晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

あきたのかりね④ 菅江真澄テキスト

廿一日 あさとく山岨のみちをくれば、山谷の紅葉いとよし。こを、しばし見つゝたゝずみて、

 

   うすくこき蜂の?の紅に山ははぐろの名に似ざりけり

 

瀬川(添川-東田川郡藤島町)、二か沢、添津、山崎、苅河(以上立川町)、かゝるところを過来れば、阿古谷稲荷と華表(とりい)に名のりたる前にぬかづく人あり。

いかなる神にておまし奉るといへば、このところこそ、みちのおくに名だかき、あこやの松にて侍れ。

いにしへはこゝもみちのおくにて、今は出羽とぞなりぬ。

その松もいまはくちて、かゝること木の松をうへてけるといひて、山みちにさりぬ。

ちいさき川をへだてて、さゝやかの祠のありける。いかなる神にてわたらせ給ふやらん、とはざるはくやし。

鳥海山いとよく晴て、のこるかたなう見やられたるに、

 

   あまづとふしらふの雪の俤はつねさえなく鳥の海山

 

古杉(古関)邑、まはたで(廻館)村(東田川郡余目町)に入ぬ。

比里のうしろの沼を古川といひて、いにしへ最上川こゝにながれしとて人のおしへぬ。

余目(アマルミ)の里(余目町)のなにがしが宿にとまる。

くれうち過る頃より、かね、つゞみにはやしありくは、ぼうおくりなりけるといふ。

ぼうとは、ゑやみなどをいへり。

廿二日 つとめて新掘(酒田市)といふところより、いなにはあらぬとずして最上川のきしに至りて、こぎ出る舟をしばし/\といへど、さらに耳にも聞入ず過たりけるをねたくおもひて、こたへも波ばやに

 

   渡しもりよべどつれなくもがみ川いなとこたへてくだすいなふね

 

やゝふねのよせたるにのりて、からくしてきしにあがりぬ。

三尺あまりの弓腰におびたる、老尼のめくらどちの、おなじどちの綱にひかれありくは、梓巫女なりけるとぞ。

馬いくらも曳行が、尾かみみな巻つかねたるは、ところのならはしとなん。

すぎやう(修行)者ふたり羽黒山にまうでのぼるといふに、阿古谷の神に手向ばやとて、歌ひとつ作りて此たよりにたぐふ。

 

   まもります神にとはなんふた葉よりあこやの松のありし昔を

 

「みちのくのあこやのまつに木隠れて」と、ずしつゝ別たり。

此辺にてやあらんか、

「みちのくに近き出羽のいたしきの山にとしふるわれぞわびしき」

と聞えたる山は、いづことゝヘば、其板敷山こそ清川の里(東田川郡立川町)の川むかひにて侍れ。

こなたよりは見え侍らぬと、里の子のいへり。

酒田のうまやに入て、吹浦の関こへん料に、せき手(関手形)とりて行。

「袖の浦の波吹かへす秋風に雲の上まで涼しかるらん」

と聞えしは、宮の浦のこと也けれど、今はもはら、このさかたをさして袖の浦とのみいひならはせり。

此磯ちかく行ば、高波ひとつうち上たるに、みの笠いたくぬれたるをわびて、

 

   旅衣なみにぬれたる袖の浦たちこそわぶれほすひまもがな

 

「忍がねしほひもしらぬ」とよみ給ひしは、洞院摂政さきの左をとゞの、新続古今恋の中に聞え給ひしは、まことに、みちひなき北の海のそこまで、おもひこし給ふことのめでたしとゝなふ。

路のかたはらにわらうだしきて、そが上に、あしながのわらぐつ、五色の紙のみてぐら、かはらけのさらに糸つらぬきて長箸そへたるは、もがさの神祭るとてその家にものして、村さとのはしに捨たる也けり。阿良太女(新田目)といふところにくれたり。

廿三日 雨にぬれて新田目を出るとて、おもひつゞきたり。

 

   たび衣たつより袖はかはかぬに何あらためて露のおくらん

 

ほどなく十日町といふ村をくれば、みち芝とて?畜といふ草をあめにぬれてつみありくは、この草雷盆にすりくだきて米に交てにでくらへば、いみじきはらの薬也とてつかねとりぬ。

尾落伏邑(飽海郡遊佐町)なる劔竜肥山永泉寺のふる寺見んとて、此みてらにあないして入て、書つたへたる書を見れば、出羽国庄内飽海郡大泉圧遊佐郷尾落伏村のかゝる寺は、人皇四十八代天武天皇御宇白鳳の年、鳥海山とおなじころ、役正角の闢(ひらき)給ひしところなり。

それよりもゝいそとせ(百五十年)をへて嵯蛾天皇の御代、烏海山に手長、足長といふ毒蛇ありて、ゆきゝの人をとりくらひてけり。

これを諸天万神めぐしとおぼし給ひて、梢にあやしの鳥をすませて、毒蛇居れば有哉と鳴き、あらねば無哉と鳴しとなん。

「武士の出さ入さにしをりせんとや/\鳥のうやむやの関」

「こしやせんこさでやあらんみちのくのとや/\どりのむや/\の関」

といふうたあり。

此せきの名を無哉/\、布耶/\、有耶無耶、伊耶無耶、母耶/\と聞えたり。

せき(関)のすヘ(据え)たりしふるあとは、三崎山の大師堂と女鹿(遊佐町)とのあはひをいふ。

慈覚大師、かの毒蛇降伏のため行ひありしといふ、其あとは、今いふ護摩の壇これなり。

かゝるをこなひのたうとさに毒蛇みなニツにやぶれて、頭は鳥海山の頂にと行、尾のつるぎはこゝに落たりけるとて、さる時より劔竜山といひき。

ところを尾おちぶし邑とよぶ。

又蛇体石といふ岩あり、その謂にやありけん。

はた文和(一三五二~五五)のころはひ本源道也といふ律師住給ひて、六百九十五年になりぬ。かくて、台密の両宗をこなはれしこと年久し。

能登の国惣持寺(曹洞宗本山)なる峨山禅師の嫡嗣玄翁禅師、世中の名ある智識もとめ給ふとて国/\をへめぐり、此寺に至りて、比律師まみえ給へば、りし(律師)、玄翁のとこ(徳)にめでて、比りしを弟子とさだめて、りし寺をかくて玄翁禅肺にゆづり給ふ。

