晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

隣づきあいはむずかしい

購読リストに読者登録してあるブログを読んでいた。

私が読者登録してあるブログは、かなりの数ある気がするが、どこを見れば自分が登録してあるブログの一覧が見れるのかわからない。

もちろん、自分のブログの読者一覧を見るのはわかる。

「歴ログ-世界史専門ブログ-」という、尾登雄平さんという方のブログである。

世界史とはなっているが、教科書には出てこないような話題が、変わった切り口で取り上げられている。

2014年にブログが始まって、世界の全てではないが、ほとんどと言ってもいいくらい、さまざまな国が取り上げられている。

知らなかったということがほとんどで、私にとっては読んで得するブログだ。

 

今回は、こんな話題だった。

reki.hatenablog.com

タイとカンボジアである。

この二つの国は、国境を接していて、歴史的にも文化的にも近しい国であるが、それだけに微妙な関係であるということが、さまざまな例とともに述べられていた。

どんな国にとっても、隣国との関係がなかなか困難なものであるのは、確かだろう。

日本の場合を考えるまでもない。

タイという国は、海外旅行で私が行ったことがあるわずか二カ国のうちの一つである。

もう、20年以上も前のことである。

思い出すのは、バンコクの喧騒や、アユタヤへの道路の周辺が大洪水の後で、泥だらけだったこと、そしてミャンマーとの国境の鉄橋などである。

その頃すでに、タイは「微笑みの国」と言われ、アジアを代表する観光国だった。

 

ところで、カンボジアは、現在はあまりメディアなどで話題になる国ではない。

記事を読んでいたら、カンボジアの国民の9割くらいは「クメール人」である、とのことだった。

「クメール」で、昔の記憶がよみがえった。

かつて、ベトナム戦争の頃、隣国のカンボジアラオスでも内戦をしていた。

ニュースで、ベトナムとともに、カンボジアラオスについても報じられていた。

カンボジアでは、「シアヌーク殿下」や「クメール・ルージュ」という抵抗組織の名前をよく聞いた。

ラオスでは、「パテト・ラオ」という名を覚えているが、これも政府に対する抵抗組織だった。

正直なところ、私はこの辺りの歴史について、詳しい知識がないので、調べてみた。

この三国とも、フランス領だったわけで、「クメール・ルージュ」はフランス語で「赤いクメール人」つまり、共産主義者のことだったと思う。

「パテト・ラオ」もフランス語由来かなと思ったのだが、これはラオス語で「ラオスの地」ということだそうだ。

第二次世界大戦終了時までは、ともに王室をいだく王国だった三国が、フランスからの独立、そして幾多の内戦を経て現在に至るまでの歴史は、さまざまな政治勢力が絡みあって、あまりに複雑で理解が難しい。

私は、世界史についての知識が貧弱である。

そして、アジア史についても同様だ。

私は、このブログで、「ベトナム戦争」のことを何回か書いている。

これは、あくまでも私の記憶に基づいている。

1960年代、1970年代に、小学校、中学校、高校、大学と学校生活を送った私にとって、時代はいつも「ベトナム」での戦争があったからである。

その頃を思い出すと、背景にはそれがある。

フォークソングのブームがあって「自衛隊へ入ろう」を高田渡が歌ってたり、「ベ平連」という団体がデモをしていた。

ケネディ大統領の頃は、ベトナムに対して、軍事顧問を送ったり、軍事援助だったのだが、大統領暗殺後は、アメリカ兵自体をベトナムに投入するようになる。

それが、私が小学校高学年くらいである。

そして、大学生だった時に、サイゴンが陥落し、アメリカ軍はベトナムから撤退する。

 

話がそれてしまったので、タイとカンボジアの抗争に戻る。

ブログの記事には、このように表現されていた。

 

東南アジアの国々は宗教、食、スポーツ、芸術などでかなり類似した文化を持ちますが、特にタイとカンボジアは共通性が高いです。王室を持ち国民からの敬愛が篤いという点も似てますし、社会規範やモラルも共通性が多いです。タイ文字とクメール文字も非常に似ています。

そのためお互い「自分たちがオリジナルで、相手は盗んでいる/嘘をついている」と主張します。

 

このように、自分たちに起源があり、相手は真似をしている、というような言い方は、何かわが国の周辺でも飛び交っている言葉のような気がする。

私などは、起源がどうだったかはたしかに意味のあることだけれど、それよりも重要なことはそれが現在どうなっているのかなんじゃないのか、と思うのだが、どうもそうもいかないようだ。

