晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

図書館では、CDも借りられる

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今日も、朝から青空である。

日本海側では、かなり雪が降るということを天気予報では言っていた。

関東地方は、寒くはなりそうだが天気は良さそうだ。

歩くには気持ちよさそうなので、出かけることにする。

我孫子市立図書館で借りたCDが、そろそろ返却期日なので返しに行くことにする。

借りるときは、北柏に用事あって出かけて、ついでに我孫子市立図書館に足を延ばした。

もちろん、そのときは車だった。

CDを借りたのは、ずいぶん久しぶりだった。

CDを返しに行くのに、わざわざ歩いて行くこともないと思うが、歩くのも楽しみなのだ。

先日、松戸市立図書まで歩いた。

距離は、自宅から8.87kmで、今回の我孫子市立図書館本館の8.05kmとあまり違わない。

でも、松戸の方がとても遠く感じてしまう。

我孫子のほうが完全に行動範囲の中だからだと、思う。

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呼塚方向を望む

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柏ふるさと公園から手賀沼

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手賀沼北岸を歩く

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2、3日前に、インターネットラジオのことを書いた。

著作権をクリアしていないのだろう。

だから、無料で音楽を放送している、というように書いた。

引っかかるところがあって、調べてみた。

まったく、考え方が反対だった。

無料だから、著作権が問題にならない、ということだった。

図書館のCD貸し出しについても、無料だから可能なのである。

有料だったら、レンタルCDということになってしまう。

著作権法では、次のように定められている。

 
貸与権
第二十六条の三 著作者は、その著作物(映画の著作物を除く。)をその複製物(映画の著作物において複製されている著作物にあつては、当該映画の著作物の複製物を除く。)の貸与により公衆に提供する権利を専有する。
(営利を目的としない上演等)
第三十八条 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
 
つまり、著作者の貸与権は、無料である限り、制限されるということだと思う。
それは、図書館だからとか図書館でないかは関係なく、無料か有料かが問題なのだ。
無料だったら、誰でも図書館をやって、書籍やCDを貸し出すことができる。
 
 
インターネットの世界でよく問題になっているのが、「違法コピー」である。
これは、著作者の複製権を侵害するということになるのだろう。
著作権法の規定は、次の通りである。
 
(複製権)
第二十一条 著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。
(私的使用のための複製)
第三十条 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
 
問題となるのは、「個人的又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用する」という目的を逸脱している場合なのだろう。
ネット上に存在する「違法コピー」サイトは、不特定多数を対象とするものである。
当然この規定に反している。
 
図書館では、書籍等のコピーをすることができる。
それは、著作権法の次の規定に基づくものだ。
 
(図書館等における複製等)
第三十一条 国立国会図書館及び図書、記録その他の資料を公衆の利用に供することを目的とする図書館その他の施設で政令で定めるもの(以下この項及び第三項において「図書館等」という。)においては、次に掲げる場合には、その営利を目的としない事業として、図書館等の図書、記録その他の資料(以下この条において「図書館資料」という。)を用いて著作物を複製することができる。
一 図書館等の利用者の求めに応じ、その調査研究の用に供するために、公表された著作物の一部分(発行後相当期間を経過した定期刊行物に掲載された個々の著作物にあつては、その全部。第三項において同じ。)の複製物を一人につき一部提供する場合
 
条文では、「著作物の一部分」となっているが、一部分とは「半分を超えない範囲」というが一般的な解釈のようで、どこの図書館でもそのような決まりになっている。
私は、地図好きなので、地図をコピーしたことがある。
地図は、一枚もの地図も、地図帳の場合もその地図の半分までということになっている。
地図の半分というのは、なんとも悲しいのだが、例外として「国土地理院」発行の地図は、調査研究目的であれば全部複写可となっている。

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アビスタに到着 右側が図書館
自宅から図書館までの行程は2時間ほどである。
手賀沼南岸のコースだと、手賀大橋をを渡って1kmほど戻ることになって、遠回りになってしまう。
なので、新柏から北柏経由で、手賀沼北岸のコースしか選択の余地がない。
午前10時前に自宅を出発して、のんびりと歩いて行った。
正午前くらいに、我孫子市立図書館本館に到着した。
我孫子市立図書館は、手賀沼北岸の手賀沼公園に隣接している。
「アビスタ」という、「我孫子地区公民館」との複合施設に中にあり、1階フロアの半分を占めている。

図書館のレイアウトは、基本的には書架が内側にあって、外壁側は窓になっている。

窓が多くて明るい。

しかも、閲覧用の椅子テーブルが全体に配置されているので、みんなのんびりと読書を楽しんでいます。

フロア全体を使っている図書館は多いが、窓は少ないような気がする。

だから、どうしても閉鎖的な感じがしてしまう。

書籍が日光や熱に弱いので、窓を避けるようにしているのだろう。

我孫子市立図書館本館は、床も明るい木材を使ってあるので、落ち着いた雰囲気だ。

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閲覧室と閲覧室の間に中庭のようなデッキがある

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ベンチもあってくつろげる


就職のために、横浜市から転居して、1年半ほど我孫子市に住んでいた。

その後、柏市松戸市と転居したが、勤務先は我孫子市だったので、15年間通っていた。

私にとっては、身近な街なのである。

図書館のあるアビスタや近くにある道の駅「しょうなん」や農産物販売所の「アビコン」は、我が家の行動範囲である。

ちょっと距離があるので、そんなに頻繁ではないけれど、月一回は来ているだろう。

 

我孫子市立図書館は、他市の図書館と比べてもCDの蔵書?も充実している。

クラシック音楽、ジャズ、ロックなどの他にも、落語など音楽以外のものも多い。

レンタルショップには無いような、古いラインナップである。

今回、返却したCDは、次のようなものである。

 

りりィ 「ゴールデン⭐︎ベスト」 2004

MoonRiders    「Anthology 1976-1996」

三上寛   「寛」1992

渡辺貞夫  「Selected」   1988

Jeff Beck   「The Best of Jeff Beck」   1996

 

世代がわかる選択だと、自分でも思う。

りりィさんと三上寛さんは、アナログレコードを持っていた。

Jeff  Beck は、CDを一枚だけ持ってる。

MoonRiders は、名前はよく知ってるがほとんど聴いたことがなかった。

もっとスマートな感じと思い込んでいたが、そうでもなく土臭さもあった。

渡辺貞夫さんは、「カリフォルニア・シャワー」などコマーシャルで使われていたアップテンポの音楽のイメージが強く残っているが、すこし違った感じだった。

いくら音楽が好きでも、聴ける音楽にはキリがある。

本だって、人間が読める本はたかが知れてる。

音楽を聞かなければ、本を読まなければ、ほんとのところはわからない。

 