あくるとしの夏のころほひ、律師身まかりてより曹洞宗にながれたり。

玄翁禅師、水の辺にのぞみて、あがすがたをうつし、きだみなし給ふたる水鏡の御影とて、いと黒くすゝつけるを、とばりおしあけて拝みたり。

そのころ鳥羽の帝をおかし奉るきつね、下野国奈須野(那須野)の原の石となりて、空をとぶ禽、つちを走る獣、其石の毒にあたりてたふれ、はねをふためかして死うせ、ゆきゝの人もうちなやみければ、人皇百一代におまします後小松院の御時明徳二(一三九一)年庚午春、かまくらより惣持寺に、なすのゝ石の亡魂とぶらひてたうべと御つかひありしかば、まづ太徹禅師をつかはしたまふに、かの石の辺に、なにくれのしら骨雪のつもるがごとにみち/\て、そが前に近づき給へば、頑なる石の面に汗したりけるとぞ。

をりしも玄翁禅師、病ありて奈須(那須)の出湯に行てゆあみし給ふとて、この石にむかひて云、

「汝元来石頭、謂喚殺生石、霊従何来、受業報如是哉、去去、自今以後称弥仏、生真如全体」

といひて柱杖の石つきもて三たぴ撫で、会取せよ/\ととなへをはりたまへば、此石ふるひうごきて、たちまち三にやぶれてちりぬ。

かゝること、うたひもの(謡曲)にもしか聞えたり。

世中に石のたくみの石わるうつわを、比禅師の、みなをよぶこと、かゝるゆへにやありけん。後小松院、宣命給はりて大寂法王能照禅師と申奉る。

此能照禅師、応永三(一三九六)年丙子正月七日遷化し給ふ、おほん年七十二。その遣偈云、

「四大仮合七十二年、末后端的蹈飜鉄船」

と聞えき。

この寺の山内十景といふあるは、断巌古木、池橋新月、南滝遊魚、西渓鳴鳥、東嶺松風、北林竹雨、洞岸冷水、谷口石鼓、宝殿紫雲、丹山暮煙。

またこの山の七不思議といふは、一には開山禅師の木像、帳のうちに在して山のうちめぐり給ふ。

二には鎮守明神にしろき狐ありて、よしあしのさとしをせり。

三には、此寺に身にけがれある女通夜することあれば、わざはひをうく。

四には、たつのみやこより火ともして山をてらす、こころまめやかなる人これを見る。

五には、天狗この山を守りて其しるしをあらはしぬ。

六には池の蛙声なし。こは開山禅師みずきやう(御誦経)ありけるころ、池の蛙もろこゑに鳴てけるを、あなかまとのたまひしより、あまたありても鳴ことあたはじとなん。

七には盗人寺に入ば、えいでず。しかるゆやにや扉にかけがねをつくらずと、ひと巻のふみにかいのせたり。

比寺のふるきたからとて、簾のかけものあり。

たけ四尺、幅二尺、あしに鴈のかた、そがなかばには牡丹に胡蝶のつくり絵あらはれたるは世にめでたきもの也。

こは玉藻の前の調度にして、比寺にむかしより残りぬ。

玄翁禅師に給はりしものにやあらん。

 

 

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国名について調べてみた12 陸奥国と出羽国

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県の6県からなる東北地方であるが、明治維新までは陸奥国出羽国の2国だけだった。

1869年(明治元年)、明治政府との戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩同盟諸国に対する処分として、出羽国陸奥国の分割が行われた。

出羽国が、羽前国羽後国の2国に、陸奥国磐城国岩代国陸前国陸中国陸奥国の5国になった。

陸奥国は、7世紀中頃に常陸国から分離して成立した。

出羽国は、8世紀初めに越後国陸奥国から分離して成立した。

いずれも、1000年以上の間そのままで置かれていたのである。

翌年、箱館戦争終結後には、和人地および蝦夷地(北州)に、北海道11国が新設され、五畿八道となった。

奥羽越列藩同盟諸国というのは、奥羽諸藩が新政府によって「朝敵」とされた会津藩庄内藩の赦免嘆願のための同盟だったが、それが拒絶されたために新政府に対抗する軍事同盟に変貌したものである。

戦いは東北戦争ともいわれるが、同盟の中心だった会津と仙台の降伏によって数ヶ月で終わっている。

久保田(秋田)藩は、同藩出身の国学者平田篤胤の影響で尊王論が強く、列藩同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、結局新政府側につき、列藩同盟から脱落した。

南部から仙台藩庄内藩に攻められ横手城を陥落させられ、久保田城に迫った。

また、北部からは盛岡藩が侵入し、大館城を攻略したが、新政府側の援軍により、藩境まで押し返している。

 

新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し直轄地としていたが、明治2年(1969)年、版籍奉還によって、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させた。

これによって、藩主は非世襲知藩事に任命され、その家禄は藩全体の収入の1/10とされた。

さらに、明治4年(1971年)の廃藩置県によって、300弱の藩を廃止して国直轄の県とし、知藩事は東京居住が強制された。

その後、県の統廃合が進められ、第1次府県統合で3府72県となり、第2次府県統合では3府35県となった。

しかし、過度の統合により面積が広すぎるために、地域間の対立などがあり、分割が進められ、明治22年(1989年)には、3府42県で落ち着いた。

 

廃藩置県の頃の、東北地方の状況は次のとおりである。

羽前国 大泉県、新庄県、天童県、山形県、上山県、米沢県

羽後国 秋田県、岩崎県、本荘県、亀田県、矢島県、松嶺県

岩代国 二本松県、福島県、若松県

磐城国 角田県、中村県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県、棚倉県、白河県

陸前国 仙台県、登米

陸中国 盛岡県、一関県、江刺県、胆沢県

陸奥国 弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県

この7国が、6県に落ち着く。

令制国名の後に、県名と県庁所在地、そして令制国内の主要な藩名とその所在地である。

羽前国 山形県 山形市        米沢藩 米沢市 庄内藩 鶴岡市

羽後国 秋田県 秋田市        久保田(秋田)藩 秋田市

岩代国+磐城国 福島県 福島市    会津藩 会津若松市

陸前国 宮城県 仙台市        仙台藩 仙台市

陸中国 岩手県 盛岡市        盛岡藩 盛岡市

陸奥国 青森県 青森市        弘前藩 弘前市

 