この点については、SNSなどの書き込みを、それぞれの国のマスコミが面白いおかしく取り上げているうちに、エキサイトしていくというようなパターンのようだ。

タイ料理とクメール料理、ムエタイとクン・クメール(ボクシング)、タイ舞踊とクメール舞踊、ときりがない。

世界遺産であるカンボジアの「アンコールワット」はクメール帝国を代表するもので、タイのアユタヤはその後継者であると言われているようだ。

クメール帝国は、ベトナムやタイの一部もその勢力範囲だったという。

そのあたりの、時代による力関係が逆転したことなどが、この微妙な関係の根底にあるのかな。

アンコールワットはタイのものだから返還しろ、という主張もあるというから揉めるはずだ。

タイの有名なアーチストや運動選手が実は100%クメール人であるという事実ではないことを、SNSクメール人が書き込んで大きな騒ぎもあったらしい。

これなども、どこかで聞いたような話である。

 

かつて、タイに行った時に、タイ舞踊のショーを観た。

仏教寺院にも、行った。

なんとなく、インドの影響が強いのだな、と感じていた。

しかし、ブログにある次のような記述を読んで、なるほどと納得した。

 

かつて東南アジアは巨大なインド文化圏でした。

インドやスリランカから東南アジアにやってきた商人や伝道者らが仏教、建築、芸術、政治制度、言語まで、あらゆる文化的なものを伝えました。

 

こんな基本的な知識が、自分には無かったのだ。

こんなところから、アジアの歴史を学んでいれば、もう少し理解できたのにと思う。

以前、世界で最も大きなイスラム教国はインドネシアだ、と知って驚いたことがある。

確かに、インドネシアは人口2億人以上はいるはずだから、なるほどである。

イスラム教が入ってくるまでは、仏教国だったらしいが、なぜイスラム教国になったのだろう。

インドが独立する時に、イスラム教が信仰されていたの地域が、パキスタンになったんだな。

 

日本は島国だから、国境はすべて海上にあり、地上に国境がある地続きの国々の微妙な関係がわかりにくい。

隣国の中国が、自国の領土をかなり広げた地図を発表して、周囲の国々と揉めている。

ロシアのプーチンさんは、「ウクライナはロシアである」と前から言ってた。

歴史を遡ってしまったら、なんでもありである。

インドやスリランカから商人が持ってきたという仏教、建築、芸術、政治制度、言語など。

日本は、わざわざ出かけて行って、自分で持って来たことになるのかな。

仏教、建築、芸術、政治制度、言語などが、どんなふうに広がっていったのだろうか。

おもしろそうなので、勉強してみようかな。

 

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かすむこまかた③  菅江真澄テキスト

白粉(シロイモ)の、さはにあらねば、近き世には山より白土(シラツチ)を掘り来(キ)て、三四日(ミカヨカ)も前日(サキツヒ)より、花白物(オシロイ)よ/\と肆(イチ)にうりもてありくを買ひ、水に解(トカシ)たくはひおきて是を塗(ヌ)る也。

 

むくつけヾなる男なンどの、人とさしぐみに物語し居(ヲ)る後(ウシロ)の方より、稚キ童のさしよりて、青(アオキ)月代(カシラ)に、ちひさき白(シロ)の手形(テガタ)つけて逃行を、人みな立かゝり笑ふなンど、また、さらぬだに白粉(シロキモノ)あつ/\と化粧(ケハヒ)、紅(ベニ)かねによそひたる顔に、ゆくりなう花かけられたるは、深雪(ミユキ)のいやつもりたる庭に、今はた小雪の降り添(ソ)ひたるこゝちせられたり。

 

また前沢ノ駅(ウマヤ)、水沢の里なンどにては、此花かけのさわぎなか/\の事にて、日暮ては、へそべ(釜底墨)とて鍋釜(ナベカマ)のすみをとりて、油に解(トキ)てぬりありく。

 

男女老若(オユワカキ)のわいだめなう、此墨(スミ)の花かけむとてむれありけば、みな恐(オヂ)て土蔵(ヌリゴメ)なンどに逃げ隠れ音もせで夜を更(フカ)し、あるは夜着(ヨギ)引キかヾふりて病人(ヤマヒト)の真似なンどし、また大キなる蘿蔔(ダイコン)を斜(ハス)に切(ソギ)て、それに大ノ字、正ノ字、十ノ字、一ノ字なンどをおのも/\刻(ヱリ)て、油墨を塗(ヌ)りて、袖にひき隠し持(モテ)ありき、行ずりの男女の額(ヌカ)につき中(アテ)たるを月影にすかし見て、一文字(人モジ)面(ヅラ)よ、こは大文字面(ツラ)なンどいひて笑ふ事也。

