晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

いなのなかみち⑨ 菅江真澄テキスト

 

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廿四日 けふは、風の祭あるといふ。

「科野なる木曾路の桜咲にけりかぜのはふりにすきまあらすな」

となん俊頼のながめ給ふも、此こゝろにや。

須羽のみやつこに風ノ祝、雨ノ祝などありけり。

けふのかんわざは、五のたなつもの、ことなう、みのらんをむねとして、ところどころの村にて、としごとにせりける、ためし也けるといふ。

 

   いつくさのほの上の露もこぼさじとけふやいのらん風の祝子

 

廿五日 けふは松本の辺にいかんとて、熊谷直堅とともにいでゆくに、とをき空には雨やふりなん、風はげしう吹て、野中の路にかゝれば今やふりこんと、とくとくと人遠近に行たり。

 

   をちかたは村雨すらし風はやみ袖ふかれ行野路の旅人

 

松本のうまやに到て、くすし沢辺のやをとへど、たがひつればあはで、相しりたる忠雄の家をとはんとて、瀬畔といふ処をへて埴原村になりぬ。

いはゆる殖原牧これなり。

ゆくみちはそく、真葛おほひふたぎぬ。

 

   葛かづら茂りにけりなはひはらの牧のあら駒かげ見えぬまで

 

かくて忠雄が宿をとへば、砌の柴垣のとより、さゝやかにおち来るを手枕の滝といひながして、又おかしきながめどもありけるを見つつ、

 

   たのしさよちとせの友と手枕に松風誘ふ庭の滝なみ

 

あるじ、硯さしいだして題もとむ。

 

初秋月                            直堅

   はつ秋の風に晴行出の端に見るまほどなき月の入方

 

風前薄                            秀雄

   かぜふけばこぼれてそれとあらはるゝ尾花が袖の露の白玉

 

寄玉恋                            恵雄

   つれなさの人の心の秋風に袖はなみだの玉ぞみだるる

 

ともしびとりて、ふたゝび。

 

萩映水                            秀推

   咲萩のした行河の色ふかみ錦ながるゝ水のひとむら

 

尋虫声                            直堅

   ふみわけて尋ねぞわびぬ鈴虫の声は来し野の草に鳴なる

 

開中燈                            忠雄

   うき世をばよそにへだててすむかげの庵幽なる窓の灯

 

甘六日 つとめて、白姫といふ処あり。

むかしは村もありたりけるが、牛伏の川水いやまさりしとしながれうせて、今はかくなん河原となれりとか。

見し、にごれるながれのほとりに、

 

   これも又にごればさすが水かはで引かへしけんうしぶしの河

 

百瀬村にふるづかのあり。

これなん世のしづかならざるころ、わが、いさおしをみせんと、きりたる頸の耳のみきりもてきて、こゝに埋しと人のかたる。

かくて、桔梗がはらに出たり。

白頭翁〔それがとし八十に越たり〕がすむ江原の里は、あの森のなかなりとうちむかふ。

きのふ、がれがいほりを尋ねて、われ。

 

   間見れば桔梗が原の露白し

 

とて、とより入しかば、五尺庵のあるじ白頭翁露白。

 

   あるかなきかの身に月のかげ

 

となん和句せり。

 

葉月朔 ちかとなりの直堅がやにいきて、なにくれかたらふに、鱸魚の鉤に釣りたる画のありけるに此やのぬし、

「行河の水のまにまにながしつる糸にかかれるいををこそまて」

とながめて、われにもと、ひたにいへば、

 

   水にちをまかせてときを松の江にすむてふ魚のかゝる楽しさ

 

七日 今井の郷にいたる。

この里は、今井四郎兼平こゝに生れてける、

其ところにほくら建て、かねひら朝神とあがめ奉る。

このかん司梶原景富のぬしに、はじめてまみえたりけるに、

 

   波のもくず寄るもはづかしみがきえし玉ある磯のわかの友鶴

 

かくてこのぬしの家に、やまとふみ、がんよのまきをよめるを聞て、此くにゝ、いくばくの月日をへなん。

 

十三日 姨捨山の月見に、おもふどち、いざなひ行てんとてたびたちぬ。

此日記は《わかこゝろ》と名づけて、外にひとまきとしたり。

 

甘一日 恒徳のやにあそびて物かたらふに、軒のまつかぜ吹すさび、つくれる庭のやまぎはに、こゝら鳴むしの声も、いとしめやがなる夕なりけり。

 

   おもふどちあかぬまどゐに淋しさの秋も楽しとむかふタぐれ

 

なが月三日 今井の郷に、斐佗の国なる梶原家熊〔梶原景富の父なり〕のうし、とをたあふみのかみになり従五位下たうばりて、都より帰給ひ、其国の一宮につかへまつり給ふが、こたび、ふる里の父のみたまに、ぬさとりむけんとて来給ふに贈る。

 

   つかへます神の恵に位山のぼりえし身の今はやすけん

 

九日 常陸国宗淳が、みやこに行とて、この国にしばしありける。けふなん別るとて、

   又いつと契しおけどしら菊のあかぬいろ香にたちへだてなん

 