 

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くめじのはし⑧ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

廿五日 日乗寺におはしける悲珉上人をとぶらへば、みずきやうをとどめて、いとたうとげに、ねんずつまぐり出むかへるに、れいのよしなしごとに、みどきやうとどめたまひなんもこころうければ、ふたたびといひてこの寺を出て、ちかどなりなる寺の、香玄上人のもとにかいおく。

 

をこなひにすます心の月ぞともいざしら雲のがかるまぞうき

 

又、あるじの上人にまひらする歌。 

 

 言の葉の光もさぞなあさ夕にみがく心の月もてれらば

 

といふを聞て、香玄上人とりもあへず、

 

浅芽生の露にうつるもはづかしな君が心の月の光に

 

やをら馬禅長といふ、手かく人とかたらひて暮たり。

廿六日 戸隠山にのぼりてんとて善光寺のしりよりわけて、野行山路に入て御歳宮を右に見て、湯福の社といふに鳥居あり。

汐沢といふ処の山、なからばかりのぼれば、いかめしく造れる四阿のありけるは、野遊の人々円居して

 

「いにしへの七賢き人とらもほりするもの」

 

はと、酒のみける所となん。

路のかたはらに家二三あるしりより、いと冷やかなる湯のわきづるところあり。

加都良山の麓をゆくに、朝露いとふかし。

 

風ならでうらみる葛のかづら山分る袂にかかる白露

 

安楽夜珠といふ処に休らひてよもやもを見れば、遠のやま/\、波か鱗とかさなれり。

大窪といふ処の館に水こひてのみて、いとよけんといへば、やのあるじも童も口をそろへて、この山は水いとよし。

芋井の里はすこしぬるけれど、鳴子清水の外よき水はあらじかし。

またものみね、とすすむ。

中院にまうでぬ。

ここにあがめて思兼命を祭る。

このみまへを左にのぼれば、比丘尼石、観音ぼさちの堂あり。

麓より女、この堂を限にまうでてぞ、みな帰りいにける。

はた宝永の頃、長明といふすけの入にし火定のあととて、石ふみにゑりたる。

児塚といへるところも過て、奥院にまうでんとてみさかのぼれば、いや高きいはほに大なる御社を造そへて、ひろ前に清らをつくしたるは、かしこくも手力雄命のおましますに、亀のすがたの文のある、玉だれのをすのひまこそ見えね、ぬかづきて奉る。

 

かくれます天の岩戸をひき明し光世にしる神や此神

 

みほくらの左のしたつかたに、あゆみどののごとく、いはやの上におほひて、うちは、ひめとざしたる、をがみどのあり。

こは九頭竜権現とて、かうべ九ある、たかをかみを祭る。

いはやどといふに下りてまうでぬ。

歯の病ある人は、一期のうち、梨子をくはざるのちかひしていのれば、かならず其験のありといふ。

ふりあふぎ見る高峰を、荒倉といふ。

そこに栖し赤葉といふ妖鬼に余五将軍平維茂卿むかはせ、もみぢたるおもしろき林に幕うちめぐらし、ちりつみし紅葉をかい集め、さすなべにみきあたため、いみじうきようをさかせけるとき、かの妖鬼、はかられ出て、附子かみしなしたる、みきに酔ふしたるをうかがひ、斬たひらげ給ひしところを、いま附子野とてあり、竈段、幕入などいふ名の残り、又志垣村といふ処あり。

紅葉狩のうたひもの語にも、

 

「志籬の路のさかしきに落来る鹿の声すなり」

 

とぞ、つくり聞えける。

〔天註--夫木集、仲正。山賤がねらふしがきやしげからんゐまちの月の出よさりする〕

妖鬼むけたひらげ給ひては民やすけん、今は鬼なけんと悦び、そこの名を鬼無里とて、紙漉く村の近となりにならびたり。

荒倉山の名を紅葉山とも、又霧見が嶽ともいひて、千代ふる木々、枝をたれ茂りあひてけれど、杣、山賤らが攀踰るべうことあたはねば、木々は友ずれに朽かれ、うち見やるだにいやくらく、雲霧つねにたえず峰をおほへば、霧見てふ名の、うべもありけるにやあらん。

此山のあたりをも園原といひて木賊いと多く、はた柳草といふもの多し。

岐岨の山のねつづきなれば、しかいへるにや。

維茂の卿むかし鬼むけたひらげ給ひし日は、七月七日八日九日、此三日なれば、今もなが月のその日、顕光寺にて紅葉会とて、千入にもみづる楓の葉をかい集て、たかつき、くぼつきようのものにもりて三日のうち、その鬼のなきたまをとぶらひ給ひ、この行ひはつれば手向し紅葉残りなう作花につつみ、くづりうのいはやどにをさむれば、その赤葉、一夜のまに、越のうしろぐに、尾埼といふあら磯に、いづるといひつたふる也。

このふん月七日のかんわざは柱祭とて、いと高き柱を三もと立て、この柱に、三のかんやしろのみなをたぐえて、立たる、はしらのうれごとに柴をつかねて、火をさとはなちてとくしぞき、これをあふぎ見て、すみやかに火のうつり柴のもえあがるは、いづれの神のおほん柱ぞと見て、其年の田のみ、よしあしの、うらひをなんせりける。

このとしは手力雄命のおほんはしらに、火はやうかかりてかちたまへば、此としのたなつものやよけん。

見たまはば、又此裏山に涌の池といふありて、其ほとりにたちてわく/\と呼ば、朽木の水底にしづみあるが、うごもち、ゆらゆらと涌出る処もあり、あないといきね。

此みかしきやの南にあたりて、晴たる日は不尽のいとよく見ゆるなど、九頭竜の窟に、日ごとに、もの供したひまつる老法師、わらはをいざなひ帰り来て、此山のあらましを話り聞えたり。

かくて中院にまかり帰りて勧修院に入て、あるじのだいとこをとぶらひてんと門に音なひて、

 

たび衣立こそとまれ言の葉にみがける玉の光見んとて

 

此ことけいし奉らんかなれどとて、だいとこにかはりて、

 

