれば、はたはりもせばく、ひろも短ければ、上に着ることはなく、小袖などのように下に着るなり。」

他の国ではただ布というのに、陸奥出羽に限って、狹布というので印象的だったようだ。

 

原本は、大館市立粟森記念図書館蔵である。

小型本、全三二丁、図絵一丁ニ図。

和本の一丁というのは、表裏で一丁なので、64ページということになる。



 

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コロナ療養中

コロナ療養中である。

ついに我が家にも、コロナがやって来てしまった。

パートから帰ってきた妻が発熱し、苦しそうだった。

かかりつけの病院に連絡したら、コロナ用の発熱外来に来るように指示された。

病院の裏にある救急医療の入り口のさらに裏側に、プレハブの診察室の隣には、CT検査室もできていた。

血液検査や尿検査など5種類の検査を手際よく受けた。

結果が出るのに一時間近く、かかるので診察室のベッドで待っていた。

コロナ感染の検査の結果は、陽性だった。

妻は、毎月検査と薬剤を必要とする持病を持っている。

即入院することになった。

入院はたいへんだけど、家族としてはその方が安心である。

 

コロナ病棟の受け入れ準備ができるまでは、車で待っていた。

妻は、後部座席で横になっている。

4階のフロアが、コロナ専用病棟になっているらしい。

看護師さんが車椅子を押して、迎えにきた。

よく見かけるビニールで覆われたベビーカーの車椅子版といったところだ。

外気から完全に遮断されている。

コロナ病棟は家族の面会不可なので、車椅子の妻を見送った。

妻は、今までに何回か入院している。

ひと月から二ヶ月くらいで、無菌病室のようなところにいたこともある。

すでに定年退職していた私は、毎日日課のように見舞いに通っていた。

それでも、面会ができないということはなかった。

それを考えると、「コロナ」はとんでもないものだ。

入院中の妻の母は、もう3年近くも面会できていない。

3年?、確かに2年ではなく3年になるのだ。

家族は、回復するのを待っているしかない。

 

わが家は、三男と三人家族である。

私と三男は、濃厚接触者ということになる。

離れて暮らしている二男も、入院の直前に帰っていて二日間滞在していた。

やはり、濃厚接触者となるのだろう。

フリーな身の上である私と違って、二人は仕事がある。

自宅で待機しなければならない。

柏市は市独自事業で、濃厚接触者のためのPCR検査を無料で実施している。

さっそく、ネットで申し込む。

市立体育館の裏の駐車場で、ドライブスルーの検査だ。

駐車場に止めると、係員が唾液を入れる容器を持ってきた。

先の尖った容器に1センチくらい溜めるのに、10分くらいかかった。

終わったら、車のハザードランプを点滅させる。

すると、係員が容器を回収に来る。

結果は翌日中に、陽性は電話で、陰性はメールで知らせてくれる。

 

私は陽性、三男は陰性だった。

この時点では、二人とも平熱で症状はない。

さらに翌日、平熱36.5℃の私が、36.9℃という微熱になって、のどがイガイガして咳が出る。

微熱は二日間だけで、すぐに平熱に戻った。

私と入れ替わるように、陰性だった三男が発熱し咳が出始めた。

熱は38.3℃くらいが二日続いたが、その後平熱に戻った。

近所のかかりつけ病院に連絡したが、発熱外来はお年寄りで基礎疾患がある、病状が重い人しか受け入れないようで、あきらめる。

ネットを調べて、千葉県が提供している無料PCR検査キットを送ってもらう。

私の方は、陽性が判明した時点で、厚生省のMy HER-SYSというシステムに登録されている。

自動登録の4条件のうちの、65歳以上だからだ。

すぐに、“Pulse Oximeter"という酸素量検査器が送られてきた。

毎日、体温、酸素量、それに顔色、咳など病状についての9項目を報告する。

 

入院中の妻とは、電話やメールで連絡している。

入院の翌日に、三回分の着替えなどを届けた。

電話で病棟に連絡すると、かかりのかたが駐車場まで取りに来てくれる。

荷物は届けるだけで、洗濯物を持ち帰ることはできない。

病棟内で洗濯してくれるということだ。

10日の入院と言われていたので、もうすぐ退院できると思う。

体調がよくなった妻は、退屈しているようで、テレも飽きたと言ってる。

多分、今日の診察で退院できるか判断するのだろう。

 

私の場合、病状はとても軽いものだった。

ちょっと風邪っぽいかな、という程度だった。

五回目のワクチン接種が終わっているので、そのおかげかも知れない。

妻の陽性がわかったので、PCR検査したので感染がわかった。

もしそれがなかったら、何事もなくすんでしまったと思う。

コロナ感染者のうち、発症するのはそれほど高い割合ではないだろうから、自覚せずに生活する人が多くいるのが、現実だろう。

こんな状況が、いつまで続くのだろうか。

 

 

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そとがはまかぜ⑥ 菅江真澄テキスト

廿二日 あさとく、せきて(関手形)わたして越たり。

このあたりの郡はいかにととへど、しらじ、たヾ白河庄とのみいらふ。

みちの左右に白糸滝、登滝、無音滝、日暮し滝、二見滝、折橋の番処を右の沢へおりて温泉あり、鬼湯なり、大人の入湯の故事。

銀山あり。

やま/\みち/\の大木をれふし、かたぶきたるは、過し六日の風つよかりければ也。

杉一本を、あたり柵してかこひたるは津軽、秋田のさかひのしるし也。

せきふたつを越来て箭立峠の九曲おりはてて、ふたゝび出羽の国に入て陣場大館市)といふ処をへて、関屋をこへて長走村(大館市)といふ山里に宿もとむ。

衣うつ音に夢おどろきて、

 

   秋風の誘ひしまゝに夢ざめて夜半の砧を現にぞきく

 

