晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

ロックの時代21 ビートルズとローリング・ストーンズ

1ヶ月くらい前のことだが、テレビのワイドショーの音楽コーナーで、ローリング・ストーンズを見た。

ミック・ジャガーキース・リチャーズロン・ウッドの三人がインタビューを受けていた。

ちらっと見ただけなので、詳しい内容まではわからないが、新しいアルバムを出すということだった。

80歳になるというミックとキース、そしてもう少し若いらしいロンも、顔はしわくちゃで充分におじいさんだった。

でも、現役のロックバンドで、ミック・ジャガーの歌声は昔と変わらない気がする。

それから一週間後くらいに、今度はビートルズの新曲発売の話題だった。

こちらは、ジョン・レノンが残したテープに、後の三人の声を加えたものらしい。

ジョン・レノンがなくなったのは、1980年だから40年経ってるし、メンバーで一番若かったジョージ・ハリスンは2001年に亡くなっているので20年経ってる。

なんで今ごろ出るのか、不思議である。

 

そんなことがあって、ひさしぶりにビートルズローリング・ストーンズを聴いた。

スマホのおきに入りフォルダにあったのを、車を運転しながら聴いていた。

どちらも、CD1枚もののベスト盤である。

ビートルズが、「1」というヒットチャートの1位になった曲を収録したもので、なんと27曲である。

それだけ、時間的に短い曲が多かったということか。

「ラブ・ミー・ドゥ」、「フロム・ミー・トゥ・ユー」で始まって、「レット・イット・ビー」、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」で終わる。

初期のポップで明るい曲から、だんだんとそれぞれに個性的でインパクトのある曲が多くなっていく。

解散してから発売された最後のシングル曲「ロング・アンド・ワインディング・ロード」で思い出した。

この曲は、プロデューサーが後でオーケストラをかぶせたので、ポール・マッカトニィーが怒ったという記事を読んだことがあった。

当時は、あまりピンとこなかった。

今回聴いてみて、意味がわかった。

この曲は、たぶんポールのピアノ弾き語りであるので、ドラム、ベース、ギターなどは聞こえない。

代わりに、壮大なオーケストラを被せて、合唱まで加えている。

つまり、豪華衣装に、厚化粧で、盛り上げている。

プロデューサーとしては、ビートルズ最後の曲が、ピアノの弾き語りでは格好がつかない、ということだったのだろう。

The Beatles - The Long And Winding Road (Official Video) - YouTube

 

ローリング・ストーンズのベスト盤は、「Big Hits」で12曲入りである。

ビートルズローリング・ストーンズも、レコードデビューは、1962年である。

ビートルズは正味8年間だけれど、ローリングストーンズは60年を超えている。

さっそく聴いてみたら、私の好きな曲が入っていない。

「黒くぬれ Paint It,Black」と「夜をぶっ飛ばせ Let‘s Spend the Night Together」。

いかにも、ローリング・ストーンズらしい曲なのだが、でも、しょうがないだろう。

60年で、たった12曲である。

The Rolling Stones "Paint It Black" The Ed Sullivan Show 1966-09-11 - YouTube

CD2枚組くらいだったら、入ってるかな。

 

ところで、ずっと現役バンドでやってきたローリング・ストーンズはともかく、ビートルズが解散したのは、1970年である。

私が高校2年の時で、53年前のことで半世紀経過しているのだ。

私などは、かろうじて中学高校にリアルタイムでビートルズを経験した。

もっと年若い世代にとっては、ビートルズは歴史上の人物なのだろうな。

中学一年生の時に、ビートルズが来日して武道館でコンサートをやった。

それを白黒のテレビで見た記憶がある。

その時にはすでにビートルズを知っていたので、熱心に見ていた。

いったいいつ頃、私はビートルズを知ったのだろうか。

親戚からもらったビートルズのシングル盤が我が家にあったのは確かだが、いつ頃のことだろう。

デビュー曲の「抱きしめたい」だった。

The Beatles - I Want To Hold Your Hand - Performed Live On The Ed Sullivan Show 2/9/64 - YouTube

ローリング・ストーンズを聴いた最初の曲は、たぶん「テルミー」だろう。

時代はグループサウンズだったので、タイガースかテンプターズがこの曲をカバーしていた。

ローリングストーンズ・テルミー - YouTube

その頃に、彼らは何歳ぐらいだったのだろうと、調べてみた。

ミック・ジャガーとキースリチャーズは1943年生まれで、1953年生まれの私より10歳上だった。

ビートルズで1番年少だったジョージ・ハリスンも1943年生まれである。

他のメンバー、ジョン・レノンリンゴ・スターは1940年、ポール・マッカートニーは1942年だ。

ということは、12歳の私が武道館のコンサートを見ていた時、ジョージ22歳、ポールとリンゴ24歳、ジョンが25歳だったことになる。

なんと、そんな若さで遠いアジアの異国でコンサートをやってたんだと思ったら、驚きである。

インターネットもケータイもなく、やっとテレビの宇宙中継ができるようになった頃だ。

 

高校生になって、月間の音楽雑誌を買うようになって、音楽関係の情報が入るようになった。

ローリング・ストーンズ創立者でリーダーだったギタリストのブライアン・ジョーンズが、バンドを脱退し、その後亡くなったという記事があった。

イギリスでは、アメリカの黒人音楽をコピーするバンドがいっぱい出ていた。

ビートルズローリング・ストーンズも、そんなバンドだったのだと思う。

そのうちに、自分たちでオリジナル曲をつくるようになる。

ビートルズはジョンとポールが、ローリング・ストーンズではミックとキースが曲をつくっている。

そして、それによってバンドの個性が明確になっていった。

曲を作れないリーダーは、バンド中での居場所を無くしてしまった、ということらしい。

YouTubeの中に、アメリカのテレビの音楽番組「エド・サリバン・ショー」に出演していたイギリスのバンドのビデオを多く残されている。

「ブリテッシュ・インヴェイジョン British Invasion」なんて言葉が使われていたな。

「英国の侵略」の時代だったとしたら、現在はどんな時代なのだろう。

 

 

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かすむこまかた⑧ 菅江真澄テキスト

此事終(ハツ)れば、れいの優婆塞出(イデ)キて法螺を吹キ太鼓(ツヾミ)うてば、もろ/\の神供(ヒモロギ)をおろし、円居(マドヰ)しける衆徒(ホフシ)の前に居(スヱ)るをいなだき、神酒(ミキ)たうばりなンど、やゝ此直会(ナホライ)はてて、衆徒ひとりすゝみ立てこわづくりして、

 

「上所(シヤウドコ)、下所(ゲドコロ)、一和尚(イチワジヤウ)、二和尚(ニ)、三和尚、其(ソノ)次々(ツギ/\)の下立(ゲりフ)新人(シムニフ)まで穀部屋(コクベヤ)へ入給(イラヒタヘ)と申」と、いと長やかによばふ。

是を喚立(ヨビタテ)と云ひて中老の役(ワザ)也。

御仏(ミホトケ)の脇方(カタハラ)より、承仕とて衆徒一ト人リ出て、

 

「上所、下所、一和尚、二和尚、三和尚、そのつぎ/″\のげりふ、しむにふまで、こくべやへいらひたへと申スな」

 

と、いらふを聞(キイ)て、こゝら群(ム)れ集(アツマ)る祭見の中より、

 

「瓠(フクベ)鎗(ヤリ)で突(ツク)といふが痛(イタ)い痒(カユ)いと申スな」

 

と小ごゑに真似すれば、大ごゑにて、どよめき笑ふ事久し。

やをら田楽はじまりぬ。

 

高足(タカアシ)、腰鼓(クレツヾミ)なンどせしとは姿(サマ)かはりて、此処(コゝ)に舞ふ田楽の小法師等(ラ)は、胡桃木(クルミノキ)の膜皮(シラカワ)もて編たる大笠の、軒に垂(シデ)とりかけたるをかヾふりて、山吹色の袖テ広ロ衣に袴着て、桶の蓋の如(ゴト)なるいと/\薄き太鼓を胸にかゝへて、此三人が舞(マ)ふ。

こは■(木+篙)(サヲ)に登(ノボ)り飛(ト)び/\躍(ヲドリ)て、今見る、焼豆腐さませし曲(ワザ)はせざりけり。

烏帽子にしでとり掛たるが出たり、是をしてでんといふ。

物の上手をもはら仕手(シテ)といふは師手也、能(ノウ)なンどに師手(シテ)、脇(ワキ)あり。

『盛衰記』に、知康はくぎやう(屈強)のしてでいの上手にて、つヾみの判官と異名によびけりと見えたるも、師手(シテ)弟(テイ)の義なるにやといへり。

小鼓(ツヾミ)、銅鉄子(ドビヤウシ)、笛、編竹(サゝラ)に、はやしたて、めぐり/\て踊りはつれば、あまたの衆徒太鼓うちて、

 

「そよや、みゆ、ぜんぜれ、ぜんが、さんざら、くんずる、ろをや、しもぞろや、やらすは、そんぞろろに、とうりのみやこから、こゝろなんど、つヾくよな」

 

とうたふ。

是を唐拍子(カラホウシ)とて、えしもそれとは聞キわくまじかりき事ども也。

 

此からほうし終(ヲヘヌ)れば、しで掛ヶ烏帽子ひきれたる、わかほふし、ひとり/\踊りぬ。

里人是を

 

「兎(ウサギ)飛(バネ)」

 