尋ねこし玉の光も難波江の藻に埋るる賤の言の葉

 

といふ歌を、光忠といふ士の作りける。

かくて大とこの返しありけり。

普達。

 

旅衣はる/\゛来ても足曳の山のかひある言の葉もなし

 

ふたたびおくりける、光忠

 

たびごろも木曾河越えて見る影もなみ/\ならぬ玉の言のは

 

比叡の山より来て此寺にすめる亮観といふすけ(出家)。

 

千嶂?煙雨 秋陰帯暮陽 投来衣裏璧 別傍明月光

 

といふ、しゐんつくりて、又、

 

 ことの葉のひかりならずばいかにして藻くずを玉と人にしられん

 

と、ふたくさをむくはれたり。

 

 

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ラジオが変わる、これからも変わるだろう

AMラジオ放送が、2028年で基本的に停波し、FM放送に切り替わる。

基本的にと書いたのは、例外があるからだ。

北海道のHBCラジオSTVラジオ、秋田の秋田放送は、中継局の建築維持の困難を理由に、AM放送を残すという。

この3局は、FM電波とAM電波を併用するということである。

これによって、これまでのAM放送各社は、すでにあるFM放送各局と同じ土俵でやっていくことになる。

 

私は、高校時代まで秋田県に住んでいたが、その頃は、AM放送のABS秋田放送、FM放送の民放局はなくNHKだけだった。

たぶん、その頃はFM東京でさえも、やっと試験放送をやっていたくらいなので、日本全国似たような状況だったろう。

現在は、秋田県には民放局のエフエム秋田があり、他の都道府県も同様である。

調べてみたところ、大都市部を擁する都道府県には複数の民放FM放送局があるが、他の県は民放局が1局だけである。

北海道2局、東京都3局、愛知県2局、大阪府3局、福岡県3局といった具合である。

これまでは、AM放送はおしゃべり中心、FM放送は音楽中心という印象があったように、私は思う。

AM放送局が、FM放送業界に切り込んでいくにあったって、今までの姿勢を維持するのか、それとも変換するのかは、興味がある。

 

高校生の頃に、「FM fan」という音楽情報誌を愛読していた。

隔週発行で、時事通信社が発行していた。

内容は、クラシックからロックまで多様な音楽記事と、FM放送の放送内容が曲名など詳細に載っていた。

ちょうど、FM東海という1958年から東海大学が経営していた教育放送が、郵政省とのトラブルで再免許を拒否された。

そして、株式会社形式のFM東京に移行していく頃で、FM東京の番組表も掲載されていた。

とはいうものの、秋田ではNHKのFM放送しか聞くことができなかった。

NHKのFM放送は、ほとんどが全国一律の内容だったが、1日に数時間のローカル番組もあった。

音楽のリクエストを、放送してくれたので、私もハガキを出したことがある。

リクエストが少なかったのか、すぐにかけてくれた。

スティービー・ワンダーの「陽のあたる場所」だった。

 

AM放送といえば、FEN(Far East Netwok)というのがあった。

日本語でいうと、「極東放送網」である。

1997年からは、AFN(American Forces Network),「アメリカ軍放送網」になっている。

在日アメリカ軍関係者のための放送だったので、すべて英語だった。

アメリカン・トップ 40」が、人気番組だったらしい。

秋田では、青森県三沢基地から電波が出ていたのだろうか。

あまりにも雑音が多くて、音楽を楽しむことはできなかった。

音楽に関する情報が欲しくて、聞いてみたりしたのだが、音がひどすぎた。

 

学生時代に、横浜に住んでいた。

横浜には、「ラジオ関東」というAM放送局があった。

関東地方で、東京以外にAM局はなかったと思う。

たぶん、「関東」という名にひかれて、聴いていた。

その後、1981年に日本テレビ傘下になって、「ラジオ日本」というおもしろみのない社名になっている。

関東地方には、東京以外の県にはAM放送がないけれど、それぞれに各県の個性を出したラジオ局があればおもしろいのにな、と思う。

 

勤めていた頃、ビズネスホテルで有線放送の設備のある部屋に泊まったことがある。

有線放送という言葉は聞くけれど、こういうものかと思った。

音楽をジャンルごとにチャンネルを選べる。

しかも、音楽の傾向や時代のサブ・ジャンルもある。

これなら、お店などで客層などに応じて、チャンネルを選ぶことができる。

著作権などもクリアしてるだろうから、安心である。

 

数年前に退職した後に、AVレシーバーを買った。

チューナー付きのアンプである。

スマホアプリを使って、機器の操作ができた。

インターネット対応になっていて、無線LAN接続ができた。

インターネットラジオを、楽しむことができる。

インターネットのラジオ局は、無数にある。

ジャンルも、なんでもある。

まるで、有線放送みたいだけど、全く違うことがある。

インターネットラジオは、それぞれのラジオ局をそれぞれの個人が勝手に?やってる。

著作権は、クリアしてないのではないだろうか。

だから、無料である。

 

今は、世の中なんでもある。

「情報過多」、「音楽過多」である。

何でもあるのも、苦しい。

選ぶのが大変すぎる。

過ぎたるは及ばざるが如し。

 

 

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旧水戸街道を行く③ 馬橋宿〜松戸宿

水戸街道は、萬満寺の山門の前で、道が大きく曲がっていた。

馬橋宿は、萬満寺の門前町だったらしいので、松戸宿と小金宿の間にある休憩のための「間の宿」としては、ちょうどよかったのだろう。

国道6号線と合流した街道は、JRの線路と五、六十メートくらいに近づいて並行して続いている。

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「東京から20km」の看板があった。

国道6号線の起点は、日本橋らしいからそこから20kmということかな。

しばらく歩くと、JR北松戸駅の入り口である。

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また歩き始めると、国道から旧街道が分岐する表示板が遠くに見える。

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国道がやや斜め左に、旧街道はやや斜め右に分かれる。

国道は、ここから松戸市街から離れていく。

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国道は斜め左

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街道は斜め右

斜め右に分岐する道は、松戸の中心部である市役所や松戸駅方向への近道なので、今までもよく利用していた。

まさかこの道が、旧水戸街道の本道だったとは知らなかった。 

10分ほど歩いてゆくと、左側に古そうな神社があった。

雷電神社」となっている。

この近辺では、「雷電神社」というのは、見かけたことがない。

南柏で、「東電神社」というのはあったし、「別電神社」というのもあったな。

この道はかなりの回数車で走ってるはずだが、この神社にはまったく気がつかなかった。

雷電神社」というのは、関東地方を中心に全国に点在するが、群馬県板倉町にある雷電神社が関東地方の総本社格であるらしい。

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鳥居をくぐると、その先に参道のとても急登の階段がある。

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階段を登ると、こじんまりとした古びた社殿があった。

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狭いながらも、気持ちよく整備されている。

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小高いところに、富士塚があって「浅間神社」の石塔が立っている。