これを見ていると、かつての藩名と現在の県名が一致しているのは秋田藩秋田県だけである。

秋田藩は、列藩同盟から最も早い時期に離れて、新政府側になっている。

もしかすると、これは幕府側に立って新政府に対抗した諸藩に対して、藩名を県名に反映させないという処置だったのかという気がした。

同じようなことを考えた人はいるもので、明治時代のジャーナリスト宮武外骨氏が著書の中で「賞罰的県名説」を述べた。

現在ではこの説は、例外もあり根拠のないものとされてるようである。

宮城県岩手県について言えば、廃藩置県当初に、それぞれ仙台県と盛岡県が発足している。

しかし、明治5年の第1次府県統合の際に、県名を変更していて、これは他の小県と統合するための考慮と考えられる。

青森県は、弘前県と元南部地域の小県と合併し、県庁所在地は青森市に移転した。

福島県は、旧会津藩の若松県と中通の福島県浜通りの磐前県が合併し、県庁所在地は福島市となった。

山形県は、主要な藩であった庄内藩鶴岡市米沢藩米沢市ではなく、山形市が県庁所在地になっている。

 

このように、東北各県の成立の事情は異なっているので、一概に「賞罰的」ということはできない。

廃藩置県に遡って行われた出羽国陸奥国の分割によってできた令制国が、福島県を除けば、その後の県域とほぼ一致しているのはたしかである。

 

 

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A判とB判という紙のサイズのこと

妻の母が入院している病院の会計カウンターに座っていた。

月に一回、入院費の支払いのためである。

担当者の背後に、PPC用紙のストックが積んであった。

その日はたまたまそれが目についた。

A4,B5,A6というサイズのコピー用紙だった。

私は、40年ほど事務系の仕事をしていたので、こういう事務用品や事務機器は気になってしまう。

まだ、B判が使われている。

 

コピー用紙といったら、「PPC用紙」として売られている。

PPCというのがどんな意味なのか知らないで使っていた。

“plain paper copy"なので、普通紙コピーということらしい。

普通紙ということなので、特別な加工はされていない。

この反対は、「専用紙」になるから、むかし使ってた「感熱紙」は、表面に薬品で加工していたのだろう。

ワープロやファクスなんかの用紙に使っていた気がする。

私が就職したのは、1970年代の中頃だが、職場にあったコピー機は、「湿式」のものだった。

詳しくは覚えてないが、コピーすると濡れた感じの仕上がりで、乾かす必要があった。

たぶん、専用紙だったと思う。

しかも、地の色もグレーぽくてきれいなものではなかった。

それより以前には、「青焼き」というものが使われていたらしいが、私は扱ったことがない。

職場に保管してある建物の「設計図」や施設の「図面」は、青っぽい大きな用紙だった。

それがいつの間にか、トナーを使う「乾式」のコピー機に変わっていった。

 

平成になってからなので、1990年代だと思うが、「文書のA判化」というのがあった。

それまで、文書の用紙が、B判とA判が併用されていたのを、国際的規格であるA判に統一するというものだった。

日本では、元々が「わら半紙」のようなB4が使われていて、保管する時は、袋とじをしていた。

「A判化」によって、たしかに保管文書はA4になった。

でも、必要に応じてB判を併用していた。

A4ですべて間に合わせることはできないし、かといってその倍のA3は大きすぎるし、A5は小さすぎる。

しかも、コピー機印刷機が対応しなかった。

 

我が家で使っているプリンタとスキャナーの複合機は、A4とB5に対応している。

コンビニに行けば、スキャナーとコピーの複合機があるが、これはA3、B4、A4、B5と、すべてに対応している。

図書館でも、同じようなものである。

図書館では、カラーコピーができない機種があったりするけれど。

病院でも、B5サイズも使っているようだった。

B判とA判は、サイズ的には、補完するようになっている。

併用すると、丁度いいサイズになってるのだ。

 

どうして、A判とB判という二つの規格があるのだろう。

不思議なので、調べてみた。

A判は、19世紀のドイツで、物理学者のオズワルドが提案したもので、現在では国際規格になっている。

面積が1平方メートルの「ルート長方形」をA0(841mm✖️1189mm)としたのだという。

「ルート長方形」というのは、縦横比率が「白銀比」といわれる「縦:横=1:√2」であって、長辺で半分にすると、縦横比率は変わらない相似形の長方形である。

黄金比」という言葉は聞いたことがある気がするが、「白銀比」は初めて見た。

ずいぶんと、科学的なものなのだ。

 

日本も、この「A判規格」を使おうとしたが、不具合があったらしい。

出版業界では、いろんなサイズの紙が使われてきたらしい。

四六判、菊判、新四六判、菊半截、三五判、四六倍判などである。

雑誌などでは、菊判が主流だったが、A5がそのサイズに近かった。

ところが、書籍の主流だった四六判は、A判規格では対応できなかったらしい。

A判規格を1.5倍すると、四六判が取れそうということで、B判規格をつくった。

縦横比率はそのままに、面積1.5平方メートルがB0(1030mm✖️1456mm)としたのだ。

これだと、B6が四六判に近くなった。

 

そういうことで、二つの規格を使っている。

私は、地図好きであるが、国土地理院の地図のサイズは、A判でもなくB判でもない。

柾判という46cm✖️58cmのサイズで、A判やB判とは縦横比率が違っているようである。

明治時代に、20万分の1地勢図を作ろうとした時に、一枚の地図に一定の緯度経度の範囲を収めようとした事情があるらしい。

ほかにも、紙の世界には和紙独自の規格があるようだ。

もっと調べてみると、おもしろそうである。

無理に規格をひとつに統一せず、いろんな規格を併用してるのは日本らしいと思う。

経済的には、効率的ではなさそうだが、それ以上のものがあるのだろう。

 

 

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今年も桜は咲く

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松ヶ崎城址の桜を見に行った。

早咲きの桜が満開だった。

松ヶ崎城址は、高台の上部には何もなく、芝生になっている。

土塁や空堀の跡が残っていて、説明板も設置されている。

そして、何十本かの桜が植えられている。

いつ来ても、ほとんど人影はない。

昨年も来たのだが、咲き初めだったので、数組の人は歩いていた。

f:id:seiko_udoku:20220318090649j:plain桜が満開なので、人出がすごかった。

この城址で、こんなに人がいるのを見たことがない。

中腹に駐車できるスペースがあるのだが、10台以上駐車していて満車状態だ。

歩いて城址にむかうグループも、次々とやって来る。

公園ではないので、桜を見ながら歩くだけで、シートを広げている人はいない。

 

