晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

クリスマスの約束 小田和正

妻とデパートのお菓子売り場を歩いていたら、もうクリスマス仕様のものが並んでいた。

もう、そういう季節なのだ。

この前まで、テレビではハロウィーンで騒いでいて、それが終わったら七五三だった。

まあ、これからしばらくはクリスマスである。

それで、年越し、新年ということになるのだが、コロナはこのままおさまるのだろうか。

日本だけなんとかなっても、世界は繋がっているのだし、世界もおさまらなければ行き来もできない。

来年のお花見は、普通にやりたいものだ。

 

クリスマスといえば、小田和正さんの「クリスマスの約束」という番組を、この十年以上妻と楽しみに見ていた。

この数年、やったりやらなかったりで、放送を見逃したりしていた。

今年は、舞浜アンフィシアターというところでやるらしい。

コンサートを収録して後日放送という感じらしい。

初めて見た「クリスマスの約束」は、2001年のもので、たぶんずっと後で再放送を見たと思う。

それがとても印象深くて、毎年楽しみに見るようになった。

 

小田和正さんは、私よりも6歳上である。

小田さんがいたオフコースのデビュー曲である「群衆の中で」を、高校生の時にテレビで見た記憶がある。

大石吾朗さんが司会していた「ヤング720」という朝の若者向けの番組で、それを見てから出かけて町外れにある高校まで歩いていた。

「群衆の中では」は、静かなコーラス主体で地味な曲だったので、あまり話題にならなかったと思う。

その後、私が就職した20代から30代の頃に、オフコースは若者なら誰でも知ってるグループになっていた。

私も、何曲かは知っていた。

その頃には、オフコースの中心人物が小田和正という人であることを知っていた。

オートバイ事故で重症というニュースも聞いた気がする。

 

クリスマスの約束」を始めた頃、小田さんは50代になっていたはずである。

気難しい人というイメージの小田さんだが、考えることがあったのだろう。

コンサートの中でも話していたと思うが、自分の曲だけではなく、自分がいいなと思った曲も歌おうと考えた。

そして、自分が選んだ曲の歌手に手紙を書く。

「僕等のような音楽をやって来た者にとって、今、大切な事は何だろうと思ったのです。それは同じ時代を生きてきて、音楽を創った人達を認め、愛し、尊敬することなのではないだろうかと。」

ところが、共に歌おうという誘いは、それぞれに事情があり断られてしまう。

最初の「クリスマスの約束」は、小田さんがひとりで、他の方の曲を歌っていた。

 

小田さんが、この番組のために選んだのは、次の曲である。

なるほどという選曲だけれど、何曲かはおおっと思う曲もある。

夜空のムコウ SMAP

桜坂 福山雅治

勝手にシンドバット サザンオールスターズ

ひこうき雲 荒井由実

春夏秋冬 泉谷しげる

Automatic  宇多田ヒカル

Tomorow Never Knows  Mr. Children

クリスマス・イブ 山下達郎

自作の曲は、次の曲を歌った。

言葉にできない さよなら Yes - No     ラブ・ストーリーは突然に 君住む街へ  

 

夜空のムコウ SMAP

この曲は、スガシカオ作詞、川村結花作曲のSMAPの歌だけど、小田さんは誰に手紙を書いたのだろうか。

 

桜坂 福山雅治

デビュー当時の福山雅治さんが出演しているドラマを、妻と見ていた記憶がある。

主題歌も彼が歌っていたと思うが、他に誰が出ていたか覚えてない。

 

勝手にシンドバット サザンオールスターズ

桑田さんの曲はいろいろある中で、小田さんがこの曲を選んだことに驚いた。

桑田佳祐さんでなければ、つくれない曲かもしれない。

 

ひこうき雲 荒井由実

松任谷由美ではない荒井由実だった頃のこの曲を、初めて聴いた時ほんとにすごいと思った。

きっと、小田さんも私と同じような感じだったのかな。

 

春夏秋冬 泉谷しげる

デビュー当時の泉谷しげるさんは、「黒いカバン」とか「白雪姫の毒リンゴ」とかあって、とてもとんがった感じだった。

「春夏秋冬」は、加藤和彦さんのプロデュースで、それがオブラートに包まれていた。

それはそれで、良かったと思う。

そうでなければ、知られることがなかったかもしれない。

 

Automatic  宇多田ヒカル

なんと言っても、小田さんがこの曲を選んだのは驚きだった。

しかも、この曲を小田さんが歌った。

この曲は、いろんな場所で取り上げられているが、それだけインパクトがあったということだろう。

 

Tomorow Never Knows  Mr. Children

“Tomorow Never Knows"と言ったら、ビートルズなんだけど、桜井和寿さんも、福山雅治さんも、ビートルズが解散した頃に生まれた世代なんだよな。

それだけ、ビートルズが聴かれてるということだろうな。

 

クリスマス・イブ 山下達郎

私にとっては、「シュガーベイブ」そして、「ストリート・オン・ザ・コーナー」の山下達郎さんだった。

最近は、YouTubeのおすすめに竹内まりやさんと出て来る。

山下さんは、小田さんへの手紙で次のように述べている。

「もともとこの曲は、オフコースに触発されて作ったものです。」

「バンドで挫折した私にとって、オフコースはとても重要なライバルで、敵(失礼!)がバンドのコーラスなら、こっちは一人でとか、そういったしようもないことを若気の至りでいろいろと考えたものでした。長い時を経て、小田さんにこの曲を歌っていただける時代になったとは、本当に感慨無量です。」

 

2回目以降の「クリスマスの約束」は、小田さんが選曲した曲によって、毎回ゲストが参加するようになった。

和気あいあいで、見ていて楽しい。

でも、ゲストのいないひとりだけの、第一回目が忘れられない。

 

