晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

くめじのはし⑦ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

廿二日 つとめて千曲川のへたをつたひ、

 

「科野なる知具麻能川の左射礼しも君しふみてば玉とひろはん」

 

とずして、ゆく/\見れば、ここかしこに、つな引ふね多ければ、

 

千曲河波のよる/\すむ月をもる綱舟にひかれてや見ん

 

上戸倉、苅屋原をへて坂木といふ処にいたる。

阪城神社にまうづ。

里のしりのはたけなかに、いと大なる榊の枯たるが一もと立り。

しかるゆへにや、かん籬の御名も、処の名も■木とはいふなり。

 

手向には生ふる榊葉折とらで神のまに/\奉るらし

 

ふたたび下戸倉に帰り来て、中村神社はいづこならんと尋れば、寂寞村〔天註--寂寞、いま寂蒔と書とか〕とて木綿襷のやうなるものを軒にかけてうる里の南に、向八幡村とも中村ともいふ処におましませり。

矢代といふところに来けり。

此処のあわざといへる処に、かん垣の有ける。

粟狭神社にぬさたいまつりてここをいで来れば、ある宮どころを須須岐水の神と中奉る。

こは、雨のみやしろとおなじ神におましまして、卯月酉の日にぞ、おほんかんわざのありける。

土村、岩野をへて松代の里に入て、池田の宮に、玉依比洋をまつり奉るにぬかづきて、市のちまたのかたはらなる、祝神社にぬさとりぬ。

ここにまつる神は、諏訪をあがめて建南方富彦命となん。

太鼓の声したるに、

 

つづみ打て神のほふりのひろ前につかふみやつこ御世祈るらし

 

埴科郡の五のかんみやしろも、けふに拝みをはりぬ。

廿三日 松代のやどりをたつ。

里はつれば、芝村といふに堂ひとつあるは、むかし林彦四郎といふ士、親鸞上人のうつし給ふあみだぼとけを持つたふるを、うばはんとて、もののふふたり、つるぎ太刀をふりかざし追来れば、せんすべなう、たかがやの生ひ茂りたる、ひろ野のありけるにかくろひぬ。

もののふら、この野良に入てのがれんかたはあらじ、いざやけとて、火をはなちてやきしかば、山かぜにふかれて、見るがうちに灰となれど、人ありげなるくまもあらねば、こは、いづこにかにげのびぬらんかしとて、もののふふたりは、しぞきぬ。

なまよみの甲斐のくにをさ信玄のうし、みすずかる科野路にいくさいだして、ここに到り給ふに、焼のこりたる一群薄の生ひしげれるなかに、虫の鳴やうに、いきのしたにて、みだのねんぶちをとなふる声の聞えたるは、たぞそ見てこと、のたまふまま、はた薄かいわけて兵入て、やがて帰り来てしか/\゛のよしをけいす。

其彦四郎をめして、しばしものかたらひはてて、たたかひをはりてのち、ひとつの庵を建て此みほとけをおき奉り、彦四郎も、すけしけるとなん。

うちむかふかたによこほれるを、布引山といふ。

この名佐久郡にも聞えたり。

此郷に今見るは、岩のいくむらも、しらののを引たるやうにぞありける。

此山、望月の牧の北にむかふにやあらん、

 

「もち月のみまきの駒は寒からじのゝびき山をきたとおもへば」

 

といふ歌も、北と著たとをいひ通はせり。

はた、千曲川のつなふねにのる。

こなたは埴科、あなたは更科也けり。

やがて寺尾てふ村を過て氷?村に到て、氷?斗売神社にぬさとりたいまつり、

うち祓ふ露もひがのの神籬に百草なびくぬさの追かぜ

ここなる善導寺にすめる、等阿みだ仏をとぶらひ、ことかたりて時うつりぬ。

 

旦より秋のひがのの里にけふかたぶくまでにかたらひにけり

 

あるじの上人返し。

 

言の葉の花の光にてらされて袂の露のひがのとぞなる

 

丹波嶋に来て犀川を渉れば、吹上といふ村になりぬ。

ここにものくひ、涼しげなればうち休らひて、

 

こや風に吹上の里のあしすだれかかる涼しき宿もありけり

 

政子の前のまもり仏、かるかや堂になどをがみすぎて、いもゐの里になりて、くすし山本晴慎のもとにとぶらへば、いと久しなど、むかし相見しものがたりせり。

廿四日 御堂にまうでぬ。〔天註--善光寺本堂向南、南北広二十九間二尺余、東西広十七間、高九丈八尺余〕ここは水内郡柳原庄芋井郷。

善光寺天智天皇三年甲子に建て、本堂に四の名あり、定額山善光寺、南命山無量寺、不捨山浄土寺、北空山雲上寺也。

しばしくま/\゛をがみめぐれば、来迎の松といふあり。

ここに刈萱道心の庵して、むらさきの雲のむかえをまたれしといひ、かるかや堂は、石堂丸すけして、をこなへる処といふ。

堂の軒に集る人のいふ、きのふはおほんせがきの会のありて、なりはひやはしきころ飢死たるもののなきたまとぶらひ、この月の朔より十日まで、かりやたてて、ものくはせ給ふ。

そのかたゐらの数二千余人といひき。

あつさにえたえで身まかれるものら、六十斗もありきなど、みほとけの前に蹲りて、ずずつまぐる人とかたりあひぬ。

長押に、

 

「善キ光リ寺の月見るこよひかな」

 

といふ、宗祇ほうしの句あり。

かたはらの壁に、たか杖をさしたる板のおもて云、

 

「あが母、此みほとけにまうでんことをとしごろねがひあれど、むなしう身まかれりし」

 

などかいて、はた、

「たらちめのはぎをたすけしつえなればあゆみ来りしこころともなれ 安永四乙未(一七七五)歳八月中旬難波なる無染尼つつしみて拝む」

とありけるを見て、あなたうときこころざしかな、われもおなじくにうどなりとて、なみだおとし、なもあみだぶちと、たなごころをあはする老法師のあれば、

 

浪速人あしとはいはで善光の寺のみまへにぬかづきにけり

 