といふ。

此曲はつれば黒き仮面(オモテ)かけて、うらわかき衆徒出て、あらぬふりして、うち戯れて入ぬ。

そのさま能(サルガウ)の狂言(ワザヲギマヒ)のごとく、間(アハヒ/\)にかゝる戯をのみなし、また三冬(サムトウ)の冠とて、笏のごときものを三ところに立(タチ)たるそのさま、熱田ノ社の正月(ムツキ)ノ十一日のべろ/\祭に、兆鼓(フリツゝミ)ふる神人(カウニム)の冠のごときかうぶりをいたヾき、白衣清げに着なし、王(ワウ)ノ鼻(ハナ)の面(オモテ)をかヾふりて、左ンの袖(ソデ)に水精(スイサウ)の数珠(ズヾ)掛け鳩(ㇵト)ノ杖(ツヱ)を衝(ツキ)て、右ギに白幣(シラニギテ)を持(モチ)、桑の弓、蓬の箭をおひて祝詞(ノリト)立ながらとなふ、ひめたる事とてつゆも聞えず。

 

また、れいの小法師あまた出て鈴うちふりて、たはぶれ唄(ウタ)うたひ、ざわめかしてはせ入りぬ。

老女の面(オモテ)をかけてきぬかづき、神の御前に蹲りてくしけづるまねをし、神を拝礼(ヲロガミ)、たちよろぼひた(倒)ふれ、ぼけ/\しきさましける、是を「老嫗舞(ウバマイ)」といふ。

うばまひ入ればまた若小法師、産婦(コウメル)まねしてたはぶる。

 

しかして若女の温顔ノ仮面(オモテ)に、水干にみだれあしの画(カタ)ぬひたるに精好の袴着て、鈴と扇とをもて舞ふ、是を「坂東舞」といへり。

また禰宜(ネギ)とて布衣、烏帽子にて二尺(フタサカ)まりの竹の尖(ウレ)にわらをわがねむすびつけて、是を持て此舞ふ前に踞(ウヅクマ)る。

坂東舞をへて法師の顔に附髪(ツケガミ)ゆひて、わがどちは、ものしらぬものなれど、あまたの人を笑(ワラ)はせて来(ク)べしと楽屋よりたのまれて出たり。

人のわらへば我が役はすむ也、いざ笑ひてよといへば、人みな大ごゑをあげてわらひどよめけば、さらば、よしや世中とて入りぬ。

小法師二人、児(チゴ)装束(サウゾク)に扇をさしかざしてこゑたかく、

 

「王母がむかしの花の友、桃花の酒をやゝすらむ、さうまん是を伝へて、今が我に至るまで、栄花の袖をひる返す」

 

と、返し/\うたひて入ぬ。

またたはぶれ事はじまり、出来(イデコ)/\唄(ウタ)うたはんにといへど、とみにもいでこざりければ、やよ/\と呼べどさらに人ひとりもいでねば、おのれひとり唄(ウタ)うたひてはせ入ぬ。

かくて京殿といふが出(イテ)ぬ。

 

「吾(ワレ)は都堀川の辺リに住む左少弁富任とはわが事也、たいしやう(太上)きんしう(今上)二代〔堀川院鳥羽院〕の勅願でんかのめい、くいやうのしやうちなり、青竜、白馬〔青竜白馬寺〕の旧法(キウハウ)をつたへて」

 

と、いとながやかにとなへて、

 

「いかに有吉(アリヨシ)やさふらふらむ、小人衆徒の前にて、らんぶの一トさしも、げざむ(見参)入よ、なうありよし」

(有吉詞)

 

「ほふ、ひえのやまは三千坊、坂本は六ヶ所、大津の浦は七浦八浦九浦十浦、粟(アワ)田口、かぢむろ、つちうてば、てへ/\こはいかに」

 

と、太鼓の小撥(ホソバチ)の如(ヤウ)なるものを左右の手に持て舞ふ。

 

「みやこをいでて街道はる/″\と、日数経て、あづまの旅にも成(ナ)りぬれば、京をしのぶのすりごろも、松山越えて衣河、そのごむぜむ(御前)こそ恋しけれ。

いかに、あれに見ゆるはありよしか、はつと申たれば、口の小(チイサ)き木銚子にて、清(スミキツ)たる濁(ニゴリ)酒(ザケ)を給(タマ)ふ、此ごんぜんこそ恋しけれ。

十二一重のきぬのつまをとり、立出させ給ふ御すがた、げにもらうたげなる風情して、一首はかうぞあそばされける。

 

「朗(サエ)る夜の月にあやめは見えにけるひく袖あらばともになびかむ」

 

「この有吉は、つきほろけたる、うす檜皮(ヒハダ)のをのこにてはさふらへども、やがて歌の御返事を申ス、これ咳病(ガイビヤウ)こゝちにて」

 

とて、かの小撥(ホソバチ)の如(ゴトキ)ものもて己(オノ)が黒半仮面(クロキワレオモテ)の鼻うちおさへて、鼻声になりて、

 

「わがとのゝ東くだりのよな/\に御前(ゴムゼム)ありよし月をながめむ」

 

「いざせんな、あらおもしろや」

 

有吉は富任の従者(ズサ)なり。

富任扇の本末(モトスヱ)をとりて、

 

「しら玉椿八千代経てん」

 

とうたひ舞(マエ)ば、有吉も舞ふ。又

 

「心解(トケ)たる」

 

と富任がうたへば有吉声おかしう、

 

「氷とけたるウ」

 

と、烏帽子をうちふり打ふりもて舞ひ、富任、有吉も入れば、また戯(タワフ)るゝわかほふし、ゑひごゑに歌うたふ。

やをら、たばふれほうしの入れば「延年」といふ詠曲(ウタイモノ)あり、そは「をみなへし」、「姨捨山」、「とヾめ鳥」、「そとわ小町」也。

二年(フタトセ)に、この中の四曲(ヨサシ)を舞ふ式(タメシ)也。

此度は女郎花、姨捨山を舞(マ)ふ也。

をみなへしを舞ふ。

 

 

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6枚目の図書館カード

ひさしぶりに、図書館ウォーキングに出かけた。

小金原にある松戸市立図書館の分館に向かうことにした。

朝から天気も良く青空で、気温もだいぶ過ごしやすくなっている。

今年の夏は暑かったので、遠出は避けていた。

遠出のウォーキングは、いつ以来だろう。

小金原までは、今まで何回か歩いたり自転車で行っている。

近隣センターや図書館が入っている建物は、小金原団地の中央部にある。

歩いて1時間はかからず、40分ぐらいのものだから、距離にして2キロちょっとである。

ちょうどその中間ぐらいが、柏市松戸市の境になる。

自宅からは南西方向になるが、できるだけ最短距離にしようとすると、住宅地を斜めに進むことにする。

途中に「酒井根下田の杜」という里山もあって、都合がいい。

 

kankou.kashiwa-cci.or.jp

 

私の住む光ヶ丘から松戸市である小金原団地は、柏市松戸市の境にある。

地図アプリで見ると、こんな感じである。

地図アプリ「スーパー地形」 光ヶ丘団地小金原団地

右上に光ヶ丘団地あり,小金原団地の中央部にある図書館分館は、左下の郵便局マークの上部にある。

それぞれの団地は平坦な台地上にあり、その間には落ち込んだ低地がある。

緑色で表示されている台地は標高25メートル前後、茶色で表示されてる低地は15メートル前後で、10メートルほどの高低差がある。

県道に沿っていくよりは、ショートカットにもなるし、歩きやすいのがいい。

麗澤大学生涯学習プラザ

自宅を出て、麗澤大学生涯学習プラザを見ながら、光ヶ丘団地を進む。

この施設は、完成してからずいぶん経つがまだ敷地に足を踏み入れたことがない。

社会人向けのオープンカレッジを開設していて、様々な講座があるらしく、大学院もあるようだ。

光ヶ丘団地が建て替えになる前は、団地北部には光ヶ丘マーケットという昔懐かしい市場のような商店街が一つ屋根の下に同居していた。

それが、建て替え時に麗澤大学に譲渡された。

他には、学生向けのスペースの建物もあって、モスバーガーが入居している。

団地の西部は、民間に譲渡され、マンションや病院になっている。

かつての光ヶ丘団地に比べて、かなり規模は小さいものになっている。

光ヶ丘グリーンタウン

団地を抜けて、県道を100メートルほど進むと、下田の杜の入り口である。

下田の杜

下田の杜に隣接して農家があるので、大きなカキの木が何本もあって、実をつけている。

柿好きの私にとっては、うらやましい。

こんな木が、一本くらい欲しいものである。

NPOが管理しているので、活動のための建物がある。

湧き水のせせらぎが池に流れこんでいて、畑もある。

この池から流れ出て、住宅街の脇を行くが、暗渠になって隠れている。

並木道をしばらく歩くと、左側に小金原公園のしばらく住宅街を歩くと、目の前に小金原団地が見えてくる。

団地から斜面が10メートルくらい低くなって、そこを上富士川がながれていて、そこに合流するのである。

たぶん、この川が柏市松戸市の境界だ。

富士川は、北上して根木内城址公園の脇を流れ、さらに進んんで流山の免許センターのあたりで坂川に合流する。

合流した坂川は、今度は松戸市内を南下して、なんと市川市との境である国府台で江戸川に流れ込む。

坂川(さかがわ)というのは、逆川(さかがわ)なのかもしれない。

このあたりは、土地に高低差が少ないので、逆流したのではないかな。

富士川の低地に、酒井根の住宅地と小金原の台地を結ぶ橋が架かっていて、それを渡ると小金原団地の並木道に出る。

イチョウ並木

しばらく行くと、交差点を過ぎ小金原公園である。

気持ちのいい雑木林を歩くと、どんぐりが落ちている。

久しぶりに団地の中央部に来たが、いずこの団地もおなじだと思うが住民の高齢化でかつての賑わいはない。

それでも商店街はがんばってる、そんな感じだ。

今日の目的地である図書館分館は、市民センターの二階にある。

隣には交番もあって、団地の中心である。

かつてはさらに病院もあって、私の父も入院したことがあるが、今は老人介護施設になっている。

病院は、流山の方に移ったようだ。

 