廿三日 わけ来る路のかたはらに在る無縁車とて、卒塔婆にかな輪さしたるをまはすは、飢人の死かばね埋しをとぶらふならん。

このかたゐ、なみだながして、ひとりごとして、あはれ、わがともがらは、みな、かくなり行たるが、あさましの世のなかと、てゝらの袖に、なみだのごひたり。

近づきてとへば、こたへて、われらは馬をくらひ人をくひて、からき命をたすかりつれど、又此とし吹たる風にあたりて、いな穂かゞまず〔いなほの、八束にたり、しなはぬといふ国の詞也〕むかしの陪堂(ホイトウ)〔ほいとうとはかたゐをいふ〕となりて侍る。

うま、人くらひたるは、まことなりや。

こたへて、人もたうび侍りしが、耳鼻はいとよく待りき。

うまを搗て餅としてけるは、たぐひなううまく侍る。

しかはあれど、あらぬくひものなれば、ふかくひめて露、人にかたらず待るは、いまに至りても、あなきたなとて、つふね、やたこ(奴)にもめし給ふ人なければ、男女なべて、かくし侍る。

たうときかたにまうで侍る旅人、すけには、かいけ(改悔)さんけ(懺悔)して、つみもほろびなんとおもひ、ありしまゝにもらし侍るといひて、このかたゐ秋田路に行といふに、銭とらせて別たり。

白沢、釈迦内(以上大館市)、大館に来けり。

軒端ごとにさなづら〔さなかつらのたぐいならん〕蔔藤(アケビ)、まつふさ、真餅〔たゞもちをいふ也〕花もち〔葛かつらの根の餅をはな餅といふ〕しとぎ、ならべてあきなふを、いざくひね、休らへといへば、いこひぬ。

このあたりに綴子といふ村は、しゝいれこと、いにしへいふ処にや。

あいたの蝦夷、ぬにしろの蝦夷とて、みちのおく、いではにも、ゑみしのすみたらん。

「斎明帝五年三月、遣阿陪臣〔闕名〕率船師一百八十艘、討蝦夷国、阿陪臣簡集飽田、渟代二郡蝦夷二百四十一人、其虜三十一人、津軽蝦夷一百十二人、共虜四人、胆振鉏(イフリサエ)蝦夷二十人、於一所而大饗賜禄、即以船一隻与五色綵帛、祭彼地神至肉入籠時、問■蝦夷胆鹿島、■穂名二人進日、可以後方羊蹄為政所焉、隋胆鹿島等語、隋胆鹿島等語、置都領而帰」(日本書記)とあれば、つヾれこの邑、しゝいりこならん。

しりべしは岩木山ならんといふ人もありき、うべならん、うしろかた〔後方むら〕といふ処あり。

又云、松前の島ひんがしのゑぞの国にしりべつといふ山あり、其辺に、といといふ、ゑみしのさとありといふ物語したる人もあれば、いづれかよしといはん。

一里村といふほとりの米代川を舟こぎわたりて、岸なる扇田(北秋田郡比内町)といふ里の家居みな灰となりたるまま、いまだ、ほねばかり立たるかりやかたに宿かりてふしぬ。

枕上にさ入たる暁の月影は、さながら草ふしのほゐ(本意)とげたるおもひせり こよひぬる宿のかりねに月ぞとふ草の枕にことかはれども

廿四日 あかつきよりの雨風に路もいかれず。

大滝邑(大館市)をくれば温泉あり、十二所といふ名ある関を越て沢尻(大館市)といふ山中に宿をもとむ。

比村は、いではの国、みちのおくをさかふといへり。

廿五日 渓水おち合、山川の水ふかく行かひたえたれば、おなじ宿に在て、夜は半ならん、あしとくふりいづる雨の音に夢さめて、いねもつかれず。

 

   旅衣たゞはやぬれん夜をふかく聞は音する軒のたま水

 

 

 

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十進法、そして十二進法?

図書館で借りた本の返却日が迫っている。

どうしても手元に残しておきたい本を、画像ファイルで残すことにした。

なんと暇なことをやるのだろうと自分でも思うが、確かに暇はあるのである。

テーブルにスキャナーを持ち出して、ページを開いてはセットし、スタートボタンを押す。

その作業を繰り返すだけである。

音楽でも聴きながらやっていれば、1時間ほどで一冊が終わる。

 

プリンター複合機でもあるスキャナーには、USBとSDカードの差し込み口がある。

スキャンした画像ファイルは、自動的にファイル名が付けられて、保存される。

ファイル名は、こんな感じになっている。

「23012301」という、数字8桁である。

考えてみると、(20)23年1月23日の01番ということらしい。

西暦の年の表示のために、2桁しか使っていない。

これを見て、かつての「西暦2000年問題」を思い出した。

コンピューターで、西暦年の記録処理に、4桁の上位2桁を省略して、下位2桁だけを使っていた。

なぜ省略したのかというと、その頃のメモリはとても貴重だったので、少しでもデータを小さくしたかったというのは本当だろうか。

たとえば、私の生年月日「1953-11-27」を、「53-11-27」となっていた。

現実に2000年が近くなって、「00」では、「2000」と「1900」を区別できないので、4桁に移行するようになった。

ところがプログラムやデータのなかに、2桁が残されていると誤作動を起こすことになるので、世界的な大問題になった。。

結果的には、想定されたような社会的な混乱は起こらなかった。

 

これは単なるファイル名なので、年表示はあまり問題ではないが、番号としては2桁しか使われていない。

通常ならば、アラビア数字(0〜9)2桁だと、00から99まで、100種類しか表示できない。

ところが、数字の他にアルファベットを使ってつけられるファイル名を増やしている。

日本で使ってるアルファベットは、英語のアルファベットというものらしく26文字である。

そうすると、数字(10)とアルファベット(26)で、合計36個を使える。

なんと、36×36=1296個のファイル名をつけられる。

でも、このスキャナーでは、01から始まって99で、アルファベットに繰り上がるのだが、次はA0から始まって、A9と後にAAと続く、そしてZZで終わる。

なので、上位の桁が数字の部分が99個、上位の桁がアルファベットの部分は、26×36=936個である。

2桁の表示で、99+936=1035のファイル名が作れる。

 