かくて日くるれば、みてらみてらのともし火をてらし、あるは高燈籠の光に、みにはの面は蟻のゆきかひもがぞへつべし。

ささやかのみてらまで、夜るの行ひのぬかのこゑ/\゛御堂に入たつ人のとなふ、なもあみだぶのこゑは、鯨のほゆるがごとし。

護摩の行ひある寺には大なるつづみ、とう/\鉦にうちまぜて、町々には、めのわらは、をとなびたるもおどりまじりて、ほうしとり、こゑたかううたふも、ひとつにひびきどよみて、山谷もこたふ斗也。

さかぶちのおましある、堂の火かげに見えたる板に、

「四十七番釈迦堂世尊院、聞名不退願」

 

「こと木ぞと見るはあやしや花にさき実をむすべるもおなじ根ざしを」

 

とぞありける。

山本がやに帰りてけり。

やの人々は、天神嶋てふ処に、あま神のかんわざあるにまうでしとて、あるじのみ有てかたりぬ。

 

 

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三輪自動車が走る

私は、車についてそんなに知識もないし、とても関心がある訳ではない。

とは言っても、30年以上車に乗っていて、5台乗り換えてきている。

それなりに、興味はある。

はじめの2台は、軽自動車だった。

1台目が三菱の「ミニカ」、2台目がスズキの「アルト」だった。

軽自動車の排気量が550cc以下という規格の時代である。

現在の軽自動車は、排気量が660cc以下になっていて、車長も3.40m、車幅が1.48mとなっていて、かつてよりだいぶ車体が大きくなっている。

普通車と同じ安全衝突基準を採用されることになったことが、大型化の理由らしい。

ja.wikipedia.org

子どもの頃、「スバル360」という車があった。

私でも知ってるのだから、テレビなどでCMをやっていたのだと思う。

ウォルクスワーゲンをかわいくしたような、ちいさくて丸い車だった。

その頃の軽自動車の規格が排気量360cc以下だったので、この名前がつけられたらしい。

自動車メーカーも、今はなくなってしまった会社や、自動車を作らなくなってしまった会社もあるようだ。

他にも、似たような名前の車が発売されたようだが、「スバル360」だけが記憶に残っている。

調べてみたら、こんな車があった。

マツダ「R360クーペ」、三菱「360」、愛知機械工業「コニー360」、ホンダ「N360」。

東京育ちの妻は、子どもの頃父親の運転するスバル360に乗っていたと言ってる。

秋田の田舎では、中学校の頃に初めて自家用車で通勤してきた先生が、子どもたちの話題になった。

それまでは、バスで通勤してたのだと思う。

 

先日、このブログに初めての海外旅行でタイのバンコクで「トゥクトゥク」というタクシーに乗ったことを書いた。

トゥクトゥクというのは、三輪自動車をタクシーとして使っているものだ。

これをみた時、私も子どもの頃に、三輪自動車が走ってるのをみたことがあるのを、思い出した。

私が育ったのは、秋田県の山間の農村であるが、その村の商店に商品を納入するために来る業者の車が、三輪自動車だった。

昭和30年代の頃には、まだ自家用車は珍しかったのだ。

三輪自動車は、私の記憶では、「オートバイ+リヤカー」を合体させたイメージだった。

「自転車+リヤカー」で、おじさんが荷物を運ぶのも見た気がする。

運転席は、オートバイのように座席にまたがっていて、ハンドルは丸くはなく、オートバイのハンドルそのものだった。

ja.wikipedia.org

今の日本では、三輪自動車は走っていない。

私が、タイでトゥクトゥクに乗ったのは、もう20年以上前のことだと思う。

今でも、アジア、特に東南アジアでは、三輪自動車が走っているようだ。

トゥクトゥクは、ドアも無く、吹きっさらしだった気がする。

当然、窓ガラスというものもない。

タイのように暑い地域だからの乗り物なのだろうと思う。

日本では、エアコンがないと、暑過ぎたり寒過ぎたりで、使えないかもしれない。

考えてみたら、浅草あたりでは人力車が走っているらしい。

YouTubeで見たことがある。

観光客向けで、若い女の子が走っていた。

狭い街中を走るには、人力のほうが小回りも効いて、いいのかもしれない。

たしか、15分3000円だったかな。

ja.wikipedia.org

YouTubeで、「トゥクトゥク」を調べていたら、タイでは「三輪自転車」とでもいうようなものが、タクシーとして走っていることがわかった。

これは、「自転車+人力車」とでもいうようなもので、「サムロー」と呼ばれているらしい。

エンジンがないので、まったく自転車扱いで、ナンバープレートもなく、登録の必要もない。

 

ウィキペディアを調べていると、写真がいっぱいある。

見ていると、なにかなつかしくて、温かみを感じる。

どうしてだろうと考えてみた。

やっぱり、ドアや窓ガラスがなくて、車内が密閉されていないことが、あるのかもしれない。

外の世界と遮断されていないのだ。

でも、これが今でも使われているのは、東南アジアだからかもしれない。

日本では、やはりエアコンが必要だろう。

 

ウイキペディアの記事には、興味深い写真が多くあります。

おもしろいので、見る価値があります。

リンクのページを見ることを、おすすめします。

 

 

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CDとDVDをどうするか

不要なCDとDVDを、整理しているところである。

自宅のあちらこちらに、いろんなCDやらDVDが見つかった。

CDといっても、なんといろんな種類のものがあるのだろう。

音楽CDが発売されたのが、1982年だという。

それが、1986年にはアナログレコード盤と販売数が逆転したという。

私は、その頃までアナログレコード盤を買っていて、200枚近くになっていた。

CDが登場してから、40年近く経ってることになるが、その間に私が購入した音楽CDは、わずか20数枚である。

 

他にあるCDは、PCソフトやPC機器のドライバー類のCDである。

そういえば、PC雑誌の付録はCD–ROMだった時代だ。

これらは、もう必要ない。

そして、CD-Rという自分で作ったCDがある。

レンタルCDを借りてくると、私はたいていMP3ファイルに変換していた。

それ以外に、音楽CDをそのままコピーしたものがかなりあった。

子どもたちが、作成したものだろう。

データをCDに保存したものもあった。

中にはMP3ファイルがいっぱい入っていたものもあって、これは私が作成したものだ。

カセットテープを使った「ウォークマン」の後に、「CDウォークマン」の時代があったのだ。

これだと、一枚のCDに10枚分の音楽CDのMP3ファイルが入って、それが再生できた。

さすがに、CDウォークマンはポケットには入らないので、カバンに入れて通勤時に聴いていた。

 