まわりは、溶岩のような岩で造られていた。

もしかして、富士山の岩だろうか。

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先ほど登った階段を降りようとしたが、かなり見事な下りである。

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街道に戻って、歩き始めると、街道はJRの線路にぶつかる。

その手前に信号があって、車道は左に角度を変える。

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旧街道は直進して歩道橋

 

信号を渡って直進すると、旧街道は歩道橋となって線路を渡る。

どうも、鉄道の建設によって水戸街道はここで分断されたようである。

あと数百メートルで松戸駅のはずで、松戸宿も近い。

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歩道橋より松戸駅そして松戸宿方向を望む

歩道橋を降りて、松戸宿への街道を歩く。

200メートルほど歩くと、左側にまた古そうな神社がある。

街道脇に「金山神社」という立派な石塔が建っている。

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そこからだいぶ奥まったところに、JRの線路を跨ぐ歩道橋があるのだが、その上り口の両側に、なんと石造りの燈籠がある。

歩道橋が参道になってるようだ。

この神社もまた、鉄道によって分断されたのだろう。

面白そうなつくりなので、寄ってみたい。

ところが、時間はすでに正午をまわっている。

目的地の松戸宿そして松戸市立図書館本館も近い。

だいぶ疲れてもいるので、金山神社はまたの機会に訪ねることにしよう。

 

さらに歩いて、交差点で千葉県道5号線を渡る。

これは、「流山街道」で、流山、野田、そして関宿で、利根川を渡り茨城県まで続く。

もう松戸宿の通りだと思うが、あまりそういう風情は残っていない。

松戸駅前通りにぶつかったので、松戸市民劇場がある角を右に曲がって、松戸市立図書館本館に向かう。

坂川に架かる一平橋を渡ると、松戸市立図書館本館である。

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松戸市立図書館本館

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松戸市立図書館本館は、5階建てビルのすべてが図書館の施設になっている。

1階 こどもとしょかん

2階 一般書・雑誌

3階 資料・CD・新聞・閲覧コーナー など

4階 閉架書庫・事務室

5階 学習室

こんな、感じになっている。

今日の私の図書館訪問の目的は、最近続けている外国人による日本訪問記とか日本滞在記のような著作を探すことである。

図書はとてもきれいに、整理されていて、探しやすい。

ただ、一般書について言えば、それほど開架書庫は広くはない。

5階建てのすべてといっても、松戸市の中心部にあるビルなので、それほど面積はない。

私の目的の図書を見つけることはできなかった。

紀行文の類は少なかったし、外国人によるものはほとんどなかった。

閉架書庫については検索してみなければ、ならないだろう。

松戸市の図書館は、多くの分館を持っているので、市内での蔵書の状況も考えた方がいいかもしれない。

今は、どこの図書館の蔵書も取り寄せしてくれるサービスがあるということを、どこかの図書館のポスターで読んだ。

目的地のものがあるのなら、そういう方法を選ぶべきかもしれない。

でも、図書館に出かけてたら、思いがけないものに出会えるのかもしれない。

 

図書館から200メートルほどで、江戸川の土手に出るので行ってみることにした。

松戸市立図書館の利用カードを作ろうと思っていたのに、忘れてしまった。

借りるべき本が、なかったからかな。

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江戸川 対岸は三郷、左は葛飾

江戸川の土手に出て、眺めてみた。

江戸から松戸に、江戸川を渡ると言うと、「矢切の渡し」を思い浮かべてしまうが、それは水戸街道の渡しではない。

矢切は、松戸の今いるところから、4キロほど下流にある。

水戸街道の渡しは、現在私がいる地点から数百メートル下流に、「金町松戸関所」が設置されていて、渡し船もそこにあったということだ。

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江戸川の河川敷に降りてみた。

この辺りの河川敷は、とても広くなっている。

二百メートルほど上流に、樋野口排水機場という、坂川の支流の水を流し込む施設があるので、行ってみた。

排水機場前の土手には、川の一里塚というのがあるので、登ってみた。

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川の一里塚

石造りの常夜燈があって、説明の石板があった。

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常夜燈

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その説明によると、どうもこの辺りは松戸河岸であったらしく、外輪船の客席のための明かりだったらしい。

ということは、明かりが必要な夜も運行していたということかな。

一里塚の向こう側に降りると、大きな石碑が立っているので行ってみた。

この排水機場についての石碑のようである。

しかも、石碑の説明のための石碑まで建っている。

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流山と松戸を流れる坂川が氾濫して大変だったので、新しく水路を掘ってこの排水機場から江戸川に流すようにしたらしい。

 

石碑の内容は、次のとおり。

「坂川の疏水工事は江戸時代後期の文化から天保年間にかけて、流山市鰭ヶ崎の名主渡辺充房(庄左衛門)ら親子三代苦難と長い年月により整備された。しかし、明治の中頃から長雨がある度に二十あまりの村々は水浸しになり治水対策に苦労を重ねていた。

明治39年に古ケ崎に排水機が設置されたが、小規模であったため効果はあがらなかった。そこで、あらたに、樋野口に排水機の設置を計画し、明治四十二年六月に完成した。

この排水機の完成によって、長年にわたる水害が解消され、田畑からの収穫も倍増し、人々は安心して生活できるようになった。」

 

なるほど、こうゆうことだったんだな。

流山と松戸を流れる坂川の流域は、土地の高低があまりなく、どっちへ流れるのだろうという感じである。

人の手を加えなければ、江戸川のような大きな川に流れ込まない。

坂川(さかがわ)って書くけど、逆川じゃないのかなって、気もする。

 