今日、松戸市の図書館分館に来た目的は、図書館の利用者カードを作るためである。

今までに、松戸市の図書館本館にも行ったことがあるし、この分館にも来ているがカードを作っていなかった。

近隣の市立図書館が、電子書籍などに対応を始めたということで、調べたことがある。

柏と流山は、電子図書館ということで、自宅でも電子書籍を借りたり返却したりできる。

松戸は、自宅での貸し借りはできないようだった。

図書館内のPCを使って、図書館が契約している民間のデータベースなどにアクセスすることはできが、自宅のPCではできない。

ただ、音楽データベースについては、自宅でもできるようだった。

それが、どんなものか試してみようと思ったのだ。

音楽データベースのポスター

受付カウンターの前に、ポスターがはってあった。

ナクソス・ミュージック・ライブラリー」である。

なるほど、専用ソフトもいらない。

100万曲以上聞き放題。

私のPCの中にも、聞ききれないぐらいの音楽ファイルはあるのだけれど。

クラシック音楽だけではあるが、とりあえず利用者カードを作ろう。

アクセスのためのIDなどは、後でメールで申し込むようだ。

 

これで、図書館カードが6枚目になった。

柏市我孫子市流山市鎌ヶ谷市、そして千葉県立西部図書館が、すでにある。

だいたい、「利用カード」とか「利用者カード」となってるが、千葉県立西部図書館はなぜか、「資料貸出券」とお役所的である。

6枚目の図書館カード

館内の蔵書を見ていて、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」シリーズが気になった。

司馬遼太郎さんは、日本全国だけではなく世界の国々も歩いている。

それなのに、テレビのシリーズをちょっと見たくらいで、まったく読んでいなかった。

このシリーズだったら、ここでなくてもどこの図書館にもあるだろうという気はした。

全部で43巻あったが、第3巻「陸奥のみち」と第29巻「秋田散歩」を借りた。

気になっている人物である安藤昌益と菅江真澄のことにふれていたからである。

司馬遼太郎さんが、この二人についてどのように書いてあるか気になった。

 

自宅を出たのが午後一時ごろだったが、帰宅したのが三時半くらいだった。

たった2時間半で、行って来れるのだ。

 

 

かすむこまかた⑦ 菅江真澄テキスト

「忠衡密渡蝦夷ニ」といふくだりに

 

「其夜泉三郎忠衡は、郎徒共に暫く防キ矢を射させて後は館に火をかけ、自害の体にもてなし裏道より遁れ出て終蝦夷こゝろざし、津軽ノ深浦へとぞ落行ける。

頃は六月廿日余り、深浦の港は兼て秋田ノ次郎が謀ひにて、交易渡海船一艘此港に泊して松前蝦夷の安否を聞居たりしが、忠衡は姿をやつし、主従十人余り賈人(アキビト)の体に見せ、羽州秋田の者なるが、平泉へ商売の為に久しく滞留し此度松前へ渡海せん為と偽り、此船にこそ来りつれ。

又忠衡がはからひにて、義経の御台所、姫君のいまだ四歳になり給へるを抱き、思ひ/\に姿をかへ深浦の辺に忍びおはせしが忠衡介抱し奉り、増尾十郎権頭兼房が一子、増尾三郎兼邑とて少年十六歳なりけるが、御台、姫君の御先途を見届け奉らむと高館の城を忍び出、泉三郎が方に隠れ住みしが、此度御供にぞまゐりける。

其外秋田が郎徒、並に船頭、水主、梶取合三十余人、六月廿九日の黎明に深浦の港を出帆せしが、折しも心に叶ふ追風なかりしかば、小泊といふ処に数日泊して順風を相待しに、松前船一艘此港に着岸しける。

如何なる船やらむと思へば、秋田次郎尚勝が郎徒松前の者を従へ、蝦夷の白紙鼻より来りし船なり。

忠衡主従、御台をはじめみな/\大に悦び、急ぎ郎徒に遇ひて様子を聞クに、義経主従恙なく松前に着岸し、夫より今は端(クチ)蝦夷白紙鼻といふ処におはしける云々」

 

と見え、また「海存、尚勝帰于日本ニ」といふくだりに、

 

「既に義経、上の国に凱陣し給ひければ、亀井、鈴木を始めとし伊勢三郎も仮墨太〔今云亀田〕より来り、志夫舎理(シブシヤリ)の勝軍を祝しける。

常陸坊海存は義経に向て、某儀は是より御暇を給はるべし。

いまだ学業熟し申さず候(サフラ)へば駒形嶽に皈り、彼異人が教しごとく仙道に入て再び神通を得ば、いよ/\君を守リ奉るべしと、諸大将にも懇にいとま乞をぞなしける。

義経も、此度汝が来る功にあらずンば志夫舎理(シブシヤリ)の大敵を討取ル事難からむと、いとヾ名残を惜み給へども、元より留る気色なければ御暇をたまはり、又々渡り来るべし、我も此嶋を従へなば巡り会ふべき折こそあらめと、日本渡海の船など下知し給ひければ秋田ノ次郎尚勝進み出て、某も君に従ひ奉り、君の武徳を以て年来ノ仇敵丹呂印(タムロイム)を討し事、日来の本望何事か是に如(シカ)ん。

然る上は一ト先本国に立皈り妻子にも遇ひ、重て再び此地に渡り、尚も兵粮運漕は某沙汰し申べしと義経に懇に暇乞し、常陸坊海存、並に松前の安呂由(アムロエ)と共に同船し、上ノ国海浜より本国へぞ出帆しける。

係りし後は松前より上ノ国までの通路自由にして、蝦夷の人民太平をぞ謡ひける云々」

 

と見えたり。

 

〔按ルに、上ノ国に大平山あり、また天河(アマノカワ)といふ港川あり、それを今マ浦人天河(テンガ)太平といふはいにしえの諺にや〕しかして上の国にて嶋麿君誕生あり。

また秋田ノ次郎尚勝一とせまり本国に在りて、こたびは妻もろとも松前へ渡りぬ。

 

其物語に云、

 

「秋田次郎尚勝は、常陸坊海存と共に過にし六月の末に松前を出帆し、海上難なく日本の地へ着ければ常陸坊と別々になり、商人の姿に身をやつし本国秋田に帰りしが、頃は日本建久二年鎌倉の武威盛にして、過にし文治五年八月には、奥州に頼朝自ラ軍兵をひいて御館(ミタチ)攻め給ふ。

厚加志山(アツカシヤマ)〔真澄按、重槲山にして、柏木などいと按茂きを厚しといふ。

此地青葉山の近きに在り〕に合戦あり、終に御館(ミタチ)ノ泰衡は家人河田ノ次郎が為に討れ給ふ。

奥州も鎌倉殿の有(ウ)となりし事を聞キ涙を流しける。

されど本国秋田は静にして渡海も自由なりければ、密に兵粮の為米穀を積て蝦夷に送り、又蝦夷の産物云々など本国へ積のぼせ交易日頃に十倍云々なンど見え、また奥蝦夷未曾久(ミソク)は蒙古と合戦度々に及びしが、程(ホド)なく義経諸軍勢を催し、前後八年の間に未曾久の乱を静め蝦夷を一統し、太平の政行れける云々。

秋田次郎尚勝も後は松前にいたり住み、義経も後に未曾久に住み給ひ末はもろこしに至り給ひし事とおもはれたり。

さりけれど御家人身方、みな命をまたくし蝦夷国を治めたまひし。

うべも、平家の入水せし人々の末今も処分に在るを見て、その世ぞしのばれたる」

 

此平泉の金堂、講堂、法華堂、南大門、大阿弥陀堂、小阿弥陀党、慈覚大師堂、無量光院、白山社、日吉社祇園ノ社、天神ノ社、熊野十二所ノ社、金峯山、鏡山、隆蔵寺、伊豆権現ノ社、護摩堂なンどかぞふるいとまなき其(ソノ)甍々(イラカ/\)も、ただ礎を見るのみ、いとヾその世ぞしのばれたり。

また金雞山(キンケイサム)といふ山あり、そは清衡の時世ならむか、黄金(コガネ)の鶏(ニハトリ)雌雄二翼(メヲフタツ)を鋳(イ)させて、埋みおかれしよしをもて金鶏山とはいへり。

こゝにうたふ

 

「旭さすタ日輝(カヾヤ)く木の下(モト)に、漆(ウルシ)千盃(セムバイ)こがね億置(オクオク)」

 

といへるは、此金鶏山をさしていふといへれど、此歌はいにしへの童謡ならむか。

出羽、陸奥に、いさゝかの違(タガ)ひはあれど処々に在り。

かゝるふる所、かなたこなたと見ありき千葉氏の家(モト)にいたり、日のくら/″\になりて宿を出る。

此あたりの事は『吾妻鑑』にみなしるし給へど、つばらかにはえしも聞えず。

しかして摩陀羅神ノ御堂(ミダウ)に入りぬ。

宝冠ノ阿弥陀仏ませり、此みほとけの後裡(ウシロ)の方に此御神を秘斎(ヒメイツキ)奉(マツレ)り。

摩多羅神は比叡(ヒエ)ノ山にも座(マセ)り。

まことは天台の金比都権現(コムピラノカミ)の御事をまをし、また素盞烏尊ともまをし奉る也。

また太秦(ウヅマサ)の牛祭(ウシマツリ)とて王の鼻の仮面(オモテ)をかヾふり、たかうななどをいなだき牛に乗り、手火炬(タヒマツ)うちふりて摩吒羅神の御前をはしる。

また弘法大師の祭文あり、此事『都名所図会』につばらか也。

やをら神祭(マツリ)はじまれり。

まづ篠掛(スズカケ)衣着(キ)たる優婆塞出(デ)て、

 

「八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を」

 

と太鼓(ツヅミ)百々(タウ/\)うち鳴(ナラ)して謡(ウタ)ひ、また

 

「千代の神楽を奉る」

 

とうたひ、宝螺吹たて神供くさ/″\そなへ奉りて、隆蔵寺の法印紅色(クレナヰ)の欝多羅僧に、みなすいさう(水晶)の念珠(ズズ)をつまぐり、浜床(ハマユカ)の上に座(ノボリ)あまたの衆徒(スト)居ならびて、優婆塞は入りぬ。

御誦経(ミズキヤウ)の声尊く常行三味といふ事をおこなひ、梵唄(ボムバイ)なンどもうたひはつれば、阿弥陀経を誦(ヨミ)つゝ立て神の御前をおしめぐり、また柳の牛王といふものを長き竹のうれに夾(ハサミ)て、さゝげもてめぐれり。

 

 

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クマ出没 注意!