とりあえず、CD-Rは、MP3ファイルに変換できるものは変換して処分することにした。

CDには寿命があって、そのうちに読み込みができなくなると聞いたことがあった。

調べてみたら、20年から30年となっている。

古い音楽CDなどは、そろそろ寿命を迎えているものがあるのだろう。

CDの中身を確認しながら作業していたのだが、面白いものを見つけた。

自分で作った「ビデオCD」が、何枚かあった。

ビデオCDは、DVDが登場するまでのつなぎとして用意された規格らしいが、日本ではカラオケやアニメで発売されたぐらいで、ほとんど普及しなかったらしい。

先日のブログに書いた小田和正さんの「クリスマスの約束」の2001年の第1回の番組を、ビデオCDに残していた。

これは、今考えても大変な作業だった。

VHSのビデオデッキをパソコンにつないで、AVIファイルにする。

AVIファイルは巨大なので、何分かずつ細切れにする。

AVIファイルをMPEGファイルに変換するのだが、当時のパソコンの能力では、とんでもなく長い時間がかかる。

ビデオCDは、音楽CDと同じ74分の規格だったが、ファイル変換に何日もかかったような気がする。

再生することはできたが、画素数が少ないので画質が悪い。

なにしろ、352✖️240ピクセルで、VHSの3倍速程度と言われていた。

テレビの画面で見ると、なんとも粗い画質だが、音楽があるのでまあいいかという感じだ。

 

次は、DVD関係である。

まず、ゲームソフトがかなりの枚数ある。

たぶん、ほとんどはプレイステーション用だと思う。

私は、ゲームはまったくやらないので、全て息子たちのものだ。

最近は、使ってる気配がないが、これには手をつけないでおく。

DVDビデオやDVDプレーヤーは、1996年に世界で最も早く日本で発売されたらしい。

1998年には、プレイステーション2にDVDドライブが搭載されたということだ。

その後に、デジタルのビデオデッキが発売される。

録画用のハードディスクが搭載され、それをDVDに保存するためのDVDドライブも搭載されていた。

その頃に、私が作ったDVDが残っていた。

だいたい、BSなどでやっていたロックバンドのコンサートなどである。

息子たちが作った、ドラえもんなどのアニメものもある。

この辺りは、実際に再生してみて、残しておく意味があるか決めるしかないかな。

その頃には、パソコンにもDVDドライブが搭載されるようになっていた。

あまりDVDに、データを保存したりはしてなかったのだが、今回思いがけないDVDを見つけた。

パソコン用のハードディスクが壊れてしまって無くなってしまった音楽ファイルを、DVDにバックアップしてあった。

貴重なものなので、うれしい。

 

それがいつのまにか、DVDに保存するということをやらなくなっている。

ハードディスクの容量が大きくなって、気に入ったものは残して置けるようになったこともあるかも知れない。

インターネットが普及して、ロックのライブ映像などもYouTubeなどで、いつでもみられるし、レンタルDVDなどよりも、ネット利用で映画を見るような時代になりつつある。

音楽CDが今でも売れているのは、日本だけらしく、ガラパゴス扱いされているらしい。

DVDはどちらかというと、映画DVDだと思うが、これもやっぱり同じようなことになるのだろうか。

でも、新しいもの一色にならず、古いものも残して選択肢が多いのが、日本らしいさであり、日本の良さであると思う。

 

 

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親知らずが抜けた

親知らずが抜けた、いや、抜いてもらった。

左上の奥の永久歯である。

急にグラグラし始めた。

親知らずは、一番最後の生えてくる永久歯で、十代後半から二十代前半に生えることからこう呼ばれるということだ。

確かに、それでは親は知ることがないだろう。

子どもが、生えてきたよ、とでも言わない限り。

他の永久歯は、15歳頃には生え揃うらしい。

一番最後に生えてきたのだから、最後まで残っていいようなものだ。

眠ってる間にでも、抜けてしまったら怖いので、歯科医で抜いてもらった。

先生が、「抜いた歯見ますか。」というので、せっかくなので見せてもらった。

20歳頃からと考えると、50年近い付き合いである。

ぼろぼろかなと思ったけど、思ったよりもしっかりしたきれいな歯だった。

虫歯にもなっていなかった。

もったいない、もっと大事にしたかったと、今さら思う。

結局、歯茎が弱ってしまったのだと思う。

 

私は、子供の頃から体は丈夫で、ほとんど病院のお世話になったことがない。

そんな私の、唯一の弱点が歯である。

小学生くらいから、虫歯に泣かされた。

虫歯の痛みで、夜眠れなくことが、何度もあった。

鎮痛剤でなんとか誤魔化しても、住んでるのが田舎なので、歯医者にはバスに乗って行かなければならない。

朝が明けるのを待って、やっと歯医者に行ける。

お菓子が手軽に食べられる時代ではなかったし、甘いものが嫌いではないがたいして食べるものがなかったはずだ。

それなりに、歯磨きもしていたはずである。

生まれつきの体質的なものだったのだろう。

今は、自宅の近くを散歩していれば、歯科医院を見かける。

行こうと思えば、手軽にいけるはずなのだが、子どもの頃の記憶があるのか、ついおっくうになってしまう。

どうしようもなくなって、駆け込むことが多い。

最近は、そんなことも言ってられなくて、定期的に通っている。

 

そんな私だが、体が丈夫なだけが取り柄だなと、自分でも思っていた。

先月、妻と人間ドックを受けた。

その結果、私は不具合が見つかった。

さっそく、近所の病院へ行ってみた。

若い頃から、血圧が高めだったが、父譲りだし治療が必要というほどではなかった。

それが、年齢とともに進行していた。

診察してくれた先生が言うには、薬さえ飲んでれば大丈夫です、と言うことだった。

先生自身も、同病とのことだった。

そう言う訳で、毎朝一錠服用することになった。

 