人間の世界に何があろうとも、桜は毎年咲くのである。

ただ、桜を眺める気持ちの余裕が人間にあるかどうかである。

この十日間くらい、いろいろ考えることが多かった。

 

そろそろ、3.11だから、11年になるのだな、と考えていた。

そうしたら、テレビで「東京大空襲」を取り上げていた。

東京大空襲は知っていたが、東日本大震災の前日の3月10日であったのは知らなかった。

終戦の年昭和20年(1945年)3月10日の夜間の空襲で、死者10万人だったそうだ。

その頃、私の父は東京で母は隣の川崎で働いていた。

義務教育終了後、郷里の秋田から就職していたのだ。

計算すると、父は19歳、母は16歳である。

こんなに若くて、親元離れて生活していたのだな。

それが、たぶんこの大空襲のせいで秋田に帰っている。

もしも、空襲がなくて、秋田に帰ってなかったら、二人が結婚することはなく、私たち姉弟も存在しなかった。

 

戦争を知らない子供たち」という曲がある。

作詞をした北山修さんは、昭和21年生まれで、私は昭和28年生まれである。

「戦争が終わって僕らは生まれた

 戦争を知らずに僕らは育った」

おかげさまで、僕らはいまだに、「戦争を知らずに」生きている。

世界のどこかで、いつも戦火は絶えることがないのに。

私の生まれた昭和28年に、朝鮮戦争が終わっている。

昭和50年、大学生の時に、ベトナム戦争が終わった。

どちらの戦争でも、日本にあるアメリカ軍基地が補給基地だったと思う。

今だったら、日本までミサイルが飛んで来ただろう。

ウクライナで、ヨーロッパやアメリカがおよび腰なのは、それがこわいんだろうな。

 

ロシアのウクライナ侵攻というのは、理解できないことが多い。

国内の問題を解決するために、国外にそれを求めるのだろうか。

プーチンさんの言動を見てると、人はやはり自分を基準にしてしか、相手を見るしかできないのかなと思う。

自分の中にあるものが、ことばとして外に現れる。

ウクライナを、「ナチス」よばわりしている。

ナチス」の正式名称を日本語訳すると、「国家社会主義ドイツ労働者党」であると知った時、けっこう驚いた記憶がある。

ここでの「国家」は、“National”なので、「国民」とか「民族」とかに訳すことも可能らしい。

どのことばを使うかで、印象がまったく違う。

 

現在は、インターネットがあり、スマートフォンの時代である。

みんながカメラマンだし、ジャーナリストで、放送局でもある。

見られたくないものも、しっかり見えるし、見られている。

プーチンさんを見ていると、20世紀というよりも、さらに遡って19世紀くらいの感じがする。

「裸の王様」だとすると、どんな結末になるのだろう。


 

 

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国土地理院と陸軍参謀本部陸地測量部

国土地理院について、ウィキペディアでは「地理空間情報当局」であり「国家地図作成機関」であると記載している。

国土交通省の特別機関である国土地理院本院は、つくば市郊外にある。

茨城県に出かける機会が多かった我が家にとっては、「つくば市」は筑波山笠間市へ行く途中にあった。

本院に隣接して「地図と測量の科学館」があり、子どもたちがまだ小さい頃、何回か行ったことがある。

地図や地理に関する展示がされていて地図好きには楽しめる場所である。

広い敷地内の広場には、日本列島の球体模型や20年以上日本列島の航空写真を撮っていた測量用航空機「くにかぜ」も展示されている。

この施設の近隣には、やはり国土交通省の研究機関である「国土技術政策総合研究所」、「土木研究所」、「建築研究所」などが、緑の中に点在している。

www.gsi.go.jp

 

国土地理院は、戦後昭和20年(1945年)9月1日に発足した内務省地理調査所がその前身となる。

その後、内務省の廃止により、昭和23年(1948年)に建設省地理調査所となっている。

さらに、昭和35年(1960年)に、国土地理院に名称を変更している。

地図好きの私にはなじみの「国土地理院」という名前は、この時に生まれたわけである。

国土地理院の「5万分の1」や「2万5千分1」の地形図は、登山には欠かせないものだった。

昭和54年(1979年)に、つくば市に庁舎を移転し、平成13年(2001年)の運輸省建設省北海道開発庁国土庁の合併による国土交通省の発足により現在に至っている。

 

日本地図といったら、伊能忠敬の全国地図が思い浮かぶ。

ずいぶん前のことになるが、伊能忠敬の大きな地図を幕張の体育館に何十枚も広げて展示するイベントがあって、それを見たことがある。

日本列島の地図を見下ろしながら歩くのは、面白い体験だった。

いつ頃のことだったのか、ネットで調べてみた。

アメリ伊能大図里帰りフロア展 in 幕張メッセ」という2005年の記事が見つかった。

私の記憶だと、幕張メッセではなく、幕張付近の高校の体育館だったような気がするので、これが私が見たものと同じかどうかはわからない。

記事によると、この地図はアメリカの議会図書館に保管されていた148枚で、日本には皇居の火災や関東大震災などにより60枚ほど残されてるだけで、貴重なものだったらしい。

縮尺が3万6千分の1で、1枚が畳1枚くらいの大きさなのだという。

たしかに、これを百枚以上広げようとしたら、体育館ぐらいの広さが必要である。

 

伊能忠敬という人は、50歳で隠居してから、下総佐原から江戸に出て、暦学や天文観測の勉強を始める。

そして、56歳の時に、幕府の許可を得て第一回の測量旅行に出発する。

もともとは、暦学のための天文観測に必要な緯度1度の正確な距離の値を知ることが、当初の目的だったらしい。

第一回の測量旅行は、寛政12年(1800年)、奥州街道から蝦夷地太平洋岸への半年に及ぶ旅行だった。

その後、毎年のように日本全国の測量旅行を行い、71歳の江戸府内が第十回の測量だった。

 