二十代の頃に、秋田県中央部の森吉山に一人で登っていた。

そしたら、こんな看板があった。

「クマ出没 注意!」

アスファルト舗装はされていないが、トラックの通れるような広い林道である。

「注意」と言われても、クマよけの鈴も持っていなかった。

まあ、大丈夫だろう、と歩き続けた。

目的地は、営林署の作業員用の宿舎である。

かなり大きな二階建ての建物だが、登山者用に開放されていた。

私は2階に陣取って、寝袋を広げた。

管理人はいなくて無人なので、自家発電の設備は動いてなくて、電灯もつかない。

夜になると真っ暗で、他に登山者はいなくて、私ひとりになった。

炊事場に、山の湧き水を引いた蛇口があって、水は流れっぱなしだった。

水に空気が混じっているのか、ときどきとんでもなく大きな音を立てた。

寝つこうとすると、その音に驚かされた。

しかも、真っ暗な中広い建物にひとりで、ぐっすり寝れなかった。

その時は、クマ出没の看板のことは、忘れていた。

熊が出るかもしれないと考えていたら、怖くてとても寝ていられなかっただろう。

40年くらい昔のことである。

今なら、怖くてとても泊まれない。

 

この数週間、テレビのニュースでは、日本の至る所で熊が現れたと伝えている。

私の郷里である秋田県は、毎日のように熊が現れて、死者や負傷者が出ている。

秋田大学の構内にまで、出没している。

私は、青森県との境の白神山地の南麓の山村で、生まれて育った。

18歳で秋田を離れるまで、熊が出たということを聞いたことがなかった気がする。

一度だけ、カモシカが捕まったという話は聞いている。

だから、熊がいるなんて考えたことがなかった。

たしかに、秋田県の北部は熊狩りを生業にする「マタギ」という集団が、最近まで残っていたことは知っている。

もともと熊の多い地方だったのだろうが、熊の行動範囲が広くなったのか、それとも熊の頭数が増えているのか。

www.police.pref.akita.lg.jp

今年は、夏の気温が高すぎて、山のドングリなどの生育が悪かったのが、熊が里に出てくる原因じゃないか、 と言われている。

そう言えば、私の住む集合住宅の敷地に隣接して、柏市の公園がある。

滑り台やブランコ、鉄棒、砂場のある子どもの遊び場のための公園である。

他にある公園と違うのは、樹木の異様な多さである。

もともとが、森林だったようで、公園の半分くらいは林のままである。

遊び場にも樹木が多く残っていて、秋になるとドングリがいっぱい落ちている。

先日、孫娘が遊びに来て、ブランコに乗るというので、公園に行った。

最近できるようになった「立ち乗り」を見せてくれた。

孫娘のブランコを見ながら、自分の足元を見ると、ドングリが落ちている。

ところが、いつものドングリと違っている。

形もやせていて細身で、例年のようにぷっくりしていないし、ツヤもない。

色もきれいな茶色ではなく、半分緑色の部分が残っていたりする。

これって、やはりドングリの生育が良くなかった、ということだろうか。

 

私の育った郷里の村は、白神山地から流れ出る川沿いにある山間の農村だった。

でも、同時に林業の村でもあった。

父は木材関係の仕事をしていたし、母の兄は営林署に勤めていたし、私の上の姉も営林署に勤めている人と結婚した。

なにしろ、自宅の数十メートル前に、森林鉄道の線路があった。

木材運搬用の鉄道である。

終点の国鉄の駅近くには、大きな製材所があった。

とにかく、多くの人たちが山の中で働いていたのだろう。

それは、日本全国の山間部で同じだったと思う。

 

今は死語となってしまったが、「三公社五現業」という言葉があって、春闘など賃上げなどの時期に、マスコミで使われた。

政府が行なっている国営事業のことだった。

「三公社」は、日本国有鉄道日本電信電話公社日本専売公社であり、「五現業」は、郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売である。

他の公務員と同様に、団結権と団体交渉権はあるが、争議権は認められていなかったので、毎年のように問題化していた。

中曽根内閣の頃に、国営事業の民営化が進められ、三公社と五現業のうちの郵政は、いわゆるJR、NTT、JT日本郵便などの「特殊会社」となった。

その他の現業は、「独立行政法人」となったが、国有林野事業だけは「企業的運営廃止」となっている。

安価な輸入木材の増加によって事業が困難になっていて、赤字が膨れ上がっていた。

私は、1970年代に郷里を離れていてよく知らなかったが、営林署などの事業は大幅に業務縮小されていたのだろう。

つまり、山で働く人たちは考えられないぐらいに、少なくなってしまったのだと思う。

 

秋田県の熊出没情報によると、10月までで今年の出没情報受理件数は 2,388件となっている。

これって、とんでもない数字じゃないのかな。

いったいどれだけの熊が、秋田の山にいるのだろう。

山間の村は、過疎化が進んでいるのだから、山に入る人はどんどん少なくなっている。

住んでる人間より熊の方が多い、というのが冗談でなくなる、こともあるかも知れない。

 

 

 

 

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かすむこまかた⑥  菅江真澄テキスト

また康元、正嘉のころならむ、相模守時頼、最明寺して落飾(スケシ)たまひて、法ノ名を覚了房道崇と号(ナノリ)て国々めぐり給ひ、こゝにもしばし杖を曳(ヒキ)とめられしといふ庵の跡あり。

また舞鶴(マヒヅル)が池も雪に翅(ツバサ)のふり埋れ、梵字が池、鈴沢(スズサハ)の池、柳の御所は、清衡、基衡の館の跡にして、其むかし江刺ノ郡豊田ノ館をうつされて、豊田ノ御所とも云ひしと)なむ。

又秀衡、泰衡ノ館は伽羅楽(カララ)ノ御所といふを、人みな、からの御所と呼(ヨベ)り。

また泉ノ御所ともいへる、そは泉酒(イツミサケ)とて豊酒(トヨミキ)の涌(ワ)キたる事あり、酒は栄(サカエ)のよしをもて、居館(ヤカタ)は泉ノ御所とも名附られつるものか。

泉酒の涌出(ワキデ)し池の跡を今は泉崎といふ、また泉三郎忠衡も此処に住みて泉とはいへるならむ、和泉(ニギイツミ)のよしにはあらざるべし。

また正月(ムツキ)のやらくろずりの唱歌(ウタ)に、

 

「泉酒(イツミザケ)涌クやら、古酒(フルサケ)の香(カ)がする、妾持(ヲナメモチ)の殿(ト)のかな」

 

また、今年酒が涌やら、去年酒ケの香がすると唱(ウタ)ふ処もありき。

かたふかといふ処あり、そは片岡ノ八郎弘常が館跡也。

また鈴木ノ三郎重家が館ノ蹟(アト)は弘台寿院〔中尊寺の本号也〕の山の西ノ麓に在り。

また『円位上人選集抄』に誌(カケ)る、その尼寺の跡あり。

また花立山といふ山あり、そは基衡の妻(ツマ)、某(ソレ)ノ年(トシ)の四月(ウヅキ)二十日に身まかり、此室(ヲミナ)もろ/\花を好(スケリ)とて、其日にあらゆる花を彩作(イロドリ)りて此山にさして、室(ヲミナ)のなきがらをその花立山に埋てけるよし。

基衡の室(ツマ)は阿倍ノ宗任ノ女(ムスメ)にして、和歌(ウタ)にも志シふかかりける人にや、木草花をになうめで給ひしといふ。

今も四月廿日には僧(ホフシ)あまた出て、かりに葬(ホフリ)のさまして、目をすり掌を合せ数珠(ズズ)をすり幡を立テ、宝蓋(テムガイ)、宝螺(ホラ)、梵唄(ボムバイ)をうたふ。

是を四月の哭祭(ナキマツリ)といふ、もともあやしき祭也。

むかしはこの哭(ナキ)祭の日は、知るしらず、僧等(ホフシラ)とともに経をうたひ金鼓(コムグ)を鳴らし、あるは、その声どよむまで、よゝと哭(ナキ)しといひつたふ。

また忠信、次信が館跡は、高館の下なる地(トコロ)の岨めける処也。

義経の御館(ミタチ)は高館とて、いと/\高き処に在りて、その乱ノ世に九郎判官、これまでとて怨(エムジ)たる一章を口に含(フゝミ)て御妻子(オホムメコ)ともにさしつらぬき、その太刀もて腹かき切リ給ひしは文治五年閏四月廿九日、御年卅三、法名(ノチノチ)通山源公大居士と彫(ヱリ)て、霊牌は衣川邑の雲際寺にをさむる也。