かんな月八日 家熊のうし、飛太の園に帰り給ふける。

その奈波に歌作りておくる。

 

   きのふけふ      峰の紅葉の        いろそへて

   錦の袖の       たびごろも        たちへだてなん

   おもひこそ      猶いかばかり       つらからめ

   あしたにきゝし    みちしばの        露のよすが

   かれがれに      柳の枝を         折わかね

   春は栄えん      いろや見ん        契しことを

   たのみにて      秋の山田の        それならで

   ひだてふ国に     在といふ         位のやまの

   くらからぬ      光をそへて        すみのぼる

   月の行衛も      しら雲の         八重にかさなる

   やまやまを      越路の雪を        右に見て

   行らん方を      たぐえやる        こゝろにつらく

   かきくれて      今朝は別の        袖ぞしぐるる

 

   わかれては山田のびたのひたすらにかけてたのまん音信もがな

 

 

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シャネルズ、キャロル、ダウンタウン・ブギウギバンド、ジャックス

例によって、Youtubeをあれこれ見ていると、シャネルズがでてきた。

ロサンゼルスでのLive at Whisky A Go Go のビデオだ。1981年5月28日となっている。

私は、このライブのレコードアルバムを持っていたので、コンサートの内容は知っていたが映像は見たことがなかった。アップされてるのは、15曲のうちに、2曲だけであるが。

映像を見た限りでは、お客はほとんど地元の方だが、シャネルズのステージは、歌も演奏も素晴らしく、大受けで盛り上がっていた。ほんとに、楽しそうに、歓声をあげ、聴いている。いつものように黒塗りでやってた。考えたら、ネットもYoutubeもない時代だったな。今なら、いろいろ面倒なことになっていただろう。

この時点で、シャネルズは前年にレコードデビューしたばかりである。

でも、私は横浜で学生生活の頃に、まだアマチュアだったシャネルズを見ている。東京12チャンネルという不思議なテレビ局があって、その音楽番組に、やはり黒塗りで出ていた。

東京12チャンネルは、今はテレビ東京になっているが、やっぱり毛色が変わっている。

シャネルズのレコードは、何故かこの一枚だけ持っていた。

レコードは処分してしまったけど、MP3にしたような気がするので、探してみよう。

 

シャネルズは、ドゥーワップというボーカルグループ+演奏グループである。

同じ頃に、キャロルとダウンタウン・ブギウギバンドのレコードも買っていた。

意識したことがなかったけれど、この三つのバンドは何か似ている。

やってる音楽は、まったく違っている。

やっぱり、リーダーの個性的なところかな。

シャネルズの鈴木雅之

キャロルの矢沢永吉

ダウンタウン・ブギウギバンドの宇崎竜童。

 

キャロルの登場は印象的だった。

上下黒の革ジャン、リーゼント、そしてロックンロール。

愛川欽也の「リブ・ヤング」やせんだみつおの「銀座ナウ」で見ていた。

ビートルズのカバーをやっていた。

"Slow Down "  "Match box"

それから、「ルイジアンナ」、「ファンキーモンキーベイビー」だった。

ジョニー大倉のバラードは、心地よかった。

でも、すぐに解散してしまった。

 

ダウンタウン・ブギウギバンドは、「知らず知らずのうちに」というのがデビュー曲で、いちばん好きな曲である。

グループサウンズの名曲のカバー集を2枚出していた。グループサウンズは好きなので、2枚とも買った。

 

日本のロックバンドと言ったら、もう一つ加えなきゃならない。

私の高校時代に登場した「ジャックス」。

「ジャックスの世界」は、いつ買ったんだろう。

「からっぽの世界」は、衝撃的な曲だった。

他に類のない伝説的なバンド。

日本語はロックに乗らない。ロックは、英語じゃないとという時代に日本語でロックをやった先駆者になるのかな。でも、売れなかった。

このあとに、はっぴぃえんどが出てくる。

はっぴぃえんどは、売れたってことになるかな。

 

 

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ランプと振り子時計

先日、薪ストーブと囲炉裏のことを書いた。

あとになって、思い出したのが、「ランプと振り子時計」である。

 

ランプから、電灯に変わったのは物心がついてからである。それまでは、灯油を使ったランプが照明器具だった。

今では、ランプといえば使ってるのは山小屋ぐらいである。山小屋も、発電機で自家発電しているかも知れない。インテリアとしてはあるかな。

ランプの灯りは、今の感覚ではとても暗い。

ランプは使っていると、内側にススが付いてくもってしまう。それをきれいにしなければならないのだが、子どもの細い腕だとランプのガラス管の中に入れた雑巾で磨くことができた。だから、小さい子どもの仕事だった。私も、手伝った記憶がある。3、4歳の頃だと思う。

ランプは、吊り下げて固定して使っていた。なにしろ、燃料を入れてあるので取り扱いに気をつけなければならなかったのだろう。

 