人間ドックの担当は、年配の女医さんだった。

適正体重よりもオーバーしているので、体重を下げると血圧も下がりますよ、と言われた。

最近は、体重を測ることもまったくやっていなかった。

毎日、体重を測ることにした。

それだけで、減量につながることは、20代の頃に減量した時の経験でわかっている。

いろんな行動が、それだけで違ってくるのだ。

食べるものを少しセーブして、歩くなどの運動を心がけるようになる。

1ヶ月0.5kgくらいが目標だが、それで1年で5kgにはなるはずだ。

今のところ、体重に変化はない。

最初の2、3ヶ月が大事だと思う。

その頃に、やっと変化が見えるはずだ。

まあ、気長にやっていこう。

 

 

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ガソリン価格が上昇している

ガソリンスタンドで、給油してきた。

久しぶりに、150円台を割って、149円だった。

店頭の価格表示は、154円になっていたが、スタンドのアプリで値引コードを出すと、なんと5円引きになる。

どんな仕組みかは、よくわからない。

この数ヶ月、原油が上昇して、灯油やガソリンが高騰していた。

それが、いろんな業界に大きな影響を与えているというニュースはよく見かける。

どうも、1年前くらいには120円台だったらしいのだが、記憶が曖昧だな。

 

私の住む千葉県西北部は、日本でもガソリン価格の安いところであるということは、かなり以前聞いたことがあった。

国道6号線国道16号線が交差しているので、競争が激しいのかなと思っていた。

精油所にに近い方が、安いという説もあるらしい。

でも、日本で一番ガソリン価格が安いのは、埼玉県なのだそうだ。

それでいて、東京都はガソリン価格がどちらかというと、高いほうになっている。

ガソリンスタンドは、かなりの敷地の広さが必要だから、東京では競争が激しい所まではいかないのかもしれない。

 

今通っているガソリンスタンドは、この20年くらい使っている。

私の行動範囲には、ガソリンスタンドがかなりある。

自宅から、200mか300mくらいのところにもあるのに、1キロくらいはあるスタンドまで行ってる。

競争が激しいとは言いながら、店舗によって店頭の表示価格は、かなり違いがある。

それでも、それぞれにお客がいて商売になるのだから、価格だけが決め手ではないのだろう。

ときどき、ボックスティッシュのプレゼントなどやってると、妻は欠かさずに行ってる。

 

この20年の間に、ガソリンスタンドが大きく変わったことがある。

セルフ給油になったことである。

全国的にはどんなものかはわからないが、この近辺のガソリンスタンドはすべてセルフ給油である。

かつてのように、すぐに従業員が駆け寄って、ガラスを拭いてくれたり、タバコの吸い殻処分ということは、もうない。

代金の支払いも機械でできるので、面倒な現金は扱う必要はない。

たまに従業員が近寄ってくると、新しいカードとか、サービスのおすすめである。

 

ガソリンスタンドでは、灯油売り場もある。

我が家は、数年前に灯油ストーブを処分して、ガスストーブとエアコンにしたので、灯油を買うことはない。

灯油ストーブは、いろいろと大変だ。

寒い中、スタンドでポリタンクをいくつか補給して、さらに数台のストーブに補給する。

いつの頃か覚えてないが、灯油18リットルが800円台だった時代がある。

もちろん、ガソリンも1リットル80円台だった。

原油価格は、円相場に大きく左右されるので、たぶん円高が最も進んだ頃だったのだろう。

円相場は、70円台から120円台あたりを、上下に変動を繰り返してきた。

東日本大地震の頃が、円高の最高値76円25銭を記録したというのだが、その頃のガソリン価格はいくらぐらいだったのだろう。

あまり、覚えていないものである。

ただ、震災の影響でガソリンスタンドへの補給ができない時期があった。

ガソリンを求めて、スタンドの周囲の道路に車の行列ができていた記憶がある。

まわりが広い道路だったので、300メートルくらいあったと思う。

 

最近、こんな記事を読んだ。

トヨタマツダ、スバル、ヤマハ発動機川崎重工業の5社は先日、電気自動車(EV)へのシフトが強まる中、水素やバイオマス由来の合成燃料など、CO2の排出を抑えた燃料を使う脱炭素エンジンを、今後普及させる取り組みを進めると発表しました。
会見の中でスバルの中村社長が、「電気自動車だけが選択肢なのか。内燃機関を活用する事にもチャレンジしていきたい」』

世界の流れは、電気自動車にシフトすべきだというようになっている。

でも、はたしてそれが最善の選択かは、定かではない。

違う選択肢も用意すべきだと、私も思う。

太陽光発電風力発電、潮力発電、水力発電などで、すべての電力を用意できるのか。

できないのであれば、電気自動車は意味があるのか。

自動車用バッテリーの寿命は8年と言われているようだが、ほんとにそんなに持つものなのか。

自動車用という巨大なバッテリーの後始末をどうするのか。

バッテリーの爆発ってあるけど、あんなでかいもの大丈夫なのか、と素人の私は思う。

 

 

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ブルー・スウェード・シューズ

誕生日のお祝いに、靴をプレゼントすることにしたので、買いに行こうと妻に言われた。

子どもたちも一緒に、お祝いをくれるという。

今履いている靴が、だいぶくたびれてきているので、靴をということになったらしい。

私は、歩くのが大好きなので、普通の人の2倍くらいは歩いているかも知れない。

気に入った靴を、ずーっと履いて、履きつぶしている。

ほんとは、もっと手入れをこまめにすれば、長持ちするだろうなと思いながらも、あまり手入れしてあげてない。

 

このブログでも書いたことがあるが、私の足は、幅広甲高で標準的なものではない。

だから、サイズだけで買えないし、履いてみなければならない。

ほんとは、寸法をとってそれで、作って貰えばいいはずである。

でも、それをやったのは登山靴を作るときしか、やったことがない。

男子用の靴のサイズは、日本製だと24.5cmからであるが、洋物だと25.0cmからが多い。

サイズというのは、「足長」のことで、ワイズというのが、足の幅というよりも足回り「足囲」のことらしい。

これだと、私の足は、サイズが24.0cmくらいで、ワイズはかなりある、ということになる。

24.0cmサイズの男子用の靴は見たことがない。

 

自宅から近いモールの靴売り場に、行ってみた。

もうスーツを着ることもないので、必要なのはウォーキングシューズである。

「ホーキンス」の棚から、妻が「これがいいんじゃない。」とすすめたのは、裏革のシリーズだった。

その中に紺色のものがあったのだが、その色が気に入った。

いちおうブルーということになるだろうが、かなり濃いめでネイビー・ブルーという感じだ。

今まで、裏革の靴は選んだことがないし、色も青系は履いたことがない。

履いてみたら、自分でもそれほど違和感は無く、とても軽い。

24.5cmサイズもあったのだがきついので、25.0cmサイズで決めた。

 