また『清悦物語』高館落のくだりに

 

「判官、兼房をめして今は生害あるべしと仰らるゝに兼房つゝしみて申上るは、身方残らず討死と聞かせ給ひて御前ム様も、御両人の公達もたヾいま御生害なし給ふと申シ上れば、義経、今は心やすしと仰られて、御坪の内の岩に御腰をめされて、金念刀(コムネムタウ)にて御腹十文字にぞきらせ給ひける。

兼房、御■(言+定)なればとて、御前にさふらふとすゝみ寄リて御首をうちとり奉りて、兼房も腹十文字にかっさばき五臓を■(爪+國)(ツカミ)取出して、義経の御首をわが腹の内におしかくし、おのが衣を以て巻てそ息絶たる。

清悦、常陸、近習二人して御所に火をかけて一時のうちに煙とぞなし奉りたるは、文治五(一一八九)年閏四月廿八日より同晦日まで三日三夜の戦ひにて、高館の御所落城せり。

其時衣川の流血の色に染めて、三日四日水の色を見ざりし」

 

と見えたり。

また『上編義経蝦夷軍談』高館落のくだりに

 

義経も権頭兼房が月れにいとヾ涙にむせび給へども、とても落べき気色の見えざれば云々。

杉ノ目ノ太郎行信は義経ノ顔面(カホニ)能ク似たればとて御姓名を犯(ヲカシ)奉り、義経の御身に替りて大将となる。

常陸坊海存も存る子細のさふらへばとて城に残りて一軍し、趾より追付奉らむ云々。

高館に押寄(ヨ)せ勝負を決むと、文治五年閏四月廿九日泰衡が舎弟本吉ノ冠者高衡を大将とし、長崎ノ太郎佐光、同次郎俊光、照井ノ太郎高春等三万余騎を三手に分け、衣川の高館におし寄る。

城中にはかねて覚悟云々。

早や行信は自害しければ、兼房即時に介錯し、首を錦の直乗(垂)におしつゝみ座上に直し、其身も腹十文字にかき切れば海存又是を介錯し、其まゝ処々に火をぞかけたりける。

煙にまぎれて、常陸坊は跡方もなく落行ける」

 

同五巻「泰衡攻泉三郎忠衡ヲ」くだりに

 

「去程に日本奥州には、泰衡が舎弟泉三郎忠衡は義経に志気(コゝロザシ)清く、勅命をさみせしなンどかねて叡聞に達し、違勅の罪に依て急ぎ忠衡を誅すべきよし、過にし文治五年六月七日鎌倉の飛脚奥州に到着せり。

同キ十三日には泰衡が使者として、一族新田(ニヒダ)ノ冠者高衡、義経の首を黒漆の櫃に入れ美酒に浸し、下人二人に荷せ、腰越の浦まで参着し此由を言上す。

是に依て、首実検として和田ノ太郎義盛、梶原ノ平三景時、各鎧直垂を着し甲冑の郎徒廿騎相具し、腰越に来て首実検を遂にける。

〔東鑑に此首分明ならず云々とあり〕是に依て腰越へ御使を下され、泰衡、義経が首を討て送らる条神妙也。

就て泉三郎忠衡、よしつねに無二の忠志を尽(ツクセ)しよし、違勅の者安穏なる事を得むや、急ぎ忠衡を誅せらるべし。

然らずンば泰衡もともに違勅の名を得られむか。

是頼朝が計らひに非ず、勅命の趣キ斯の如くなり。

此旨皈て泰衡に申べしと仰遣はされ御暇を給はりける。

新田(ニヒダ)ノ冠者髙衡、夜を日に継で奥州に馳せ皈り右の趣を演しかば、泰衡、国衡、表には、こはいかにと仰天の体なりしが、忍びやかに忠衡の方へ人をつかはし右の次第を語ければ、此上は御辺の方へも討手の勢を差向べし、自害せし体にもてなし高館殿の御跡を慕ひ、父が遺言の通り、蝦夷に渡り命を全くせらるべしと云送り、同廿六日、勅命なれば是非に及ばず忠衡を誅すべしとて、勾当八秀実を討手の大将として、其勢八十余騎にて泉の屋(ヤ)に押寄せて、鬨を作って攻たりける。

館の中にも忠衡が郎徒ども、こゝをせんとぞ戦ひける。

此泉の屋(ヤ)は無量光院に程近し。

折ふし夜に入て館に火のかゝりければ、終に無量光院こも火移らんとす。

寺僧等も爰を詮と防ぎけるほどに、漸として打消しけり。

此寺は故秀衡入道菩提所の為に建立ありし霊地にて、宇治の平等院を摹し、扉には秀衡自ラ狩猟の体を画キ金銀を鏤めたり。

火も既に静りければ勾当八秀実泉の屋を点検するに、忠衡を始め郎従ども自害と見えて、死骸悉く焼損じて其形分明ならざりしとなり云々」

 

 

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やるべき事をやるべき人がやる

二週間ぐらい前だったろうか、伊豆諸島や小笠原諸島で、津波が発生したということで、一日中テレビのニュースが津波の状況を伝えていた。

ニュースの映像では、どこかの湾内の小さなボートがひっくり返って、流れていた。

ところが、気象庁の会見では、鳥島周辺でごく小さな地震はあったが、震度1にもならないものだという。

結局津波の原因は不明で、海底の火山活動によるものではないかということらしい。

潮位変化があったので、とりあえず津波注意報を発令したということだ。

津波の波高は八丈島で60センチで、他も三宅島・神津島50センチであり、1メートルにもならない。

私が驚いたのは、この程度の津波でもボートが転覆するということである。 

 

津波」といったら、東日本大震災津波が思いうかぶ。

ひと月ぐらい前に、こんな記事を、読んだ。

www.yomiuri.co.jp

記事によると、このようになっている。

 

久慈市は16年、高さ約9メートルの津波避難タワーを整備したが、21年に避難場所指定を解除。国が前年公表した日本海溝地震津波が最大16メートルに達するためだ。

 

読んでいて、頭のなかが、? ? ? になった。

なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

津波避難タワーの高さが、9メートルである。

久慈市としては、東日本大震災津波と同程度のものが来ても大丈夫なものを作ったのつもりだったのだろう。

たぶん、久慈市だけの予算ではなく、県や国からも補助金などがあって作ったものだろうに、なぜこれでは高さが足りないよ、ということにならなかったのか。

東日本大震災が起こったのは、2011年である。

そして、福島第一原発を襲った津波の波高は、記事によって違ったりするが、とりあえず15.7メートルとされている。

ところが、国はもっとすごいのが来るかも知れないと言ってる。

ここで、2020年に国が公表したとされているのは、将来予測される「日本海溝・千島海溝」における地震による津波についての想定だと思う。

ネットを調べたら、内閣府のサイトに、こんなものが掲載されていた。

www.bousai.go.jp

これによると、想定される津波の波高は次のとおりである。

 

日本海溝沿いでは、福島県南相馬市で19m、宮城県気仙沼市で16m、岩手県宮古市で30m、青森県八戸市で27m、千島海溝沿いでは、北海道えりも町釧路町で28mの高い津波が推計されています。

 

つまり、東日本大震災津波を遥かに越える津波が予想されているのだ。

でも、この情報はあまり国民に浸透していないと思う。

私も、知らなかった。

 

私はこのブログを、2020年の夏から始めていて、翌年の春が東日本大震災から10年経過だった。

その時に、この震災について文章を書いている。

 

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地震自体の被害者よりも、津波の被害者が遥かに多かったことに、なにか割りきれない気持ちがあったので、自分なりに調べて、考えてみたのだ。

私の結論は、津波自体の犠牲者については、なかなか難しい問題だけど、少なくとも福島第一原発の事故については、人災なのではないか、ということだった。

原子力発電所を建設するにあたって、しっかりとした調査や研究をしたうえでやっていれば、起こらない事故だなということだ。

簡単に言えば、津波の波高の想定が適切でなかった、誤っていた。

 

福島第一原発は、1971年に運転開始している。

この建設については、ウィキペディア日本語版の記載は次のようになっている。

 

1号機周辺の敷地は上記の標高30mないし35mの台地を掘削し、標高10mで整地された。

整地面レベルは津波対策に必要とされた敷地高さ4mを上回る10mとなったが、この高さが最もコストを低減するためだった

 

つまり、津波対策上は敷地高は4mあれば充分だったが、コストの関係で10mとなった。

もともとは、30mほどの台地を地盤のしっかりしたところまで掘削したが、10mほどのところで岩盤にぶつかったので、そこに建設したということだ。

もし、岩盤がもっと標高の低い所にあったならば、もっと海面に近い所に建設されたことだろう。

ところで、津波対策上必要な敷地高が、この建設当時は4mとされていたのである。

 

私が、「津波」という言葉を知ったのは、小学校の高学年のころだったと思う。

社会の教科書に、チリ地震津波三陸田老町というところが、大きな被害を受けたことが載っていた。

調べてみると、チリ地震は1960年のことで、その数年後には小学生の教科書に扱われていたことになる。

今回、チリ地震を調べて分かったことは、この時の津波は4mほどで、田老町は大きな被害を受けた。

でも、時代を遡ってみると、田老町は昭和初期、明治時代にそれを上回る津波によって、町が全滅するような壊滅的被害を被った歴史があって、防潮堤などの備えもしていたらしい。

だから、比較的少ない被害で済んだらしい。

それを考えると、原子発電所の式地高4mというのは、疑問のあるところである。

私などの記憶に新しいところでは、1993年に北海道南西沖地震による津波があった。

奥尻島は、場所によって8mから16mという波高の津波に襲われて、市街地は壊滅した。

この災害の後で、太平洋沿岸にも、この規模の津波の可能性があると考えなかったのだろうか。

何か、対策を講じたのだろうか。

関東大震災のような地震があるだろうと言われているが、関東大震災の時の津波は、熱海で波高12mだったということである。

 