明治維新後、政府内における測地測量は、内務省地理局と陸軍参謀本部測量課によって、二元的に行われた。

明治17年(1884年)、地理行政の整理が行われて、大三角測量業務が参謀本部に移管され、内務省地理局は地誌編纂に縮小された。

参謀本部の地図課・測量課は、測量局と拡張され、明治21年には、「陸地測量部」として本部長直属の独立官庁となる。

それが、終戦まで続き、現在の国土地理院に受け継がれている。

 

このブログでも、何回か取り上げている「フランス式彩色地図」というものがある。

明治初期中期の日本が彩色された地図とスケッチによって、残されている。

陸軍卿山縣有朋の命により、時間と予算に制約のある緊急事業として行われたので、基準点測量をしない迅速測図方式が採用されたので、「迅速測図」とも言われている。 

最近になって、地元の図書館でこの地図がコピーできることを知ったので、コピーしてみた。

日本陸軍が作成し、日本地図センターが復刻したものなので、地図全面のコピーはできないものと思い込んでいたのだが、国土地理院が引き継いで保管していた物なので、国土地理院作成の地図と同様に全面複写可能ということだった。

とりあえず、柏我孫子周辺のシリーズの7枚のセットをコピーした。

そのうちの私の自宅がある地域の地図は次のようなものである。

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地図の標題は、「千葉県下総国東葛飾郡小金開墾地及近傍村落」であり、明治13年10月との記載がある。

右欄外に、樹木と小屋のようなスケッチがあるが、それについての説明はない。

左欄外には、この地図の担当者名がある。

     第四測手 陸軍歩兵少尉 大谷喜久蔵

     第四副手 陸軍工兵伍長 加藤祐吉

となっていて、他の地図を見ると、測手と副手がコンビになっていて、いくつかの地区を担当していたようである。

副手は、場合によっては「測量課雇」となっているものもあり、人手が足りなくてアルバイトもいたのだろうか。

地図自体は、A4サイズくらいのものだが、道路や小道、そして川、住居、神社仏閣、田畑や樹木など、情報量はとてつもなく膨大である。

それを、二人だけでやっていたのだろうか。

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10年ほど前に、「天地明察」という映画を見たことがある。

冲方丁さんの小説を映画化したもので、江戸時代前期の囲碁棋士で天文暦学者であった安井算哲の生涯を描いていた。

主演は岡田准一さんだったが、その中で「北極星の位置を確認する」という幕命による「北極出地隊」に同行していた。

その一行は、幕府の責任者も同行する大がかりなものだった。

伊能忠敬の観測隊も、たぶん同じようなものだっただろう。

それに比べて、明治の「迅速測図」の一行はどんなものだったのだろう。

もしかすると、人夫を雇ったりもしたのかもしれないが、少人数だったろう。

関東ののどかな農村を、何日もかけて歩いていたのだろうな。

そんな映画も、観たいものだな。

誰か作らないかな。

 

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あきたのかりね③ 菅江真澄テキスト

二十日 空ことなし。

比日羽黒山東田川郡羽黒町)にまうでんとて、やを出て、やがて梵字川のへたをつたふ。

此みなかみは月の山の雪消の水、湯殿山のしたゝりといふ。

赤河といへるを舟にて渡り、三橋(東田川郡羽黒町)といふところに来けり。

三ところに、ちいさきはしを渡したれば、しかいへり。

 

   行駒のあし音ふたつ三はしの短きほどもかつしられぬる

 

ととなへ捨て、荒川、神路箇阪をへて手向の町といふに入ぬ。

中の阪、赤阪、念仏堂に至る。

こゝなるふる墳の石に藤原氏と記して、元応二(一三二○)年とかいたりけるは、いかなる人のと、なみだこぼれね。

八日町にながれたるは滑川とて、ゆへなる流と人のいへり。

いかめしきやに松の聖にあたるといふ高札をさしたり。

けふより百日の日、いみじきいもゐ(精進)に帯もはなたずまろねして、除夜の宵に大祭りとてかんわざありけるに、とちいだちてけるうばそくなりけり。

やのうちには酒さかなとゝのへて、あるじしたり。御神馬と礼たてたるは、いかなる馬のありてかとさしのぞけば、大なる黒牛のつのふりたてて、うゝとうめく。

こは馬をいみたるにやあらんか。

此かたを画にかきて家毎におしたるは、あし手、火にやかぬまじなひ也とぞ。

ある人比辺に大僧正行尊の塚ありけるよしいへば、此あないにとへど、われとし老たれど、いづこともしらじ。

むかしゑやみはやりて、山も麓も人みな比やまひにおかされふしなやみたるを、行尊大徳、桃の実をとりて水にうち入て加持し、人々にのませ給へば、みなあたゝかさたちまち去て、いえたりと聞伝へ侍る。

桃清氷とて今にながれたり。行尊つゐに、此山にてをはりをとり給へりとぞ。

其塚はいづことしらねど、路のかたはらの木にかいつけぬ。

 

   世に匂ふ花の言の葉残りてもありとやこゝにとへる人なき

 

あない、何記し給ひしぞ、こと国の人は、かく落書のみし給ふとわらふ。

二王門に入ぬ。

まゝ子阪といふところあり、むかし継子捨たるところ。

下居宮、閼加の井、祓川をはしより渡れば、岩のうへに倶利伽羅不動尊のたゝせ給ふあなたに、あまたのこずゑ紅葉たる中より落滝(おちたき)つながるゝは、錦にかゝる糸すぢにひとし。

比水に口そゝぎて、

 

   かきつもる心のちりをはらひ河早瀬にたぐふ峰の松かぜ

 

杉のむら立る中に五重の浮図(塔)あり。

軍茶利明王、又炒見ぼさちのおましますは、承平の頃、平将門の建給ふたると聞えぬ。

一の阪の左に石あり、燈明石といひて、夜毎に火をのづからともるといひ、又水石とで山お

くにありけるよりは、水したゝりながるゝといひ、是を羽黒山のニツ石と人ごとにたふとみたり。

むかしよりいひ伝ふ歌に、

「相おもふこゝろをとはゞふた石の枴(おうご)も絶んながの契は」

二の阪をあぶらこぼしといふ。

たけくらべの杉、伊弉諾山、若一王寺とよぶは、伊弉諾、伊弉冊の二はしらの尊を、あがめ奉るところ也。

いざなぎ石とて大なるいはほを、ふたつにやぶりて生ひ出たる桜あり、花いとよきよしをいふ。

名を石わりざくらとよぶ。

西行戻といふところあり、いかゞしてかもどり来給ひしやらんと、あないの翁ほゝゑみたり。

児堂といふあり、こはみちのおく(陸奥信夫郡藤崎庄、たれといふ人の子藤松丸とて、母にをくれて比羽黒山にのぼりて、すけせんとて来りしを、このちごのかたち世になうきよらなりければ、あまたの僧侶けそうし恋したひて、かなたこなたにつれ行、われが心になぴけ、かれにしたがへとあらそひひこしろひて、はては此子をむなしくなしぬ。