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手賀沼カレンダー

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孫娘たちが手賀沼公園に行くのに、いっしょに行った。

手賀沼公園は、いつ行っても小さい子ども連れの家族でいっぱいだ。

公園には、小さい子用の遊具がある子ども広場がある。

それだけではなく、「あゆみの郷鉄道」と名付けられた大人と乗れるミニSLもある。

SLも、デーゼル、メルヘン、新幹線と種類が揃っているらしい。

サイクリングコースがあるので、レンタサイクルもあるし、スワンボートや遊覧船にも乗ることができる。

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長男が、スワンボートに乗ろうと孫娘を誘っていたが、乗ろうとしない。

孫娘はかなり慎重派で、やったことのないものには近寄ろうとしない。

結局、遊具のすべり台で少し遊んで、それから水辺にいる白鳥やカモの方に行った。

水辺には、白鳥やカモがたくさんいて、子どもたちがいても平気である。

ときどき、水にクチバシをつっこんで、何かを食べている。

孫娘は、興味深そうにそれを見ている。

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私は、ときどきスマホを取り出して、風景の写真を撮っていた。

 

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そういえば、「手賀沼カレンダー」というのが、ずいぶん前から発行されている。

来年分は、もう発売されているのかもしれない。

クリーン手賀沼推進協議会という団体が、毎年「手賀沼写真コンクール」を開催して、その参加作品からカレンダーを作成している。

今回で、36回目なのだそうだ。

www.city.abiko.chiba.jp

手賀沼は、絶好の写真スポットである。

私のように、ちゃんとしたカメラを持たなくても、つい写真を撮ってしまう。

湖面だけでなく、花もあるし、水鳥もいる。

朝夕で、表情が違う。

そして、春夏秋冬の四季がある。

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昭和51年(1976年)に、私は就職して、我孫子駅から徒歩3分ほどのところに、転居した。

我孫子駅から、駅前の通りを3分ほど歩けば、国道356号成田街道で、それを渡って10分ほどで手賀沼湖畔の手賀沼公園に出ることができる。

アパートから10分くらい歩くと、「楚人冠公園」というのがあって、そこからは眺めが良かったので散歩コースだった。

楚人冠公園は、朝日新聞記者だった杉村楚人冠を記念したもので、武者小路実篤や伊賀直哉などとともに、我孫子に住んでいた文人の一人である。

私が我孫子に住んでいたのは一年半くらいで、そのあと柏市そして松戸市に転居したが、勤務先は15年間我孫子市だったので、手賀沼は身近だった。

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手賀沼は、昭和47年から平成12年まで日本で最も汚濁された湖沼だったのだという。

私が住むことになる昭和51年には、すでに不名誉な記録で知られていた。

転居してくる前に横浜に住んでいたが、自宅のすぐ近くを流れていた鶴見川はその頃日本で最も汚濁した河川といわれていた。

手賀沼も、昭和20年代は沼の底が見えるくらいきれいで、子どもたちが夏は泳いでいたということは聞いたことがある。

それが、下水道が充分に整備されないままに住宅開発が進み、生活排水が流れ込み、手賀沼は汚染された。

たしかに、手賀沼は汚染された湖沼だったかもしれないが、私は手賀沼は、千葉県北西部「東葛飾」の宝じゃないかな、と思っていた。

利根川と江戸川に挟まれて、しかも手賀沼があるというのは、この地域の大きな魅力になっている。

がんばって歩けば、手賀沼まで行けるということは、自分が恵まれているということになるだろうから、感謝しなければならないかもしれない。

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プラタナスの並木路

柏の葉公園を車で、走っていたら、東大柏キャンパス前の並木が、色づいていた。

紅葉の色づき方が、変わっている。

樹木によって、まだ緑だったり、黄色かったり、真っ赤だったりする。

なかには、もう落ち葉になっていて、ほとんど葉を残していないのもある。

同じ一本の木でも、葉っぱによって進行具合が違ったりして、緑、黄、赤、茶、なんとも自由である。

東大柏キャンパスは、都内に散在していたいろんな学部の研究所を集中させたものらしい。

見ていて、この並木は「プラタナス」なんじゃないかと思いあたった。

 

プラタナスといったら、北大キャンパスという記憶がある。

名前だけで、どんな木かはよく知らなかった。

北大はポプラ並木も有名だけど、ポプラは巨木だった気がするから、それほど大きくはないこれがプラタナスなのか。

私にとっての、プラタナスは好きだったランチャーズの「真冬の帰り道」の歌詞にあった。

「あなたの肩先に ひらひらこぼれてる

プラタナスの枯れ葉 寒そな枯れ葉」

響きはオシャレだが、枯れ葉である。

そのあと、八柱の病院に用事があって、小金原団地を車で走っていたら、同じような並木があった。

車なのでゆっくり見ていられない。

これは、あとでゆっくり歩いて来よう。

 

自宅に帰って、ひと休みして、出かけることにした。

外に出て歩き始めると、青空に見事な雲がうかんでいる。

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先ほど小金原団地を走った時、旧水戸街道から左折して、小金原団地にはいったところから、プラタナス並木らしいものが始まっていた。

そこで、ちょうど左折した交差点がある根木内歴史公園を目指す。

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先日の富士川散歩以来の根木内歴史公園 根木内城址

根木内城址を超えて、旧水戸街道に下ると小金原団地が見える。

かつては江戸幕府の小金の牧があったところだ。

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正面にプラタナスらしい並木が見える

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交差点で、旧水戸街道を渡る。

道路の両側に、色とりどりの並木である。

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少し歩いたら、「根木内遺跡」という白い杭が建てられている。

横に説明文が書かれていた。

縄文時代中期(4500年前)の貝塚です。

昭和44年に市教育委員会で発掘調査を行い、多量の縄文土器が発見されました。」

まわりを見回して見たが、貝塚らしいものはわからなかった。

この辺りは、海抜20メートルくらいの場所であり、近くに貝塚が、点在する。

当時の海岸線が、あったのだ。

とりあえず、今日は先を急ぐことにする。

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小金原団地は、昭和44年(1969年)入居開始ということなので、すでに50年が経過している。