外に出る時は、ちょうちんを使っていた。中に、ろうそくを立てていた。

ちょうちんといったら、時代劇に欠かせない。今なら、お祭りとかで使ってるかもしれない。でも、ろうそくではなく、電球が入っていると思う。

今は、LEDがあるので、電力の使用量も少なく発熱量も少ないので安心だろう。

 

我が家に電気が開通した日、私はおじいちゃんに子守をしてもらってたのだが、二人で電灯がつくのを確認したのを覚えてる。

今のように壁付きのコンセントはなかった。アイロンとかで、電源が必要な場合は、電灯線から二股コンセントを使った。松下電器松下幸之助氏は、この二股コンセントを発明して会社を大きくしたのだと言われていた。

 

振り子式の柱時計があって、毎日ゼンマイを巻かなければならなかった。

柱時計は、高いところに掛かっていたので大人の仕事だった。踏み台を使っていた。

私も、大きくなってからはゼンマイを巻いていた。

柱時計は、動力がゼンマイなのだから、振り子はいったい何の役目があるのだろうと、今さらながら疑問になっていた。

どうも、振り子の等時性という性質を利用して時を刻み方を調整してるということらしい。

 

「雪国で育った私が体験したこと」という文章に、おしんは山形だけど秋田と似たようなものだろう、と書いた。

私は、「おしん」を見ていない。ただ、秋田と山形という雪国つながりで書いてしまった。

気になって「おしん」のことを、調べてみた。放送当時、とても評判だった記憶はある。ある女性の人生をもとに書かれたということも知っていた。

モデルになった丸山静江さんという方が、山形県ではなく静岡県出身であり、最上川ではなくて実際は大井川を筏で下ったということは、初めて知った。そして、生まれたのが明治30年代だということだ。私の両親よりも、はるかに前の時代の方である。

そんなに古い時代とは、思っていなかった。

 

おしん」は、世界68ヵ国で放送されたそうだ。

どうして、そんなに共感を呼んだのか不思議な気がする。

古い時代の、日本という国の、さらに地方出身の女性の物語である。

ある意味、とても特殊な話に。

でも、時代をさかのぼるほど、不便な地方であるほど、貧困や混乱など、

世界の人たちが自分の感覚で理解できる、共感できるものがあるのかも知れない。

 

 

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テレビの時代

テレビの時代はもう長くないだろうな、と思ったのはずいぶん前のことだが、テレビはそのまんまで続いている。

もちろん、今までのようなテレビという意味である。

インターネットという強力な競争相手が登場しているが、テレビ業界も、テレビ受像機自体も変わったようには思えない。

テレビが日本の社会で一般的なものになったのは、1960年代だと思う。

ちょうど、私の小学校中学校の時代とかさなる。

もう、60年になるわけだ。

 

私たちの世代が見ていたテレビが今のテレビとの一番大きな違いは、アメリカ製の番組がとても多かった事だ。アメリカ製の番組を日本語に吹き替えて放送していた。

アニメもそうだし、子ども向けドラマ、西部劇、なんでありだった。

考えてみたら、1日10何時間の放送時間を埋めるだけの番組を、日本の放送局は作るだけの力がなかったってことだ。

戦後まだ十数年、日米間には圧倒的な国力の差があった。

 

アニメだったら、「トムとジェリー」大好きだった。今でも好きだけど。

「とびだせフェリックス」原題は、Felix the Cat」今でも、キャラクターは見かけるな。

「マイティハーキュリー」ハーキュリーが、ヘラクレスの英語読みなのは、ずいぶん後で知った。

 

子ども向けドラマなら、思い出すのは、

「ちびっ子ギャング」タイトルどおり、悪ガキが登場して大騒ぎ、というやつ。

「三ばか大将」これは、おバカなおとなが3人登場のドタバタコメディ。

毎週、楽しみだった。

 

西部劇は、「ララミー牧場」とか「ボナンザ」

そして、「逃亡者 Fujitive」。

なんと、視聴率が30%を越えて、銭湯が空になったというけど、本当かどうか。

4年間に渡って、120話放送されたそうだ。

妻殺しの無実の罪で死刑を宣告された医師が、逃亡して真犯人を探す、それを追う警部との物語。

リチャード・キンブル役のデビッド・ジャンセンと吹き替えの睦五郎さんの声が出てくる導入部は、印象的だった。

 

やっぱり、私にとって一番記憶に残っているのは、「ディズニーアワー」である。

毎回、髭のウォルト・ディズニーおじさんが登場して、番組を進行する。たしか、プロレス中継と隔週で放送だったけど、とても楽しみにしてた。

ミッキーマウスやドナルドのアニメ、(この頃はアニメじゃなくてなんて言ってたんだろう。)そして映画を(狼王ロボをおぼえている)紹介して放送する。カリフォルニアに建設中だったディズニーランドも紹介してた気がする。

「ディズニーアワー」と覚えていたが、正確には三菱電機ダイヤモンドアワー「ディズニーランド」だったらしい。

 