 

此花塗(カク)る若男等は、まづ己(オレ)が面(ツラ)を崑崙奴(クロンボ)の如(ゴト)にぬりありけば、誰(タレ)かれと人しらぬ事となむ。

 

こゝろを、

 

秋に咲八束(ヤツカ)の稲の花かづらかゝるためしをけふにこそ見れ

 

十六日 いまだ夜ぶかきに童ども起出て、大箕(オホミ)を雪の上ヘにふせて、楉(シモト)のごときものもて此伏セ箕(ミ)をたゝいて、

 

「早稲鳥(ワセドリ)ほい/\、おく鳥もほいほい、ものをくふ鳥は頭(アタマ)割ッて塩(シホ)せて、遠嶋さへ追て遺(ヤ)れ、遠しまが近からば、蝦夷が嶋さへ追てやれ」

 

また、前沢ノ駅なンどにてはおなじさまながら、

 

「猪(ヰノシゝ)鹿(カノシ)勘六殿(ドノ)に追はれて、尻尾(シリヲ)はむつくりほういほい」

 

とて追ふとなむ。

夜明はてて見れば、炉(ヰロリ)の端の金花猫(ミケネコ)にも花かけ、庭に居(ヲ)る黒犬にも、誰(タ)が花かけしとて笑ふ。

挊鳥らも、けふの午のときをかぎりのゝりとて、雪吹(フブキ)の烈(ハゲシ)さもいとはず貝吹、かね鳴らし、笛吹きいさみ、うちむれありく。

なほ雪ふりて寒し。

 

玉水の露も音せず空(ソラ)冴て軒の垂氷(タルヒ)の掛ヶそひにけり

 

十七日 きのふのごとに雪のひねもすふりて、月も仄にてりて、外(ト)は、そこと庭の隈回(クマワ)も見えず。

猶寒し。

 

心あてにそれかとぞ見る月影の光そへたる庭のしら雪

 

童(ワラハ)どもの居ならびて、はや寝(ネ)て、明日は田うゑ踊リ見んなンどかたりてふしぬ。

夜更ていと/\寒し。

 

十八日 あした日照りて、やがて雪のいたくふれり。

田植躍(タウエオドリ)といふもの来(キタ)る。

笛吹キつヾみうち鳴らし、また銭太鼓とて、檜曲(ワケモ)に糸を十文字に引渡し、その糸(イト)に銭(ゼニ)を貫(ツラヌキ)て是をふり、紅布(アカキ)鉢纏(ハチマキ)したるは奴(ヤコ)田植(タウエ)といひ、菅笠着(キ)て女のさませしは早丁女(サオトメ)田植といへり。

やん十郎といふ男竿鳴子(ナルサヲ)を杖(ツエ)につき出テ開ロ(クチビラキ)せり。

それが詞に、

「朳(エンブリ)ずりの藤九郎がまゐりた、大旦那(オホダンナ)」のお田うゑだと御意なさるゝ事だ、前田千莉リ後(ウシロ)田千刈リ、合せて二千刈あるほどの田也。

 

馬にとりてやどれ/\、大黒、小黒、大夫黒、柑子(コウジ)栗毛に鴨(カモ)糟毛(カスゲ)、躍入(ヲドリコン)で曳込(ヒキコン)で、煉(ネ)れ煉れねっばりと平耕(カケタ)代、五月処女(サヲトメ)にとりては誰(ド)れ/\、太郎が嫁(カゝ)に次郎が妻(カゝ)、橋の下のずいなし〔いしふし、またかじかの事か〕が妻(カゝ)、七月(ナゝツキ)姙身(コバラ)で、腹産(コバラ)は悪阻(ツハク)とも、植(ウエ)てくれまいではあるまいか、さをとめども」

といひをへて、踊るは、みな、田をかいならし田うゝるさまの手つき也。

 

「うゑれば腰がやめさふら、御暇(オトマ)まfをすぞ田ノ神」

 

と返し/\うたひ踊(ヲド)る。

そが中に、瓠(ナリヒサゴ)を割(ワリ)て目鼻をゑりて白粉(シロイモノ)塗(ヌリ)て仮面(ヲモテ)として、是をかヾふりたる男も出まじり戯れて躍り、此事はつれば酒飲せ、ものくはせて、銭米(ゼニヨネ)扇など折敷にのせて、けふの祝言(イハヒ)とて田植踊等にくれけり。

 