これらの並木もその当時植えられたものだろうから、そろそろ寿命とかあるのだろうか。

この近くには、常盤平団地というさらに10年ほど古い公団住宅がある。

そこには、さくら通りという桜並木があるが、寿命で枯れて切り株になってしまったものが見られる。

 

公団住宅のような大規模な団地には、いろんな並木が作られている。

よく見かけるのは、「桜並木」、「欅並木」、「銀杏並木」といったところだろうか。

県道が団地のメインストリートと分岐する交差点があって、県道は左に方向を変え、メインストリートは真っ直ぐ南に進む。

その通りに「あめりかふう通り」というカンバンがあった。

このカンバンは前にも見かけたことがあって、何が「あめりかふう」なのだろうと思っていた。

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並木路を進んでいくと、道路の向かい側にキリスト教の教会が見えた。

一見、ふつうのホールのような建物で、あまり教会らしくはない。

プラタナス並木に教会で、「あめりかふう」なのだろうか。

それはないような気もするが、わからない。

 

さらに進むと、信号のある交差点で、小学校のある道路と交差したが、その道路は桜並木のようだった。

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桜並木の通り

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団地の中心部に向かって歩くと、お寺もあった。

車でよく走る道路だが、お寺があるのは知らなかった。

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ひっそりと目立たないお寺

銀行や交番、スーパーに郵便局がある団地の中心に着いた。

南北のメインストリートは、まだまだ今まで歩いたくらい続くが、ここまでにしてここで東西のメインストリートに方向を変える。

小金原団地松戸市であるが、左折して、東の柏市方向に向かう。

この通りは、イチョウ並木だった。

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団地の東側の下り坂を行くと、柏市との境の低地に出る。

先日歩いた富士川が流れているはずだが、この辺りでは暗渠になっていて見えない。

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柏市に入り、西山という小高い丘の住宅地を進む。

台地が終わるあたりで、何棟かの農家が見えてくる。

建物の前には広い畑があり、建物の後ろは鬱蒼とした森を背負っている。

この道を通るたびに、こんな農家のたたずまいが柏市にまだ残っていることに、うれしくなる。

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ここはいったいどこだ、と思わせる農家のたたずまい

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りっぱな柿だった

丘を下るところに、祠があった。

鳥居も神殿もささやかなものだったが、何故かまわりに石碑のようなものが数多くあった。

立ち入り禁止のチェーンがあったので、近寄ることはできなかった。

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あとは、夕食の買い物でいつものスーパーに寄る。

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しばらくぶりの防災公園

スーパーの手前にも、いい感じの農家がある。

子どもたちが通っていた中学校の近くである。

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たぶん、プラタナスだったと思うのだが、どこにもプラタナスという表示はなかった。

帰ってから、プラタナスのことを調べた。

プラタナスは、日本語では「鈴懸(すずかけ)」のことだそうだ。

かつて、「鈴懸の径」という曲があって、私は藤圭子さんの歌で知っている。

昭和17年という古い曲なので、いろんな人が歌っていると思う。

私は、学生時代に彼女のアルバムを何枚か買っている。

「鈴懸」がどんな木かも知らずに、聴いていた。

 

藤圭子というと、今は「宇多田ヒカル」の母ということになるだろうが、すごい歌手だと思う。

もちろん、「夢は夜ひらく」のようなオリジナルも凄みがあるが、「鈴懸の径」のような古い曲のアルバムもすばらしかった。

そして、ポップスを歌ったアルバムも、私は持っていた。

朱里エイコさんの「北国行きで」とか、ペドロ・アンド・カプリシャスの「別れの朝」などは、今でも思い出す。

なんでも歌える人だったのだ、と思う。

宇多田ヒカルもすごいけど、藤圭子もすごい。

 

 

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国名について調べてみた11 柏市における村について

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

先日、図書館について調べていて、柏市松戸市の図書館数が多い、ということに気がついた。

柏市が18館、松戸市が22館だったが、もちろん近隣の流山市野田市我孫子市鎌ヶ谷市に比べて、柏市松戸市の人口は2倍からそれ以上あるので、簡単に館数を比べることはできない。

柏市について言えば、本館、こども図書館の他に、田中、南部、永楽台、光ヶ丘、高田、新田原、藤心、高柳、豊四季台、西原、布施、増尾、新富、根戸、松葉、沼南の分館がある。

地理的なバランスを考えて、それぞれの地域の中心となるところに配置してあるのだと思う。

現在の柏市は、幾度もの町村合併を経て、出来上がってきている。

そういう歴史が、これらの図書館の配置にも現れている。

 

律令制下で、地方には国が置かれ、その下に郡、さらにその下に里が置かれた。

すぐに、里は郷に改められ、その下に二、三の里を置いた。

郡には、郡衙が置かれかつての国造などの地方の有力豪族が郡司に任命され、地方行政の末端の機能を果たした。

郷には、郷の責任者として郷長が置かれたが、後にそれに代わるものとして郷司が郡司の指揮下で行政を行なった。

郷は、戸という家族集団の集まりであり、「人」の支配のために設けられたものである。

正倉院の記録には、柏近隣では唯一「大井郷」の記録が残されている。

「大井」という地名は今も残っているが、この頃の「大井郷」はどの程度の区域で、どれくらいの戸数で、何人ぐらいいたのだろうか。

 

しかし、国司の権限が大幅に強化されるにつれて、郡司の権限は縮小され郡衙は衰退していく。

それに代わって、百姓の自治的・地縁的組織である惣村が現れてくる。

それまでの、耕地と住宅が一体となった状況から、耕地と住宅が分離して住宅同士が集合する集落となっていったようだ。

それは、水利配分、水路・道路の修築などで結束を深め、境界紛争、戦乱・盗賊からの自衛のためでもあったのだろう。

江戸時代には、惣村は全国に6万ほどあったと言われる。

 