福島第一原発津波に襲われた時の状況は、ウィキペディアでは次のようになっている。

 

地震の約50分後、遡上高14 m - 15 m(コンピュータ解析では、高さ13.1 m)津波発電所を襲い、非常用ディーゼル発電機が津波の海水により故障した。さらに電気設備、ポンプ、燃料タンク、非常用バッテリーなど多数の設備が損傷または、流出で失われたため電源喪失(ステーション・ブラックアウト、略称:SBO)に陥った。

 

内閣府東京電力のウエブサイトとも、福島第一原発津波によって重大な事故になったのは、「全電源喪失」が原因だったとし、その場合の対処についての準備が不十分だったとしている。

同じように津波に襲われた福島第二原発は、生き残った廃棄物処理建屋の外部電源をケーブル接続し、電源を確保できたので、何とか安全に停止できたという。

しかし、電源確保が最も大きな問題だとは言ってるが、それ以前の原発の設置の敷地高には触れていないようだ。

メディアの問題検証も見かけたことがない。

 

世間で問題がおきると、私の頭に浮かぶ言葉がある。

「やるべき事をやるべき人がやる」

だれのことばだろうか。

もしかすると、私がかってにこしらえたのかも知れない。

やるべき事をやるべき人がやらないと、人災である。

原子力発電は、もろ刃の刃を扱うのだから、国策として国がやることである。

電力会社は民間会社だから、優先するものが国とは違う。

敷地高によって海からの揚水のコストが違ってくるというようなことが、ウィキペディアの記事に書かれていた。

そういうものだと思う。

「やるべきではない事をやるべきではない人がやる」

そういう言い方もできるかな。

 

 

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かすむこまかた⑤  菅江真澄テキスト

四月(ウヅキ)ノ初午ノ日は白山神の祭にて、七歳男子(ナナツゴ)を馬に乗(ノセ)て粧ひたて、白兎(シロウサギ)の作り物あり。

此白兎は従者(スンザ)にてもろこしより神のぐし給ひしまねびといへり。

此処(コゝ)に斎奉(イツキマツ)る白山ノ神霊(カミ)は八十一隣姫(クゝリヒメ)の神にはおましまさず、その韓神(カラカミ)にてぞいまそかりける。

其日は田楽、うば舞(マイ)、さるがうなンどありて、賑(ニギハ)へるよし人の語る。

経蔵に戸ひらかせて入れば、立獅子(タチシシ)に乗る文殊師利菩薩(ボサチ)、獅子(シシ)の口索(タズナ)曳持(ヒキモタ)るは浄明居士、また筐(ハコ)さゝげ立るは善財童子また仏陀波利(ブツダハリ)、優闕王(ウシムワウ)なンどの仏(ミホトケ)は、みな毘首羯摩が作(ツクレ)りといふ。

うべも、めもあやに、あが国にはもともまれなる御仏也けり。

また釈迦仏(サカブチ)一世の経典(ミノリ)納経の始は、七十四代の帝鳥羽ノ院のみくらゐにつかせ給ふとし天仁元(一一〇八)年戊子ノとし藤原ノ清衡寄附せり。

世に名ある手(テ)かきの僧(ホフシ)を集めて、古キ寺々に在る経典を紺紙に金泥(コムデイ)してかゝせ、また一ト行リは金泥(ゴガネ)、一ト行りは銀泥(シロガネ)の文字して書(カキ)たるあり。

此経典(ツメガミ)巻たるはみな木瓜の紋(カタ)あり、そが家のしるしにや。

また基衡納経はおなじ紺紙(ツメガミ)に、金泥(コガネ)の文字(モジ)ノ色ことにつやゝかに見えたり。

此多かる経典の中には、今し世にある一切経とは文字の多小、訳(ヤク)のかはれるもありといへり。

また婆粉紙(バフムシ)とて黄色梵本(キナルヲリマキ)の経あり、そは宋板(モロコシズリ)にして秀衡寄附のみのり也。

此経筐(バコ)の文字はみな螺鈿(ラデム)をちりばめ、また唐櫃(カラウヅ)の内より大蛇(オロチ)の歯(ハ)、水火ノ玉ひとつ、藕糸(グウシ)ノ袈裟(ケサ)なンどとうだしてぞ見せける。

金色堂(コムジキダウ)、そは俗(ヨニ)光リ堂といふ、扉(トビラ)もおしひらけり。

こは天仁二(一一〇九)年己丑ノ春清衡ノ建立の堂にして、七宝(シチハウ)荘厳(サウゴム)の巻柱(マキバシラ)、戸枚(トビラ)の光リ、長押の螺鈿なンど、みなそのさま、からめける細工(タクミ)也。

そが中に観世音菩薩、勢至菩薩地蔵菩薩、三尊(ミハシラ)のぼさち立給ふ。

そが中の座(オマシ)の下には藤原清衡の棺(ヒトキ)あり、大治元(一一〇六)年丙ノ午ノ七月十七日逝去(ミマカレリ)。

左の菩薩の下には基衡の棺(ヒトキ)を隠(カク)せり、保元二(一一五七)年丁ノ丑ノ三月十九日みまかれり。

右ノ方のぼさちの下には秀衡入道の棺あり、文治三(一一八七)年丁未の十二月廿八日みまかれり。

また入道の棺に、和泉三郎忠衡が頸桶を後に内(イレ)たりといへり。

その三代の人々の軀(ムクロ)には羊(ヒツジ)の肪脂(シボウ)を塗(ヌリ)て、巴牟耶(パムヤ)といふものもて棺に攻(ツメ)て、沙羅布(サラフ)といふ布(ノノ)にて上へを包み封(フムジ)たりといふ。

年を経て布もくちやれて、ふむじも解(トケ)ぬれど、此棺をひらけば、つめたる薬気(クスリ)はつとたちて、つゆばかり眼(メ)に入りても盲瞽(メシヒ)となりとて、誰れひとり手やはふるゝ。

また、なにのよしありてかひらかむや。

清衡、基衡、秀衡三代の横刀(タチ)あり、その飾(カザリ)なンどいふべうあらじ。

建武二(一三三五)年乙亥の春野火かゝりて、堂社僧房院々残りなく、四十七宇の洪鐘もみながら回禄(ヤケ)て、時の間に灰となりしとなむ。

さりけれど此金色堂(ミタマヤ)のみ焼(ヤケ)のこり、また経堂も屋根のみ焼たれど内には事なう、いにしへを見るに足れり。

此光リ堂、経蔵のみまたくして、その外は御仏のみぞのこれる。

また弁慶が九寸五分といふものあり、そは山賤のもたる山釤てふものゝごとく、一尺二三寸のかねを厚(アツ/\)とうちのべたるものにて、劔柄(ツカ)は透(スカ)しにて、手をさし入レて握しものとおもはれたり。

むかし京都(ミサト)にて、ある小寺の開帳のとき、其宝物の内に見し破石刀といふものありしが、その破石刀のさまに似たり。

これもなか/\弁慶時代(トキヨ)のものにはあらじ、いと/\ふるきものにこそあらめ。

また康永二(一三四三)年と刻(ヱ)りたる洪鐘(カネ)ひとつあり。

堂舎もみな、かりやとおぼしくて四阿両下(マヤアズママヤ)めけるさまに作れり。

弁財天女ノ堂に金光明最勝王経の曼茶羅十巻、みな金泥もてそのあらましを彩(イロドリ)かきたるは、めもあやに見えたり。

堂舎僧房の在りし古跡(フルアト)を見めぐりて、物見とて杉のむら立(ダテ)る処にのぞめば、衣河は糸すぢのごとくみだれて加美(カミ)川の流に落たり。

武蔵坊が流れたりし中の瀬といふも今は田畠となりぬ。

和泉が城、岸の松、亀井の松、蓮台野なンど残ンノ雪に埋れたり。

山口ノ堂に、武蔵坊が七道具負ひもて立(タテ)る、六尺(ムサカ)まりに作りて、いと/\近き世にすゑたるを見て笑ふ人多し。

九郎判官の館の跡高館といへるあり、武蔵坊が館跡、その外の兵等が住しあとも、みな畠となり山賤の住家となりぬ。

義経堂に登りてむとおもへど、雪のいと深ければ、ふたゝびいたらむ、はや日もかたぶきぬ、いでとて、こよひの神事にいそぐ。

道のかたはらの雪の中に八花形といふ処あり、そは国衡、隆衡が館ノ跡にて、外堀なンどは千町ノ田となれり。

此あたり雪いとふかし。

小堂(サゝヤカノダウ)あり、此堂の内(ウチ)に鉄塔(テツタフ)とて、いと/\大なる鉄塔(クロガネノタフ)の、なから砕たるあり。

そが内(ナカ)に女の黒髪(カミ)いたく納めたり。

いにしへ秀衡の室(ツマ)の、ぬけちりたるくろ髪をかく納められしものとて、今の世かけてしかぞせりける。

かくて摩多羅神の広前(ミマへ)にぬかづく。

いまだ人もこゝにいたらねば、今しばありて来らむとて、千葉某といふ人のもとに行なんとて人にいざなはれて行ぬ。

しかして此あたりを見わたす。

慈覚円仁大師陸奥国(ミチノク)修行(スギヤウ)のとき、白毛(シロキケ)のちりこぼれたるをあやしみ此毛を踏越(フミコヱ)て山に入り給ふに、白鹿にうちもたれて眠る老翁あり。

