晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

いなのなかみち⑩ 菅江真澄テキスト

十一日 塩尻のうまやに近う、阿礼ノ神社のありけるに、けふなんまうでんとて、ひるつかたまうでしかば、かうがうしく御籬の狗のむくつけげに、すさまじう冬のけしきたつ風に、あられいざなはれて、みてぐらの社の軒うつ音、杉の青葉にこぼれかゝりて、にぎてはらはらと音せり。

 

   霜やたびおけどもさらに杉の葉の色もかはらであれのみやしろ

 

   奉るぬさとちりにし栬葉のつもればやがてはらふ山かぜ

 

潮尻のあなたに、以の字山といふいたゞきも見えず、雲のいたくかゝりて、くらかりければ、はつ雪やふりこんといふ。

 

   伊の字山みねも麓もかきくれてかゝれる雲や雪気なるらん

 

十二日 山の紅葉さかりにそめたるを、ひとり、ふたりして見にゆきしかば、幽なる山中にをのうつ音して、又うち枝などあまたとりて、おひ出たる翁あり。

 

   柴人はおしむ心のいろもなくつま木に手折みねのもみぢ葉

 

十三日 紅葉がりありくに、ほうし車をとどめてと、からうたのこゝろばへをいひて、これなんみほとけに奉らばやとて、いとよくもみづる、はぢ、かへでなど、折かへる法の師にかはりて、

 

   からにしき一むらおらんきさらぎの花よりも猶峰のもみぢ葉

 

十四日 夜辺、長興寺の前なる杉むらを行ほどに、そら冷しく風吹おこり、さと、うちしぐるゝ音すれど、もりもこざりければあふぎて、

 

   行ほどは袖こそぬれね小夜しぐれ一村風に杉の下路

 

十五日 蘆の田とていと近き村にある寺の、糸桜とて世にめでたき木の、このごろの風に吹折しなど人のかたるに、

 

   山かぜのつらくも折しいと桜くるとも春のおもひたえなん

 

廿一日 砂田〔いさごたとよみて式内の御神なり〕のかん社は松本のほとりに在り。

此日御柱のがんわざありけるに、まうでんとていづる。

このをこなひは諏訪のみやしろをはじめ奉り、いづれのかん社にても七とせにひとたび、卯日、酉日にさだめたるかんわざにして、こと国に聞えぬためし也とか。

けふは卯の日にひとりて、此三宮〔砂田の社を、さんの宮といふ〕の御柱は立ける也。

行みちの木草は夜な夜なの霜にくち、ちりのこりたる柞原、山かぜにむらむらと吹いざなはれて、みちふりかくせど、こゝらまうづる人のむれ行をあないに分れば、つかりにたぐふ名の小河ありければ、たはれたる例のながめを、

 

   しがらみにかけつながれてくさり河うかぶ木の葉にさび渡ぬる

 

雪のふりつもりたるたかねに、雲のきほひか\りたるやま〆ヽ時雨央て、はれみはれずみ、ふきもてゆく空に虹の引わたるかたは、とりはなちがだけとて、つねに鶏のすめればしかいへど、まことの名は有明山といふとなん。

このたけもやがて時雨ぬべう見えたるこそ、

「かたしきの衣手寒く時雨つゝ有明山にかゝるしらくも」

と、後鳥羽院の御ながめに聞え給ひ、

「科野なる有明山を西に見てこゝろ細野の路を行かな」

とは、面行法師のながめありけりなど人のかたり行に、返しとへば、其山の麓、細野てふ村より来りけるものとこたふ。

やをらひろ前にいづれば、かの、おし立る柱のたけは五丈七尺にたれるに、大綱、小つな西ところに付て、其綱どもを高き木のうれごとにひきかけて、引あげんもふけをしたり。

まづ此木を伐らんとて七とせのさきつとしより願ひかねとて、釘、がすがびやうのものをうちおきて、みはしらの料とさだめて、杣やまかづらもをのうちもらし、こたびぞ伐て太山をば曳いだしける。

がくてそなへ奉るに、たくみひとり出て、てをのところ/\"にほと/\とあてて、うちきよめてさりぬ。

かしこの木のまたには、あなゝゐたかくゆひあげて、男ふたり、みたり、紅のたのごひをよこはちまきとし、さいはひふり、ほうしとり、この声をはかりつゞみにあはし、綱よつながらあまたしてひけば、したよりは、さすてふものしてさゝげあぐるに、さえわたるかんな月の空に、身にあせしておしたつるを、見る人、そのむかしは、ひくつなきれて人あまた身をあやまち、身まがれるもありたりし。

木の枝やさけん綱やきれなん、いざあなたにうつりいなんと、ことかたにひきはなれむれたつを見て、いな、さることはつゆあらじ。

いちのつなには神ののりておましませば、身のさうじよからぬ人こそしらね、うちとのきよらなるこゝろしては、いさゝかのとがめあらんかはとて、みしろぎもせで、ひとり御柱のよこたふしたにふりあふぎたるは、しれものかなと人ごとにゆびさし、男女、をざなき童をかゝへて、とくにげさりて、こと処に集ふ。