ものを数えるときに、十進法の考え方が私たちの頭にしみこんでいる。

最近は、あまり見かけなくななった気がするが、「ダース」という数え方があった。

鉛筆1ダースというように、12本で1箱だった。

なぜか、いつも間にか無くなって、10本で1箱になってしまっている。

調べてみたら、ダースはフランス起源ということだ。

12ダースで、1グロスだそうで、「グロス」というのもどこかで聞いたことがある。

これは、十二進法ということなのかな。

 

12といえば、時間は12がついてくる。

午前12時間と午後12時間の24時間で、1日である。

12月で1年だけど、1時間は60分で、1分は60秒だ。

干支は12で、5回巡って60年で、還暦である。

12と60、これは何か意味があるんだろうか。

洋の東西を問わず、人間の考えることは、似たようなものなのか。

 

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霞ヶ浦は香取海だった

正月に、楯縫神社にお参りした際に、置いてあったパンフレットを持ち帰った。

社殿の脇に、きれいに整理されていた。

内容がおもしろいそうだったので、10種類ほどあったのを、すべていただいてきた。

帰ってから、読んでみた。

おもしろかったパンフレット

「神社のおはなし」、「神さまと暮らす」、「神社参拝のかたち」

氏神さまと神宮大麻」、「厄を祓う」、「お正月」

「はじめての古事記」、「はじめての日本書紀

神社入門としては、充分であり、すべてが神社本庁の発行であった。

神社本庁」は、「本庁」という名が官公庁ぽいが、伊勢神宮を本宗とする宗教法人で、神道系の宗教団体では最大の組織らしい。

神社広報 まほろ

そして、神社広報「まほろば」という定期発行らしき冊子があった。

表紙と巻頭のインタビュー記事は、相川七瀬さんのものだった。

ロックシンガーの相川七瀬さんが、なぜ神社なのだろうと、読みはじめた。

彼女は現在大学2年生で、神道について学んでいるのだという。

大阪出身の相川さんは、地元の神社の熱心な氏子だった祖父の影響もあり、神社を身近に感じて育った。

私が、記事の中でおもしろいと思ったのは、春日大社についての話である。

「子供の頃は遠足といえば、奈良県で、『春日さん」は子供の頃から近い存在でした。」

大人になって、古事記などを読むようになる。

春日大社の神様がなぜ鹿島神宮(茨城県)や香取神宮(千葉県)にもお祀りされているのかな、と疑問に思ったのです。」

子どもを出産した頃に、鹿島神宮香取神宮に参拝するようになる。

相川さんは、お祭りなどへの関わりを通して、日本の文化や伝統について関心が深まっていったようだ。

 

私も、鹿島神宮香取神宮春日大社の関係については、調べたことがあって、ブログにも書いたことがある。

私は、「令制国」というものに興味があって、「国名について調べてみた」というシリーズで書いている。

令制国」は、律令制度下の国名だから、1000年以上も前に制定されたものだ。

明治維新後の廃藩置県によって、都道府県の制度になったので、すでに過去のものになっているはずなのだが、法的には廃止はされていないらしく、旧国名ということで、いろんなところで使われている。

「国名について調べてみた」の1回目に取り上げたのは、下総国常陸国についてだった。

私の疑問は、平安時代には、「神宮」と呼称されたのは、伊勢神宮香取神宮鹿島神宮だけれども、三社のうち二つがどうして東国にあるのだろう、というものだった。

その頃の東国は、陸奥国との前線ではないにしても、補給基地のようなところではなかったんじゃないだろうか。

確かにその通りだろうけれど、それだけではなかった。

私が調べてみてわかったのは、次のとおりだ。

 

春日大社は、768年に藤原氏の氏社として奈良に創建したものだ。

その際に、鹿島神宮から武甕槌命を、香取神宮から布都主命を勧請して祀っている。

鹿島神宮香取神宮神職は、中臣氏藤原氏が占めており、東国は藤原氏の本拠地と言って良かったのかもしれない。

「神郡」という郡全体をを特定の神社の所領とされた所が、全国に八か所あった。

そのうちの三カ所が、東国にあったのである。

常陸国鹿島郡鹿島神宮下総国香取郡香取神宮、そして安房国安房郡の安房神社である。

安房神社は、阿波から移住してきた忌部氏が創建している。

つまり、その頃の実力者であった藤原氏の力によって、この両社が高い社格とされた。

 

この頃の、常陸国下総国の間には、現在の霞ヶ浦手賀沼印旛沼を含む一帯に、「香取海(かとりのうみ)」という広大な内海が広がっていた。

そして、両神宮はその内海への地勢的に重要地に鎮座していて、大和朝廷の軍神として信仰された。

ということは、蝦夷進出のための輸送基地でもあったということと無縁ではないだろう。

 

楯縫神社の社伝には、次のようにある。

普都大神は、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天した。」

また、昨年の正月にお参りした成田市台方の真賀田神社の起源は、社伝にはこうある。

「東征中の日本武尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源である」

日本武尊の東征はともかく、普都大神の葦原中国平定となると、なぜこの常陸国の地なのだ、と思わざるを得ない。

しかし、この頃の香取海の状況を考えると、これらの神社はともに、水面から20メートルばかりの標高の台地上に位置していて、船によって移動していたとすれば、納得できるものである。

当時の香取海と古墳の分布状況 ウィキペディア香取海」より

これを見ると、常陸国下総国は、香取海によって遮られていたとも言えるし、香取海によって繋がっていたとも思える。

この地図には、古墳の所在地も表示されている。

香取海の水際に多く存在しているようである。

千葉県は、古墳の数が、都道府県では、兵庫、鳥取、京都に続いて第4位である。

ところが、前方後円墳に限れば、2位の茨城県455基を引き離して、ダントツの1位で733基である。

これって、いったいどういうことなのだろう。

私が、学校で習った日本史はこんな感じじゃなかったな。

香取海だって、教科書にはなかった気がするし。

本当のところは、どうだったのだろう。

歴史は勝者がつくるということになるのかな。

 