ホーキンスの棚の隣に、「ロックポート」の棚があった。

ロックポートはイギリスのメーカーだが、勤めていた頃に履いていたことがある。

とても、丈夫で履きやすい靴だった。

もう一足選んでもいいということなので、茶系のがっちりしたウォーキングシューズを選んだ。

これは、遠出用にしようと思う。

靴のサイズというのは、日本はセンチ単位だが、アメリカとイギリスはいちおうインチ単位だが、なぜか数字は違っていてよくわからない。

でも、イギリスの方がアメリカよりも甲高に作られているらしく、私のような足には合ってるらしい。

どおりで、ロックポートがなじむはずである。

 

私は、衣類などにはあまりこだわりのない人間である。

歩くのが好きなせいか、靴には少し気を使ってるかも知れない。

考えてみたら、定年退職の時にも、家族からお祝いに靴をプレゼントしてもらった。

その時は、フランスのメーカーの「メフィスト」の靴を選んだ。

かつて、そこの靴を気に入って履きつぶしていた。

その靴の特徴は、足の裏がとても気持ち良く、他の靴にはない感じである。

まるで、裸足で絨毯の上を歩いてるようだ、と言えばいいかな。

これからは、時と場合で使い分けようと思う。

大事に、長持ちさせよう。

 

ところで、青い裏革の靴なので、「ブルー・スウェード・シューズ」ということになる。

「ブルース・スウェード・シューズ」と言ったら、エルビス・プレスリーである。

ほんとのところ、これってどんな色なんだろう、と思ったので検索してみた。

画像がいっぱい出てきたが、青といっても、あざやかなで明るいブルーから、紺色のような地味目なものまで色々あった。

曲についても調べてみたら、プレスリーカール・パーキンスという少し先輩の曲をカバーしたものらしい。

歌詞の内容は、かなりロックである。

 

「俺を殴って、顔を踏みつけて

こき下ろしたっていい」

 

「俺のブルースウェードシューズは踏むんじゃない

好きにしていいが

俺のブルースウェードシューズは汚すんじゃない」

 

だいたい、こんな感じらしいので、きっと明るいあざやかなブルーだと思う。

 

 

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エリック・クラプトン  ロックダウン・セッションズ 

映画を見に行ってきた。

エリック・クラプトンの「ロックダウン・セッションズ」という映画だ。

映画館に出かけたのは、少なくとも2年ぶりだ。

先日、柏のデパートに行った時、その向かいの建物に「キネマ旬報シアター」という映画館があるのを思い出して、今どんな感じか覗いてみた。

入口近くに、上映スケジュールのチラシが置いてあったので、手に取って見た。

なんと、エリック・クラプトンの映画をやってる。

上映作品は、1週間で変わるらしいので、あと3日しかない。

しかも、一日1回しか上映しない。

前売りが無くて、当日売りだけである。

最終の18:20からの上映なので、夕方出かけて行って、入場できなかったら悲しいので、午前中にチケット買っておく必要がある。

エリック・クラプトンの映画に、そんなに客が集まるとは思えないけれど。

 

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そこで翌日の午前中に、柏までチケットを買いに出かけた。

天気も気持ちいいので、歩いて行くことにした。

新柏駅までは、1キロくらいで15分くらいである。

新柏東武線に乗れば、次は柏駅なので5分もない。

それでも、営業キロ2.9キロとなってるので、合計4キロはある。

退職前の勤め先が途中にあるが、そこまでは自転車で4年くらい通っていた。

その道を、歩いて行ったのだが、途中の住宅地で、少し迷ってしまった。

やっぱり、自転車と歩きではちょっと違う。

1時間10分くらいで、到着した。

 

キネマ旬報シアター」は、柏駅高島屋のビルにあった柏ステーションシアターが閉鎖して、それをリニューアルする形で、2013年にオープンしたものである。

キネマ旬報社が経営しているだけに、上映作品のリストを見ると、他の映画館では上映されないような作品が並んでいるように思える。

現在は、スクリーンが三つあり、「ロックダウン・セッションズ」は座席数160のスクリーン1でやっていた。

コロナ禍のため、座席は隣が空席となっていて、半数に減らしていた。

全体の中央部の席のチケットを選び、帰ることにする。

帰りは、来た道と重ならないように、南柏方向に遠回りした。

往復で、2時間40分、9キロ、14000歩の散歩だった。

 

夕方、再び自宅を出て、柏に向かった。

新柏駅から柏駅までは、東武線に乗って柏に着いたら、まだ少し時間があるので、駅周辺をふらふらしてみた。

かつての柏駅は、西口に「高島屋」、東口に「そごう」という二つのデパートが店舗を構えて、にぎやかなものだった。

そごうは、最上階の14階に回転展望レストランを持っていた。

丸いフロア全体が、回転しているので窓からの風景が変わっていくという、他ではあまり類のないデパートだった。

しかし、業績不振のため、2016年に「そごう柏店」は閉店となった。

現在は、三井不動産の所有のようだが、いまだに今後の跡地の利用については決定していないようだ。

駅前一等地の建物は、灯りの消えたままの状態だった。

 

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劇場のチラシでは、この映画についてこう書かれていた。

「監督 デビッド・バーナード

出演 エリック・クラプトン スティーヴ・ガッド ネイザン・イースト クリス・ステイントン

(2021年・イギリス・89分)

ドキュメンタリー

2021年2月、エリック・クラプトンは同年5月に予定していた恒例のライブをキャンセル。ロックダウンの中で、旧知のメンバーとともに無観客でのアコースティックライブを行った。」

 

私が、エリック・クラプトンの音楽に出会ったのは、高校一年生15歳の時である。

今回初めて、エリック・クラプトンの生年を調べたら、1945年生まれで私より8歳上だった。

私が、彼の音楽を知った頃、驚いたことに彼はまだ23歳だった。

しかし、すでに伝説のバンド「クリーム」を解散して、次のバンド「ブラインド・フェイス」を結成している。

クリームはすでに解散していたにもかかわらず、日本ではクリームの曲がよく聴かれていた。

インターネットのない時代で、情報の伝達は遅かったのだ。

ブルースを基調としたロックということになるのだろうが、エリック・クラプトンのギター、ジャック・ブルースのベース、ジンジャー・ベイカーのドラム、そして、エリックとジャックによるボーカルは魅力あるものだった。