ほどなうおし立てければ、又ひとつの柱もひきあげて、みつながら、ゆめことなうたてたるとき、みなしぞきてけり。

かくて神のみまへに、

 

   うなひめがひろふ落穂も山となる栄を祈れいさごだのみや

 

をちのみやとて神の御座ありけるに、松の植しを児て戯歌。

 

   ちよかけてはぐゝみ給へをちのみや植し小松のをひさきも見ん

 

こよひは和田といふ村にやどかりぬ。

やのぬしのいはく、こたびのおんはしらは、よつながら、ことなうたちぬ。

あるとしの御柱は人あやまち侍るゆへ、こんとしにて七とせにあたれど、これをことしぞし侍るは、さるためしよからねば也と、かたらひて更ぬ。夜とともに林のおち葉、霰うちまじり、板ひさしうつ音、風とく、木の枝もをれぬベう聞えたる音に、ねざめしてきけば、あられいよゝをやみもやらぬに、

 

   山かぜのあられさそへばたまくらの夢もくだけて明ぬこの夜は

 

つとめてこゝをいづるに、水代といふ村の河辺のみちを行に、

 

   うすらひのしたをくゞりて水しろの河瀬の浪の行なやみぬる

 

雪ふり来て、さしてん行末も見えず、道もまどひつべし。

 

   かれ/\゛にあるかなきかのみち芝の色もかくろふ今朝のはつ雪

 

霜ふり月朔日 永通がやのちか隣に、けさの雪のながめせんとて、人々まどゐしけるときけど、ここちそこなひて、えしもいかで、ふしながらいひやる。

 

   あとつけて見まくぞほしきあしがきのあなたにつもる雪のことの葉

 

二日の旦 甲斐、信濃のあはびにありける八箇嶽とて、雪いとしろう見やらるゝをかぞへ立て、戯れうた。

 

   雪つもるたかねはいくつ八がだけこゝに見やるもとをきさかひに

 

四日 あさとく、田づらのみちに在りて、

 

   苅あげしおくてのくちねうすらひのとづるおちぼにつもるあざじも

 

十二月十日 よねつかん料に、車やをいとなみつくりけるを見つゝ、ながめたり。

 

   山河の音はさゆれどいとまなみ水車井の露もこほらぬ

 

十五日 雪いたくふりたりけるあした、ほどちかき、あしの田村なる、わかみや八幡のおほん神にまうでぬ。

このおほん神は、石の雄元をひめて、かくなんまつりたてまつると人のいへば、をはしかたてふことを句ごとのかしらにおきて、

 

   おましさへはつかに埋むしら雪はかみのみまへのたむけなるらん

 

 

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利根川サイクリングコース

毎日、いい天気が続いている。久しぶりに、自転車の出番だ。

江戸川の土手のサイクリングコースは、両岸とも完全につながっている。

ところが、利根川はところどころで途切れたり、砂利道になってる所があるらしい。

今までのところ、利根川のサイクリングコースで走ったのは、布佐から印旛郡栄町の長豊橋までである。手賀沼から手賀川に沿って利根川に注ぐ布佐まで行って、そこで利根川の土手に出ていた。

どうも、利根川サイクリングコースは、野田市柏市の境である利根運河のあたり、柏市我孫子市の境のあたりで途切れているらしい。地図を見ても確かに繋がっていない。

どうして、こんなことになるのだろう。

 

利根川下流を今まで走ったので、上流の方も走ってみようと思う。上流といっても、柏より上流ということで。

江戸川の土手は、自宅から自転車で30分くらい走れば、流山橋に着ける。

利根川の土手は、地図を見てもかなり遠い。

大利根橋のあたりが行きやすそうである。

そこで、とりあえず利根川の土手に着くことを目的に出かけることにした。

 

自宅を出発して、新柏駅を過ぎ、柏レイソル柏サッカー場の交差点で、国道16号線方向に右折する。

国道16号を渡ったら、柏ふるさと公園で、大堀川を渡る。

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大堀川

右手に、手賀沼が見えてくる。

さらに進んでいくと、手賀沼がすぐ近くに見える。

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手賀沼が見える

交差点で左折し、国道6号線方向に北上する。

国道6号を渡り、布施弁天への追分の交差点で住宅街の道を進む。

先日調べた布施城跡にあるという葬祭場を通って土手に出ることにする。

進んでると、高校生の一団とすれ違う。

葬祭場に隣接する県立高校の生徒らしいので、方向はまちがいない。

坂を下ると、高校のグランドと葬祭場の建物が見えて来る。

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視界が開けて、茨城県が見える。遠くに、筑波山がある。

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手前には、利根川の土手が二重にあり、その間に農地がある。

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保育園児もお散歩してた

利根川の堤防は、二重に築かれている。第一の堤防が、本来の堤防であり、川があり、河川敷があり、そして堤防がある。かつては、その外側に農地があり、集落があったと思われる。

しかし、その後第二の堤防が築かれている。たぶん、長年の洪水との戦いの結果だと思う。

第一の堤防と第二の堤防は、数百メートル離れている。その間には、農地はあるが、住宅はなかった。

第二の堤防を築いた時に、住宅や集落は第二の堤防の外側に移転したのだろう。

かつての集落であったろう跡地があった。周囲より1メートルほど高くなっており、石垣で囲まれていた。

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集落の跡地の中央には道路が通っていて、多くの樹木が植えられていた。井戸と思われるものもあった。