其ためかゝる堂建てとあととぶらひしといひつたへき。

又刀笈捜といふうたひ物には、まゝ母に捨られしと作たりと人のかたりぬ。

やゝのぼりえて御前にぬさとり奉る。

玉依姫、伯禽州(姫命(玉依り姫御子也)稲倉魂神、倉稲魂命なりとも申奉る。又稲倉魂神うへならんとか、世に羽黒権現と唱へ奉る。

月の山は月読尊をあがめまつり奉なり。

湯殿山にまつり奉るは大山祗命、又は大巳貴命、あるは彦火々出見尊とも聞えたり。

木々生ひ重るなかより、遠方の海つらに八乙女の浦、こなたに、こがねの峰見えたり。

こは、みよしのゝかねのみたけをうつして、蔵王ごんげんをあがめまつれり。

この山の巌みな、こがねのいろしたるゆへ、山の名もしか金峯と聞えたり。

恋の山といふも、こゝをさしていふといへば、

 

   こへ行かばたもとやくちん恋の山分そめしよりぬるゝ習に

 

月の山に雪つもりたるを見て、

 

   ひるも猶俤けたて月よみの光をそれとみねのしら雪

 

あないの翁、念仏車とて、柱になもあみだぶとかいたる車ひたにうちめぐらしけるを、いざ、みちいそがん、日もくれなんといへば、わかぜ〔わかき男わかぜといひ、わかき女をめらしといへり〕ならねば、いきぐるし。

よし暮たりとも山鬼はおらじ〔狼を海鬼といひ、これにたぐえたる山犬といふなるを、やま鬼と里人のいへり〕いましばしやすらひ給へと、岩つらにしりうたげしたり。

からすの、ねどころへ行とてむら/\と過たるを、

 

   ねぐらとふ麓の里のむらがらすをのが羽黒の山に暮行

 

松の聖の二人、あまときんといふものを着て、しろき袴に金剛杖をつきて、うばそく、志羅(素人)あまたしたがひて、貝ふき、ねんず(念珠)ならして、天宥別当曼陀羅ゑりてかけ渡し給ひし、念仏橋といふ石橋をねり行たり。

夕ぐれちかく文珠坊にやどかる。

あるじうばそく、むかし、あが家に、はせを翁一夜とまりけるとて残りたる短冊、近きころうせたりなどかたりぬ。

この山のふるき宝をとへば、むかし世中のさはがしかりける頃、むさしぼう弁慶、よしつね、政所坊がやに、もゝか(百日)あまりかくろひとゞまり給ひて、むさし坊の手にて、ほくゑきやう(法華経)あみだ経かい残しける。

其の笈一ツあり。

はた、くさ/\゛のものるがなか、べんけいの糟鍋とて持つたへたるもあやしといへり。

又いつの頃にかはじめけん、黒川邑(東田川郡櫛引村)のたみ、む月のはじめには、としごとに、さるがう(申楽)舞侍るはめでたしとかたりぬ。

 

 

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IMEパッドのユーザー辞書を活用することに気がついた

菅江真澄の文章を、テキスト入力している。

OCR処理したテキストの認識誤りの部分を訂正していく。

たまには、ひらがなやカタカナの誤りもあるが、ほとんどは漢字、特に画数の多い複雑な漢字である。

それを、IMEパッドを使って、目的の漢字を探して正しい漢字を入力する。

どこかで使われていた漢字が、再度出てきたら、また同じことを繰り返す。

手描きで認識する方法は、なかなかむずかしくて、なかなか探し出せない。

部首や画数から、探す方法もあるが、これは一覧に出てくる漢字が多すぎるし、デスプレイの表示では細部がよく見えず、漢字の判別がむずかしい。

 

こんなことをやっていて、今頃になって気がついた。

苦労して探した漢字を、IMEパッドに単語登録すれば、繰り返して使うことができる。

IMEパッドというのは、ウィンドウズ付属のツールであるが、その機能である単語登録では、単語、読み、品詞を登録すれば、優先的に変換候補になるようである。

テキストで一覧表にすれば、まとめての一括登録もできるようだ。

単語というのは、100字くらいまでの文章でもよくて、読みは1字でも可能のようだ。

使い方によっては、入力の手間を格段に減らすことができる。

 

私は、今までこの単語登録を使ったことがない。

しかし、かつて勤めていてPCを使っていた頃に、よく使うことばを登録すれば楽なんじゃないかな、と考えていたことを思い出した。

単語登録というのは知っていたが、実際にはやってなかった。

たとえば、組織や会社などの正式名称や住所などの長い文字数のものである。

「ひ」という読みで、「柏市立図書館光ヶ丘分館」という単語を登録すれば、「ひ」という1文字の入力で、「柏市立図書館光ヶ丘分館」と11文字の名称に変換できる。

 

スマホで、メールの入力などをしていると、入力予測という機能がはたらく。

1文字入力しただけで、今までの入力した履歴から予測される言葉が表示される。

そのリストから選択すると、次の予測リストが表示される。

それを、繰り返していると、それだけで入力が終わってしまったりする。

入力の内容が、決まりきったものだったら、入力はわずかなものである。

 

この「入力予測」という機能は、私が20年近く前に、PDAのクリエを使っていた頃に、「PoBox」というアプリがあってそれが「入力予測」の最初のアプリだったと思う。

今は、各社からさまざまなアプリが出ているようだ。

ケータイやスマホが、ここまで爆発的に普及したのは、このアプリのおかげなのではないだろうか。

文章のすべてを、いちいち入力しなければならなかったら、ここまでみんなが使おうとはしなかっただろう。

 