 

「無観客でのアコースティックライブ」となっていたので、コンサート会場でやるはずのライブを、観客のいない会場でやるのだろうと思っていた。

映画を観たら、まったく違っていた。

レコーディングのためのセッションを、たんたんと撮影しているという雰囲気である。

ライブのための準備を進めているように、いろんな会話をしながら演奏していく。

イギリスの森深い、貴族の邸宅のような、何十室もありそうなお城のような建物の一室で、四人のミュージシャンが、何日かかけて演奏を作り上げている。

メンバーは、三、四十年来の音楽仲間たちである。

ドラムは、スティーヴ・ガッド、音楽好きなら誰でも知ってる名前である。

ベースは、ネイザン・イースト、私が見に行った武道館や東京ドームのライブはいつも彼がいた。

キーボードは、クリス・ステイントンでエリックにとっては、大事なムードメーカーであるらしい。

気心の知れた仲間なのだろうが、3人ともエリックが何をしようとしているのか、何を求めているのか、いつも見つめている。

 

エリック・クラプトンが、18歳でギタリストとしてのキャリアをスタートしたのが、「ヤードバーズ」というブルースの影響を受けたロックンロールバンドだった。

しかしバンドが、ブルースからポップ志向のサウンドになり、商業的成功を目指すようになり、バンドに見切りを付け脱退している。

そして、ジョン・メイオールのブルースブレーカーズに加入している。

すぐに、このバンドも脱退し、ブルースを基調とした「クリーム」を結成する。

このセッションでも、ブルースがベースになっている。

「ピーターのために、歌おう。」と言って、「ブラック・マジック・ウーマン」を演奏した。

「フリードウッド・マック」の「ピーター・グリーン」が作ったこの歌を、エリック・クラプトンが歌うのは初めて聴いた。

サンタナ」のヒット曲として、あまりにも有名になってしまっている。

いつも、エレキベースを弾いているネイザン・イーストがウッドベースを弾いていた。

エリック・クラプトンが、セミアコースティックのエレキギターに持ち替えた時は、ギター型の五弦ベースに変えていた。

 

ライブを見ているというよりも、セッションの現場に立ち会っているという感じで、時間が過ぎて行った。

音楽に関わってきた人間にとっては、音楽をできない現在は、どうしていいかわからない。

この先、どうなるのだろうか、ということを彼は言ってた。

だから、このセッションをやることにした、ということらしい。

この映画のことを調べようと、ネットを見ていたら、エリック・クラプトンヴァン・モリソンと、反マスク、反ロックダウンの曲を発表したとあった。

いったい、どういうことだろうと思った。

欧米では、反マスクや反ワクチンを実行しようとすると、差別的な対象にされることがあり、社会的な対立につながる。

日本にいて、日本の感覚で考えては、理解のできないプレッシャーやストレスがあるのだろう。

だからこそ、将来に対する不安はとてつもなく大きいのかも知れない。

 

 

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くめじのはし⑥ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

新町といふ里に宿かる。

いまだ日たかければ、とに出てあたり見ありく。

曳舟わたし河のむかふ岸辺は、むかし馬場美濃守のこもれる、琵琶城といふ其あと残りぬといふとき、「びはのしろ」てふことを句の下におきて、

 

そこととひあと尋ればいにしへのさまとも見えじ苔のさむしろ

 

十八日 あるじ、ひとひ、ふつかはここにありねと、ひたぶるにとどめぬれば、おなじ宿に居るに、上条村にすめるといふ、かの、しほいり氏といふ人とぶらひ来りて、小川神社は小根山村におましある神とかたりけるを聞て、

 

をね山の木々のした露ちりつもりながれ小河の神やますらん

 

十九日 けふは此郷の市とて、なにくれといろ/\のものを、やの前にならべて、かふ人さはに立ぬ。

くすし義伝といふ人とひ来て、

 

良耳の香やててらが袖にとめかねつ

 

といふ句をつくり贈りける、返し。

 

たのしざや夕がほたちは秋ながら

 

ふしたるまくらがみのさうじに何ならんと見れば、

 

「白浪のより来る糸をたてぬきに風やをるらん布引の滝」

 

といふ、うたをかいたる也。

こは、此家のあるじのおや義道とて、いみじき歌よみの侍りしが、このとしの春のころ、身まかれりけるが手なりといふもあはれに、またたく灯火をかかげて、

 

布引の滝のしらいとくりかへし見るに袂の沾れもこそすれ

 

二十日 しんまちをたち上条村を過て水内村に到る。

みたにのそこ行水は木曾路川、梓川、高瀬河、みな此犀川一筋に流れ入て、さかしき岩山にせまり、たぎり落くる水は、はなだをまとふがごとし。

其ときこと箭のごとく、みなは、さかまき落しきる処を弥太郎が滝とも、みのちが滝ともいふ。

さばかり大なる川川ひとつにおち入たる水の、ふかさ、いくそばくぞやあらんに、筏ふたたたみ、のりくだすが、しばしは棹もとらで力繩といふものを頸よりかけて、筏を滝より、まくだしにくだし、みなそこに落入りかくろひぬ。

やをら、こと淵にうき出たるを見るさへ身の毛もいよだつに、なりたるわざとて、やすげにのりくだしたるは、世にたぐひなき高名の筏士なりけりと、見る人手をうちて、ややとあきれたり。

猶行すゑを見やりつつ、

 

雨にきるみのちの滝の早きせにふらでも濡てくだすいかだし

 