その後、日本のテレビ局は多くの番組を自力で制作できるようになり、外国製の番組はほとんどなくなっていった。

でもまた、最近になって、外国製の番組が増えてきている。番組表を見ると、時間帯によっては韓国製ドラマで埋まっている。そこまでして、番組表を埋めなくてもいいんじゃないかという気がしないでもない。

 

ところで、現在、テレビの役割ってなんだろう。

もちろん、テレビ番組を観る。

ビデオデッキで録画した番組を観る。

DVDプレーヤーのディスプレイとして使う。

ゲーム機のディスプレイとして使う。

パソコンのディスプレイとして使う。

 

現在使っている我が家のテレビは、10年近く前に買ったもので、三菱製である。

裏の端子を見ると、電話モジュールとLAN端子はあるが、メニューにはWEB接続などはないので、ケーブルテレビなどの対応ということだろうか。取扱説明書を見てみたら、データ放送の双方向うんぬんとある。なんか、もったいない。

最新のテレビを検索してみると、だいたいWEB対応してるようなので、パソコン接続する必要はない。でもこの機能について大きく宣伝してない気がする。テレビ業界に配慮してるのだろうか。WEB対応だけど、特定の動画サイトに接続できるというものらしいので、普通のネット検索などはできないのかな。そうすると、ちょっと微妙だな。

パソコンで、ワードやエクセルを必要としてる人はそんなにいないだろう。WEBが見れれば充分な人がほとんどだろう。

ふだんスマホでやってるようなことを、手軽にできたらOK。

私の、場合は音楽ファイルを再生するためにパソコンを接続している。

今使ってるテレビでも、デジカメのカードに入ってる画像ファイルは再生できる。たしか、動画を再生できる機種もあった気がする。動画を再生できたら、音楽ファイルも再生できるだろう。

パソコンなしで、テレビだけで用が足りたら、こんな便利なことはない。

この際、自分の条件を満たすのがあるか調べてみるのもいいかな。

 ところで、テレビはこれからどうなるかという問題だった。

テレビ業界は、実際の番組制作はかなりの割合で、外部の制作会社がやってるって聞いた事あるけど、そんなことも関係してくるかな。

 

 

 

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柏という街

私は、千葉県北西部柏市に住んでいる。

柏市は、今は、国道6号国道16号が交差し、JR常磐線東武野田線の乗換で賑わう、千葉県北西部の中心的な地域になっている。

しかし、歴史的に見ればかつての柏は、水戸街道沿いの一農村だった。

江戸を出て、松戸宿、小金宿、とあり、次の我孫子宿との間にあった。

北を見れば、関宿は日光街道の要所であり、幕府の要職にある者が関宿城主だった。

野田は醤油、流山は味醂の製造で栄えており、江戸と繋がっていた。

鎌ヶ谷も、船橋から江戸へ続く木下街道の宿場町である。

 

柏市は、東京のベッドタウンでもあるけれど、農業も盛んである。

カブの生産量は日本一だそうだ。柏のカブは、小カブで皮ごと調理できるそうだ。

とは言っても、全国的には「柏レイソル」と言った方が、わかってもらえるだろう。

長男が小学校低学年ぐらいの時に、Jリーグが発足した。

Jリーグ発足当時、柏レイソルはまだJFLだった。JFL優勝でJリーグ昇格を目指していた。

柏の熱気はすごかった。

昇格を決めた試合を見るために、大宮まで行った記憶がある。

相手は、「NTT関東」だったかな、今は「大宮アルディージャ」だと思う。

昇格前後何年かは、新聞記事でスクラップブックを作ってた。我ながら、そういうことはマメなんだな。

 

長男と次男は、下部チームの「ジュニア特別」に入っていた。

レイソルの日立スタディアムは、自転車でも行けるところだった。

日立に就職した甥っ子が、スタディアムすぐそばにある独身寮にすんでいた。

「ジュニア特別」の会員証で、子どもはフリーパスだった。

そんなに、頻繁じゃないけど観戦は行った。ゴール裏の立見席は、ほとんど熱心なサポーターなので、すごかった。

「ジュニア特別」は試験なしだったけど、「ジュニア」に昇格時はセレクションがあった。

子どもは冷静で、「僕は受けない」だった。

その後、レイソルの試合のテレビは欠かさず見ていた。

 

車で走ってると、日立スタディアムの前をよく通る。

大きな試合情報の看板がある。

12月の試合予定が出ていた。

今年は、スポーツ関係は、どこも大変だったんだな。

 

ところで、私はどうしてあんなにレイソルに夢中になったんだろう。

もともとが、運動系の人間ではない。

運動系というよりも、スポーツ系ではないというべきかな。

走ったり、歩いたり、テクニック不要なものはやる。

小学校中学校の4年間、野球部のマネージャーをやっていた。よく言えば、監督にスカウトされた。まあ、これをやってた方がいいだろうということだったのかな。

ユニフォームを着て、グローブを持って一緒に練習をし、試合でスコアブックをつけるのが主な役割だった。

だから、野球は、身近なスポーツだった。

そんな私が思うのは、野球はなんてバランスの悪いスポーツだろう、ということ。

ある意味で、スポーツではないかも知れない。

時間、運動量、などを考えると、関わる個人にとってマイナスが多い割にプラスが少ない。

 