 

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紙の本とデジタルの本①

どうしても読みたい本があったので、図書館で借りることにした。

自宅の近所に柏市の図書館の分館はあるが、分館の蔵書にはないようなので、本館まで出かけることにする。

本館までは、歩けば1時間ほどなので、運動にはちょうどいいのだが、自転車で出かけることにする。

自転車で30分くらいで、柏市立図書館本館に着いた。

ところが、玄関に「臨時休館」の表示があった。

年末なので、一週間くらい棚卸しのためお休みらしい。

出かけたついでに、図書館へ寄ると、月曜日で休館というのは、よくあることである。

出かける前に、月曜日ではないので、大丈夫と確認して出かけたのに、まさかの休館だ。

結局は、後日我孫子の図書館で借りることになった。

 

私が借りるような本は、あとで何回も読み返したり手元に置いて置きたい本が多い。

もう、紙の本は買わないことにしている。

何回も繰り返して借りるのは、面倒である。

そこで考えついたのが、本をコピーすることである。

コピーといっても、紙のコピーではなく、画像としてデジタルファイルにしてしまう。

スマホの写真などで使われている「JPG」という種類のファイルにしてしまう。

我が家にあるプリンター複合機のスキャン機能を使えば、USBやSDなどのメモリに、保存できる。

フルカラーでサイズの大きいスマホなどの写真ファイルと違って、本の画像ファイルは白黒で読める程度の解像度だと、それほど容量も大きくはない。

300ページや400ページくらいの本だったら、見開きで150から400くらいの画像ファイルになって、ファイル名に番号が振られているので、このままでもデジタル本として読むことができる。

書籍名のフォルダに入れておけばいいのだが、それでは扱いにくいので、一つのファイルにまとめてしまうことができる。

なんと簡単に、PDFファイルにできる。

画像ファイルを選択して、印刷の設定で、プリンターとして「Microsoft Printer to PDF」を選ぶ。

それから、「印刷」をクリックすれば、PDFファイルが作られる。

このように、画像ファイルからPDFファイルにするのが、最も簡単な電子書籍作成の方法であると思う。

いつからかはわからないが、PDF作成機能や表示機能が、Windowsに組み込まれていたのである。

そのせいか、「PDF」は電子書籍の規格として有力なものになっている。

「PDF」は、正式には「Portable Document Format」ということで、アプリケーションやOS、ハードウェアに依存せず文章や表示するために開発されたもので、1993年に発表されたとなっている。

1993年だから、Windows95が発売された頃には、すでに存在していた。

PDFファイルを表示するには、「Adobe Acrobat Reader」というソフトが無料でダウンロードできたが、PDFファイルを作成するには、「Adobe Acrobat」というかなり高価なソフトが必要だった。

その頃いた職場には、このソフトがあったので使ったことがある。

さまざまな機能があって、面白いとは思ったが、高価なので個人使用としては、敷居が高かった。

 

これからは電子書籍の時代だ、といわれた頃は、いろんな規格の電子書籍があった。

インターネット上の図書館である「青空文庫」は、図書データを「テキストファイル」と「HTML」という形で提供している。

しかし、かつては「エキスパンドブック」という電子書籍の規格でも提供していた。

ボイジャーという会社が開発した規格で、「T-Time」というビュワーソフトも無償提供していたので、私も愛用していた。

このソフトは、エキスパンドブックだけではなく、テキストファイルやHTMLも表示できて、画像にも対応している優れもなので、私は今も使っている。

古いものなので、今はもうダウンロードできないようだ。

この「T-Time」が他のソフトと違うのは、横書き表示から縦書き表示の変換が、クリックひとつでできることだ。

しかも、紙の書籍のように2段、3段、4段という段組みもできる。

 

ウェブサイトのページをダウンロードして、このソフトで表示してみた。

青空文庫のHTMLファイルはこのようになる。

青空文庫 「銀河鉄道の夜」 横書き2段組

青空文庫 「銀河鉄道の夜」 縦書き

ウィキペディアのページは、このようになる。

ウィキペディア日本語版 宮澤賢治 横書き

ウィキペディア日本語版 宮澤賢治 縦書き

ウィキペディアのページを、まるで本のように読むことができる。

たぶん探せば、他にも同様のアプリはあるだろうが、今のところまだまだ使用価値はあると思う。

 

 

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そとがはまかぜ⑤ 菅江真澄テキスト

十八日 志左万、浦石、登久左志(徳才子)、杉の沢、山里(以上浪岡町)。

たれこゝにかくいつおもひ入そめて山里と名の世にしられけん津軽阪(浪岡と青森の境)とふに越来けり。

真萩いと多し、過来るつがろ野とを、いづらをせにせん。

この谷かげ、沢おくに、炭焼藤太のつか、すみ竈のあと残りぬと馬曳のいへり。

藤太が子に橘次、橘内、橘六と、みつ子のありたりけるよしをかたれば、通りたる吉内邑も其いはれ残りけるならん歟。

かゝる物語は仙台路にもありとか、いづれがまことならん。

油川、新城、岡町、大浜(以上青盛市)をへて青森の湊に入たり。

澳に、はるかに見やらるゝは南部の岬、こなたは鵜曾礼山(恐山)、雲と波とにわきがたく、松前のしま、蝦夷のちしまならん、たヾよへり。

其しまに行ふなみちは十八里ありて、いと、めやすきやうなれど、達飛が崎、中の潮、白神が碕とて、おそろしきなだの汐瀬をのり分て船わたりけるとぞ、人の語る。〔天註‐‐つがろ青森より松前に渡るにまほならず。西ひかた、くだりといふ風にてふなでし、又やませといふ風を営まちて、ふた日和ありて、たつひ、なかの汐、しら神を超て行。みうまや、うてつの浦、みな山背のふくをまちて舟いづるといふ〕