この水内のたひらといふ処に、健南方富彦神別神社のおましますとなん。

けふはそのかんがきの、かんわざなりとて、よさり奉る火ともしのうつは、手ごとにもてまうづる人多し。

かの犀川の岸つたひ桟ありて、いと大なる立岩をめぐりて曲橋をふみぬ。

この橋は西よりひんがしに渡り、又おし曲て南をさして渉し、そのかたちは、たくみ等が曲尺てふものにことならず。

此名、久米路のはしともこれをいふとか。

〔天註--此はしは東西五丈四尺、南北十丈五尺、広一丈四尺〕

むかし白きましら、おのが腰に藤かづらをひきまとひ、高きしよりつと水をとび、それをたつきに、よりより渡りしをはじめにて、くだらのはし作りが造りしとなん。

さりければ、ことさへぐから歌の家には、白猿橋と、くしにも作りけるとなん。

水ぎは、しばしあがりて、岩つらに棚のごとく簀がきして、それにのりて鯉鱒とるといふ。

又秋より末は、まち網といふものをさげて鮭すくふといふところを、はるかに見くだし、うかがへば、きたみなみの高岸の岩に、橋ばしらを、いくらともなう、ななめに立て造りぬ。

此橋のなかばにたちて見返れば、高やかなる巌のうへに、ささやかなる鶏栖、木のなかにあり。

これなん飯繩の神の祠ありといふ。

かくてはしわたり得て、右の岩のうへより河の面に、細く落来る水を不動が滝とて、涼しく音し、四方のやま/\しげりあひたる木々のたたずまひ、この山河の水のありさま、橋のことなるおもしろさ、いかばかりつくり絵に工なる人のうつしなすとも、をよぶべきかは。

 

「たよりある岸の岩間にかげとめてすぐにわたさぬやま河のはし」

 

と、嘉元百首のうちに為相卿よみ給ひしも、此橋と人のいふ。

はた

 

「埋木は中むしばむといふなれば来目路の橋はこころしてゆけ」

 

とも聞えたり。

又伊奈郡に、久米といふ処に行もはしあり。

いづれをさだめてんかし。

このはしのもとにやすらへば、旅人も、きましりいこひて、不動滝の水むすびあげて、時うつるまでここにあそびて、いざといふころ、みちのかたはらの石にかいつけしうた。

 

むしばむと聞こそ渡れこともなくふみて久米路橋は来にけり

 

工等が水のすみなは長きもていかに曲れる山河のはし

 

こよひは、田野ロといふ村に宿かる。

廿一日 鳥坂、深山などいふ処をへて、長谷村にいづ。

ここなる観世音の堂は、いにしヘは長谷ノ神社にこそありけれ。

治田神社は稲荷山村の本町てふ処に、いま下の洲輸をうつし奉り、桑原といふ村にも亦治田のやしろにして上の須羽をまつり奉るといひ、八幡村なるは武水別の神社也。

若宮村のかんがきは更級神社にこそあなれ。

千本柳、戸熊などいふ処をへて、河辺づたひに姨棄山を見やり、去歳のぼりし処なれば猶ゆかしう、いと近ければ、めもはなたず舟にのる。

ここは埴科郡也。

 

くれぬ間をなぐさめかねつ更級や姨捨山の月おもふとて

 

しも戸倉といふ村にとまりて、この暁の月の、ひまもりたるを見んとて窓の戸おし明て、鏡台山を見つつおもひつづけたり。

〔天註--鏡台山は紀のいも山、せやまのやうに、ふたつならびたり。それに月の出て、山と山とのあはひにあれば、猶、鏡かけにかがみのあるがごとなれば、山の名におへり〕

 

乙女子がむかふかがみのうてな山すがたあらはに峰の月かげ

 

おき出んといふとき月うちくもりてければ、相やどり人、枕もたげて、夜はまだふかけん、およれとてふしぬ。

 

見し夢はとりの鳴音にさそへども閨のとくらくあけぬあきのよ

 

 

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海を渡る旅

「海外旅行」ということばがある。

日本やイギリスのような、国土のすべてを海で囲まれている島国で、「外国旅行」と同じ意味のことばとして使われているそうだ。

でも、「外国旅行」というのは、なにかしっくりしない。

「海外旅行」の方が、日本人にとっては使いやすいかもしれない。

英語では、海外旅行が”overseas travel"で、外国旅行は“travelinng abroad"ということになるらしい。

子どもの頃に、「海を越える」のが、「海外旅行」なら、本州から北海道や九州へ行くのも、「海外旅行」だろう、などと言っていた。

 

高校生の時に、小澤征爾さんの「ボクの音楽武者修行」という本を読んだ。

その本は、高校の図書館にあった。

お昼は、校舎の外で、腰を下ろして外の景色を眺めながら弁当を食べて、それから図書室に行くのが日課だった。

その頃、小澤征爾という指揮者のことは知らなかったはずなので、たまたま手にしたのだろう。

かけ出しの指揮者だった24歳の青年が、貨物船でヨーロッパに出発する。

スクーターで、ヨーロッパ各地の指揮者コンクールに参加するためである。

1959年のことであり、まだ外国への旅行など一般人にとっては、考えられない時代である。

いくらその頃でも、航空機はあったのだから、貨物船で行ったのはスクーターを持っていきたかったからだろうか。

小沢さんは、カラヤン指揮者コンクールなどで優勝し、カラヤンやバーンステインに師事し、世界のそうそうたるオーケストラの指揮者を務めることになる。

私が、彼の本を読んだのは、その頃である。

 

学生時代に、アルバイトして、ユースホステルを使って国内を、貧乏旅行できるようになった。

就職して、山登りするようになって、山小屋や温泉旅館に泊まるようになった。

たしかに、シルクロードは憧れだったが、具体的に外国へ旅行することは考えたことがなかった。

結婚することになって、新婚旅行をどこにするかということになった。

妻は、すでに何回か海外旅行をしていて、ヨーロッパにも行っていたが、私はパスポートも持っていなかった。

1980年代の中頃で、バブルの最中で、世間では海外旅行は行こうと思えば行ける時代になっていた。

結局、新婚旅行は、上高地、美ヶ原、松本ということになった。

ヨーロッパのホテル風の上高地帝国ホテルに泊まったのが、折衷案といえば言えるかもしれない。

それから数年後に、バブルは崩壊した。

そのころから、「バブル」と言ってたのだから、「泡」だと誰もわかっていたのだ。

 

海外旅行に縁のない私が、それから何年か後に海外旅行に行くことになった。

ひょんなことで、4泊くらいの「タイ国」への「研修旅行」である。

「研修」と言えるのは、1日だけで、あとは観光みたいなものだ。

でも、初めての海外なので、すべてが目新しく勉強である。

ずいぶんと昔のことになるので、もう記憶も曖昧になっている。

飛行機に、6時間くらい乗ったが、新幹線で福岡に行った時と同じくらいだな、と思った。

 