十九日 きのふのごとに雪ふりて空冴え、去年にいやまさりて、埋火のもとに筆とるに、筆の末氷がちに暮たり。

 

 

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ロックの時代 20 Now I Here

毎日のように、Youtubeをチェックしている。

それが、私にとっては唯一の音楽についての情報源と言っていいかも知れない。

数ヶ月前、いつものようにYoutubeを見ていたら、Radwimpsの海外公演のビデオがアップされていた。

Radwimpsというバンドは聞いたことがあるし知っていたが、海外へ進出しようとするようなバンドだとは、思っていなかった。

しかも、パリ、ロンドン、バルセロナ、ベルリン、シカゴと大都市ばかりで、会場も数千人入るようなでかいホールである。

どういうことだろうと考えたが、思いついいたのは「アニメ」である。

たしか、アニメの音楽を担当していたはずだ。

アニメでバンドを知ったファンが、コンサート会場を埋めていたのだ。

ほとんど日本語の歌詞なのに、日本でのように盛り上がっていた。

アニメ効果、恐るべしである。

 

YouTubeには、日本のバンドの海外コンサートのビデオをたくさん見つけつことができる。

ほとんどのコンサートは、数百人のクラブのようなところや、せいぜい1000人から2000人くらいの会場である。

私の知ってる限りでは、数千人収容の会場でやってるのは、One Ok RockやBabyMetalあたりだと思う。

今はネットの時代なので、かつてのX-JapanやL'Arc〜en〜Cielのように、日本でビックになったから世界へ、という時代ではない。

 

Nemophila    Now I Here

この曲は、私にとってこの数年間で一番のお気に入りである。

何回聴いても、いいなと思う。

涙が出そうになる。

Nemophilaは、ドラム、ベース、ギター2、ボーカルという、5人のバンドである。

ギターはSAKIさんと葉月さんの二人だが、リードギターリズムギターではなく、それぞれがリードを弾いて、バックもやる。

この曲は、SAKIさんが詩を書いて、葉月さんが曲を作っている。

アメリカでのツアーの際に、SAKIさんが英語でインタビューを受けていたが、流暢な英語だった。

歌詞も、日本語と英語の両方を使っている。

青春の別離や挫折、そしてそこからの出発。

 

How did I reach here where I’m alone
Hello, hello, hello?
No one is here
満たされていたと 感じてたの

手の届くもの 並べていただけ
Now I’m no longer who I was
始めるの 今から
繰り返した 過ちも分かってる

 

MAYUさんのボーカルは、ほんとに心にしみる。

たぶん、バンドにとっても特別な曲なのかも知れない。

そして、イントロでの葉月さんギターの音色はなんともいえない。

NEMOPHILA / now I here [Official Live Video] - YouTube

 

B.B.King  Thrill Is Gone

葉月さんのギターを聴いていて、B.B.Kingのギターを思い出した。

ロックのように、ギターの音色にエフェクトもかかってなく、歪んでもいない、ストレートな音が心地いい。

B.B.Kingを知ったのは、高校生だった頃に、NHKの「世界の音楽」という番組だった。

来日した大物アーチストは、だいたい出演していた。

レイ・チャールズアンディ・ウィリアムスも、この番組で見たと思う。

B.B.Kingのギターは、ぐっと骨太である。

すぐにファンになって、後年彼が持ってたようなセミアコースティックのエレキギターも買ってしまった。

その頃すでに、ロックのギタリストの神様に成りつつあったらしい。

YouTubeで、私が出会った頃1971年のビデオを見つけた。

この年に、初来日して、コンサートをしているが、「Live In Japan」としてCDが残っている。

B. B. King - The Thrill Is Gone. New York 1971 - YouTube

生のB.B.Kingを見たのは、1989年である。

有明MZAで、Albert Kingとのコンサートだった。

私にとって、今のところ人生唯一のオールスタンディングのコンサートだった。

ただただ、疲れた記憶しかない。

調べてみたら、なんとライブのフルビデオが、YouTubeにあった。

正確には「Japan Bluse Carnival 1989」というイベントで、会場は「サウンドコロシアムMZA」である。

画質はとても粗い。

B.B.Kingは2015年に亡くなった。

B.B.King、Freddy King、Albert Kingの三人で、 "Three Kings of the Blues Guitar"と言われたが、Freddy King1976年、Albert King1992年と、若くして亡くなっている。

BB King, Albert King - Japan Blues Carnival 1989 - YouTube

 

 