安潟といふ町(青春市内)あれど、みなやけたり、かり小家のみ立ならびたり。

烏頭の宮といふかん社も、おなじ火にやかれたり。〔天註--善知鳥山養泉寺安方に在り、古儀真言寺の在り〕

いにしへは善知鳥(ヨシチトリ)悪鵆(アシチトリ)といふ鳥、このはまに多く群てあさりしかど、今はなし。

凡鷗に似てことなりとか。

うとうやすかたといふは、よしちとり、あし千鳥ならん、又雌雄にや。

むかし此鳥をとりて、むさしの君(徳川将軍家)に奉りたるためしありけるなど、浦の翁の語る。

ふるき歌に、

「紅のなみだの雨にぬれしとてみのをきてとるうとうやすかた。子を思うなみだの雨の蓑の上にかゝるもつらしやすかたの鳥。みちのくのそとがはまなるうとう鳥こはやすかたの音をのみぞなく」

とずして、月見んと、磯輪つたひありきてよめる。

 

   外が浜海てる月もよし鵆羽風に払ふ浪のうさ霧

 

   おもひやるゑぞが嶋人弓箭もてゐまちの月の影やめづらん

 

   見るがうちに空行月の曇るこそゑぞの島人こさ(胡沙)や吹らめ

 

蝦夷人のふりも見まほしう、この海ことたうわたらん日は、いつ/\の空にかあらんこ神にまかせて、十日の日数をかいひめ、又三年の春秋の時をしるしでうらひすれば、比十日の中になし、たゞ三とせをまつべしといふあめのおしへにまかせて、かの島にわたらんこと、三とせへて、をりもあらばととゞめたり。

十九日 はま路いきて、有多宇末井(うとうまい)の梯(浅虫の西南潅岸)見にいかんと出れば、鍋かまおひ、あらゆるうつはをたづさへ、をさなき子をかゝへて、男女みちもさりあへず来るは、じにげすとて、うへ(飢)人とならんことをおそれて、ことくにゝ行けるとなん。

此ものらのいふをきけば、過しけかち(飢渇)には、松前に渡りて人にたすけられたり。

こたびはいづこの情にあひてか命いきん、なりはひよきかた尋いかばやといふに、こは、浜路めぐり出なば、かて尽て、われはうへ人とならん。

いざ、もとのすぢにかへり行てんと浜田、荒川をへて、大豆坂(マメサカ)といふ処に来けり。

こゝに饅頭石といふをひろふは烏余糧(うよりよう)のたぐひならん。

浪岡にきて、一夜ねたる宿にふたゝび泊る。

けふ見しうへ人のことかたれば、さやうさふらふ、この年も、くれ行まではむつかしき世中のすぎはひならんや。

去年をとゝしまで、此邑は馬をくらひて命をのびぬ。

家の数は八十あまり侍れど、馬のしゝ(肉)をたうび侍らぬものは、あがやを入て七八家も侍らん。

太雪などのうへに死たる馬を捨おけば、髪はおどろをいたゞきたる女あまた集りて、手ごとに菜かたな、いをかたなとりもちて、われ、よきところしゝきらんと、あらがひ、さきとり、血のながるゝかひなに肉をかゝへてかへり行ありさま、又人の路なかにたふれふし、あるは、死たるむくろを犬のかしらさし入てくひありくが、血にそみたる面して、ほえめぐるおそろしさ、いはんかたなかりしが、はた此としも、過たるとしにまさり侍らば、こたびは、かてのうま、うしもあらじかしと、いまよりわらび、葛のねもほりつきて侍れば、あざみの葉、をみなへしをつみ、これをむして、かてにはみぬと、ない(泣)つゝかたる。

むべ、いろ/\の草をまな板の上にのせてうち叩音は、きぬたの音にまさりて、いとゞ袖をねエビらしで明ぬ。

二十日 過つるみちなれば記さず。

尾上より小和社、柏木町、吹上(以上平賀町)といあつらふをへて薬師堂芭(弘前市)にとまりたり。

廿ー日 乳井村(弘前市)、左の山へ登れば自泉あり、比水呑て甘し。

毘沙門堂、少しのぼれば天狗平といふ処あり、鈴石、石弩、てんぐの斧。

仁保井、八幡館、鯖石(以上弘前市)といふ邑をへて大みちに出たり。

宿河原(シュクカワハラ)(南津軽郡大鰐町)、劔岬(ツルギガハナ)、〔則つるき坂〕をおりて大鰐橋を右に見て、いで湯あり。〔天註-大鰐、温泉七ツ。袴腰ケ岳、阿闍羅山、大鱷川上をのばれば虹貝村(砥石名物)。早瀬野村、蛇石、蝦石。此奥石ノ塔、奥羽ノ堺ニ在石ノ塔、高八丈五尺、上盖六丈五尺、下盖二丈八尺、周囲廿五丈五尺〕

蔵館といふ邑、こゝにも温泉ありて、やまうどおほく湯あみしたり。

大日堂の前にふりあふげば、はたひろ斗なる萩の大樹あり、里の子は萩桂といへり。

いはゆるこはぎならんと、めとゞめぬ。

本村、長嶺(峰)、九十九森、唐牛(カラウシ)(以上大鰐町)などむら/\を来るに、けふも、すむ家を捨て、ふるさとしぞく(退く)民、その数をしらず過ぬ。

かすべといふ■(ホシイヲ)、瓜、茄子、かたま(籠)にもりて、路もなき山なかに分入るは山子とて、杣などのたぐひ也。玃を夜万古といへば、かゝる、むくつけきふるまひにたぐえたらんと、ひとりごたれておかし。

かすべとは王会魚のたぐひにて、かすゑひといふいをの乾肉なり、夏の頃蝦夷人とりて秋味(アキアヂ)につみくるもの也。

秋来る松前出の舟を、もはらあきあぢといふは、よきあぢに来る、あぢよきなどいふより起るか。

つみたる鮏のしほ曳などにもこの名あり。

碇が関(碇ケ関村)に来り、いかり石といふ石あるがゆへにせきの名とせり。

ふねの長なる旅人とみち/\かたらひて、ともに来りしかど、■木(モチノキ)村を過て、■石(いかりいし)温泉、怘県山国上寺の不動尊にまうでしよりおくれて、今来つきたるが、せき屋の軒ちかう寄て、われは、ふねをやぶりてしか/″\のことゝかたり関越ぬ。