明治11年(1878年)の「郡区町村編制法」により、明治5年の「大区小区制」の手直しを行った。

地方には、郡、区、町、村を置いた。

郡と区には、官選の郡長と区長を置き、役所は郡役所とした。

律令以来の郡衙が、復活したわけである。

区は、三府・五港・人口密集地・交通の要所に置かれた。

町と村には、民選の戸長が置かれ、役場は戸長役場と呼ばれた。

この時点で、千葉県葛飾郡だった区域をもって東葛飾郡が発足し、郡役所は松戸町に設けられた。

現在の船橋市市川市浦安市の区域も東葛飾郡であり、我孫子市柏市の旧沼南町の区域及び旧我孫子市の区域は南相馬郡だった。

 

明治21年(1888年)に、「市制町村制」が交付され、翌年実施された。

これによって、それまでの江戸時代の惣村の流れを汲む村々は、整理統合されて9町28村になった。

統合前は、どれくらいの町村があったのだろうと気になってしまったので、数えてみた。

私の数えたところでは、256町村だった。

東葛飾郡という一つの郡だけで、その数になるのだから全国では6万になるかもしれない。

町制の9町は、次のとおりである。

行徳町、船橋町、八幡町、市川町、松戸町、小金町、流山町、野田町、関宿町である。

これを見ると、交通の要所にあったところが町制を敷いていて、人口も多かったのだろうと思われる。

 

現在の柏市は、この町村制実施で成立した六つの村から成り立っている。

東葛飾郡 田中村、千代田村、土村、豊四季村、十余二村。

南相馬郡 手賀村、風早村。

それらの村は、多くの村が合併してできている。

田中村 ←  若柴村、花野井村、大室村、正連寺村、小青田村、船戸村、▲大青田村、△青田新田、△下三ヶ尾村、△上三ヶ尾村、△西三ヶ尾村

千代田村 ←  柏村、戸張村、篠籠田村、松ヶ崎村、高田村、柏堀之内新田[字一番割水神前を除く]、柏中村下、戸張村新田、高柳村、南相馬郡呼塚新田[字落合]

土村 ←  増尾村、藤心村、逆井村、名戸ヶ谷村、今谷新田、根木内村、小金上町新田、酒井根村、中新宿村、塚崎新田

豊四季村と十余二村は、明治になって入植によって成立した村であり、それぞれ4番目と12番目を意味し、単独村制をとった。

手賀村 ←  泉村、若白毛村、岩井村、鷲ノ谷村、金山村、柳戸村、片山村、手賀村、布瀬村、印旛郡泉村新田、岩井村新田、鷲野谷新田、片山村新田、手賀村新田、布瀬村新田、染井入新田

風早村 ←  塚崎村、大井村、大島田村、箕輪村、五条谷村、高柳村、藤ヶ谷村、藤ヶ谷新田、印旛郡大井村新田、箕輪村新田

この合併によって、旧村名は、新村名の大字となった。

柏村は、千代田村柏となり、増尾村は、土村増尾ということになった。

この大字は、今どれくらい残っているだろうか。

 

大正3年(1914年)、千代田村と豊四季村が合併して「千代田村」となり、田中村と十余二村が合併して「田中村」となっている。

大正15年(1926年)、千代田村は町制実施し、「柏町」に改称する。

昭和29年(1954年)、田中村、柏町、土村、小金町が合併し、「東葛市」となる。

しかし、すぐに旧小金町は「根木内地区」だけを残して、松戸町に移管してしまう。

富勢村が、我孫子町に久寺家および布施・根戸根戸新田・呼塚新田の各一部が編入し、それ以外の地域は、「東葛市」に編入した。

そしてすぐに、「柏市」に改称する。

その年の9月1日に「東葛市」が発足し、11月15日に「柏市」に改称しているが、なんとあわただしい年だったのだろう。

 

今回、思いつくままに柏市の村々について調べてみた。

このあたりは、江戸時代はほとんどが、旗本領・幕府領だったので、かなり記録が残っているらしい。

柏市史」を読んでいたら、村々の戸数や人口、そして職業などの記録が残っているのを見たことがある。

その時に、わずか二十数戸の村に、料理屋があって驚いた記憶がある。

それをよく読めば、暮らしぶりもよくわかるだろう。

柏市だけではなく、この東葛飾には古代の遺跡が多く残っている。

縄文海進というのがあって、今よりも数十メートル海面が高かった時代もあったということだから、遺跡を残した人たちの生活が、この地でどういうふうに続いてきたのかについてはとても興味がある。

図書館には、「柏市史」の別館の資料集や埋蔵遺跡の記録集などもあったので、調べるべきものはいっぱいありそうだ。

次は、それをやってみよう。

 

 

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くめじのはし⑤ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

十五日 あないをたのみて、度安里於登志見に行とて、相道寺村といふにきけり。

近きころ美濃の国より来けりとて、陶つくりがやどもありけるをへて、山路に入て遠近を見れば、さかしき山のみ十重廿重にかくみたり。

何の梢ならん、いとはや、もみづる山かげより、しら雲のたちのぼるところあり。

そのあたり栖家やあらん、タ飯のけぶり、いくすぢもむすびぬ。

やをら万?里淤等斯とありおとしに到て見れば、ふかさ、いくそばくぞや、はかりもしらぬ太谷にのぞんで、西ひんがしに、雲あらぬに竜のわだかまれるがごとき橋を、ニツまでかけわたしたり。

ひとあしふみ見んもあやうげに、たましゐ身にそはぬここちして、渡えんことのかたければ、せめて、なからばかりにも行て見まほしくて、あないの翁にたすけられて身にあせし、半ふみ見て返りく。

ここにいひつたふる歌に、

 

信濃なるとありの谷に来て見れば雲井を渉る天のうきはし」

 

世にかかる処も、又ものかとたゝずみ見やりつつ、

 

おもはずよふみて本曾路の外に又とありの橋のかかるべしとは

 

渡えんかたはそことも白雲の虹かあらぬか谷の板はし

 

苦姫利とは、おもひもの二人もつことをいへり。

此郷にうたふ石臼うたに、

 

「とあり同志でうすひけば臼はまはらでやりうすに」

 