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客観的であること 論理的であること

客観的である、論理的である、そうありたいものだと自分では思っている。

しかし、人間というものは、なかなかそうはいかないものである。

自分にあまり関係のないものであれば、けっこう客観的論理的な判断ができる。

ところが、現実にはそういう訳にはいかない。

好き嫌いや、利害やプライドやさまざまなものが、絡んできてしまう。

世の中を見ていると、これは私だけのことではなく、多くの人にあてはまる

聞きたい話を聞き、信じたいものを信じる。

すでに、結論があったりする。

これは、会社、団体などの組織や、国家も同じだろう。

むしろ、これらの方が利害関係で成立していると、言えるかも知れないので、もっとはっきりしている。

 

この数週間、メディアを騒がせているのが、「福島第一原発」の処理水排出の問題である。

これについては、原子力についての元締めと言える「国際原子力機関」(IAEA)が、ALPS処理水の海洋放出について、国際安全基準に合致していること等を結論付ける「包括報告書」を本年7月4日に公表している。

しかし、この問題に隣国中華人民共和国だけが、異をとなえている。

中華人民共和国は、日本とともにIAEAの指定理事国であり、この報告書の当事者である。

この内容について知らないはずはないが、報告書は無かったことにしているのだろう。

まして、国民はその内容を知らされていない、ということだろう。

だいぶ前に、世界の国々の原子力発電所は、日本の原子力発電所よりもはるかに多くのトリチウムを含んだ処理水を排出している、という記事を読んだ記憶があったので、資料を探してみた。

そして見つけたのが、次の表である。

これによると、福島第一原発の処理水に含まれるトリチウムは、東日本大震災以前に比べると、はるかに増えているが、他国の原発に比べればそれほど多くはない。

今回の処理水の排出について、抗議しているのは中華人民共和国だけである。

隣国である大韓民国も、メディアはともかく政府は理解を示している。

IAEAは、世界154ヵ国が加盟する組織であるが、もちろん大韓民国も加盟国である。

しかし、北朝鮮は1974年に加盟したが、1994年に脱退している。

日本に抗議する中国には、それなりの事情があるのだと、思われる。

国民の関心を、国外に集めたいのだろう。

考えられるのは、深刻な不動産バブルだろう。

国内の問題を、国外での問題で解決しようとするのは、よくあるように思える。

悪者を作り出して、悪者のせいにしてしまえば、当分はほんとの問題から国民の目を逸らすことができる。

でもこれは、やはり当分のあいだだけで、問題解決にはならない。

もしかすると、ウクライナもそうだったかも知れない。

巻き込まれた方は、たまったものではない。

当分の間は過ぎてしまって、どうしようもない状況になっている。

 

国民関心を一身に集めてしまうといえば、スポーツもある。

オリンピックやワールドカップなると、メディアが大騒ぎして、大変なことになる。

今日は朝から、バスケットのパリオリンピック出場が決まったというニュース一色だった。

そういえば今年は、野球にサッカーにバレーボール、そしてバスケットボールと大変だった。

この後も、なんかあるのかな。

 

スポーツといえばよくあるのが、審判の買収騒ぎというのがある。

今年も、ユースサッカーで負けた国が、審判が買収されて負けた、みたいなことを言い出してた。

でも、よく考えれば、こんなことはあり得ない。

たかが、スポーツの大会で審判を買収するって、客観的論理的に考えれば、あるとは思えない。

買収する方も、買収される方も、リスクが大きすぎる。

スポーツの試合なんて、どんな展開になるか前もってわかるはずがないし、審判が試合をコントロールできる部分が、どの程度あるものなのか。

それでも、そういうことを言い出して、信じていれば、気が済むところがあるのだろう。

もう20年も前になるサッカーワールドカップの日韓大会での試合について、いまだにそのことが蒸し返されたりする。

考えてみれば、サッカー日本代表の監督が、リーグ監督時代に八百長試合に絡んだとの疑惑で辞任したことがあったかな。

なんでも賭けの対象になってしまう欧米では、そういうこともあるから、まったくあり得ないとはいえないかも知れない。

 

 

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送電線鉄塔の建替工事が始まる インフラとライフライン

団地の掲示板に、東京電力の文書がだいぶ前から貼ってある。

「送電線鉄塔工事のお知らせとお願い」

工事期間は、今年の7月から来年の4月までとなっている。

ところが、工事はまだ始まる形跡がない。

団地は、北東部の3棟と西南部の7棟と、合計10棟の低層の建物でなっている。

その北東部の一角に、送電線鉄塔がある。

私は、「送電塔」と覚えていたが、正確には「送電線鉄塔」であるらしい。

鉄塔に近い所に、20台分くらいの駐車場があるが、すでに車両は他の駐車場の空きスペースに移動していて、閉鎖されている。

工事の際の事務所や、工具資材などの置き場になるのだろう。

 