帰りは、JRの電車で帰ることにする。

久しぶりの松戸駅まで、のんびりと歩いて行く。

市民劇場の交差点を直進して、駅に向かう。

右に曲がって街道を進めば、松戸宿のゆかりのものがありそうだった。

松戸神社近くに陣屋口橋という、橋もあるということだ。

また、次回にしよう。

駅近くになって、古いお煎餅屋があったことを思い出し、探してみた。

ずいぶん昔に、せんべい好きの妻と買いに来たことがある。

二坪くらいの狭い店で、おじいさんとおばあさんで、やってたと思うけど、まだあるだろうか。

あいまいな記憶を頼りに歩いていて、やっと見つけた。

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なつかしのせんべい店

10枚入りを一袋買って、妻へのおみやげである。

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松戸駅前デッキ

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久々の松戸駅は工事中

常磐線各駅停車で、南柏駅で下車して、30分ほど歩いた。

10時頃出発で3時頃には自宅についた。

万歩アプリは、2万5,000歩ほどだった。

 

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シュガーベイブ・ライブ

不要なCDの整理をしていて、ついでにPCの中の音楽ファイルも整理していた。

私は、音楽ファイルは基本的に、MP3で保存している。

レンタルCDを借りてきては、MP3に変換して、メディアプレーヤーで聴いていた。

なかには、インターネットで見つけてダウンロードした素性不明のファイルもある。

ハードディスクの中のMP3を見ていたら、「シュガーベイブ・ライブ」というフォルダがあった。

これは、FM放送を録音したもので記憶があった。

FM放送を録音したカセットテープが、400本くらいたまっていて、どうしようもなくて10年ほど前に処分した。

捨てる前に、デジタル化しようと、MP3に変換していた。

ところが、パソコンに入力して、ファイル化するのは並大抵ではない。

曲ごとに分割して、曲名も入力しないといけない。

音声だけなので、映像ほどではないにしても、あまりに大変ですぐに諦めた。

シュガーベイブ・ライブ」はその時に処理した数少ない、カセットテープの分だった。

 

さっそく、そのファイルを聴いてみたが、素晴らしかった。

まったく、色褪せてなくて、演奏も歌声も、今聴いてもなんの違和感もない。

20年以上前のカセットテープに入っていた音楽とは思えなかった。

シュガーベイブ」は、山下達郎が結成していたバンドである。

のちに、シンガーソングライターとして活躍する大貫妙子さんもいた。

私が、いつ頃シュガーベイブを知ったかはさだかではないが、1973年結成というから、学生時代には知っていたと思う。

このライブは、バンドを解散してソロ活動をしていた山下さんが、バンド結成20年後くらいに、シュガーベイブの曲だけ歌うコンサートをやったものだという。

その頃、山下さんがFM東京でDJをやってた番組で放送したのを録音したのだった、と思う。

曲と語りを分割はしていたが、曲名は入っていなかった。

 

山下達郎さんという人は、私よりずっと歳上の人だと思っていた。

ウィキペディアで調べてみて、驚いてしまった。

なんと、私と同じ1953年生まれだった。

2月生まれなので、学年はひとつ上だったけれど。

シュガーベイブ・ライブと書いたように、私は再結成のコンサートのように思い込んでいたが、“TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABEというものだったらしい。

1994年のコンサートというから、20年以上と言うよりも、もう30年近い昔になる。

山下さんの1時間の番組で、2回にわたって放送されていた。

ウィキペディアには、このコンサートで演奏された曲名もしっかりと載っていた。

あとで、ファイルに曲名を入れないといけない。

 

この頃に山下さんは、「オン・ザ・ストリート・コーナー」のように、楽器の演奏やコーラスなどをひとりで多重録音して、重厚なサウンドを作っていた。

私のお気に入りの音楽だった。

山下さんは、番組の語りの中で、自分と同じ頃にバンドを結成して、やはり同じ頃にバンドを解散して、ソロ活動を始めたミュージシャンがいると言って、一人の名前を挙げた。

やってる音楽は、違っているけども、彼が考えていることは、自分にはわかるし、同志だと思ってる、というようなことを言ってた。

それが、「浜田省吾」だった。

学生時代に聴いた「愛奴」というバンドの「二人の夏」というのは、印象に強く残っていた。

そのバンドで浜田さんは、ドラムをやっていたことを知ったのは、彼の曲をよく聴くようになったずいぶんと後のことである。

車の運転をしながら、いつもカセットをかけていた。

子どもに、またかと言われていた。

やはり、同じ世代ということなのかな。

 

 

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ある日の散歩

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買い物に行こうと思い、出かけることにした。

ついでに、用事も片付けることにする。

昨日は、雨だったので地面は濡れている。

コンビニで、支払いのアプリにチャージする。

支払いアプリは、現金がいらないので便利だが、店によって使えるアプリが限られている。

アプリやらカードはあれこれ増やしたくはないので、そこが難点である。

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となりに近隣センターがあるので、そのなかの図書館分館に寄る。

買い物してしまうと、荷物が増えてしまうので、買い物の前に寄ることにしている。

先月から、気が向いた時に行って、少しずつ読んでいる本を読む。

ジョアンナ・シェルトンさんの「私の家族の明治日本」である。

明治の日本に、キリスト教の宣教師として来日した著者の曽祖父の物語である。

トーマス・セロン・アレクサンダーの手記を基に、彼の生涯を描いている。

一度に10ページくらいしか読まないので、物語はやっと三分の一くらいである。

東京に赴任していたトーマスが、金沢で私立学校の教師をやっている宣教師仲間の代わりを務めるために、2ヶ月ほど金沢を訪れる。

2人の幼い娘を抱えて、心身を病んでしまっている妻を残して、金沢の地に向かう。

金沢は加賀百万石のお膝元だけに、保守的な風土でキリスト教に対する偏見や攻撃が強かった様子が描かれている。

それとともに、それまでの江戸時代のしがらみから抜け出そうと、キリスト教に期待している人々についても描かれている。

トーマスが、東京へ戻ったところで、今日の読書は終わりにする。

 

妻の母が入院している病院への支払いがあるので、郵便局に行って準備する。

それから、病院で支払いを終えた。

最近は、コロナ対策なのか、窓口がお昼休みは閉鎖している。

銀行なども、お昼休みはやってないが、今ひとつ理解できない。

病院の隣の公園を通って、買い物に向かう。

十月桜のある公園で、先月に通った時も咲いていた。

今はもう、12月であるのにまだ咲いていた。

いったい、いつまで咲いているのだろう。

ひとつの花が咲いているの期間が長いのか、それとも次から次と花が咲いてるのだろうか。

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いつものスーパーに、夕飯のための買い物に出かける。
歩くと、15分くらいかかる。