いまだに、印象に深く残っていること。

同室の方が、旅慣れていたので、バンコクの夜の街に連れて行ってもらった。

トゥクトゥク」という三輪タクシーに乗った。

半オープンで気持ち良くて、楽しかった。

バンコクの夜の喧騒は、日本の大都市とは全く違っていて、アジアの街という感じがした。

インドや中東と繋がってるような気がした。

バンコクからアユタヤに向かう国道は、歴史的な大洪水がやっとおさまったところだった。

国道の両側の平原は、泥が乾いて、埃だらけで、その中に高床式の住居が点在していた。

高床式も、並大抵ではない高い高床だった。

途中で、鉄道も体験で乗車して、川のながめのいい駅で降りて、食事をした。

川の流れは、これは大陸の風景だなと思わせるものだった。

 

定年退職後、家族と短期のカナダ旅行へ行った。

それが、私の海外旅行のすべてである。

かつては、日本を訪れる観光客よりも、外国へ出国する日本人の方が圧倒的に多かった。

それが、この数年逆転したらしい。

2000万人出国して、3000万人入国という、すごいことになっていた。

これだけの人が、飛行機で移動していると考えると、とんでもないことである。

コロナによって、それが桁違いに少なくなってしまっている。

かつての水準に戻るのは、いつのことになるのだろう。

 

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「ガロ」と「ボーイズライフ」 

さいとうたかをさんが亡くなってから、2ヶ月になる。

さまざまな番組で、さいとうさんのことが取り上げられたが、ほとんどは「ゴルゴ13」絡みだったと言っていいかもしれない。

私は、「ゴルゴ13」と並行して、「鬼平犯科帳」も愛読してきた。

捕物関係の主役は、奉行所の与力、同心、そして岡っ引きが多いが、鬼平犯科帳では、火付盗賊改方長谷川平蔵という実在の人物がモデルである。

火付と盗賊ということばがそのまま職名になっている。

ゴルゴ13」が、さいとう・プロダクションのオリジナルな作品であるとすると、「鬼平犯科帳」は、池波正太郎さんの小説がすでにあって、それを劇画化している。

小説は、全20巻ということだけれど、すでに劇画版は58巻発売されている。

後どれくらいの作品が、残っているのだろうか。

さいとう・プロダクションでは、「ゴルゴ13」と同様に、「鬼平犯科帳」も、さいとうさん亡き後も連載を継続していくと発表している。

 

さいとうたかをさんの作品に、いつ頃出会ったのだろうと考えてみた。

私が小学生だった頃に読んでいた雑誌に、さいとうたかをさんの作品はなかったと思う。

「少年」、「少年画報」、「ぼくら」、「冒険王」などという月刊誌が、「少年サンデー」、「少年マガジン」という週刊誌に移り変わっていく頃である。

考えてみると、さいとうさんの作品は、かなり高い年齢層が対象だったのだろう。

小学校の高学年の頃に、クラスの誰かが「ガロ」という月刊誌を学校に持って来て、みんなで読んだ記憶がある。

「ガロ」は、大学生とかそれより上の年齢層が読む雑誌であるのは、小学生ながらに感じていた。

たぶん、年上の兄弟のいる奴が、持って来たのだろう。

それには、白土三平さんの「カムイ伝」が連載されていた。

白土さんは、「カムイ伝」よりも、もっと年少の子向けのやはり忍者ものの「サスケ」を少年雑誌に連載していた。

「サスケ」は、登場人物も少年忍者で、絵もかわいい感じのものだった。

好評だったのだろう、テレビアニメとして放送された。

 

その頃に、小学館が発行している「ボーイズライフ」という月刊誌もあった。

「ガロ」は、白土三平さんが「カムイ伝」を連載するために、貸本漫画出版の青林社と創刊したものらしい。

私が、漫画を読んでいたのは、小学生の時で、中学生になってからは、漫画を読まなくなっていた。

だから、中学、高校、大学と漫画を買った記憶はない。

比較的後に創刊した「少年ジャンプ」は、買ったことがない。

ふたたび、漫画を読み始めたのは、就職してからである。

友人たちが、「ビッグコミック」という、青年向けの漫画雑誌を読んでいた。

私は、雑誌は買わず、単行本を買っていた。

ビッグコミック」には、白土三平さんが「カムイ外伝」を連載していた。

 

遅ればせながら、「明日のジョー」を、全巻買った。

梶原一騎原作、ちばてつや作画のこの作品が、社会現象になっていた頃は、私は読んでなかったので、他人事だった。

ちばてつやさんの作品は、「俺は鉄平」も気に入って、全巻揃えていた。

私は、性格的に凝り性なので、気にいると全部揃えたくなる。

考えてみれば、ちばさんの作品は、小学生時代にも読んでいた。

姉たちが買っていた「少女クラブ」に連載していた「1・2・3と4・5・ロク」という作品である。

母親を亡くした五人兄弟と愛犬のファミリードラマのような漫画だった。

高校生、中学生、小学生、幼児、愛犬という、兄弟姉妹の描き方が、とてもおもしろくて、繰り返し読んでいた。

 

20代の頃の私の部屋の壁は、本棚に囲まれていた。

本棚は、四つあったが、そのうちの一つは漫画で占められていた。

友人が、「ゴルゴ13」を揃えていたので、「ゴルゴ13」と出会うことになる。

すでに、その頃は50巻か60巻くらいになっていたと思う。

友人から借りて読んで、次からは自分で買うようになった。

1968年に「ビッグコミック」は創刊されていて、その年に「ゴルゴ13」の連載も始まっているらしい。

計算すると、私が中学三年生の年である。

ゴルゴ13も、50年以上経っている訳だ。

 

現在は、やろうとすれば、漫画だってネットを利用して読むことができる。

Amazonのアプリを使えば、タブレットで充分に満足して使える。

無料のお試しが、第1巻だけ利用できるサービスを使ったことがある。

でも、有料のサービスまで利用する気になれない。

妻が、毎週のようにレンタルショップを利用しているので、それで借りてきてもらう。

ゴルゴ13」や「鬼平犯科帳」の最新刊は、そうやって読んでいる。

今は私より、漫画コミック好きな妻も、ネットでタブレットを使う気はなさそうだ。

 

 

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