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放棄された集落跡

第二堤防の上に登ってみると、利根川の流れがあり、その向こうは茨城県である。筑波山もよく見える。

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堤防の上はサイクリングコースになっている。

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大利根橋の方向へ走ってみた。橋の下を潜って再び堤防の上へ出ると、すぐに舗装は終わって、砂利道になった。自転車で走るのは、危険である。

ここから、我孫子市方面には、サイクリングコースはつながっていない。

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反対の野田市方向は次回走ってみようと思う。

サイクリングコースは、利根運河方向には続いているが、野田市方向とは繋がっていないようだ。利根運河につながっているということは、江戸川のサイクリングコースに出られることになる。

そうすれば、この利根川サイクリングコース、利根運河サイクリングコース、江戸川サイクリングコースと乗りついで、ぐるっと回ることができるかもしれない。

 

大利根橋からは、布施弁天はすぐ近くである。せっかくなので、お参りして帰ることにしよう。

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プラモデルを作っていた頃

孫娘が、プレゼントでもらったラジコンカーで遊んでいた。

車体は、チョロQを何倍かにしたような感じなのだが、機能は今どきのものなのでなかなかすごい。

まず、スピードが速い、その場で回転できる。

バッテリーは、USB充電で、25分間動く。

障害物回避モードは、ルンバのように何かにぶつかりそうになると方向を変える。

パストラックモードは、黒いペンで描いたコースをたどって走る。特別なコースはいらない。

フォローモードは、色付きのものを追いかける。白いビニールボールが付属でついていたが、薄い色なら他の色のものでもいいようだ。

制御距離20メートルとなってるので、大人でも楽しめそうだ。

 

考えてみたら、私の子ども時代、50年、60年前にも似たようなものはあった。

もっとアナログだったけど。

私の小学生時代は、昭和だと30年代後半、西暦だと1960年代前半くらいだ。

言ってみれば、有線リモコンかな。無線もあったが高価で子どものおもちゃではなかった。

レーシングカーというのが、あったな。

8の字の2台用のレースコースがあって、コースに付属したコントローラで操作する。

電源は、コースに沿って配線されたレールから取る。

街のデパートへ行くと、大きなコースで走らせることができる。

探せば、今でもコースはあるんじゃないかな。

テレビで、見たような気がする。

 

飛行機だと、Uコンというのがあった。

飛行機の翼にワイヤーがついていて、Uの字型のコントローラにつながっている。

飛行機のプロペラが回転するので、コントローラを振り回して飛行機を飛ばす。

なんとも、アナログな世界である。

 

とはいうものの、このようなものは私にとってはあこがれだった。

実際に、遊んだことはない。

いなかの子どものおもちゃとしては高価すぎた。

テレビのコマーシャルや少年サンディーの広告で見ていた。

身近にも、持ってるやつはいなかった。

 

私が、やっていたのはプラモデルを作ることだった。

その頃の男の子に人気だったのは、戦闘機や戦艦だった。

戦闘機だったら、ゼロ戦や隼、疾風、紫電改、飛燕。

グラマンとかメッサーシュミット、という名前も覚えている。

戦艦だったら、誰でも知ってる大和や武蔵。

デパート主催のプラモデルのコンテストかなんかで入選して、賞品にプラモデルをもらった記憶がある。

 

以前にもこのブログに書いたけど、この頃の時代って不思議だと思う。

終戦後十数年しか経っていなかったのに、少年漫画雑誌は、戦争漫画がいっぱいだった。

しかも、舞台は太平洋戦争である。

子どもだった私は、ただ面白くて読んでいたけど、出版社や漫画家たちはどうだったんだろう。世の中は、これをどういうふうに見ていたのだろう。

ちばてつやさんや、そうそうたる漫画家たちがそういう作品を描いていた。

この時代は、いったいなんだったのか知りたいなと、ずっと思っていた。

でも、そういう文章に出会ったことがない。

そういうことを言っているのを聞いたこともない。

 

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柏市の城跡

この数ヶ月で、根木内城址(松戸市)、前ヶ崎城址(流山市)、小金城址(松戸市)を訪ねた。

私は、柏市に住んでいるのだが、流山市松戸市の境界に近いところである。

流山市は徒歩で10分ほど、松戸市は徒歩で20分くらいで行くことが出来る。

私の住む東葛飾には、多くの城跡があるが、ほとんどは平山城といわれるものである。平野にある山や丘陵に築城されたものである。自然の地形を生かして、空堀や土塁を廻らしている。

もちろん、建物は残ってないし、石垣などもほとんどない。想像力を働かせなければならない。

平山城は、戦国時代末期に現れたらしい。それ以前は、もっと険阻な山に築城した山城だった。

山城には、何ヵ所か行ったことがあるが、高い山自体が城になっているので、下を見下ろす感じで、すごい迫力のあるものである。

 