この工事は、本来ならば数年前にやるはずだった。

三、四年前に、集合住宅の管理組合の役員をやっていた。

その時に、次年度建て替え工事をやるので、協力願いたいという申し入れがあったとの報告が理事会であった。

しかし、その後コロナ禍となり、工事は行われなかった。

その時点での計画では、この団地にある送電線鉄塔の隣にある鉄塔が、住宅地に囲まれた所にあり、解体はできるが新しい鉄塔作るのが困難だということだった。

それをカバーするために、この団地に建て替える鉄塔は今までよりも、大きなものになるとのことだった。

確かに、ここから300メートルあたりのところにある隣の住宅地にある鉄塔は、余分な敷地がなくすぐに住宅が迫っていた。

道路も狭く、大規模な工事をやれるような環境ではなかった。

今までの鉄塔も、高さ20メートルくらいはありそうだけれど、これより高いというのはどれ位になるのだろうと思っていた。

コロナのために、3年遅れくらいの工事になるのだが、その間に状況が変わったらしい。

工事のお知らせの文書によると、隣の鉄塔は撤去されてまったく無くなるわけではなく、住宅地に隣接する農地の一角に移設されるようだ。

なので、この団地内の鉄塔も今までと同様なものになるのだろう。

その農地は、この辺りではほとんどない大農家の所有地である。

かつては、四方を屋敷林というのだろうか、樹木で囲まれていて中はまったく見えなかった。

南北200メートル東西300メートル、くらいだろうか。

そんなにはないかもしれないが、見当がつかないくらい広い。

最近になって、だいぶ樹木が伐採されたので、中が見えるようになった。

ビニールハウスや畑が見えるが、住宅はどのあたりにあるかわからない。

その農地の住宅地に近い部分は、空き地になっているので、ここに鉄塔が建設されるのだろう。

この数年、テレビで「インフラの整備」というのが、取り上げられている。

日本の高度経済成長期に、整備されたインフラが老朽化しているので、これに対応して、点検、修繕などのメンテナンスを充分にしていかなければならないということらしい。

高度経済成長というのは、私が小学生だった1960年代頃から始まっている。

ということは、半世紀は経過しているわけだ。

この団地も、1980年頃に建設されたもので、その頃には送電線鉄塔も既に建てられていたのだと思う。

そういえば、数年前に台風の強風によって、千葉県南部で送電線鉄塔が崩壊し、長期間にわたって、停電が続いた。

これも、鉄塔の老朽化が原因だったと言われている。

 

インフラというのは、インフラストラクチャーinfrastructure)の略称である。

インフラは、下の(infra)構造(structre)であり、社会基盤、基盤施設、経済基盤という訳語もある。

国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設ということなので、国民の生活を支えるすべてのものと言ってもいいのかもしれない。

具体的に挙げれば、学校、病院、道路、港湾、工業用地、公営住宅、橋梁、鉄道路線、バス路線、上水道、下水道、電気、ガス、電話などである。

あって当たり前、無ければ困るものばかりである。

常に、通常に使えるように維持しておく必要がある。

なんとも、大変なことである。

ライフライン」という言葉も使われるが、よく使われるようになったのは、東日本大震災以降ではないだろうか。

これは、「生活に必須なインフラ設備のうち、主にエネルギー施設、水供給施設、交通施設、情報施設などを指す語」ということで、より生活に密着したものになるらしい。 

ライフライン」という言葉自体が、本来は「命綱」という意味ということだ。

 

街中を車や自転車で走っていると、ごちゃごちゃした電柱が気になる。

電線や電話線だけではなく、他にも様々な役割を負ってるらしい。

もっと広々した手賀沼や江戸川、利根川の土手をランニングやサイクリングしていると、視界の中を送電線が横切っていたりする。

いったいどこから来て、どこへ行くのだろうと思うが、まったくわからない。

どこかの発電所から、はるばるやって来て、どこかの変電所にでも続いているのだろうが、想像もつかない。

 