同じくらい歩くといけるスーパーが四カ所ほどあるが、足が向いてしまうのは同じところになってしまう。

四つの中では、最もこじんまりしたお店である。

私は、野菜とお魚の売り場が気に入っている。

旬のものが、安いと思う。

特に、お魚類は、焼く、煮る、お刺身用がそろっている。

売り場自体は、それほど広くないが、心配りが感じられる。

妻が言うには、主婦の間でも人気らしい。

いつ行っても、けっこう混んでいて、私のような年配者も多い。

 

買い物が終わって、いつもの公園を通って帰る。

公園といっても、市が個人の私有地を借り上げて、市民が使えるようにしている林である。

通り抜けできるように、道がある。

ただ、通るだけであるが、気持ちがいい。

昨日は雨だったので、大きな水たまりがあった。

ここで、水たまりを見たのは、初めてかもしれない。

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自宅に近い住宅地の脇に、畑がある。

畑と道路の間に、菊が植えられている。

でも、手入れはまったくされていないようだ。

菊が、咲き乱れていた。

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動画と静止画

映画というやつが、映写フィルムというのをクルクルと回して、それに光を点滅させながらあててスクリーンに映しているものであることを、小学生の時に知った。

私の小学生時代は、学校で年に一回映画会をやっていた。

今だったら、芸術鑑賞会だろうか。

その時に、映画会の準備をしているのを、興味深く見ていた。

体育館の中央後方に、テーブルを置いて、そこに映写機を設置していた。

もちろん、すべての窓は、暗幕で覆っていたのだから、大変な作業である。

映画館でやるような映画を上映していたのだから、街の映画館に依頼して、映写技師が来ていたのだと思う。

その時に、映写フィルムというのが、スライドのフィルムみたいのが、ずっと何コマもつながっているのを見た。

ときどき、フィルムが切れてしまうこともあった気がする。

フィルムは、いろんなところで、一日に何回も使われたのだろうから、どんどん弱って切れてしまうこともあったのだろう。

それを、接着剤かなんかで繋いでたのだろうか。

そのフィルムの切れ端を見た気がする。

今考えると、写真のフィルムのような画像が反転した「ネガフィルム」ではなく、画像がそのままの「ポジフィルム」だった。

授業で使ってた「スライド」のフィルムは、1コマだけだけど、それが延々とつながっていた。

 

その頃は、映画の時代だった。

テレビが普及しはじめたとは言っても、まだまだみんな家にあるわけではない。

私の住んでた小さな町でさえも、何軒かの映画館があった。

テレビほどではないにしても、毎月新作が上映されていたのだ。

売れっ子の俳優は、さぞ忙しいことだったろう。

我が家の親戚も映画館をやっていたので、何回か見せてもらったことがある。

七色仮面」は、見た記憶がある。

母親が、松竹の女性向け映画が好きだったので、街へ出かけるとよく映画館に行った。

末っ子の私は、母親について歩いていた。

 

それから、20年くらい経って、子育てするようになってビデオカメラを買った。

そのうちに、パソコンの時代になった。

ビデオカメラで撮ったビデオを、パソコンで見ようと思ってやってみた。

そしたら、AVIファイルというものになった。

AVIというのは、“Audio Video Interleave"という動画ファイルである。

ところが、AVIファイルというのは、とんでもなく容量が大きい。

難しいことはわからないが、ビデオの動画というのは、言ってみれば写真を並べてできているらしい。

一秒間に24コマの写真を次々と映していくことで、まるで動いていているように見える。

そう言えば、映写フィルムと同じじゃないかと思った。

同じコマのようで、それが微妙に少しずつ変わっていくのだろう。

 

一枚の写真でさえも、かなりの容量が必要になる。

それが、1秒に24コマとなると、1分で1440コマとなり、1時間だと86400コマという、天文学的数字になる。

でも、かつての映写フィルムにはそれだけのコマが収められていたことになる。

世の中には、頭の良い人がいたもので、映像の中の時間によって変化しない部分は、使い回すことによって、データ量を少なくすることにしたらしい。

アニメでも、全部手描きしないで、動く人物などだけ描いて背景と重ねる、というようなやり方だったな。

これで、かなりデータ量を減らして、PCで扱える現実的な容量まで圧縮してMPEGをいう形式のファイルに変換した。

これは、”Moving Picture Expert Group"というやつだ。

私が使ってたのはMPEG1だったが、次の時代のDVDではMPEG2という規格だった。

今使ってるMP4というのは、MPEG4ということなのかな。

私もそれにならってやっていたが、いかんせん当時のPCは能力的に難しかった。

現実的ではなく、しばらくやっていて、諦めてしまった。

 

今は、スマホで簡単に、動画も撮れるし、写真も撮れる。

動画のなかの一コマ、つまり静止画を切り取れば、写真になる。

ビデオデッキには、DVDドライブも内蔵されているから、気に入った動画をDVDにも簡単にできる。

でも、あまりそういう使い方をすることはないかもしれない。

気に入った動画は、ハードディスクに残しておけばいい。

残す必要のないのは、消去してしまうだけである。

容量が足りなければ、外付けハードディスクを接続できる。

なんと、便利なことになったものだろうか。

DVDもハードディスクも、消耗品なのは忘れてはいけないかもしれない。

いつかは使えなくなるから、どうしても残したいものは、移し替えておく必要がある。

 

 

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ロックの時代16 クライ・ベイビー

昨年の夏に、このブログを書き始めた。

1ヶ月くらい経った9月ごろに、こんな記事を書いた。

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昨年は、2020年だった。

その50年前、1970年、私は高校2年生だった。

50年といえば、半世紀である。

もうそれだけの、時間が経過してしまったのである。

 

当時私は、ロックやフォークに興味を持ち始めて、夢中で聴いていた。

その頃に、アメリカの人気ミュージシャンが3人相次いで亡くなった。

たぶん、3人ともドラッグがらみの死だったと思う。

他に類のないようなミュージシャンたちだったと思う。

私より、10歳くらい年上で、27歳で亡くなった。

生きていたら、どうだったのだろうと、しょうのないことを考えてしまった。

歴史を考えるときに、「誰が死ななかったら」とか「誰が生きていたら」など、「もしも」を考えることは意味のないことである。

でも、やっぱり思ってしまう。

ジミ・ヘンドリクスが生きていたら、ジャニス・ジョプリンが生きていたら、ジム・モリスンが生きていたら。

どんな音楽を、やっていたことだろう。

そんな、しょうもないことを考えてしまう。

 