ここで、菅江真澄に戻るが、彼は200年ほど前江戸時代後期の人である。

真澄の文章には、とてもむずかしい漢字が多く使われている。

彼の文章は、他の人に読んでもらうために書いたものだと思われるので、ことさらにむずかしい漢字を使ったのではないと思う。

江戸時代の知識人が、身につけている漢字の教養が、そこに現れているのだろう。

現代の日本人が使っている漢字は、教育漢字1026字、当用漢字2136字である。

でも、戦前から戦後にかけて日本で刊行された「大漢和辞典」には、50306字収録されているそうだ。

中華民国で刊行された「字典」では、10万字を越えているらしい。

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菅江真澄全集の本文では、漢字のわきにカタカナで振り仮名があったりする。

振り仮名は、フォントが小さいので、濁点「゛」か半濁点「゜」かわからない。

私は、ど近眼なので、だいたいは目を近づければ小さな文字でも見ることができるが、それでも限界がある。

もちろん、その場合はメガネをはずす。

それでもだめなら、スマホのカメラで、拡大撮影して、確認しているのが現状である。

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いつもながら、思うこと。

著作権が切れているような古典は国の財産なのだから、電子テキスト化を国がやらないのかな。

 

 

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伯爵と公爵、そして騎士

車のカーステレオで、カウント・ベイシーのCDをかけていた。

図書館で借りてきたCDである。

音楽を聴き始めた頃、カウント・ベイシー"Count Basie"はすでにジャズの世界の大御所だった。

そのわりに、ちゃんと聴いたことがない。

曲名を見ても、ほとんど知ってる曲がない。

やっと「ハニーサックル・ローズ」があって、これは知ってるな。

聴きながら、同乗していたやはり音楽好きな息子に、講釈する。

「カウント」は、「伯爵」のことだけど、もっとえらい「公爵」もいて、デューク・エリントンDuke Ellington"だよ。

どちらも、あだ名らしいけど。

そしたら、そのデューク・エリントンも借りてきて、と言われた。

 

後日、デューク・エリントンのベストアルバムを借りてきた。

デューク・エリントンは、やっぱり「A列車で行こう」である。

「キャラヴァン」とか、何曲かは聴いた記憶があった。

ついでに、クインシー・ジョーンズQuincy Jones"も借りてきたので、かけてみた。

ティービーワンダーのサウンドみたいだな、と息子が言う。

カウント・ベイシーデューク・エリントンも私の世代よりもかなり前の人であるが、クインシー・ジョーンズは、たしかに、その頃に活躍していた。

マイケル・ジャクソンをプロデュースして、"Thriller"などをやってるので、印象に強く残っている。

先の二人とは、時代もジャンルも違っている。

クインシーという名前も、クイーンとは関係なさそうだ。

 

そういえば、ビートルズを知ったころ、エリザベス女王から勲章を貰ったとかいって、話題になっていた。

あれは、「騎士」の勲章だったのかと思って、調べてみた。

ビートルズが貰ったのは、「騎士団勲章」という5ランクあるうちの、5番目のランクの「メンバー」(団員)というものだったらしい。

「騎士」と名がつくのは、1番目の「大十字騎士」と2番目の「司令官騎士」だけらしい。

そして、1965年のことなので来日する前年であり、私は小学校6年生だった。

当時のビートルズのメンバーの年齢は、ジョージ22歳、ポール23歳、リンゴとジョンが25歳だったというから、それだけでもニュースだったのだろう。

私でも知ってるような、ニュースだったのだ。

でも、ジョンは何年か後に、勲章を返したんだな。

そのかわり、長生きしたリンゴとポールは、ナイトの称号を授与されている。

 

侯爵と伯爵のことを話したときに、「こうこうはくしだん」という、貴族の爵位の覚え方を思い出したので、そのことを話したら、息子も知っていた。

そうか、知っているのか。

「こう こう はく し だん」は、「公爵 侯爵 伯爵 子爵 男爵」という爵位の順番である。

教科書には載ってないと思うので、何がきっかけだったのか、興味を持って調べたのだろう。

日本の貴族制度であった「華族」は、戦後昭和22年に廃止されている。

日本には、皇族はあるけれど、華族はなくなっている。

イギリスには、王室があって貴族がいて、国会に貴族院があるのは社会科で習った気がする。

ヨーロッパには、王様がいて王室のある国がいくつかあったと思う。

その国々には、イギリスのように貴族が残っているのだろうか。

 

日本の華族制度は、明治維新によってその地位を失った大名たちのために、ヨーロッパの貴族制度を手本に作ったのだろう。

その名称については、例によって中国の古典を参考にしたらしい。

夏・周時代の諸侯の階級として、「礼記」の「王制」に、「子は公侯伯子男也」とある。

日本では、何かあると中国の古典を引っ張り出す。

「令和」という元号は、日本の古典だったかな。

イギリスが、階級社会と言われるのは、こういう世襲制のものがいまだに残っているからだろうな。

世の中の流れからしたら、とっくに無くなっていたはずのものだろう。

 

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古地図を探して西部図書館に行く

久しぶりに、県立の西部図書館まで歩いた。

このブログでも何回か書いた「フランス式彩色地図」が、蔵書として所蔵されてないかなと思ったのだ。

これは、関東地方について2万分の1の縮尺で、明治初期に921枚が日本陸軍によって作成された。

明治19年(1886年)に完成しているので、130年以上前の状況を知ることができる。

すべてが、測量者の手描きで彩色されているのが、特徴である。

地図によっては、地図の欄外に樹木、神社、寺院などがスケッチされている。

この地図が、平成8年に復刻されたので、私の住んでる近隣の図書館では地域についての復刻地図は所蔵しているようである。

柏市立図書館と我孫子市立図書館では、「フランス式彩色地図」が閲覧できるようになっていたので、何回か閲覧したことがある。

地図の収納引き出しにあって、誰でも自由に見ることができる。

鎌ヶ谷市立図書館にも行ったことがあるが、ここで所蔵していたのは色付きの彩色ではなく、白黒の復刻で、大判で折りたたんでいて箱に収納されていた。

たぶん、「迅速地図」といわれてるものかもしれない。

しかも、閲覧するには申請書を提出して、書庫から出してもらわなければならなかった。

 