ある男、女ふたりがもとへ通ひたるに、此登阿里ども、つねは男をあらがへるこころも、とには見えざりけれど、ねたしとや思けん、此橋に友なひ到りうち休らひ、あなし涼し、しばしまちね、身にすたく蚤とらんと、あがすそうち返しけるを、いまひとりの女、そのこゝろをやしりたりけん、髪にさしたる針の糸して、此女のうち返したる衣の右づまと、わが左のつまを縫あはして立るを、蚤かる女、たてる女の背にたをれしふりしてうちあたり、谷に、さとつき落しければ、衣のつまにひかれて、ざばかりふかき渓そこに、ともにおち入て二人ながら身まかれり。

そのなきたま、頭ふたつある蛇となりて今もすむが、雨風にあるる日は、出ありくを見し人ありなど、あないのがたるを聞つつ、

 

うき人はよしとありともかゝりともあだに二人の身をやなすべき

 

あない、あしこのそがひこそ、かざしほとをしゆれ、風吹いづる穴のありけるよし。

〔天註‐‐風入(カザシホ)にや、風(カザシ)尾にや。おかしき名なり〕

もろこしに風井ありて、夏は風の吹出て、冬は風の吹入るといふも此たぐひならん。

かくて池田に帰る。

十六日 けふは有明山の麓のあたりに、そのかみ阪上田村丸の鬼うち給ひし処に、不動明王をすへたる堂に、つとめて、里人まうづるとてうちむれて行ぬ。

ここを立て宮本といふ村につく。

木立としふる社あり、これなん自鳳二といふ年、五瀬の州より外宮をうつしまつり奉るときけば、かけまくもあやにかしこう天御中主尊をいはひ、はた、天津彦火■々杵尊、天太玉命をも、あはしまつり奉ならんかしと、かしこまりて、〔天註--宮本のみやしろは式内にあらず〕

 

世々ふりて今もみけつの神籬に末さかふべき杉のいくむら

 

曾根原の橋よりこちは矢原庄、あちを仁科といふなり。

ゆく/\、村雨一とをり過たる夕栄の空おかし。

ここを閏田といふといへば、

 

 ゆたかなる秋や見すらんふる雨に猶うるふ田の里のとみくさ

 

けふは斎日なり、ものたばせよ/\と、すぎやう者、かたゐのゆきかひにみちもさりあへず。

大町といふ処につきたり。

とみうど多く、にぎはゝしき里なり。

伊藤なにがしが家にとまる。

やのしりに、仁科なにがしのかみの城あとあり。

いにしへ、西行上人さすらへありき給ひしころ、二人の法師、秋の草に歌よみかいつけて、をはりをとりける処は、ここよりみち六里ばかりをへて、山奥に佐野といふところあり。

そこに二僧庵といふ名のみ残りぬ。

又浅間がたけの麓にも、ふたりの僧の身まかれりしあととて、ありけるともいふと、あるじの話るを聞つつくれたり。

門ごとに、まつ火たいて、又、市中をいとはやうながるる小河あるに、わらをおほ束につかね

て火をかけて、これを、ながし火とて、ながすやあり。

こは、水におぼれて身まかる人の、むかしにても、いまにてもあれば、そのたままつるとて、としごとにすといふ。

ねよとのかねもうちすぐるころより、男は女にすがたをまねび、女は男のふりによそひたち、すが笠を着、あるは於古曾てふものに顔おしつつみて、おどりせりける。

そのさうかこそはしらね、声うちどよみて夜はあけたり。

十七日 この里をたちて峠にのぼる。

ここを女犬原といふ。

左右むらを過て安曇郡のをはりなり。

不動坂をおりて、向かたの巌より麻苧の糸のみだれかゝるがごとく落くる水を、すなはち不動の滝とぞいふめる。

橋木といへるところにて、かれゐけひらいて、うちやすらひて、

 

聞渡る里の橋木の風のみか河瀬の波の音の涼しき

 

ここは更級郡なり。

ただ左為川のへたをつたひて、おなじこほり日名村に来けり。

この村の茅原といふところにおましますは日置神社にこそ。

出る峰入山のはもくもりなく照す日おきの神のかしこさ

牛越坂をこゆれば歌道村といふあり。

ここにある神籬を人麿大明神と申奉り、はた、みやしろのがたはらにあるを人麿の池といひならはせり。

いにしへ、かんつけにおもむき給ひしことあれば、柿本のもふちぎみ、このあたりを通り給ふにや、里の子の物語にいへり。

 

数ならぬ言葉の手向露斗みそなひたまへ人まろの神

 

大原村をへき、猿倉てふ処よりは水内郡をさかふとかや。

穂苅といふ村の宮沢てふ森に、皇足穂神社をあがめまつるにまうでぬ。

むかしは法師もつかへまつれり。

その寺正運寺とてすたれたるを、いまおこし建んと、いとなみせり。

かんづかざは塩入なにがしといふとか。

 

やすらけくそのやい鎌のとがまもて神のほかりの祓ますらん

 

栖民の猶さかゆかん秋の田のなびきたるほの神の恵に

 

 

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読書の時間

郵便局に用事があって、出かけた。

自宅から郵便局まで、歩いて5、6分である。

帰りに、近隣センターの中にある市立図書館分館に寄ってみた。

自宅から2分ほどなので、行こうと思えばいつでも行ける。

難点は、閲覧スペースが狭いことである。

6人掛けくらいのテーブルと、3人掛けくらいのソファだけだったのだが、コロナ禍になってからは、テーブルだけになってしまって4人掛けである。

そのせいもあって、しばらく足が遠のいている。

 

テーブルには誰もいなかったので、書棚に近い席に座った。

その席は、右手ちかくに書棚があって、宗教関係の書籍が並んでいる。

さらに、右隣りの書棚は「郷土関係」で千葉県や柏市関係のものが並んでいる。

柏市史」や「沼南町史」も、ここにある。

宗教関係の書棚を見ていると、神道関係の本が目についた。

五木寛之さんの「百寺巡礼」のシリーズも並んでいた。

五木寛之さんの著作は、ひと頃よく読んだのだが、このシリーズは読んでいない。

日本国内が10巻、海外が6巻も出版されているのだという。

どうも、テレビ番組の放送とと並行して紀行文も書かれていたものらしい。

 