私は、スポーツを見るのがとても好きである。

だから、スポーツに対するメディアやマスコミの姿勢にはとても不満がある。

野球やサッカーなどメジャーなものに対する特別扱いが酷すぎる。

マイナーなスポーツだと世界記録を出しても、ある野球選手の健康状態の話題の方が優先される。

随分前に、男子ハンドボール世界選手権大会が、日本で開催された。1997年だった。

ほとんど、マスコミで取り上げられなかった。この大会、日本は予選リーグ4位で、決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦で惜しくも1点差で敗れた。

昨年は、女子ハンドボール世界選手権が日本であったらしい。ほとんど、目に触れなかった。

ラグビーで、消えてしまったのかもしれない。

 

そういえば、女子バスケットのENEOSサンフラワーズの合宿所が近所にある。

 日本リーグ優勝20回以上の強豪らしい。買い物の時に合宿所の前を通るが、あまり選手は見かけない。

ラグビーNECグリーンロケッツは、隣の我孫子市が本拠地らしく、ホームゲームは、柏にある柏の葉公園競技場でやってる。

どっちも、見たことないな。

せっかく近くにあるんだから、一度生で見てみよう。

 

 

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夜行列車

夜行列車に座って、車窓の外を眺めている自分がいる。 

 

高校三年の三学期、大館駅から夜行列車に乗った。

窓の外は、真っ暗だった。

ひとりで、旅行したことなんてなかった。

受験のために、出稼ぎに出てる父がいる横浜に向かった。

父が、とても授業料の安い学校があると教えてくれたのだ。

その学校を、受験するためである。

翌朝、上野駅に着いた。

父が迎えに来てくれていた。

父は、横浜の星川というところに住んでいた。

会社の宿舎になっているアパートに住んでいた。

 

受験は、翌々日だったので、1日ひとりで部屋にいた。

テレビを見てたら、浅間山荘の赤軍派と警察の攻防を中継していた。

受験日は雪が降っていたな。

私は、理数系がまったく不得意だった。

なので、受験できる学校は限られていた。

文系の三科目だけで受験するわけだから。

 

結局、この学校に入学することになる。

今考えると、不思議なことがある。

この時期、2月だと思うが進路がまったく決まってなかった。

滑り止めみたいなのも受けてなかった。

どうするつもりだったのだろう。

たぶん、3月に入学が決まり、母と二人で大館を引き払い、横浜に引っ越している。

父は、新しい仕事と住居を用意してた。

なんと、手際がいいことだろう。

 

確かに、授業料は安かった。

夏休みにアルバイトしたら、2ヶ月で、年間の授業料支払分を稼げたのだから。

日本でも何番目かに安かったらしい。

私立だったが、高いところは何倍もしていた。

 

受験といえば、思い出すことがある。

高校受験のころ、私はまだ生まれ育った村に住んでいた。

秋田では、夏休みは短く、冬休みが長い。

雪が多いのだから、そういうことになる。

冬休みの朝、起きるとテレビで中継をやっていた。

東京大学安田講堂で、やはり全共闘の学生と機動隊の攻防だった。

あれは、何日か続いたんだろうか。

その年は、東京大学の歴史上、唯一入学試験が中止になった。

 

横浜で、4年間の学生生活を送った。

入学早々、内ゲバで死亡事件、そういう時代だった。

4年間のうち、ちゃんと机に座って試験を受けたのは2年間だ。

あとは、試験前になると学内封鎖されて、レポートを郵送してた。

 

卒業時期になって、秋田へ戻ることを考えた。

Jターン目指して、受験もしたが、面接で駄目だった。

そして、縁あって、それまで足を踏み入れたことのなかった千葉にやってきた。

秋田で嫁いでいた上の姉は、初孫は抱いたが、かなり若くて亡くなった。

 

いろんな、ことがあって、現在に至っている。

父の時代、私の時代、息子たちの時代、同じように時は流れても、

見える風景はそれぞれに違うのだろう。

 

 

 

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前ヶ崎城址  流山市前ヶ崎

秋の空は、見ていて飽きない。

秋の雲は、芸術の秋というだけあって、芸術的である。

どうしたらこんなにきれいな模様になるのだろう、と思うような雲が毎日見れる。

夏の雲は、躍動的で、モクモクと力強いもの感じる。

秋の雲は、繊細で滑らかな、流れるような感じだ。

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今日も、朝から素晴らしい青空に、優雅な雲が浮かんでいる。

家族は、みんな出かけた。

私は、散歩に出かけることにする。

我が家から、2番目に近い城跡である「前ヶ崎城址公園」。

近くに、「名都借城址」というのもあるらしいが、あまり痕跡の言えるのが、残ってないみたいだ。

JR常磐線国道6号を越えるので、1時間くらいかかるかも知れない。

 