グログを始めて、何ヶ月かは誰も記事を読んでくれた形跡はなかった。

そこで、もう一度書いてみた。

 

ジミ・ヘンドリクス 「パープル・ヘイズ」

ja.wikipedia.org

ジミ・ヘンドリクスは、ギターも歌も、初めて聴いた時に、他とは違ってるのは感じた。

この頃は、ロックの個性的なギタリストが、次から次と現れた時代だった。

エリック・クラプトンジミー・ペイジリッチー・ブラックモアカルロス・サンタナ

ジェフ・ベック、などなど。

なんでも短縮してしまう日本では、「ジミヘン」の愛称で呼ばれていて、当たり前のように通じる。

彼の音楽は、ブルースとロックンロールを融合させたということになるだろうが、「ローリングストーン誌」で、史上最高のギタリスト第1位に選ばれたそうである。

ほんとに、他に類のないロック・ミュージシャンだ、と私も思う。

Purple Haze (Live at the Atlanta Pop Festival) (Digital Video) - YouTube

 

ジャニス・ジョプリン 「クライ・ベイビー

ja.wikipedia.org

この50年間を考えても、ジャニス・ジョプリンに並ぶような女性歌手はいない、のではないだろうか。

でも、私は彼女の死のニュースで彼女の名前を知った。

よほどのロックファンなら、日本でも知っていただろうが、誰でも知ってるというわけではなかった。

アメリカではすでに、存在感のあるシンガーだったのだ、と思う。

その後で、「ミー・アンド・ボビーマギー」という曲がヒットした。

この曲は、フォーク・シンガーのクリス・クリストファーソンの曲で、かなりスローでゆったりした曲である。

ジャニス・ジョプリンの歌を聴いていると、からだ全体で、心の全体で歌ってたのだと、いう気がする。

彼女は、単にロックの世界にとどまらないシンガーだったのだ。

Janis Joplin - Cry Baby - Live 1970 - YouTube

 

ジム・モリソン  「ライト・マイ・ファイア」

ja.wikipedia.org

ジム・モリソンは、アメリカのロックバンド「ドアーズ」のボーカリストである。

この3人のなかでは、もっとも日本で知られていたと思うし、レコードも売れただろう。

「ライト・マイ・ファイア」は、日本では「ハートに火をつけて」という印象的なタイトルで発売された。

それに続く「ハロー・アイ・ラブ・ユー」や「タッチ・ミー」も、ポップと言ってもいいくらいに、親しみやすいサウンドだった。

ドアーズといえば、キーボードのレイ・マンザレクのオルガンの音色が耳に残っている。

ベーシストがいないバンドで、キーボードでベース音を出していたらしい。

The Doors - Light My Fire - YouTube

 

 

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旧水戸街道を行く② 小金宿〜馬橋宿

旧街道を南に向かうと、北東から南西に走る国道6号線と交差する。

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水戸街道と新水戸街道の交差点

国道と斜めに交差した旧水戸街道は、南西に向きを変えながら、国道と並行して進む。

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旧街道は、かなりの広さがあり、十分に車がすれ違えるが、なぜか一方通行になっていた。

初めてこの道を通ったのだが、まさかこれが旧街道とは知らなかった。

しばらく行くと、八柱方向への「けやき通り」という市道にぶつかる。

この市道沿いには、松戸市の「北部市場」があったのだが、数年前に閉鎖し、2年ほど前から住友系の「テラスモール松戸」が営業している。

旧街道は、けやき通りで分断されて、交差点にはなっていなかった。

通りを向こう側に渡ると、かつて「松戸日立自動車学校」という、私が運転免許取得のために通った学校のあった懐かしい道だった。

すでに、自動車学校はなくなっていて、日立関係の物流拠点になっていた。

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自動車学校跡と正面はJR武蔵野線

JR武蔵野線の高架を潜って進むと、斜めに国道6号線に合流する。

国道の向かい側の高台に、神社が見える。

「蘇羽鷹神社」というのがあるのは、この辺りを通るたびに気がついていた。

神社の名前が変わっていて、気になっていた。

この高台には、「二ツ木向台遺跡」というのもあるらしいので、そのうちに訪ねてみたい。

帰ってから調べたところ、神社ができる前には「馬橋城」という千葉氏当主を称していた千葉孝胤が築城したとされている。

その後、千葉氏居城の亥鼻城の鬼門にあった曾場鷹大明神を分祀したものとのことだ。

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蘇羽鷹神社

ここから、しばらくは街道は国道と重なっている。

この辺りは、JR常磐線新松戸駅付近であり、馬橋駅方向に向かうことになる。

500mほど進むと、「八ヶ崎」交差点があり、一里塚址と水戸街道道標がある。

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この交差点で、左方向は「印西道」で江戸幕府の軍馬放育場を管理していた金ケ作野馬方陣屋に通じていたという。

交差点の横断歩道橋を渡って、斜めに進むと馬橋駅の方向に続く旧街道である。

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横断歩道橋から小金宿方向を望む

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横断歩道橋から松戸宿方向を望む

国道から離れて、旧街道を進む。

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旧街道を馬橋方向に歩く

500mくらい歩いていると、右手にお寺があった。

「萬満寺」という臨済宗のお寺である。

鎌倉時代に創建された時は、真言宗だったらしいが、室町時代臨済宗の寺院として再興したとある。

若い頃に、友人が馬橋に住んでいたので、飲んで酔ってこのお寺に来たような気もするがよく覚えていない。

立派な山門を過ぎて、本堂に進む。

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萬満寺本堂

本堂の右脇に、小さな子どもたちが元気に遊んでいて、どうも幼稚園らしい。

この幼稚園も、やはり寺院経営の幼稚園なのだろうか。

帰ってから調べたら、萬満寺に関係のある幼稚園のようだった。

幼稚園のホームページには、次のように書かれていた。

 

 「年長児を中心に静かに座ります。保育に禅の規律の教えを加味して、集団生活の中で自分自身で考え、他を思いやる気持ちを育てます。

 