今回、西武図書館に来たのは、この地図を見るのが目的だった。

千葉県立の図書館ならば、千葉県全域の復刻地図があるのではないかと考えたからである。

柏も我孫子も、所蔵してある地図はそれぞれの市域を含む地図だったからである。

「フランス式彩色地図」は、関東の中心部について合計821枚の地図が、2万分の1の縮尺で作られている。

復刻した地図は、国土地理院の外郭団体である「日本地図センター」が販売している。

区域ごとに6枚か7枚の地図をセットにしていて、千葉県分は7セット43枚ほどである。

関東の中心部ということで、千葉県は私の住む東葛飾と市川、船橋千葉市の周辺くらいしか作成されていない。

それにしても、関東地方の東部、千葉県と茨城県の大部分が除外されているのは、なぜだろうか。

自分の行動範囲くらいの地図は欲しいなと思って、調べて見たのだが、一枚一枚のバラ売りもしているが、肝心の欲しい地域のが売れきれていた。

セットで買ってしまうと、欲しい範囲以外もあるので枚数が多くなってしまう。

現在の国土地理院の地図だと、2万5千分の1縮尺だが大判であり、比較的小判で2万分の1の復刻地図はかなり割高である。

そこで、いつも購入を躊躇してしまう。

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フランス式彩色地図が作成された地域

フロアの半分が図書棚で、半分が閲覧机のためのスペースになっている。

ひと回りしてみたが、地図のための収容棚らしいものはみあたらなかった。

住宅地図の棚はあった。

地理の書棚に、各都道府県の道路地図帳もあった。

しかし、「フランス式彩色地図」や「迅速地図」らしいものはなかった。

受付カウンターに行って、聞いてみた。

司書の方の話では、明治時代の地図は、西部図書館にはなく、千葉市の本館にあるとのことだった。

それも、彩色地図ではなく、白黒の大判地図らしかった。

取り寄せできますよ、といわれたけど、それなら取り寄せるまでもない。

 

目的のものはなかったので、全国の道路地図から青森県秋田県を開いてみた。

それから、地名事典の秋田県版を少し読んでみた。

全国を網羅した地名事典の類いは、角川書店平凡社から発行されている。

それぞれ、方向性の異なるものになっている。

角川書店は、「角川日本地図地名事典」で、地名はあいうえお順に収録されていて、版は小さめで、分厚く、いかにも事典という体裁である。

これに対して、平凡社のものは「日本歴史地名体系」で、版が大きめで、市町村ごとに順に地名が収録されており、書籍という感じの作りである。

こういうものは、ゆっくり眺めたいのだが、貸し出しはできず閲覧のみなので、図書館に通うしかない。

 

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フランス式彩色地図 130年前の自宅周辺

帰ってから、「歴史的農業環境システム」のサイトを見た。

habs.rad.naro.go.jp

130年前の地図が見られるもので、久しぶりである。

自宅の近くを見ると、集落名の「中新宿」という名称と、神社の鳥居マーク、そして住居と思われる四角のしるしが見える。

建物の一つ一つを確認して、記載したのだろう。

それを考えると、なんとすごい記録なのだろうと思う。

ここに残されているものを、見ていることでその頃の風景が浮かんでくる。

道は、なんらかの形で今も残っているような気がする。

 

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ワクチン接種3回目を終える

コロナのワクチン接種の3回目に行ってきた。

私の住んでる街では、やっと2月から始まったようだ。

接種券がやっと届いたので、さっそく近所の病院に申し込みの電話をした。

いっしょに届いた対象医療機関の一覧表に、ワクチン接種専用回線の番号が載っていた。

ところが、話し中でなかなか繋がらない。

市役所でやっている集団接種は、ウェブでの申し込みができるようだが、私は1回目2回目とも、近所の病院だったのでそこで受けることにした。

電話は、ワクチン接種の専用回線であるが、なかなか繋がらない。

1日目は、それで終わってしまった。

翌日、妻が何回かかけてくれたら、3、4回目でつながった。

最も近い日だと、1人だけなら、日曜日の2時ですとのことだった。

きっと、2、3週間後だろうと思っていたら、なんと3日後である。

もしかすると、キャンセルでもあったのかも知れない。

 

そういうわけで、我が家で最初に3回目のワクチン接種に行ってきた。

診察の無い日だったので、待合室は接種の予約客でいっぱいだった。

予約時間は、30分ごとになっていて、順に受付をしていた。

私は、午後2時のグループだったが、36、7番まで番号札が用意してあるようだった。

午後は、1時30分から始まったようだったが、午前の部もあるようなので、1日で300人とか400人とかやったのだろうか。

私のグループは、2時から始まって、21番だった私は2時11分に接種した。

手際がいいので、あっという間に終わった。

接種後、15分間は待合室で、体調変化がないか待機するようにとのことだった。

私の場合、前回同様特に体調変化がなかったので、2時半ごろに病院を出た。

徒歩3、4分の病院なので、家を出て1時間も経っていなかった。

 

自宅に帰ってから、ワクチンの接種状況をウェブで確認した。

3回目の接種状況は、17%くらいになっていた。

たしか、1ヶ月くらい前に見た時には、0.3%とかそんな感じだった気がする。

日本の場合、準備には時間がかかるけど、やり始めると早いのだな。

1日100万人でも、3ヶ月以上はかかることになる。

news.yahoo.co.jp

 

世界のコロナ感染状況が、一覧になっている「コロナボード」というサイトがある。

世界各国の感染者数、死亡者数、回復者数などが毎日データ更新されている。

これを見ていると、これらの数字が必ずしも、人口や国土の大小、経済状態や衛生状況の水準だけによっているのではないように思える。

これらに、他国との人的交流などの要素が複雑に絡み合っているのだろう。

このサイトによると、現在世界の感染者の総数は約44億人である。

いや、桁が間違ってる4億4千万人かな。

世界人口は、79億人というところらしい。

死者は、598万人なので、600万人目前である。

100年前の「スペインかぜ」では、当時の世界人口約20億人のうち約3分の1が感染し、死者は推定ではあるが5000万人から1億人であり、桁が違っている。

この差は、医療の発達や、情報伝達の充実によるのだろうか。

それにしても、ウイルスが完全に地上から消えるとは思えないので、この先ずっと共存していかなければならないのだろうな。

地球は、運命共同体なのだな。

coronaboard.com

 

 

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