自宅を出ると、すぐに広池学園という総合学園がある。幼稚園から大学まである。なぜか、小学校だけない。

道路が、キャンパスを分断している。分断された二つのキャンパスを繋ぐための連絡橋が道路の上に架かっている。

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向小金の住宅地帯で、流山市に入る。

香取神社で、旧水戸街道を渡る。

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さらに、進むとJR常磐線の上にかかる「名都借跨線橋」である。名都借は、「なづかり」と読むようだ。

一応、自動車も渡れるのだが、橋の上は二車線だが、登り降りの両側は一車線しかない。

通称「譲り合い橋」、そうしないと渡れない。事故になる。

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跨線橋を渡ると、次は国道6号線である。

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国道を渡って、100メートルほど進む。

ときどき、お世話になっている「木の図書館」がある。

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この辺は、名都借の農村地帯だ。畑と農家があり、住宅も点在する。

戦後住宅公団が、大規模な団地を計画した時の第一候補は、この名都借地区だったそうだ。しかし、地価が想定よりも高くて諦めて、光ヶ丘地区になったようだ。

名都借の地域も、光ヶ丘と同様に、広い台地上にあり大規模な団地には適していたのだと思われる。

名都借地区は、国道6号線に面していたので、地価が高かったのかも知れない。

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ここから、名都借城址を目指したいところだが、公園などとして保存されているわけではなさそうである。とりあえず、その一角を成していたであろう「曹洞宗長福山広寿寺」を目指してみる。

東葛の中世城郭」という千野原靖方著の、バイブルのような書籍がある。それには、次のような記述がある。

「前ヶ崎・名都借両城跡は、高木氏の本城・小金大谷口城の北東方、坂川上流域のやや奥まった所にあり、富士(藤)川谷津、名都借谷津、八木谷津の三つの谷津が合流する広い低地帯に向かって北西へ突出する前ヶ崎台地と、その西側の前ヶ崎谷津を挟んで対峙する名都借の台地上に占地する。」

広寿寺の案内板に従って住宅地に入っていった。台地の端に広 寿寺はあった。

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通常の寺院のような、本堂ではなく観音堂のようなものがあった。観音堂の裏は、かなり広い墓地だった。

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広寿寺に隣接した住宅地のあたりが、本丸だったと思われるがそれらしい看板や説明板は全くなかった。城山、笹堀込など字名で、城に関係するらしい地名が残っている。

寺院の裏には、とても広い檀家の駐車場があった。

前ヶ崎谷津に続く細い道を下ると、広い車道の出た。

前ヶ崎城址公園を目指して、しばらく歩いてゆく。道路は、前ヶ崎谷津に沿って北上しており、 道路の向こう側は前ヶ崎の台地が続く。

 

前ヶ崎城址公園に到着した。立派な説明板が設置されている。

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城域は、東西が広い所で約220m、南北がやく350mと言われているが、遺構として保存されているのは主郭があったと思われる台地の突端部のみである。

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まわりは土塁で囲まれている。

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虎口跡と思われる箇所や櫓台跡の高くなってる箇所もある。

土塁を抜けて、裏にまわると空堀になっている。

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空堀の先に、台地はさらに続き城域であったはずであるが、削平されて城域は破壊されている。

城域には、かつての空堀の跡が道路となっているとおもわれるものがあり、それらを考慮すると四つのから郭からなっていたかも知れない。そうなると、城址公園として保存されている郭跡は、その最北部にある一画に過ぎない。

城域は南北に約350mあったと言われている。台地は、いったん途切れて、また台地になる。

農家や住宅地があるが、その中に、宝蔵院のいうお寺があった。

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真言宗豊山派の寺院のようです。

ずっと歩き続けたので、少し疲れてきた。

台地から、西側には小金の台地が見える。あいだは広い低地になっていて、富士(藤)川が流れている。富士川は、先日訪ねた根木内城址方面に流れて行く。

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このまま、台地上を南下すると国道6号線に出て、往路に合流する。

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前ヶ崎城も名都借城も根木内城も、高木氏の本城である小金大谷口城の防衛のために存在していたようである。

大谷口城の遺構は、歴史公園として保存されているようだ。

充分に歩いていける範囲内にあるようなので、次の機会に行ってみたいと思う。

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スーという名の少年 ジョニー・キャッシュ

私は、音楽の好みについては節操がないかも知れない。

でも、音楽のジャンルについては好き嫌いがないが、もちろん、好きな歌手が何人かいる、とか好きなバンドがいくつかあるということで、なんでも聴くというわけではない。

高校時代からカントリーもけっこう好きである。

秋田のAM放送に「カントリーサイド」というカントリーミュージックの番組があって、受験勉強しながら、よく聞いていた。番組の終わる12時頃には寝る人だったので、オールナイトニッポンなどの深夜放送は聞いたことがない。

 

ジョニー・キャッシュやチャーリー・プライドが好きだった。

ジョニー・キャッシュは、ドスの効いた太い低音が魅力の歌手である。

チャーリー・プライドは、唯一と言っていいのかも知れない黒人のカントリーシンガーで、ソフトな低音が心地よい。

「スーという名の少年」は、1969年なので高一の年に発売されている。

この曲は、ライブ・バージョンで、しかも刑務所での慰問公演の録音がシングルカットされている。バンドの演奏をバックに全編語りである。トーキングブルースというやつらしい。

スーというのは、私は最初、インディアンのスー族かと思ったが、女の子の名前をつけられた男の子の話だった。

途中で聴衆である囚人の歓声が入ったり、使っちゃまずい言葉が「ピーッ」という音で消されたりする。

おもしろい曲だなと思って聞いてた。

 

My daddy left home when I was three
And he didn't leave much to ma and me
Just this old guitar and an empty bottle of booze
Now, I don't blame him cause he run and hid
But the meanest thing that he ever did
Was before he left, he went and named me "Sue."