次に訪ねたい城跡を、探してみようと思い、歩いて行けそうな城跡を見ていた。

柏市内(沼南町と合併前)の城館跡は次のとおりである。

増尾城跡 幸谷城(館)跡 戸張城跡 戸張用替城跡 高田城跡 松ヶ崎城跡 布施城跡 大室城跡 猪ノ山城跡

 

増尾城跡は、城址公園として保存されているので何回か行ったことがある。駐車場もあるので便利である。

距離を調べたら思ったより近い。歩いても、1時間かからないで行けそうだ。

増尾城址公園は、総合公園になっていて、城址部分はほとんどそのまま残っていて、さらにそれ以上の広さの森がアスレチックやキャンプ場として整備されている。

とても、気持ちいいところである。

 

幸谷城跡の幸谷という地名は知らなかったのだが、増尾城跡から500メートルほどのところにあるようだ。山林の中に土塁や空堀の痕跡は残っているらしい。

見ることができるのかなあ。

戦国時代以前の居館であっただろう、というのが専門家の見解らしい。

増尾城址も幸谷城館跡はも、近くを大津川の支流が流れている。

 

戸張城跡と戸張替城跡は、以前に妻と散歩で近くまで行ったことがある。

近くに、高校や大学のキャンパスがあり、かつては手賀沼を望めたであろう高台にある。

城跡と思われる場所は、私有地になっていて塀で囲まれて見ることが出来なかった。

 

高田城跡には、二つの説があるらしい。

一つは、熊野神社の東側一帯の台地で、「東葛飾郡誌」に記載があるが、遺構は見られず、痕跡は残っていない。しかし、「殿内」などの地名があるそうだ。

もう一つは、市立柏第四小学校敷地とその東側の台地に土塁空堀などの遺構が残っていたとされるが、中央部を国道16号線が貫通し、台地の原型は失われて、城跡は全く残っていない。

しかし、いづれにしても、その近くを大堀川が流れている。

 

松ヶ崎城跡は、平成16年(2004年)に柏市指定文化財(史跡)に指定され、平成21年(2009年)から一般公開されている。

公開されてから、私も2回ほど行ったが、土塁と空堀に囲まれた曲輪や、虎口、土橋、門跡、などが残り、高台から市街の眺めも気持ちいい。

私は、20代の頃にこの松ヶ崎に1年半ほど住んでいたが、このような史跡が近くにあるのは知らなかった。当時は、整備もされておらず、ほとんど知られていなかったと思う。

 松ヶ崎の崎という字は、通常は陸地が海中や湖中に突き出した所、または山の出っ張った先端をいう。

松ヶ崎の場合は、干拓する前の手賀沼が松ヶ崎城跡のすぐ近くまで迫っていたはずなので、通常の意味の岬と同じような崎かもしれない。

 

布施城跡は、遺構はほとんど失われている。跡地は、「ウイングホール柏斎場」「県立柏高校」の敷地となっている。近くには、「御城」「中城」「外城」などの屋号を持つ旧家があるそうなので、それが城域の範囲を示しているかもしれない。

中世には、常陸川(現利根川)に面した要害だったであろう。この地域は相馬氏の拠点だったと思われ、古河・関宿方面と鹿島香取海・印旛方面を往来する船舶を掌握していたのだろう。

 

大室城跡は、現在の花野井の陸上自衛隊柏高射教育訓練場の敷地にあった20メートルほどの標高の丘陵であったが、削平されて消滅している。

隣接する東急ニュータウン柏ビレジ一帯にも、城に関係すると思われ地名が残っているので、城域はかなり広いものだったかもしれない。

 

猪ノ山城跡は、現在は柏市山高野浄化センターの敷地とその西側の雑木林が城域らしいが、明治時代に利根運河建設に伴って台地の大半が消滅したこともあり、遺構は見当たらないようだ。

 

柏市の城跡を、調べてみて気がついたことをまとめてみる。

城跡はだいたい舌状台地といわれる台地の先端にあることが多い。そして、近くを川が流れている。

城跡の近くには、香取神社があることがある。

香取神社鹿島神社は、ともに武神として崇敬されてきており、東葛飾の地域にも多くの分社があるが、特に香取神社は水運との強い関係があると言われており、元は低湿地だった所に分布しているようである。

柏市のうち旧沼南町地域を除いた地域にある城跡と思われる箇所は9ヵ所である。しかし、旧沼南町地域にはその倍の城跡があると思われる。旧沼南町地域に、城跡が多いのは干拓前の広大な手賀沼に面していたからだろうか。

 

 

 

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地方出版社はどうなってるんだろう

昨年(2019年)7月末をもって、崙書房(ろんしょぼう)が業務を終了し会社を解散した。

崙書房は、千葉県流山市で1970年に設立された出版社である。

設立当初は、千葉県、茨城県に関する文献の復刻版を発行、その後は、地域に根ざした題材を扱った書籍を発行してきた。

私にとっては、流山市在住の作家である山本鉱太郎氏の「新・利根川図志上下」、図書館で見つけて読んだ。これは、崙書房から発行されていた。自分の住むこの近辺の歴史を楽しんで読ませていただいた。