こは、いかなる人にておはしけるかと円仁とはせ給ふに、我は此山を守護(マモ)る翁とて、鹿とともにかいけちて見えず。

円仁、こは此山をひらきて、賤山賤等(シズヤマガツラ)がために仏法流布(ホトケノミヲシエ)あれと神の造(ツゲ)給ふにやとかしこみ尊みて、薬師如来を安置(スヱマツリ)て医王山毛越寺金剛王院といふ。

天台宗にてあまたの堂舎、あまたの衆徒なンど甍(イラカ)をならべて栄えたりし山ながら、元亀三(一五七二)年の野火にたちまちやけて、今は礎のみぞ残れる。

また嘉祥寺破壊(スタレ)こぼれたるときは、堀河院、鳥羽院の勅ありて、ふたゝび興して藤原ノ基衡の建りといふ。

また嘉祥寺におしならべて円隆寺といふも新(アラタ)に建立ありき。

その時の勅使は左少弁富任ノ卿也。

富任、三年(ミトセ)此平泉に住(スメ)り、その跡は勅使屋敷とて、今は島崎坊とて衆徒すめる也。

 

 

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空から地上を見る方法

最寄駅である東武野田線新柏駅前に、新築マンションが建築中である。

そのチラシを見ていたのだが、8階建114戸で完成は2025年3月となっている。

東武鉄道大和ハウス工業のコラボレーション・プロジェクトである、とチラシには書いてある。

完成はまだ、一年半以上も先のことだが、もう入居者を募集する。

そういえば、中国ではマンションの引渡し前から、住宅ローンの支払いがはじまるということで、工事中断されていろんなトラブルが発生しているというニュースが伝えられている。

まあ、日本の場合は、住宅の引渡入居してからローンの支払いということになるので、できるだけ住宅が完成したら無駄な期間ができないように、ということだろう。

 

チラシには、「新柏駅へ徒歩1分」となってる。

駅前の一等地であるが、実は半年くらい前まで、パチンコ屋だった跡地なのだ。

駅前に小さな公園があって、その周囲がロータリーになっている。

物件名「ソライエ新柏プレミスト」であるが、販売価格はまだ「未定」である。

今の段階は、お知らせということだろう。

チラシの航空写真

チラシにある建設予定地の航空写真を、ゆっくり見た。

手前に新柏駅があって、そこから柏駅まで東武野田線の線路が、白く延びている。

航空写真の説明文に、掲載の航空写真は2023年7月に撮影したもので、一部CG加工を施してあります」とある。

なるほど、マンションの予定地も白塗りされている。

パチンコ屋の建物の解体終わった頃で、建築工事はまだ始まっていなかっただろう。

すぐ近くに、スーパー、病院、中学校もあるし、写真には入っていないが、中学校の隣は小学校で、立地条件は申し分ないだろう。

 

写真の上部に、なんと筑波山が写っている。

その手前には、緑のベルトが東西につながっているが、これは利根川だろう。

さすがに、土手があるので水面は映ってないが、その周辺の水田の緑である。

そして、柏駅があるが、その右側に手賀沼の湖面が見える。

その手前には、緑に囲まれた「日立台公園」がある。日立台公園自体はこの北端にあって、それ以外の広い敷地は「日立製作所」のもので、ここにはJリーグ柏レイソルのスタジアムがあり、体育館や陸上のグランドもある。

こんな写真は、どれくらいの高度から撮影するのだろうか。

300メートルとか、400メートルくらいだろうか。

そう言えば、集合住宅の集会所の会議室に、古い航空写真が飾ってあった。

管理組合の役員をやっていた時に、見た記憶がある。

この集合住宅ができたのが1982年だそうなので、もう40年経っている。

隣接する光ヶ丘団地はさらに遡って1957年だから、65年くらいになる。

白黒写真で大きく拡大されて、パネルになっていた。

たしか、スマホで撮ったはずだが、どこに保存してあるかな。

スマホで撮影した写真は、パソコンにコピーしてあるはずだが、何年か前のことなのでどこにあるかわからない。

 

買い物に出かける時に、集会所に寄って事務所で聞いてみた。

会議室に書棚を入れたために、壁がふさがって掲示してあった航空写真のパネルは外されていた。

書棚の脇に、航空写真のパネルが立てかけてあった。

どうも、かつて私が見た航空写真とは違っていた。

かつて掲示してあったものは、光ヶ丘団地と私の住む集合住宅を、真上から撮影したものだった。

そこにあったのは、かなり大きなサイズの横長の航空写真である。

光が丘団地俯瞰1

モノクロ写真であり、精度も低いので、詳細はよくわからない。

それでも、周囲には色の濃い森林と思われる所が、多く見られる。

チラシのの写真は新柏駅が手前に入っていたが、会議室にあった写真は光ヶ丘団地が手前に入っている。

写真の上部には、なんと筑波山と思われる山影が写っていて、ほとんど同じ構図であるように思える。

光ヶ丘団地俯瞰2

我が家は、つくば市のショッピングモールに、年に何回か出かけることがある。

大利根橋で、利根川を渡って、茨城県に入ることになる。

ずっと、筑波山に向かって走ってる感じである。

50キロ弱、1時間ちょっとというところだ。

筑波山は、つくば市からさらに20キロ近くあるだろうか。

私が住む東葛飾の地からは、利根川に近くなくても、標高のあるところなら筑波山が見える。

利根川を渡る新大利根橋あたりでは、天候の条件が良ければ、後方に富士山が見えることがある。

富士山が見えることにちなんだ、「富士見台」とか「富士見橋」、「富士見町」という地名がいくつか残っている。

浮世絵などに、江戸から見た富士山を描いたものがあるが、江戸から富士山までの距離は320キロほどらしい。

筑波山は、あまりに身近だったせいか、筑波山にちなんだ地名はないような気がする。

 

私は地図が好きなので、ネットの地図閲覧サイトをよく見る。

ネットで地図といったら、「ヤフーマップ」や「Googleマップ」がある。

その他には、日本の地図などの測量行政に関わる元締めと言える「国土地理院」のサイトもある。

それぞれのサイトは、特徴があって、少しずつ違っている。

「ヤフーマップ」も「Googleマップ」も地図については、ゼンリンのものを採用しているようだ。

地図の縮尺をどんどん小さくしていくと、建物の形が表示されるようになる。

これは、ゼンリンの「住宅地図」のデータを採用しているのだろう。

光ヶ丘団地北部 ヤフーマップ

ちなみに、航空写真の範囲を表示すると、こんな感じである。

光ヶ丘から筑波山 ヤフーマップ

 

国土地理院は、つくば市にあるので、この航空写真の筑波山の手前あたりにある。

何年か前に、見学したことがある。

航空写真の撮影についてネットで調べていたら、国土地理院のサイトに記事があった。

www.gsi.go.jp

記事には、こんな興味深い記載があった。

 

空中写真の撮影は、機体の下部にカメラ孔を設けた測量用の航空機に搭載された航空カメラを撮影士が操作して、雲や霧が写りこまないように晴天の日に行います。
操縦士は、GNSSによる誘導により航空機を計画した撮影コース上に一直線で飛行させ、撮影士が航空カメラを操作します。
 空中写真は、隣り合う写真が重なり合うように撮影しますので、この重複部分では写真を立体的に見ることができます。

 

なるほど、航空写真撮影専用の航空機に、撮影士が乗り込んで撮影する。

しかも、日本全土を網羅しようというのだから大変な事業である。

ヤフーマップやGoogleマップでは、地図の表示から航空写真の表示に切り替えることができる。

どんな航空写真を使っているのだろうと調べてみた。

 

Yahoo! MAPアプリではこのたび、航空写真のデータを全国で一新。情報日付が新しくなりました。
従来の航空写真(※1)では飛行機から撮影した画像データを使用していましたが、このたびの更新で、米国宇宙企業マクサー・テクノロジーズ社(外部サイト)が提供する人工衛星から撮影した画像データに変更しました。 [お知らせ]  2022年10月31日

 

ということは、ヤフーマップも2022年から、航空写真はいわゆる「衛星写真」を使用しているということである。

Googleマップは、マップから「Googleアース」に切り替えることができるので、衛星写真を使ってるのだろうとは思っていたが、ヤフーマップも同様になっているということである。

以前に使っていた航空写真というのは、国土地理院のものだろうかと考えたが、それについての記載はなかった。

光ヶ丘団地北部  ヤフーマップ 航空写真表示

光ヶ丘〜筑波山 ヤフーマップ 航空写真表示

地図閲覧サイトは、iPadを使うことが多い。

Safariなどのブラウザで見ることもできるが、専用のアプリも使える。

ブラウザではできて、アプリではできないなど、それぞれに一長一短である。

Googleアースのアプリでは、航空写真からワンタッチで、3D表示の切り替えが可能だ。

東武鉄道新柏駅周辺 Googleアース 航空写真表示

これを、3Dに切り替えると、こうなる。

東武鉄道新柏駅周辺 Googleアース 航空写真3D表示

さらに、Googleドライブに切り替えることもできる。

人形のアイコンをクリックすると、なんとGoogleドライブできる道路が色付きで表示される。

東武鉄道新柏駅周辺 Googleアース 航空写真ドライブ可能表示

水色で彩色されている道路をが、Googleドライブ可能ということらしい。

360度カメラを搭載したGoogleドライブ撮影の車が、日本中を走っているという記事を読んだ覚えがある。

でも、そんな車を見かけたことがない。

試しに、我が家のある団地を走ってみたら、駐車場も写っていて、我が愛車らしいものも写っていた。

さすがに、駐車場には入れなかった。

車や人も写っているので、プライバシー保護の点で問題であると指摘されていたことがあったと思うのだが、その後どうなったのだろう。

 