その下の段に、気になる本があった。

「私の家族の明治日本」というジョアンナ・シェルトンという方の著作だった。

翻訳者が、滝沢謙三 滝沢カレン・アンとなっていて、滝沢カレンというどこかで見たような名前に反応したのが、正直なところである。

手にとってみたら、滝沢カレン・アンとあるように、まったくの別人だった。

「まえがき」を読んでみて、話につりこまれてしまいそうになった。

さっそく、借りて帰ろうと思ったが、思い直した。

図書館に通って、読むことにした。

家で読むと、寝転がって読んでしまう。

図書館で座って、一章くらいずつ読むことにしようと思う。

 

作品紹介では、このように始まる。

「いまから140年前、ひとりのアメリカ人宣教師が海を渡って日本にやってきた。
トーマス・セロン・アレクサンダー、27歳。通称トム。
西南戦争が終わった年の秋、トムは横浜港に降り立った。傍らには、半年前に結婚した妻・エマがいた。」

アメリカのモンタナの農家で育った若い夫婦が、明治の日本で宣教師としての生活を始める。

迫害、病気、貧困に直面しながら、多くの学校の設立に関わり、52歳で亡くなる。

著者のジョアンナ・シェルトンは、故郷のモンタナで曽祖父の手記を読み、日本に来るたびに曽祖父の遺産である教会や学校を訪ね、資料を集めたのだそうです。

 

私が、図書館に通って本を読もうとなどと考えるのは、歩いて2分というように立地に恵まれているからだ。

柏市は、近隣センターという出先の建物に図書館分館があり、本館と子ども図書館を入れて、18ヶ所の図書館がある。

これは、どこに住む人も歩いていけるとは言えないだろうが、私のような高齢者や子どもにとっては、ありがたいことだと思う。

近隣の市ではどうなっているか調べてみたのだが、我孫子市流山市鎌ヶ谷市野田市などでは、せいぜい本館分館合わせても、4から8ヶ所くらいである。

松戸市は、本館分館合わせても22ヶ所となっていて、柏市に近い状況だ。

これだけの、組織施設を維持するのは地方自治体としては、財政的に困難があるだろうが、市民に対するサービスの面から考えれば、充分に価値のあることだと思う。

 

 

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ロックの時代15 ライフ

「ロックの時代」と名付けて、記憶に残っている音楽のことを書いてきた。

高校生の頃と、その前後の時代がやはり印象に強く残っている。

高校の頃には、「貸レコード店」というものがあって、カセットテープに録音したりしてた。

それが、いつかCDのレンタルになってった。

PCが出てきて、カセットテープではなく、MP3ファイルに変換するようになった。

ウォークマンから、メディアプレーヤーに変わった。

今では、出かける時は、スマホで音楽を聴く。

 

もう何年も、レンタルCDを借りることもなくなった。

新しい音楽は、YouTubeなどに頼っている。

今まで思いもしなかったような音楽が、次々に現れる。

思いつくものを、あげてみた。

結果的に、すべて女性のシンガー、グループになってしまった。

これらに共通してるのは、なにか考えてみた。

歌詞がクリアで、声がパワフルであるのが、今の私の嗜好かもしれない。

音楽が前向きで、聴いてると元気が出る気がする。

 

リトル・グリー・モンスター 「ビバ」

このグループについては、以前にも記事を書いている。

若いけどキャリアの長いグループらしい。

5人のメンバーが、それぞれソロを取ったりするので、変化もあるし、ハーモニーもすばらしい。

すべてのメンバーが、前に出てくるコーラスグループは、あまりないのではないかと思う。

VIVA / Little Glee Monster - YouTube

 

ネモフィラ 「ライフ」

このバンドは、おすすめに出ていたので、何回か聴いたことはあった。

ジャンル分けしたら、何になるのだろう。

ハードロック?デスボイスがあるからメタル?

あまり、私の好みではなかった。

でも、この曲はとても気に入ってしまった。

子どもたちが小さかった頃、いっしょにアニメを見ていると、テーマ曲はだいたいハードでヘビィな曲だった気がする。

その頃の雰囲気があって、シンプルでストレートだ。

【LIVE】NEMOPHILA/Life - YouTube

 

リサ 「紅蓮花」

リサさんは、「炎 homura」のリアクション動画で初めて見た。

なんかすごい歌手だと、思った。

鬼滅の刃」の曲らしいが、アニメを見たことのない私も引き込む歌だった。

それは、「First Take」というスタジオ録音だったが、ライブはどんなものか聞いてみた。

私が高校生の頃、ジャニス・ジョプリンという人がいた。

すぐに亡くなって、今はロックの歴史に残っている。

ライブを見て、タイプはだいぶ違うが、ジャニス・ジョプリンを思い出した。

Lisa - Gurenge - Amazing Live Performance Demon Slayer - YouTube

 

バンドメイド 「クロス」

バンドメイドというロックバンドを知ってから2、3年であるが、私のお気に入りである。

曲によって様々な面を、見せてくれる。

一筋縄ではいかないバンドであると、私は思っている。

文句のつけどころないドラム、ベース、リードギターの演奏に、比類ないボーカルがいる。

そして、バンドの創設者で、作詞者でもあり、メイド服のロックバンドを考えだしたリズムギターが、キーパーソンである。

BAND-MAID / CROSS (Official Live Video) - YouTube

 

 

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あこがれのシルクロード

若い頃の私にとって、シルクロードはあこがれだった。

二十代から三十代の頃である。

何がきっかけだったのか、はっきりは覚えていない。

行ってみたいと、思っていた。

自分が山を登ることをやっていたということが大きかったと思うが、時代がそういう時代だったということもあっただろう。

 