おなじさまに国ところをいへど、関手あらではゆるさじ、弘前の里にかへりて、もてくべしといふ。

道はる/″\と来て又かへらんこといかヾとおもひわびて、

 

   ふな人は頼む碇が関をけふ来しかひもなく越ぞわづらふ

 

日ぐれちかければ宿とりて、長なるものにわびてわがうへかたりて、関手くれたるをたよりに、

 

 

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楯縫神社 茨城県稲敷郡美浦村木原

正月休みに、どこか出かけようということになった。

九十九里浜屏風ヶ浦で、海を見るのもいいな。

久しぶりに、鹿島神宮もいいか。

などと考えてみたが、どこも混み合っていそうだ。

思いついたのが、霞ヶ浦である。

昨年の夏に孫娘たちと、土浦のあたりの霞ヶ浦の北部の方に出かけた。

今回は、もっと南部の千葉県に近い稲敷のあたりに行くことにした。

 

子どもたちがまだ小さかった頃、JRAの牧場に行ったことがある。

正確には、「JRA美浦トレーニングセンター」という広大な施設である。

思いつきで行ったので、その時は入場できず、外から眺めただけだった。

美浦(みうら)だと思っていたが、調べたら美浦(みほ)だった。

国土地理院サイトより

たしか、霞ヶ浦は近かったと思うので、そのあたりに行くことにした

 

近くには楯縫神社という由緒のありそうな神社があるらしいので、お詣りをすることにした。

車に乗って、ナビに「楯縫神社」と入力したら、一ヶ所だけ鳥取の「楯縫神社」が出てきた。

しょうがないので、近くにあるはずの「美浦村役場」を入力し、そこを目指して行くことにした。

ナビが示したルートは国道6号を進んで途中で、東に曲がるコースで混みそうだった。

そこで、走り慣れた利根川沿いに進むコースで行くことにした。

利根川に沿って国道356号を進み、成田と牛久を結ぶ国道408号で利根川茨城県に渡る。

利根川に架かる長豊橋に近づくと、かなり渋滞していた。

 

楯縫神社は、佐原から土浦に向かう国道125号から、美浦村役場の手前で霞ヶ浦方向に右折した集落の中にあった。

鳥居前に神社の由緒書きがあり、こう書かれていた。

 

「楯縫神社の祭神は、普都主命。

元県社で信太荘の一の宮として崇敬されてきました。

常陸風土記』には、「普都大神が国土鎮定の大任を果たされ、高天原に復命のため、身につけられていた器・杖・甲・才・楯・剣・玉珪などをぬぎ、やがて天より迎えの白雲にのって行かれた」という伝えがあることから、社伝にはこの地を楯脱と称しのち楯縫に改められたとあります。」

 

今は、茨城県稲敷郡、かつては常陸国信太郡の県社であったということだ。

そういえば、JRAのトレーニングセンターの付近には、「信太」という地名が残っている。

「楯縫」(たてぬい)という不思議な名前も、「楯脱」からきているということだから、「たてぬぐ」とでも呼んでいたのだろうか。

集落の道路に面している鳥居をくぐると、参道がまっすぐと続いている。

両側は、木々の鬱蒼と茂る森林である。

正面に社殿が見えるが、なんと100メートルはありそうである。

幅10メートルはある参道は、石畳などではなく、土のままで掃き清められている。

参道脇には石燈籠などはなく、提灯が縄でいくつも吊られていた。

そして、30メートルほど進んだところに、第二の鳥居があった。

創建は、1000年以上昔らしいが、その頃とおもむきはあまり変わっていないのかもしれない。

第二の鳥居

私は神社を訪ねるのが好きで、いろんな神社に行っている。

とても広大な敷地に、立派な社殿の神社も多い。

何年か前に、鹿島神宮を参拝したことがある。

朝早く到着したので、参拝客はほとんどいなかった。

緑に囲まれている参道を歩いていると、静寂が心地よく、それまでになかった体験だった。

楯縫神社は、30年ほど前に改修されたという社殿も質素なものであるが、とても周囲の森の中に落ち着いて、気持ちいいものだった。

妻は御朱印帳を持っていたが、社務所はなかった。

御朱印が必要なら、本殿の脇を下ったところにある住宅に声をかけて下さい、と掲示があった。

大きな構えの農家があって、そこが社務所の役割をしていそうだった。

まだ正月の忙しい時期だと思うと、訪ねるのを躊躇してしまった。

御朱印は諦めて、また社殿に戻った。

 

地図を見ていると、神社からだいぶ東の方を小野川が霞ヶ浦に流れ込んでいて河口になっている。

そのあたりに、「陸平貝塚」(おかだいらかいづか)という表示があった。

その周辺には、大小の沼が点在している。

地図に載ってるくらいだから、重要なものらしいので行ってみることにした。

国土地理院サイトより

調べてみたら、なんと標高が26メートルもある。

貝塚なのだから、水辺は近いはずなので、霞ヶ浦の湖面は今よりも20メートルくらいは、高かったのだろうか。

近くには、文化財センターという施設もあるようなので、探して行ってみた。

大きな駐車場があったが、車は1台も停まっていなかった。

貝塚は、思ったよりも広い公園になっていた。

駐車場から車道を歩くと、すぐに文化財センターがあったが休館だった。

車道の先に貝塚が、台地の斜面にあるらしいのだが、あまりに広すぎて、ゆっくりは見ることができなかった。

台地の中央に、竪穴式住居が再建されていた。

湧水の「ブクブク水」は凍結していた

台地の先には、大宮神社があるらしいので気になるが、お昼をだいぶ過ぎてしまったので、そうそうに引き上げることにする。

この貝塚公園は、ゆっくりと散策すると楽しめそうだ。

またの機会に、出直して来よう。

 