座禅を取り入れているのだな。

なるほど、こういう幼稚園もあるんだな。

寺院の左手には、「王子神社」という神社があるようだったので、まわってみた。

神社の由来書には、萬満寺の守護神として創建されたとあり、16世紀半ばに熊野の若一王子を勧請し王子権現社としたが、明治6年神仏分離によって、分離されたとある。

かつては、どこのお寺にも権現社という神社があったのだろう。

神仏分離によって、分離され、今も寺院の近くに残っている神社もあれば、無くなってしまったものもある。

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馬橋王子神社

街道は、この萬満寺で方向を45度くらい変えている。

右手に、JR馬橋駅を見て、進む。

再び、旧街道は国道6号線と斜めに合流する。

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旧水戸街道を行く①  中新宿〜小金宿

何ヶ月か前に、「図書館ウォーキング」というのを思いついた。

図書館に行くのに、車で行かずに、歩いて行くのだ。

読書と運動の両方ができて、こんなに都合のいいことはない。

その時に、近隣の図書館までの距離を調べてみた。

こんな感じだった。

千葉県立西部図書館     5.00km

流山市立木の図書館     2.63km

流山市立中央図書館                   7.63km

柏市立図書館本館      5.05km 

我孫子市立図書館本館    8.05km

鎌ヶ谷市立図書館本館    8.31km

松戸市立図書館本館           8.87km

だいたいが、1時間から2時間で行ける行程である。

最後の松戸市立図書館本館を除いては、すべて制覇した。

 

そこで、今回は松戸市立図書館本館を目的地にした。

自宅から図書館まで歩くとすると、国道6号線を歩くことになるが、それでは面白くないので旧水戸街道を歩くことにする。

8.87kmということだが、旧水戸街道は国道から外れたりするので、これよりも距離は多くなるだろう。

10km以上になるだろうから、2時間半くらいはかかるだろう。

地図では、国道6号線水戸街道と表示されていてJR常磐線と並行しているが、駅でいうと、南柏駅北小金駅新松戸駅馬橋駅北松戸駅松戸駅ということになる。

水戸街道は、江戸時代に江戸と水戸藩の城下町水戸を結ぶ脇往還として整備され、20の宿場が置かれた。

江戸を出て、最初の宿場が「千住宿」(足立区)、そして「新宿」(葛飾区)、江戸川を渡って、松戸宿(松戸市)、小金宿(松戸市)、我孫子宿(我孫子市)であり、そこで利根川を渡り、常陸国の取手宿(取手市)となる。

新宿は、当初「あらじゅく」と呼ばれていたが、現在は「にいじゅく」である。

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自宅を出て、旧水戸街道に最も近い方向に向かう。

麗澤大学の正門を通り過ぎる。

麗澤大学は、学生数も少なくこじんまりした大学なので、息子たちが小学生の頃は、学園祭によく来た。

留学生が多いので、いろんな国の料理の店がでていた記憶がある。

近隣の小学生たちは大事なお客さんだったようだ。

先日テレビドラマを観ていたら、ここのキャンパスでロケしたらしい場面が映っていた。

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麗澤大学の交差点を渡り、旧水戸街道「中新宿」を目指す。

中新宿の交差点で、左に曲がると、すぐに「行念寺」という浄土宗の寺が街道に面してある。

室町後期、明応2年(1492年)開基となっている。

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行念寺

ここから、柏方向に300mほど戻ったところに、一里塚があって「香取神社」も街道沿いにあったはずである。

「中新宿」という集落は江戸時代にはあったようなのだが、街道沿いにあるので宿場と関係する名前のようなのだが、調べてもよくわからない。

宿場と宿場の間に、公式ではない「間の宿」(あいのしゅく)という休憩所があったらしいのだが、それにしては、小金宿からは近いし、我孫子宿からは遠すぎる気がする。

松戸宿と小金宿の間には、間の宿として「馬橋宿」がある。

 

行念寺から小金宿に向かうと、道は右にカーブしながら下りになって、正面に緑の山が見えてくる。

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「根木内城址」で、今は「根木内歴史公園」となっている。

根木内城は、室町時代中期から戦国時代にこの辺りを支配していた「高城氏」の居城で、その後「小金城」を築いて移ったといわれる。

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根木内城址

根木内城址の脇を通り過ぎると、国道6号線である。

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かなり大きな城だった根木内城址は、国道6号によって分断され、その北西部は住宅地化されて、完全に失われた。

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城址を分断した国道6号線

交差点を渡り、小金宿に続く旧街道のなだらかな登り坂を行く。

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小金宿への道

それまで、西に向かっていた街道は、八坂神社跡の石碑のある所で、南方に屈曲する。

八坂神社の跡地は、デパートが建っている。

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八坂神社跡地

屈曲点を北方に向かうと、JR北小金駅があり、その先に「本土寺」への参道がある。

本土寺は、文永年(1269年)を起源とする日蓮宗の本山である。

私が、近くに住んでいた頃は、「北のあじさい寺」と言われて、にぎわっていた。

「千葉氏」や「高城氏」の保護を受け、「本土寺過去帳」はこの地域の歴史を知るうえで、貴重な資料となっている。

水戸街道は、屈曲点を南下している。

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小金宿の看板の下の説明板によれば、水戸の徳川家は常府とされて参勤交代の義務がなく、常に江戸に住むことができたが、必要に応じて水戸に帰った。

その際には、最初の宿泊が小金宿となっていて、専用の旅館が置かれたとある。

街道を南下していくと、浄土宗の東漸寺がある。

ここは、江戸時代に関東18檀林という浄土宗学問所の一つとされた名刹である。

境内は、しだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・もみじなど、四季折々の自然を楽しむことができる。

境内をのぞくと、あざやかな紅葉が見えたので、お参りすることにする。

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山門が三つほどあって、やっと本堂である。

この近隣の寺院には、境内には幼稚園を併設していることが多い。

ここにも、幼稚園が本堂の隣の敷地にあった。

ウィキペディアの記事によると、東漸寺の敷地で行われていた寺子屋が、のちに小金小学校になったとある。

そして、昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して東漸寺幼稚園を開設した。

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山門の脇に、幼稚園が見える

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東漸寺本堂

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さらに、街道を進むと「玉屋」という江戸時代末期の旅籠がある。

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内部は民家として使用されていて、立ち入ることはできない。

水戸家の旅館は、小金御殿と呼ばれ、日暮玄蕃という留守居役が世襲していたが、明治維新後、旅館を拝領した。

その後、旅館は郵便局となり、さらに郵便局は移転し、郵便ポストがあるだけである。

小金御殿を偲ぶものは残っていない。

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