「江戸川図志」も出ているので、これから読もうと思う。

私の住む東葛飾で城跡を訪ねようとしたら、欠かせない書籍がある。

千野原靖方氏の「東葛の中世城郭ー千葉県北西部の城・館・城跡」である。これは、2004年に崙書房から発行されている。

同じく、私が何回も図書館から借りたり返したりしている書籍がある。

やはり同じ著者の「常総内海の中世ー地域権力と水運の展開」である。

その他にも、千野原氏のかなりの著作が、崙書房から発売されている。私にとっては、書名を見ただけで、読んでみたいと思わせるものばかりだ。

そんな出版社が、なくなってしまった。

解散の理由は、「存立基盤である読者や著者、街の書店が減少。そして後継者がいなかった。」と、社長の小林規一氏が述べていた。

 

1970年代、崙書房のように、地方の歴史や文化を出版によって盛り上げていこうという使命感を持って、出版事業に対する取り組みが日本の各地方で生まれていた。

私の郷里である秋田県にも、無明舎(むみょうしゃ)出版という地方の出版社がある。

無明舎出版は、1976年に設立されている。当初は、秋田県の自然、歴史、伝承、風俗などを題材とした書籍が中心だったが、現在では秋田県内にとどまらずに東北地方を題材とした各種書籍も刊行しているようだ。

最新図書目録というのを、見たのだが、驚いてしまった。

これだけの、ラインナップを地方の一つの出版社で出してるの、と思うほどすごく充実したものだった。

中央の大手出版社に負けてない気がした。

 

1976年に、地方・小出版流通センターが設立されている。これは、トーハン、日販などの大手取次会社の流通ルートに乗りにくい地方出版社の特色ある書籍や雑誌を都市部に流通させ、都市部の小規模な出版社の刊行物を地方に流通させることを目指したもので、設立当初180社、最盛期で全国1000社ほどが参加していた。

しかし、バブル崩壊や若者の活字離れのよる出版不況などで苦しい状況にあるらしい。その1000社は、今どんな状況にあるんだろう。

 

小規模な出版社というのが、日本の地方の文化を担っている現実があると思う。将来どうしたらそれを支えていけるか、考えてみる。

出版業も今までのやり方を、変えていく必要があると思う。

それには、図書館のあり方が重要な役割を果たさなければならない気がする。

日本で、出版したすべての出版物は国会図書館に納入しなければならないという制度があるって聞いたことがある。この発想をひっくり返して、出版社を支えるためにそういう制度を作るとどうだろう。地方出版社の書籍は、発行部数が限られるのでどうしても価格が高価になってしまう。

こうなってくると、私の願望と妄想になってしまうな。

図書館が、みんなの本棚として充実すれば、みんなの家に大きな本棚はいらないいんじゃないか。

極端かもしれないけど、図書館がもっと身近なものになればいい。

気軽に行けて、気軽に借りられる。

突き詰めていくと、デジタル図書館ってことになるかな。

そうすると、著作者と出版社と図書館の関係が難しくなる。

でも、いずれ突き当たる問題だと思う。 

 

 

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ステレオタイプ

YouTubeで、外国の方が日本の音楽について反応するというビデオを見ていた。

彼女も、彼も、やたらと「アニメ」「アニメ」と言う。

きっと、日本語の入った音楽は、アニメの音楽に聴こえるのだろう。

日本の音楽=アニメの音楽なのだ。

それを通してしか、日本を知らないのかもしれない。

でも、立場を置き換えてみると、われわれも外国をそういう目で見てる気がする。

たとえば、イタリアはパスタの国みたいに言う。

パスタは、イタリア南部の食べ物と聞いたことがある気がする。

イタリア北部は、また違うらしい。

たしかに、イタリアを代表する食べ物かもしれないが、イタリア全体を代表してはいない。

日本を考えたったて、一筋縄ではいかない

地域によって、食文化は違うし、人間の気質も違う。一緒くたにしてはいけない。

おんなじ国なのに、こんなに違うんだと思うことはとても多い。

 

ステレオタイプ」ということばを思い出した。

「紋切型」とか「できあい」とかに訳されている。

ここでいう「ステレオ」は、オーディオのステレオではない。印刷用語である。

印刷するための原版のことであり、これの複製を作ることによりいくらでも大量印刷をすることができる。

 

活版、木版、亜鉛凸版などの組版からとった紙型に鉛の合金を流し込んで作る原版を用いた印刷法。あるいはその原版のこと。また、その印刷物。新聞印刷などに用いられる。ステロタイプステレオタイプ。鉛版。(精選版 日本語大辞典)

 

つまり、すでにできている判断基準や、価値基準をあたかも真実であるかのように使うことが、ステレオタイプということなのかな。

日本大百科全書では、次のように解説している。

通例、紋切り型態度と訳される。その特徴として、
(1)過度に単純化されていること、
(2)不確かな情報や客観的根拠の薄弱な知識に基づき誇張され、しばしばゆがめられた粗略な一般化ないしカテゴリー化であること、

 