 

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冬至には「いとこ煮」

今年の冬至は、12月22日だった。

12月21日の年もあるらしい。

その日は、朝から雨が降っていた。

それほど、気温が下がってはいないので、雪に変わることはないだろうと思っていたら、そのうちに晴れた。

北国は、豪雪で高速道路や国道の渋滞がやっと解消したようだ。

子どもの頃、冬至には「いとこ煮」を食べた記憶がある。

正確には、冬至の頃とか、寒い頃ということだったのかもしれない。

冬至は、太陽の位置が最も低い位置なので、一年で日の出から日没までの時間がもっとも短い日なのだという。

だからといって、もっとも寒いというわけではない。

なんか、不思議な気もする。

私の育った秋田では、寒くて雪が多いのは、2月ごろだったかな。

 

子どもの頃、私が食べていた「いとこ煮」は、カボチャとアズキを甘く煮たものである。

いとこ煮」というのは、日本の各地に伝わる郷土料理で、地域によって、材料、調理法に違いがあるらしい。

私の育った地域は、甘い「いとこ煮」だったので、そういうものだと思っていた。

寒い時期に、甘いものを食べて、元気に過ごそうとしてるのだろう。

でも、ウィキペディアによると、「いとこ煮」は甘いだけではなく、味噌味や醤油味のものもあるらしい。

材料も、ダイコン・ゴボウ・サトイモクワイ・コンニャク・ニンジン・豆腐・ゆであずき、など野菜全般である。

Yahooで「いとこ煮」を検索して、画像に表示を切り替えてみたら、出てきたのはほとんどが、かぼちゃとあずきの「いとこ煮」だった。

こんな感じである。

現在は、「いとこ煮」といえば、かぼちゃとあずきのいとこ煮になってるのだろうか。

全国各地に伝わってるという「いとこ煮」は、甘いのはあまり無くて、味噌味や醤油味がほとんどである。

私の郷里のような甘い「いとこ煮」はないようだ。

山形県庄内地方の「いとこ煮」が、甘いものであるが、これは小豆と餅米の「いとこ煮」である。

これは、餅米の上にあずきをのせて煮て、砂糖と塩で味付けするのだという。

いとこ煮」というよりも、「お赤飯」の仲間と言ってもいいだろう。

www.yamagata-np.jp

これで、思い出したのは、わたしの郷里の「お赤飯」である。

東京育ちの妻は、「お赤飯」には、ごま塩をかけて食べる。

売っている「お赤飯」にも、「ごま塩」が小さなビニール袋に入ってついてくる。

私が子どもの頃食べていた「お赤飯」は甘く味付けされていた。

考えたら、このことは以前にもこのブログに書いたような気がする。

お赤飯は、和菓子屋さんで売ってるのだから、本来甘いものじゃないのか。

確か、津軽地方の方のYouTubeのビデオで、津軽の「あるある」として取り上げられていた。

津軽のお赤飯も、甘いと言っていた。

 

夕飯の買い物にスーパーに行ったのだが、その時には「いとこ煮」をつくる気になっていた。

カボチャは、半分に切られてるものを買った。

売り場に、サツマイモもあったので、大きめのを一本買った。

あとは、ゆであずきであるが、食材缶の売り場を探したら、甘さ控えめというのがあった。

私は、アンコが好きだが、やはりこしあんよりも粒あんである。

ゆであずきは、缶入りやビニール袋入りもある

www.kurashiru.com

レシピを見たら、とても簡単である。

水に醤油を加えて、5分煮るだけである。

ゆであずきが、甘さ控えめの場合は、砂糖を調整するとなっていた。

カボチャを切るのに、皮がかなり硬かったので、つい煮すぎたら,火が通り過ぎて、柔らかくなってしまった。

カボチャが、形を残していない「いとこ煮」になってしまった。

ついでに、サツマイモも蒸してみた。

サツマイモは、なんの味付けも必要なくて、ただ蒸すだけで大丈夫だ。

これも、私の好物である。

カボチャとアズキの「いとこ煮」に、サツマイモも小さく切って入れてみた。

私にとっては、最強の「いとこ煮」である。

 

 

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そとがはまかぜ④ 菅江真澄テキスト

十六日 あるじ行徳の云、みちのこゝろは露も思ひはなれずよなど、まめやがに聞えて、

立帰る雲措は遠く隔ともこゝろを渡せ天のうきはし

 

   寄るなみのたち帰るも絶ずたゞ三河の水の音信てまし

 

となんありける、ふたくさの返し。

 

   雲井路をたちへだつとも忘れずよかけて通はん天のうきはし

 

   けふよりは淵と頼て音づれん三河の水の浅き心に

 

祐真の、いぎ猿賀の神のおましにまうでて、そこよりよりわかれこんとて、ともに弘前を離れ高碕をくる路に木の皮ぐつおふたる女、蒲はゞきもまぜかけて市にや出る、其ふり、

「ぞうり/\、いたこんごうめせ」

又、

「ゆわうはゞき/\、よきはゞきが候」

と、かいたるふり(七十番歌合)のしたるなど、見る/\いへり。

 

   くつはゞきあきなふ御世の市女笠きつゝ恵の露やうるらん

 

津軽野辺になれば、

 

   旅衣又もきて見よみちのくのつがろの野辺の萩のさかりを

 

となん、祐真のたヽずみてよめるにこたふ。

 

   たびごろもたちさりがたくみちのくのつがろの野辺の萩のにしきを

 

境堰村のあなたの岩のうへに、しばし休らはんといひて舟よりおりて、藤崎の村に、から糸姫のつか有しと聞しを、おろかにも、うかれかたらひて過来しことを悔たり。

岩木山の雲おかしうかゝりたるを見やりて、しばしいこふ。

祐真の云、あの麓のあたりに十腰内といふ村あり。

むがか鬼のうちたる刀を鬼神大輔とて世に九腰ありて、十腰無きといふことを其まゝ村の名にせり。

其処に在て作たるつるぎたちならん。

〔天註‐‐十こしうちたる其一こしは、十腰内村の李木といふ川に、むかし一ふりの太刀はしづみぬれば、そのつるぎ今も、夏のころ行ものゝふち瀬にかげうつれば、とび出て人をつき、身にたつ事神のごとしとておぢおそれ、いつも夏になれば、此川ちかく人なのぞみそといふたか札をたてけるとなん。