国土地理院の閲覧サイトのいいところは、蓄積されてきた地図や航空写真を、時代ごとに切り替えながら、見比べることができることである。

航空写真は、1930年代から整備してきたらしいが、私の住む住所のあたりは、1960年代になってやっと、撮影されていた。

航空写真の撮影についてネットで調べていたら、現在は思ったよりも経費が安くなっていた。

ドローンを使った撮影も、可能な時代なのだ。

創立記念に会社や学校でやるのが、かつての航空写真だったろうが、今はもっと手軽なものらしい。

ドローンは、高度150メートル以下なら通常の使用ができるらしい。

 

最近、Googleアースで遊んでみたが、おもしろい。

航空写真の3D表示で、低空を移動すると、ドローンを操縦している気分になれる。

かつて登った山などを、仮想ドローン旅行することができる。

他にも、いろんな使い方ができそうだな。

 

 

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かすむこまかた④  菅江真澄テキスト

二十日 けふは磐井ノ郡平泉ノ郷(サト)なる常行堂摩多羅神の祭見ンとて、宿の良道なンどにいざなはれて徳岡の上野を出て、はや外(ト)は春めきたりなンど語らひもて行ク。

遠かたの田ノ面の雪の中にこゝらたてならべたる鶴形(ツルガタ)は、まことにあさるさまして、真鶴(マナツル)、黒鶴(ナべツル)、餌ばみ、立首なンど、みな生るがごとし。

こは、去年の秋、稲刈りをへるやいなや此鶴形を立り。

此鶴の始めは、いつの世ならむ及川某といふ武士(サモラヒ)造りそめぬ。

其後胤(スエ)なほありて、其及川の家に刻ミ彩リたるははかなきやうなれども、鶴の能ク飛び下降(クダ)るといひ、また良工(ヨク)もの作る人の心をつくして造りたりとも、人は、めをおどろかしぬれど、鶴(トリ)の目は、そをよしともおもはざりけるにや、及川が家の鶴形には、今も能く鶴の群れくだるといへり。

鶴形はいと/\大なるものにて、二ツならでは馬に負(オフ)せじとなむ。

真鶴、白鶴、黒鶴なンどさま/″\に彩(イロドレ)り、此いろどることを、にごむと方言(イへ)り。

其にごみたる上へに大豆液(マメゴ)といふもの塗(ヒケ)ば、烈(ハゲ)しき雨風露霜、氷レる雪にさへ腐(クダ)さず残れり。

田の畔に小柴さして射翳(マフシ)とし、その内に入りて鉄炮(ヒヤ)してうつといへり。

秋は鶴形いと/\多く、今は鵠(クヾヒ)〔白鳥をいふ也〕形、鴨形、雁形なンども作り出て、鳥もめづらからず、見あざむにや、むかしほど降りも来らざるよしを語る。

行/\鶴象(ツルガタ)といふ事を、

 

木々の枝は花とぞ見つるかた岨にのこれる雪もけふはかすみて

 

前沢ノ駅(胆沢郡前沢町)になれり。

此あたりの家々に、水木の枝に蚕玉(マユダマ)とて、玉なす餅を、つらぬき附て梁にたてり。

勝軍木(カツノキ)ノ菊ノ削花を幾英(イクフサ)となく、某(ナニ)ノ木の枝ならん、それにひし/\ととりさしたり。

また、こと木の枝をおし曲ヒて、青小竹(アオシノ)の箭(ヤ)の三尺(ミサカ)ばかりなるを矧(ハギ)て、その弓の上彇(ウハハズ)より白麻(マシラヲ)を乱し附て、艮門(ウシトラ)の方にはなたんさまして、削花の木の中つ枝に結ひ添へて門々たてり。

こは十五日にしつる歳の祭ながら、いまはた残りける也。

延喜式に、御仏名とき、菊の削花なンど聞え、また正月門戸に削花揷むは、いと/\古きためしにこそあらめ。

かくて、鈴木常雄、けふの事かねて書(フミ)もてものし聞えたれば、前沢の郷あたりにて出テ会(アハ)むといひしごと、常道といふ人をぐして、横路より雪ふみ分て来けり。

まづ此年始てのたいめなどありて常雄。

 

かくてこそ猶うれしけれかねごともけふにたがはで逢ぞ楽しき

 

とあるに返し。

 

玉づさにむすぶ言葉をしるべにてたがはぬすぢに逢ぞうれしき

 

道よりひむがしの方に名におふ大桜とてあり、枝四方八方(ヨモヤマ)うちたれ、雪をおびたり。

木の太(フト)さは、十二人手をつらねて周回(メグル)といふ。

そこに斎(マツ)りて不動明王ノ堂あり、家二三戸(フタツミツ)ありて村名も大桜とよぶ。

いにしへ秀衡、束稲(タバシネ)山に千本(チモト)の桜を植(ウエ)られし事あり、そのころのたねならむといへど、此大桜は千歳(チトセ)ふる木ならんと人々のいへり。

 

こと木よりつもれる雪も大桜花も芳野のいくもに見む

 

と書て堂にさし入たり。

かくて此処を出(デ)て、右の方に白鳥明神の塔の跡も雪にふり埋れ、白鳥ノ二郎行任が名は世に人しれり。

徳沢長根の雪の片岨に小松の群立(ムラタテ)るは、輝井ノ太郎が陣取し地(トコロ)也。

また道の傍に雪に埋れし碑(エリシ)は、山田治左衛門とて、新墾(ニイバリ)にいさをありし男(ヲノコ)のゆゑよしをしるせりといふ。

そは百とせまりむかしの事となもいへる。

瀬原ノ里に来けり、金命丸といふ薬を売(ウ)る家あり。

此里の艮(ウシトラ)の方に小松が館といふあり、そは、阿部ノ兄弟栖家(スミ)たる瀬原ノ柵ともいひし処といへり。

浅からずおもひそめしとよめる衣川を橋より渡る。

此水むかしは艮に落て、今は東に流ぬ、そこを押切リといふ。

いにしへは兵多くうち死し、あるは洪水(ミヅ)に流しといへり。

其とき武蔵坊ばかり上に流れしといふは、北上川も衣川も一面(オシナメ)て流るれど、衣河の水にしたがひ、上の方、北ざまにながるゝを寄手の見て、弁慶のみ上(ミナカミ)に流るは、もともあやしき事といひしとなむ。

此衣川の源に、清浄が滝とていと/\大なる滝あり、今そを障子がと訛(アヤマ)りいふとなん。

むかし慈覚円仁大師衣をあらひ、かたはらの木にかけて乾(ホ)し給ひしよし、さりければ、それより滝を衣の滝、その流の末を衣川といふといへり。

順徳ノ帝

 

「風冴る夜半に衣のせきもりはねられぬまゝに月や見るらむ」

 

とよみ給ひしその関の古ル跡トは、鵜(ウ)ノ木(前沢町北上川のほとり)といふ地(トコロ)に在り。

今は来藻(コロモ)ノ里(サト)(胆沢郡衣川村)は卯の方にあたれり。

 

むかしか束稲山(タバシネヤマ)の麓に桜あまた植て、此桜の花の影上川〔北上川をいふ也〕の水にうつり散れば、雪の流るゝがごとくいと/\おもしろければ秀衡、北上川を桜川と名附られて芳野川にもをさ/\劣(オト)らざりしが、今は束稲山には桜一樹(ヒトモト)もなく、中尊寺の辺(ワタリ)を桜川とよびて、酒酤亭(ウルヤドリ)、そをいへるのみ。

むかし貞任が舎弟(オトウト)則任、命惜(オシミ)て死(シナ)ざりければその妻(ツマ)としは十八なるが、夫(ツマ)の勇(イサミ)なきをいたくうらみて嬰児(ヲサナゴ)をいだきて、

 

「いまぞしるなみだにぬるゝ衣川身は流すとも名をばながさじ」

 

とて、衣川に飛入りしとなん語り伝ふ。

『前太平記』には、城内の二の堀に身を投しと見えたり。

また阿倍ノ則任が居城(シロハ)衣川に在りて、一ノ城堀(ホリ)へも二ノ堀へもみな衣川の水を落したる地(トコロ)也。

 

巽(タツミ)が中(カタ)に、かごしものひとり秀たる山あり、そは磐井ノ郡ノ式ノ御神二社ノひとはしら儛草(マヒクサ)ノ神鎮座(マセル)みね也。

鈴木常雄

 

をり/\に来てこそしのべころも川ながれて遠きむかし語リを

 

また村上良道。

 

春もまた浅き雪消の衣川きしの氷はとくるともなし

 

など、人のよめるを聞て、

 

衣川いく世かさねしいにしへをおもひ渡れば袖ぬれにけり

 

人々の歌あまたあれど、ところせければ、みなかいもらしたり。

いと/\ふり生(タテ)る一木は鈴木ノ三郎重家が塚(ツカ)ノ松、また権ノ正兼房がしるしの石などあり。

弁慶が壟松(つかまつ)を見て、人みな彳ミ歌よめるを聞て、

 

松がねに苔こそ埋めむさしあぶみさすがに高き名やはかくるゝ

 

しかして中尊寺にまうでむとていたる。

そも/\此中尊寺といふは、鎮守府ノ将軍陸奥ノ守奥羽両州ノ押領使従四位上少将藤原ノ朝臣(アソミ)秀衡入道世に在りしころ、白河ノ関より外(ソト)が浜まで千本の率塔婆(ソトバ)をさして、そが中央にあたれりとて中尊寺とはいへるとなむ、真名(マホナ)は弘台寿院といふ。

鼻祖は円仁大師にて嘉祥三(八五〇)年に開(ヒラキ)給ひし御寺といへり。

こゝに白山ノ神また日吉(ヒエ)ノ神をうつしまつりて、此二柱の御神山をまもらひ鎮座(シズモリマセ)り。

 

 

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