 

俺が3歳の時に、オヤジは家をでていった。

オフクロと俺には何も残していかなかった。

この古いギターと空の酒瓶のほかは。

いまは、オヤジがいなくなったことを責める気はない。

でも、あいつがいなくなる前にやった最低のことは、

俺にスーという名前をつけたことだ。

 

父親が、女の子の名前をつけたばっかりに、

彼は、馬鹿にされたり、笑われたりして成長する。

憎いオヤジを見つけて息の根を止めることだけを、考えていた。

そして、ついに白髪の老ぼれになっているオヤジを見つける。

 

And he said: "Son, this world is rough
And if a man's gonna make it, he's gotta be tough
And I knew I wouldn't be there to help ya along
So I give ya that name and I said goodbye
I knew you'd have to get tough or die
And it's the name that helped to make you strong

 

アイツは言った、「この世は厳しいんだ、

一人前になろうとしたら、タフじゃなきゃならない。

俺が、お前をずっと世話できるわけじゃない。

だから、俺はその名前をつけて、おさらばしたんだ。

お前は、タフになるしかなかった、でなきゃ死んじまう。

お前を強くしたのは、その名前だ。」

(下手な、日本語訳をやってみました)

 

なんか、都合の良い言い訳である。

お前には、俺を殺す権利がある、みたいなことも言う。

まあ、結局オヤジの息の根を止めることはなかった。

わかったような、わからんような顛末である。

でも、囚人の聴衆には大いに受ける。

 

この曲は、ジョニー・キャッシュのオリジナルだと思っていたけど、シェル・シルヴァスタインという人の曲だそうだ。

この、コンサートのために選曲したらしい。

作者のシルヴァスタインさんも、やはりシェルという女の子の名前をつけられた方らしく、自分の経験がベースになってるらしい。

 

 この頃のカントリーミュージックは、ロックの影響受けたシンガーやバンドがいっぱいでていた。私の知ってるのだけでも、

ウイリー・ネルソン、ケニー・ロジャースマール・ハガード、バック・オーエンス

女性だったら、タミー・ウイネット、ドリー・パートン、ロレッタ・リン

ギタリストは、ドク・ワトソン、チェット・アトキンス

 

日本でも、ロック・バンドが出てくる前は、バンドといえば、

カントリーバンド、ジャズバンド、ハワイアンバンド、ラテンバンド、いろいろあった。

エスタンカーニバルなんてのも、カントリー系の祭典から始まったのかな

音楽バンドのお笑い、好きだったな。

演奏しながら、コントをやる。音楽を使ったコント。

クレージー・キャッツ、ドンキー・カルテット、ドリフターズ、そしてビジー・フォーかな。

その後は、どうなったんだろう。

この前、You-Tubeで、打首獄門同好会というおもしろいバンドを見たけど、この系統だろうか。これは、お音楽自体がお笑いだった。

 

 

 

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じいじの「きりたんぽ」

預かった孫娘と、すぐ近くの公園で遊んでいた。

通称「蚊の公園」である。近所では、この名前で誰でもわかる。

かつて、子どもたちの小さい頃、蚊が異常に発生して、何年も人が寄りつかなかった。

たぶん、手洗い水道下の、水溜めが蚊の温床になっていたのだと思う。

今は、そういうことはない。

いつも、子どもたちが遊んでいる。

でも、公園の正式名称は知らないけど、蚊の公園という名前はみんな知ってる。

滑り台から、ドングリを転がして遊んでいるうちに、ドングリ拾いが始まった。

どんぐりを拾うには時期が遅すぎて、ドングリの皮が破れてるのが多かった。

それでも、いっぱい拾って帰ってきた。

孫娘は、とても満足だ。

ビーズを買ってきて、飾りを作ると言っている。

 

夕飯は、何をしようか。

「きりたんぽ」をつくることにした。

この冬はじめての「きりたんぽ」だ。

夜は、孫娘のママが迎えに来るので、鍋ならみんなで食べられる。

数日前に、近所のスーパーで、きりたんぽと芹を売ってるのを見かけている。

そのつもりで、買いに出かけたのだが、どちらもなかった。

もう少し遠いスーパーに行ってみた。

きりたんぽも芹もあった。ひと安心。

 

鶏皮とお酒で出汁をとる。

鶏肉と牛蒡を入れる。

「じいじのきりたんぽ」なので、作り方はかなりアバウトです。

 