ところの人のかたる〕

又十面沢といふあり、岨なる岩を人の顔のごとくに十つくりたるあり、いかなるゆへをしらずとなり。

ゆびさして、ひんがし南にあたりてけるはちとせ山、麓よりいたヾきまで路の見えたるは弥介ながれ(矢捨長根山)、こは人のながれし処か。

いな、さに侍らず、阿部のやから義家のきみにせめられて、おひたる由岐(靱)、夜奈久比(胡簶)を捨てのがれしゆへに名を簶捨といひき。

流とは山の尾、あるは、岨などのごとくよことふをいへり、なだれといふ詞にや。

ところのものはたヾ、やすけながれとのみいひあやまてり。

八幡崎(尾上町)をへて猿賀邑(尾上町)にいたる。

鶏栖(とりい)の額は深砂大明神とかいたり。

此かんやしろのほとりに鬼の頭埋しよし、処の人のいへり。

義経のぼりの石などいひて人をしへたり。

〔天詩‐‐さるがの社の神に法師とはふりとつかへ奉り、寺をば猿賀山神宮寺といふ。

正月朔より村人らをはじめ精進いもゐして、七日になれば草鬼とて、わらもておにのかたつくりて、かん司弓とりて射けり。共箭あたらざるうちはゆめ魚をくはず、箭中れば、箭立たるまゝにおにを土にうづみけるとなん〕尾上の里(尾上町)といふ名あれば、

 

   月はいかにすむ里の子にことゝはん秋の尾上の夜のあはれは

 

追子野木(黒石市)の村ちかう浅瀬石(黒石市)のむかひに、くわさんながれ(花山長根)といふあり。

いつの頃ならんか、花山院何がしの君とかやさすらひ給ふが、しばしこゝにおましまして、つれ/″\給ひしより、其名今にとゞまりぬるあとゝぞ。

祐真に別て黒石の里に来つきて、斉藤行索といふぬしのやをとぶらふ。

あるじ、あばれたる宿を、かしこくもとひけるものかなとよろこびて、

 

   月影のもり来る斗あれはてし宿にこととふ人ぞ嬉しき

 

返し。

 

   軒近くもり来る月の影めでていざ此宿に語あかさん

 

いさゝかのくもりなう、月のおもしろければ、

 

   望月の空にあはれはとゞめしと見しにことなる十六夜のかげ

 

十七日 行索のよめる。

 

   逢といへど今朝は奈波の草枕夢も見はてずかへる旅人

 

   旅衣たち別行此あざけくさの枕の露もはらはで

 

とぞありける返し。

 

   わかれ行袖ぞ露けき一夜だにあかでむすびし夢の余波に

 

   露しづくひがたき歌のたび衣払ひしものを又やぬらさん

 

なべて糠部のあたりやまがつの男女、しそ、山しそなどいひてかむり、いろ/\にあやさしぬひしたる短き衣きたり、さしこぎといふ也。女三人歌うたひて過るあり、さうか(唱歌)いとおかし。

宝暦の頃(一七五一~六四)毛見武士のまうけに酒さかなとゝのへてけるに、みなゑひしれ、さしなべとりける比女に歌うたへとひたにいへば、女、声たかううちあげて、

「白沢は出風入風あさあらし、下はひへたち実もとらず、ひいてたもれやとのゝけみ(殿の毛見)」

とうたふを聞て、みなあきれて、風情なきことつくり出て歌にしける、をこの女かなとあせしあへるに、さらにおくしたるけしきなく、たゞ、返し/\うたふを老たる士聞て、村の長ひたにうたへしが、いなといひしかど、歌はあめのをしへなれば、此女がうたふにまかせて、みつぎ、かろらかにとりをさめしかば、そのあがたぬしにもほめられ、くにのかみにもほめられて身もたちたりけるとなん。

かゝる女のごとき、歌うたひのはかせにやありけむ。

しら沢(鯵ヶ沢町)は、あか石の村とならびある処也。

野ぞひ(添)、戸河(十川)、ニッ家、みしま、高館、竹鼻(以上黒石市)本合(郷)、吉内、中埜(以上浪岡町)を来る。村すゑの籬の中に、たかやかの萩の白紫にさきまぜたるは、いみじうめづらしければ、たはれうた。

 

   世に誰も是やしらじのから錦比萩が枝にしく色ぞなき

 

行岳(ナミツカ)(市津軽郡浪岡町)の村に来て日たかけれど、こうじたれば宿つきたり。

 

   むかへ見る影やさはらん雲の浪岡辺の宿の立待の月

 

このごろ、旅人のこがね、衣などぬすみとりたるぬす人ら、こゝにかくろひ、かしこに居か、夜はしのびて、め子を見てんとてみそかにとひ来り、夜半に出行などさたすれば、このよ、とらへて繩つけんと、手毎におふこ、杈椏(マタフリ)、とがまをふりたて、そがやさがしつれば、まどおしやぶり、にげ出たり。

すは、足音ぞしつるは河よりこちならん、比草の中に在は今こそとり得たれ。

あな、たえがた、あがつらかきやぶりてうせたり。

いまは眼くらみぬ。すまゐに名あるやつなれば力すぐれり、われはをよばじ。

此はたけにかくれおらんと、あはふ(粟生)に身をひそみたるをしらで盗人来かゝりたりけるを、足とらへふせて、またふりとりてうちすへ、くびおさへつるを、人あまた来て縄かけたると語る。

なか/\のさはぎに、いねもつかれねば戯歌作る。

 

   波岡によるのしらたみたちさはぎあなかまともでどよむさとの子

 

 

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