「過度に単純化」とか「粗略な一般化」というのは、いろいろな場面で感じることがある。

「日本人は、清潔好きである」みたいに言う。

でも、日本人100%が、清潔好きであるはずがない。80%ではあるかもしれない。

それは、平均点の問題であるのに、その他の20%を切り捨ててしまっている。

日本は、武道の国である。

しかし、柔道や空手や剣道などをやる人は数%である。

寿司だって、生ものは食べない人はいる。みんなが、食べるわけではない。

現実には、多様で複雑なものが、単純化されることで多くのものが切り捨てられる。

5択、6択問題が、2択問題にされてしまう。

その方が、楽なのだろう。判断しなくていいから。

 

マスコミの報道とか記事とかを、見たり読んだりしてて、なんか引っかかることが多いのは多分こんなことがあるからだろう。

意識してるか無意識かは別にして、そのような操作をしている。

そのようにして、物事を単純化し、誇張した方が、話を進めやすく、わかりやすくすることができるからだろう。

何国人は、こういう人である。

それが、どんどんひとり歩きして行く。

そんなものに、自分も囲まれてるわけで、よほど自覚して自分で判断しなければ染まってしまってるんだろうな。ほんとかな、というふうに考えるのは大事だな。

ステレオタイプの特徴として、一度できたら、

「新たな証拠や経験に出会っても、容易に変容しにくいこと」

が、挙げられている。

なかなか、手ごわいものなのだ。

 

 

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フリーな生活

60歳で定年のあと、1年間再雇用で勤務して退職した。

長年の念願だったフリーな生活になった。

それから早いもので、6年目である。

 

その間に、いろいろなことがあった。

初めて家族で、海外旅行に行った。

初孫が生まれて、おじいさんになった。

親子4代で、秋田の母の姉さんに会うために旅行に行った。

母が入院して、一年後に亡くなった。

妻の母が入院したが、コロナ禍のため面会できなくなった。

 

妻の母が入院している病院は、自宅から歩いて2、3分のところなので、毎日会いに行っていた。2月から面会謝絶となり、会うことができなくなった。

誕生日なので顔を見たい、とお願いしたが、立ち入りはできないのでと、断られた。

病院の事情はよくわかるので、納得するしかない。

 

私の日々の生活については、このブログでいろいろ書いてきた。

サイクリングやランニングそして散歩。

寺社仏閣、城址城郭、図書館めぐり。

その時の気分と天気で、出かけることが多い。

妻は、週何日かは仕事や友人と出かけることがある。

妻は、私よりも忙しい人である。

私が一人留守番という日が、私の出かける日になる。

 

二人の息子と妻と四人家族なので、食事の献立が私の重要な問題である。

遠い店への買い出しは妻と行くが、日々のコマコマした買い物は私がやる。

料理は好きな方なので、楽しんでやっている。

結婚して、妻が揚げ物は苦手だというので、揚げ物は私が担当してきた。

おかげで、だいぶ上達したと思う。

天ぷらやフライや唐揚げは、中華鍋でやる。

結婚してすぐに買った両手の中華鍋は、30年以上愛用している。

年季が入っていて、一生ものだと思う。

中華鍋は、揚げ物にはとても使いやすい。炒め物にも最適だ。

 

もしかすると、私は調理師になっていたかもしれない。

もしもの話をしても、しょうがないが。

私は、就職が決まって千葉にやってきた。

千葉への採用通知は、卒業式の直前に届いた。卒業式からそのまま卒業証書のコピーを提出に行った記憶がある。

その時期に採用通知ということは、誰かが採用辞退したのだろう。

私は、その時期で就職先が決まっていなかった。

1年間アルバイトをやって、また採用試験を受けるつもりでいた。

そして、何を考えたのか、私は調理師学校へ入学しようとしていた。アルバイトしながら通うつもりでいた。

たしかに、食堂でアルバイトしたことはあった。

でも、今考えると4年間何を勉強してたんだ、ってことである。

自分がやってることは、時々そんなことがある。何を、考えていたのだろう。

 

話は変わるが、私の父は、炭焼きをやっていた時期がある。

姉と二人で、父の炭焼き小屋を訪ねたことがある。

ずいぶんと山道を歩いて、着いた炭焼き小屋で父は寝泊まりして仕事していた。

炭焼きは、木炭を作ることである。

木炭は、樹木を不完全燃焼させることで作ることができる。

炭焼き窯に、樹木を詰めて不完全燃焼させる。煙は出るが、炎が出ないように夜もつきっきりで面倒を見る。燃えてしまったら、灰になってしまう。

父は、そこで何日も、自分で自炊して寝泊まりしていた。

その後、父は何年も出稼ぎ生活をやっていた。やっぱり、自炊をしていた。

だから、父はなんでも自分でやる人だった。

 

世の中には、男子厨房に入らず、みたいな人もいる。

私は、そういうところでは育たなかった、ということだ。

 

 

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ファミリー・ヒストリー

NHKの「ファミリー・ヒストリー」は、とても好きな番組である。

これは、何というジャンルになるのだろうか。

著名人の、たいていは芸能人の、先祖の歴史をたどるという番組なのだが、下手なドラマよりもおもしろい事もある。

事実は小説よりも奇なり、ということである。

何がおもしろいのかというと、登場する人物の面白さだと思う。いろいろな人がいる。

こんな変わった人がいたんだと思わせる人だったり、ドラマのような人生を送ったひとだったり、普通の人が普通に送った人生も、それはそれでおもしろい。

本人の承諾を得て調査するにしても、ある評論家が批判してるように、家系を調査することは

現代社会の個人尊重の精神に反し差別の助長につながるという意見も、確かにそういう恐れがないとは言えない。

先祖は自分が責任を負えない部分である。なんともし難い。

調査していると、いろんな問題に遭遇するだろうということは、想像できる。

その中から、放送に使う素材を選択するのだろう。

 