NHKが、「シルクロード 絲綢之路」を、NHK特集として12回にわたって毎月放送したのが、1980年から1981年である。

中国中央電視台との共同制作であるこの番組は、1879年から1980年に取材された。

ナレーションが石坂浩二、音楽が喜多郎さんだった。

喜多郎さんをこの番組で初めて知ったのだが、とても衝撃的だったと思う。

シルクロードというと、喜多郎さんの音楽と石坂さんの語りが思い浮かぶ。

石坂さんの語りというと、高校生の頃に「海へ帰ろう」というのを聞いていた。

これは、ロッドマッケンの詩を岩谷時子さんが訳詞して、アニタ・カーの音楽にのせて石坂さんが朗読していた

さらに、1983年から1984年には、「シルクロード第二部ローマへの道」が放送された。

これは、インド、中央アジアアナトリア半島、から地中海を経てローマへ向かうものだった。

 

同じ頃に、シルクロードの写真集も買っている。

篠山紀信さんの「シルクロード」全8巻だった。

集英社が創業55周年記念企画として、1981年に刊行したものだった。

大判で、紙箱に入った立派な装丁の写真集だった。

篠山紀信さんとシルクロードが、どうしても結びつかなかったが、他に選択の余地がなかった。

篠山紀信さんといえば、若い女性の写真のイメージだったのだ。

写真集の内容は、次のようなものだった。

1巻 日本、2巻 韓国、 3巻 中国1、 4巻 中国2、

5巻 パキスタンアフガニスタン・イラン、 

6巻 シリア・ヨルダン・イラク

7巻 エジプト、              

8巻 トルコ・ギリシャ・イタリア

これを見ただけでも、相当な労力と時間をかけて完成させたことがわかる。

 

やはり、これと同じ頃に、スウエーデンの探検家スヴェン・ヘディンの著作も読んでいる。

スヴェン・ヘディンは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、シルクロード周辺を探検している。

そして、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノール湖の湖床を発見して、「さまよえる湖」説を唱えた。

当時私は、外国旅行をしたこともなく、「シルクロード貯金」をしていたが、具体的に旅行の計画を考えていたわけではない。

ただただ、サマルカンドカシュガルトルファンなどという地名を目にして、喜んでいた。

今はもう、その写真集も手放している。

 

妻の父が、箱根芦ノ湖畔の美術館の開館に招待されたことがあって、引き出物に平山郁夫さんのシルクロードのスケッチのレプリカをいただいた。

平山郁夫さんは、1960年代後半からシルクロードをくまなく旅しており、多くの作品を残しているらしい。

その絵は、シルクロードのどこかのオアシスで描いた少女の水彩画だったが、我が家にくれたのでずっと飾っていた。

井上靖さんの「敦煌」という小説が、映画化されたこともあった。

敦煌」という街の名前に惹かれて、映画を見に行った。

映画の内容は、よく覚えていない。

調べてみたら、1988年公開である。

出演者のリストを見ると、西田敏行佐藤浩一、渡瀬恒彦柄本明田村高廣と日本人の俳優がずらりと並ぶが、すべて中国人の役である。

こういうことができた時代もあったのである。

 

NHKの「シルクロード」のような番組は、二度と制作することができないかもしれない。

あれは、日本が中華人民共和国と国交を樹立して、日中関係が良好な時代だったからできたことである。

その後、二国間の関係は大きく変わってしまった。

まして、シルクロードという中央アジアに近い地方は、火薬庫のような存在になってしまっている。

とても、外国のテレビ取材チームが訪問できるとは思えない。

それでも、あのような映像が残されたことはよかったな、と思う。

きっと、あれから40年後の今は変わってしまってるだろうから。

 

 

 

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大津川を遡上する① 中の橋~宮根橋〜権現橋〜下橋

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車窓からの雲

朝方、車に乗っていたら、青空におもしろい雲が浮かんでいた。

これは、空を見ながら出かけるのもいいな、と思った。

歩こうとも思ったのだが、思いついたのが大津川をさかのぼることである。

いつもは、名戸ケ谷あたりから、手賀沼に合流するまでの大津川の土手の遊歩道を自転車で走ってる。

名戸ケ谷の中の橋から上流は、行ったことがない。

距離がどれくらいになるかわからないので、歩きではなく自転車にした。

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工事中の集合住宅を出発

大津川は、鎌ヶ谷市くぬぎ山を源流とし手賀沼西部のヒドリ橋のあたりで手賀沼に注ぐ川である。

延長12キロメートルに渡って、南から北方にある手賀沼に向かって流れている。

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大津川の流域 手賀沼から南下する

いつものように、名戸ケ谷の中の橋を目指す。

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正面に大津川は土手がある

土手にぶつかったら、左に向かえば手賀沼である。

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上部を横切る黄色表示の道路が県道柏印西線である

土手の道は、舗装されてサイクリングコースになっていて、散歩しても気持ちいい道である。

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県道282号柏印西線が走る中の橋

ところが、 右手の大津川の上流に向かう道は舗装されていない。

いちおう土手にはなっていて、まわりの田んぼ寄りも1メートル程は高くなっている。

やっと、轍のような細い道が一本あって、自転車がなんとか走れる。

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河川敷にはススキが

細い道をなんとか自転車で、ふらふらしながら進んでいく。

出かける前に見た地図では、手賀沼から源流に向かううちの、中間点である高柳あたりまでは、川の両側の土手が道路になっているような表示になっていた。

その先は、道路の表示はないので土手はなくなってるのかもしれない。

そこまでは、なんとか自転車で走れるだろう。

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宮根橋

次の橋である宮根橋に着いた。

「宮根橋」というのは、この橋の西数百メートルのところの高台に「広幡八幡宮」という歴史のある神社がありそのあたりの地名が「宮根」であることから、名付けられたのだろうと思われる。

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宮根橋から手賀沼方向

ところが、この先は土手はあるのだが、藪に覆われている。

自転車どころか、歩くのも難しそうである。

川から100メートルほど離れて、並行して走る道路があるのでそこを自転車で行くことにする。

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土手はとても進めない

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川の両側は、水田が広がっている。

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しばらく、自転車で走っているの次の橋がありそうなので、川の方に寄ってみる。