醤油、塩、味醂で味付けをする。

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きりたんぽを入れる。普通は、しらたきは入れないが、しらたき大好きな孫娘のために入れる。

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そして、長ネギ、最後に芹を入れて完成です。

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これが、孫娘のための「じいじのきりたんぽ」。

野菜が、とっても好きな子なのでいっぱい食べてくれる。

この前は、春菊のおひたしをぱくぱく食べておどろかせてくれた。

好き嫌いが、あまりないのはうれしい。

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考えてみると、私などはほとんど畑のもので育っている。

海から遠かったし、冷蔵庫などない時代だから、魚は行商の人が冬に何回か来てたかな。

書いてて思い出した。

ハタハタがあった。これは、車で売りに来てた。これだけは、箱で買ってた。

冬のあいだ、焼いたり煮たりして食べてた。

肉は、きりたんぽの鶏肉くらいだ。他の肉は食べたことがない。

 

きりたんぽを食べていて、

「なんか、コクが足りないね。」

「サッパリしてる。」

ということになった。

子どもの頃を、考えてみた。

そういえば、骨団子というのを入れていた。

鶏の骨をナタの背中で叩いて、ペースト状にして団子を作ってた。

だしをとるだけではなく、骨団子自体も食べられたと思う。

それは、鶏をさばいたおじさんたちの仕事だったけど、ちょっとそこまではできないよなあ。

鶏ガラスープは、鶏ガラをひたすら煮込むんだろうけど、たしかにペーストにしてしまえば、だしは、取りやすくなるだろう。

骨団子は無理としても、鶏ガラスープを作れば、それらしくなるのかなあ。

今度、やってみよう。

 

 

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和文タイプライターの時代

タイプライターといって、思い浮かぶのは英文タイプライターだろう。

英文タイプライターに触ったことのない人でも、私の前後の世代だったら、オリベッティというメーカーは知ってる。

洋画で、偉い人の秘書がタイプライターをパチパチ打ってるシーンが、思い浮かぶ。

 

1976年に、私が就職して着任した時、職場には和文タイプライターがあった。

ワープロが登場するまでは、和文タイプライターしかなかったのだから、事務系の職場だったらどこにでもあったんじゃないだろうか。たしか、検定試験もあって、資格が認定されていた。

英文タイプライターが、コンパクトで持ち運びのできるタイプもあったらしいのに比べて、和文タイプライターは、どっしりした機械である。

英文は、アルファベットの大文字、小文字、数字、記号を合計しても必要な文字の活字数はそれほど多くはならない。パソコンのキーボードのQWERTY配列というのは、英文タイプライターのキーの配列をそのまま使ってるそうだ。

それに比べて、和文は、当用漢字1850字に、ひらがな、カタカナ、数字、記号である。2000文字くらいだと思う。専門的な業務用もあって、活字数も多くなりそれなりの値段がしたと思う。

 

その頃は、通常の業務は手書きでやって、対外的な文書や、重要文書の作成にタイプライターを使っていた。私は、必要に応じてちょこちょこいじっていた。

長年勤務して、いろんな事務機器を扱ったが、最も印象深い事務機器は、和文タイプライターである。

これは、「小さな印刷工場」だった。

ほんとに、よくできていた。

見たことのない人には、説明するのは難しい。

A3くらいの文字一覧表があって、その下に活字収納箱がある。

なんと、そこに鉛の活字そのものが2000本収められている。それだけでも、スゴイ。

右手でカーソルを操作して、文字一覧表の該当文字にカーソルを合わせる。

左手でレバーを、バシッと押し下げると、活字収納箱の下のアームが、活字を持ち上げて、印刷用紙と重ねてあるカーボン紙に活字を押しつけて文字を転写する。

ほんとに、見事なものである。

 

文字一覧表には補充用のスペースが空いていた。人事異動で、新しい人が着任して苗字や名前がこの一覧表にない文字の場合は、活字を用意しなければならない。当用漢字しかないので、そういうことが多い。

日本タイプライターという会社に、活字一本単位で注文していた。

この会社が、大正時代に和文タイプライターをはじめて製作した会社らしい。

職場で使っていた和文タイプライターが、どこの会社か調べてみた。どうも、この会社のものではなく、「プラス」のものだったようだ。

ネットで検索していたら、和文タイプライターの現物が、3000円とかであった。ちょっと欲しくなった。何を考えているんだ、という話である。でも、活字が2000本もついている。ただ、飾りに置いておく大きさではないし。

日本タイプライターという会社は、ワープロが普及していく頃、キャノンに吸収されたのをニュースで読んだ気がする。

和文タイプライターから、ワードプロセッサーに変わっていくときに、「電子タイプライター」というのが、ブラザーから出ていた。

発想は、和文タイプライターで、活字は搭載せず、一行か二行ずつ変換していくものだった。

 

和文タイプライターを作った杉本京太氏は、日本の十大発明家に選ばれてるそうだ。

和文タイプライターはけっこう長く使われたが、ワードプロセッサーはそんなに長い命ではなかった。

でもそれがあるから、次が生まれたということでもある。

 

 

 

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