単純に考えても、父母をたどっていくだけでも、5代遡ると32人、10代遡ると1024人になる。累計すると、その2倍である。その兄弟姉妹を考えると大変なことになる。

子孫は、どこかで絶えるかもしれない。

でも自分という一人の人間が存在するためには、一人もかけてはならない多くの御先祖がいたということである。

まあ、通常は直系をたどるだけだから、そういう問題にはならない。

 

放送で使われた家系図がおかしい、というクレームがついたことがあるそうだ。

家系図について言えば、豊臣秀吉平氏を称したとか、徳川家康が源氏を称したとかもあるし、なんでもあるものだと思う。

家系図というものは、それを作ろうとする者の思惑があるものだし、まして時代を遡れば遡るほど、さだかではなくなる。証明しようがなくなる。

だから、そのようなものとして扱うべきものである。それを考えると、あまり遡るべきではない。

 あくまでも、この番組は娯楽番組であり、ファミリーバラエティなのだから、その範囲内で制作すべきだし、楽しめればいいじゃないかな。

 

人にとって、家族の存在は大きなものだと思う。

父と母がいて、兄弟姉妹がいる。

父と母にとっては親であるおじいちゃんとおばあちゃんがいる。

人によっては、おじいちゃんおばあちゃんは遠くに住んでいてなかなか会えないかもしれない。

もう、亡くなっているかもしれない。

親とは違う目線で、見てくれる。

父や母の兄弟姉妹。おじさん、おばさん。

いちばん可愛がってくれる存在かもしれない。

そして、自分の兄弟姉妹。

ひとりっ子だっている。

両親ともひとりっ子同士だったら、おじさんおばさんはいないことになるのか。

人それぞれ、さまざまな環境の中で育っているってことなんだな。

 

私が子供の頃、おじいちゃんおばあちゃんは四人とも元気だった。

だから、今でも顔を思いだすことができる。

父方のおじいちゃんは、いつも子守をしてくれた。

今は、記憶の中にあるだけである。

その記憶で、自分はできているってことなんだな。

 

私は、村で育ったのだが三十数軒の村だった。

村は、戦国から江戸時代初期に誕生したらしい。

それだけの家族の歴史がかみあって、村の歴史ができている。

村の歴史はもっと大きな社会の歴史に組み込まれている。

考えていると、どんどん広がってしまう。この辺で、やめとこう。 

 

 

 

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ヘヴィーでハードな音楽

ヘヴィーでハードな音楽が、けっこう好きである。

通常は、ロックということになるのだろうが、クラシックも交響曲などを大音量で聴くとかなりヘヴィーでハードである。特に、管楽器がガンガン入るやつだと、ゾクゾクしたりする。

コンサートの生のオーケストラの破壊力はすごい。ロックコンサートに負けない。

ヘヴィーでハードがいいと言いながら、ソフトでメローなものも好きなので、結局のところ音楽全般が好きなのだ。なんだって、いいんだな。

 

ビートルズが、「ロックンロールミュージック」というチャック・ベリーの曲をカバーして日本でもヒットした。

「恋をするならロックンロールミュージック.........」という歌詞を覚えているので、日本人歌手もカバーしていたのだと思う。

ロックンロールというのは、ピアノを使った音楽だと思っていた。

ファッツドミノとかジェリールイスというピアノ弾きの歌手もいたし。

ピアノの鍵盤をバンバンやったりコロコロ弾いたりするやり方だと思っていた。ロックしてロールだし。でも、必ずしもそういうことではないらしい。

 

歌詞をみると、

モダンジャズは、演奏が早すぎてメロディーの美しさが消えてしまう、

だから、僕は古くさいかも知れないけどロックンロールがいい、

という感じらしい。

でも歌詞のなかに、

So keep a rocking that piano  と出てくるので、

私の思い込みも間違いではないかもしれない。

でも、この時点でロックンロールは、古くさいと意識されていたことになる。

 

中学3年の時、教室の隣が音楽室だった。

音楽室は、校舎の端っこだった。どこの学校でも、音楽室はたいてい端っこにある。

ある時、誰かが持ってきたレコードを大音量でステレオにかけた。

モンキーズの「Valleri」という曲だった。

あまりのカッコ良さに、驚いた。

かなり低音の効いたイントロに続いて、高音のコーラスが続く。

その頃、モンキーズを知っていたと思うが、人気のテレビ番組は地元のテレビ局は放送していなかった。

この曲は、ボイス&ハートという優れた作詞作曲のチームの作品であり、多くの曲を提供していたことは、後で知った。

 