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橋の向こうには、大津ヶ丘団地が見える

権現橋である。

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やはり、進めない

また、車道の戻り次の橋に進む。

しばらく、自転車で走る。

「下橋」と、表示されていた。

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この橋は、かなりしっかりした橋だった。

やっぱり、この先も土手の上は、藪で覆われていて通行することができそうもない。

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この辺りまで来ると、河川敷も狭く、土手の高さもあまりなく、堤防の役割はなさそうである。

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手賀沼には、南方から流れ込む大津川の他に、西方から大堀川が注ぎ込んでいる。

大堀川は、柏市流山市を流域とする延長7キロメートルほどのかわである。

大堀川は、住宅地に近いこともあり、川の両側はアスファルト舗装されていて、遊歩道として整備されている。

ウォーキング、ランニング、サイクリングの人たちに利用されている。

これに対して、大津川は両側が水田や畑で、住宅地からは離れている。

でも、土手は遊歩道として整備するだけの幅はありそうである。

地図では、道路の表示がされているので、本来は通行できるようになっていたのかもしれない。

アスファルト舗装ではなかったので、雑草が生えて、除草が行われなかったので、現在のような状況になったのだろう。

 

 

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ビル解体の動画を見る

阿蘇山が噴火した映像を、ニュースで見た。

火口の麓にある駐車場のライブカメラの映像だった。

白い噴煙が、そのうちに巨大な爆発になって黒い煙の塊が立ち上がって、駐車場の方向に向かって来る。

映像には、音声がないので現場の状況が今ひとつ伝わらないが、かなりの爆発音はしただろう。

駐車場には、かなりの自家用車が駐車していて、観光バスも4台駐車していた。

火砕流のような黒いけむりの塊が、近づくにつれて、ちらりほらりと自家用車が駐車場を出て行く。

危険を感じて、逃げて行くように見える。

ところが、多くの自家用車はそのままで、人は戻って来ない。

4台のピンク色の観光バスの近くには人影は無く、動く気配もない。

そのうちに、黒い煙は動きが遅くなり、駐車場に到達しなかったようだ。

多くの自家用車はそのままで、観光バスもそのままだった。

乗客は、どこにいたのだろうか。

御嶽山のことなどを考えなかったのだろうか、大丈夫なのかな、と思った。

 

今は、世界でどんなことが起きたのかが、映像で見ることができる。

火山の大噴火も、大洪水も、大津波も、見ることができる。

人間の手ではどうすることもできない自然の脅威である。

YouTubeには、これとは違って、人間が叡智を尽くしてつくった建築物を、叡智を尽くして壊すという映像もある。

老朽化した高層ビルなどを、解体工事する映像が、数多く見つけることができる。

地上何十階などという高層ビルを、作り始めたのは20世紀になってからだろう。

どんなビルにも寿命があるだろうから、そろそろ使えなくなるものが続々と出てくる。

たぶん、将来取り壊すことになるなんてことは、考えることなくつくったのだ。

YouTubeにあるのは、ほとんどがアメリカのビル解体である。

英語だと、Building Demolitionとなっていて、解体というよりも破壊である。

ビルの下部に爆薬を仕掛けて破壊し、上部は順に崩れ落ちるようにしている。

そのやり方が、アメリカでは主流のようだ。

いろんな映像を見ていると、時には失敗がある。

ビルの上部が崩れ落ちる途中で、止まってしまう。

破壊の途中で、止まったビルが残される。

再度、爆薬を仕掛けて続きをやる必要があるだろうが、いつ崩れるかわからないような危険な建物にどうやって近づくのだろうと思う。

見るたびに、不思議でならないので、その後の作業を見たくなる。

 

アメリカのビル解体の現場は、まわり数百メートルは何もないところでやっている。

ビルが崩れ落ちる時に、とんでもない瓦礫が飛んだり粉塵が舞う。

考えると、不思議である。

どうしてまわりに、建物がまったくないのだろう。

まわりの建物は、どうしたのだろう。

これに対して、日本のビル解体はまったく違うようだ。

私の行動範囲で、病院の建物の解体工事が行われている。

5、6階建ての建物で、それほど老朽化してる感じではなかったが、病院自体はすでに、駅の近くに新築して移転していた。

 

工事のお知らせには、アスベスト撤去作業の表示があったので、それが移転の理由だったのかもしれない。

現場は、すべて囲われていてシートで覆われていたので、詳しい作業はわからなかった。

途中から外から見えるようになった頃には、ビルの内部は崩されていた。

そして、外壁だけが残されていて、最後に崩された。

工事が始まって半年近くなると思うが、まだかなり瓦礫が山積みになっている。

日本では、建物の近くには住宅などの建物が隣接していることが多いので、爆薬で破壊するような方法は使えない。

業者によって、得意とする方法で解体しているらしい。

だるま落としのように、ジャッキを使ってビルの下の階から解体して行く方法や、ビルの上の階から解体していく方法もあるらしい。

長期の工事を要するもので、むしろビルを建築することより難しいのではと思われる。

 

テレビの番組で知ったのだが、日本では古い木造建築物を解体した際の木材が、建築材として高価に取引されている、ということだった。

木材だけでできているような建築物には、太い立派な木材が使われているし、年数が経っている方が使い勝手がいいのかもしれない。

私が、生まれ育った家は木造の農家だった。

農家の末子だった父が、分家になる際に本家が建ててくれた家だった。

まったくの新築ではなく、どこかの村で解体した家を買って、移築したものだった、ということを聞いた気がする。

だから、大黒柱や屋根裏の梁などは、長年の囲炉裏の煙で黒光りしていた。

古い日本の建築物は、木材だけでできているようなものなので、分解して、また組み立てるようなことができたのだろう。

でも、コンクリートでできた建物を解体したとしても、あの瓦礫の山のどれくらいが再利用できるのだろう。

せいぜい、鉄筋コンクリートの鉄筋くらいだろうか。

 

 

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