日本における送電線網はどのようになっているか、気になったので調べてみた。

Googleマップやyahooマップには、送電線や鉄塔らしきものは表示されない。

国土地理院の「電子国土WEB」という地図閲覧サイトでは、大きな縮尺では送電線らしきものが表示される。

ところが、送電線鉄塔は表示されないので、住宅など建物の形が表示される小さな縮尺にすると、鉄塔どころか送電線も消えてしまう。

さらに、送電線網について調べてみたのだが、どうもテロ対策として送電線網の情報を表示しないようになっているようだ。

だから、公的なサイトでは情報提供してないようだ。

送電線鉄塔が攻撃の対象にされたら、鉄塔が一つ損害を受けただけで、その影響はとてつもなく大きなものになるのだろう。

そういえば、近所の鉄塔をいくつか見て歩いたが、いづれも施設についての表示板が全く無かった。

普通ならこんな公的な施設なら、必ず設置者や管理者を表示したプレートなどがあるはずなのに、おかしいなと思ったのだった。

 

団地にある送電線鉄塔からの電線は、南東に300メートルほどいったところにあるコンビニの敷地にある鉄塔に続いている。

さらに南東に伸びた送電線は、中学校入口の交差点にある鉄塔に続いているようだ。

その鉄塔のそばに、変電所らしきものがあるのは気がついていた。

地図を見ると、思ったよりも大規模な変電施設があるらしい。

樹木でおおわれていたので、よく見えなかったけれど、あの周辺の電気はここから供給されているのだろうか。



新しい送電線鉄塔が建設される予定の農地の前を通ったら、重機がいくつか集まっていた。

そろそろ、工事が始まるらしい。

それに対して、わが団地の鉄塔のあたりは、まったく変化がない。

どういうことだろうと、掲示板のお知らせの文書をよく読んでみた。

重大なことがわかった。

わが団地の鉄塔の建替は、行われない。

隣の鉄塔を撤去する場合には、わが団地の鉄塔を今までよりの大きなものに建て替えるはずだったが、隣の鉄塔は場所を移動することになるので、団地の鉄塔はそのままで送電線を張り替えるだけである。

「工事行程」の表を見ると、送電線鉄塔に、No.12、No.13、No.14と番号がふってある。

No.12の鉄塔は、今回移動する鉄塔からさらに北西に伸びて県道をはさんで麗澤大学の敷地にあるものである。

No13は、現在住宅地にある鉄塔で、撤去されて、農地に新設されるもので、今回の中心工事である。

No.14がわが団地の鉄塔で、計画では12月から来年1月に、電線工事である。

いづれにしても、鉄塔の撤去、新設、送電線張り替えの工事が、近いところで行われるのである。

どんなふうにやっていくのか、めったに見ることができないものなので、楽しみにしよう。

 

 

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かすむこまかた②  菅江真澄テキスト

十二日 つとめて、小雪ふりていと寒し。

午うち過るころより若男等(ワカヲラ)あまた、肩(カタ)と腰とに「けんだい」とて、稲藁(ワラ)もて編(アメ)る蓑衣(ミノ)の如なるものを着(キ)て藁笠(ワラガサ)をかヾふり、さゝやかなる鳴子いくつも胸(ムネ)と背平(ソビラ)とに掛けて、手に市籠(イヂコ)とて、わらの組籠(クミコ)を提(サゲ)て木螺(キガイ)吹キたて、馬ノ鈴ふり鳴し、また銜(クチワ)、鳴リがねといふものをうちふり、人の家に群れ入レば、米(ヨネ)くれ餅(モチ)とらせぬ。

うちつヾきかしましければ、「ほう/\」と声を上ゲて追へば、みな去(イ)ぬ。

また、ものとらせて水うちかくるならはし也。

こはみな村々のわかき男(ヲノコ)ども、身に病(クワンラク)なきためにする、まじなひといへり。

追へば、「けゝろ」と鶏(トリ)の鳴まねして深雪(ミユキ)ふみしだき、どよめき、さわぎ、更るまでありく。

是を鹿踊(カセギトリ)、また挊鶏(カセギトリ)といへり。

また南部路(ミナブヂ)の挊鳥(カセギトリ)は、やゝにてことなり。

か、ふる藁笠(ワラガサ)を鹿(シカ)の角形(ツノサマ)に作(ツク)り、それにさゝ竹をさし棒をつき、手籠(イチコ)もて餅もらひありく。

此餅くれゝば祝(イハヒ)の水とて、うちあぶせける。

また此挊鳥等に家の主、にくまれては、その家におし入り厩(マヤ)の前(サキ)に立て、木櫃(キツ)とて、馬の抹咋(ㇵミ)てふもの入(イ)る舟のごときものを伏せて、「すはくへ/\」と口のうちにものとなへて、此木櫃(キツ)の底(ソコ)を杖にてうちつゝきたりしが、今は、さる唱へ事ももはらとは知リる人もさふらはず。