音楽室といえば、高校の時に音楽の先生が不在で自習の時があった。

音楽室は、三棟あった校舎の端っこだった。

誰かが持ってきたビートルズのアルバムをクラスのみんなで聴いた。

たぶん、デビューアルバムで、これも大音量でまるごと聴いた。

この頃の曲は、みんなとても短くて2分から2分半くらいのものだったので、全曲でも30分ちょっとだった。

 

こんなことだけは、しっかり覚えている。

時代は、ロックンロールからロックになっていた。

ニュー・ロック、アート・ロック、ヘヴィー・ロック、ハード・ロックサイケデリック・ロック、カントリー・ロック、 他にもあったかな。

ディープ・パープルは、ハード・ロック

ブラック・サバスユーライア・ヒープが、ヘヴィー・ロック。

このへん以降も、パンクやらメタルやらあるようだが、よくわからない。

なにか、私のロックについての知識は断絶してしまっている。

 

人間椅子」というバンドを、最近になって知った。

最近といっても、一年くらいにはなるだろう。

Youtubeを見ていたら、急に登場するようになった。

Youtubeには、reactionというジャンル?がある。

はじめて聴いた音楽に、私はこう反応しました、という自撮りみたいなものである。

それを見ていると、気になる人が何人か見つかる。

 

その人が、人間椅子の「無情のスキャット」というのを見て、反応していた。

人間椅子というバンドの名前は知っていたと思う。でも、人間椅子ということばにおどろおどろしいものを感じて、近づかなかった。私よりも、10歳ちょっと年下で、「イカ天」で認められたらしいが、その番組はまったく見てなかった。

はじめて聴いた人間椅子は、思ったよりもストレートなものだった。ブラックサバスに心酔してバンドをはじめたというのは、わかる気がした。一番驚いたのは、途中のギターソロだった。どこかの大名の家老様のような風体のギターの和嶋さんのギターソロは、王道を行くようなものだが、聴いた人はみんな、おおっと表情が変わる。

欧米の方は、楽器の技巧のすばらしいものに弱いと思う。

それは、和楽器バンドに対する反応でも感じる。

和楽器バンドには、筝、尺八、津軽三味線という楽器の3人のすばらしい演奏者がいる。その演奏に対する反応はおもしろい。演奏の技巧もあるが、楽器自体が見たこともない日本のもので、それをロックバンドの前面立ててる驚きもあるだろう。

 

今のところ、Youtubeが音楽においては、窓口みたいになっている。

新しいものとか、知らなかったものとか、忘れていたものとか、そういうものを見つけるための窓口かな。

 

 

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小金城址  松戸市大谷口

本土寺を後にし、小金城址大谷口歴史公園」に、向かうことにする。

 

小金城は、千葉氏の家老であった原氏の重臣高木氏の居城である。

高木胤吉は、天文6年(1537年)、小金城を築き根木内城から移り、その後、胤辰、胤則と3代53年の居城となった。戦国末期には、この小金城を拠点に、現在の松戸、市川、船橋、沼南、柏、鎌ヶ谷我孫子を支配し下総国有数の領主となったといわれている。

城は、標高20メートルほどの丘陵地帯に、古利根川、中川、荒川流域などの低地帯を一望できる場所にある。城域は、東西800メートル、南北700メートルにおよび、当時下総国北西部最大の平山城だった。平山城は、平野にある山や舌状台地などの丘陵の地形を利用して築城されたものである。

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大谷口歴史公園」に、到着した。

現在、広大な城域のうち保存されているのは、大谷口歴史公園として残っている金杉口の遺構と馬場曲輪の一部、達磨口の虎口の遺構、そして城域の鬼門を守るために根木内城から移されたとされる大勝院である。

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金杉口から、馬場曲輪に登ってみる。

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まわりは、ぐるりと土塁で囲まれている。

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曲輪から降ると、畝堀と障子堀の遺構が残っている。

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次に、虎口の遺構である達磨口に移動する。

車道を歩いていると、大勝院の裏門があった。

かつては、城の鬼門を守っていた大勝院は、幼稚園を経営していた。

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立派な門柱の上に、ミニーさんが立っている。

もう一方は、ドナルドくんだった。
その隣に、達磨口があった。

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駅方面にむかって、坂を登って行くと、この辺りが大手口だったと思われるが、遺構と思われるものはない。

小金城には、大手口、達磨口、金杉口、大谷口の四つの虎口があったといわれている。

大きな通りを歩いて行くと、遠くに寺院の建物が見えたので、その方向に進んでみる。

大勝院の本堂だった。

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大勝院は、教学道場として多くの学僧を輩出してきた。また、地元の師弟教育にも力を注いできており、幼稚園経営もその延長ということらしい。

 

小金城の遺構は、大谷口を入ると「本城」、「中城」、「馬屋敷」、「外馬場」、さらに「馬場山」、「番場」、「中郷」などがあり、1960年代までは、森林の中にほぼ完存していたという。その写真は、「日本城郭大系」(1980年刊行)に残されているらしい。

しかし、その後の住宅開発でほとんどが失われた。

隣の根木内城もその頃に、国道のために分断され、大部分を失っている。

高度経済成長期には、それまで完全な形で残っていたであろう城址の多くが失われてしまったことを考えると、なんとももったいないことである。