たヾ、しらぬ方より挊鳥来れば、雌鳥(メドリ)か雄鳥(ヲドリ)かと問ふに雌鳥(メドリ)といへば、さらばその卵(タマゴ)とらんとて、集め得し餅を奪(ウバ)ひとらんとし、また雄鳥(ヲンドリ)なりといへば、さらば、くゑ鳥せんといひて闘鶏(トリアヒ)のふるまひをして打合摑合(ツカミツキ)て、力立(チカラダテ)あらがひのみぞ今はしけると八十ノ翁の語(カタ)レり、あやしき事もありけるものか。

此挊鶏等が姿(サマ)を見れば、田に立(タテ)るおどろかしの人形(ヒトガタ)に似たり。

また鳴子附たるは鳥追ひ、猿(マシラ)追ひ、鹿(シ)ゝ追ふ鳴竿(ナルサヲ)のごとし、さりければ年の始めの田祭(マツリ)ともならむかし。

さて、かの翁がものがたりに「すはくへ/\」と云ひつゝ■詛(ノロイ)しはいかなるよしかと、考おもふに、保食ノ神は馬祖(ウマノハシメ)とし、又建南方ノ命を先牧(マキノハジメ)として、此ノ二(フタ)神を厩(ウマヤド)の神と祭る。

此由来(ヨシ)をもて諏訪(スハ)と唱へ、また、くへは久比にて、■■(クヒ)は馬牛(ウマウシ)なンどの皮肉(ミノウチ)に生る虫にて、あるは腹やませ、また此虫ゆゑに、うまうしの斃(タフ)れ死事あり。

さりければ須波の建御名方ノ御神にまをして、此■■(オホムシ)を起さしめ給へと、黒心(キタナコゝロ)もていのり奉りし事になむ。

ゆくりなう雨ふれば、此挊鳥ら門(ト)の外に逃出(ニゲイ)で、あるは、十一日ノ日、物ノ始メに作りたる田の面なンどに群れたてり。

さて今の世に山田の曾富豆(ソホヅ)といへるは久延毘古(クエビコ)にて、くえびこは即チ曾富騰(ソホド)也といへり。

此事古事記伝十ニノ巻十四葉に精(ツバラカ)なり。

 

春雨にぬれて會富騰(ソホト)のたつか弓山田にあらぬ雪の仮田(カリタ)に

 

十三日 あしたより雪零れり。

 

泡雪のふり来るほどもなかぞらの光に消る春の長閑さ

 

挊鶏ら、雪にまみれてありく。

 

十四日 よさりになりて戌ひとつばかり、れいの挊鳥ら桐木貝(キガヒ)吹キたて笛吹キ鈴ふり、馬の鳴輪(ナルワ)、鳴るがね、鳴子うちふりて誼■(カマビス)し。

筒子(ツゝコ)といふもの、また樽もて来るには、家々の手作(テツクリ)の酒やる也。

去年は死(シヌ)べう病にふして、明なば挊躍(カセキトリ)してもの奉らんと、稲倉魂(ヲガノカミ)、あるは村鎮守(トコロカミ)にねぎ事して、三十四十ととしねびたる男(ヲノコ)も交レど、多くは村々の若キものの、戯れぞめきにこそあンなれ。

 

十五日 けふは粟(アワ)ノ餅(モチヒ)を黄金(コガネ)ノ餅(モチ)とて喰ふためし也。

家々の嘉例(シツケ)とて、祖(オヤ)よりのをしへのまに/\仕つれば、ものはたちに田佃ラず、けふにうゝる家あり。

日の西にかたぶくころ、田うゝるとて門田の雪に、わらひしひしとさしわたし、また豆うゝるとて豆茎(ガラ)をさしぬ。

また山畑の雪の中に長やかなる柱を立て、此柱のうれより繩を曳(ヒキ)はえ、その縄に匏籆(ヒサグワク)とて、麻苧(アサヲ)の糸巻瓠(マクフクベ)をさしつらぬいて、其縄の末(ハシ)を杭(クヒセ)にむすび付ケ、また、その杙頭(クヒカシラ)に、ふるきわらのふみものを、いくらともなう、とりつかね縛(ユヘル)処あり。

そはそのむかし、神ノ道をになう尊み、あが国の神のみをしへ如(ゴト)なる事は、こと国には、えもあらじと、あけくれ神をゐやまひまつり、父母にけう(孝)をつくし、ひたぶるにうち耕(タガヘシ)て、業(ナリハヒ)に露のいとまなくくらす男(ヲノコ)あり。

また其近隣(チカトナリ)に、あけくれ経よみ、仏の法式(ミノリ)をになう尊み、仏のみをしへにこゆる尊き事はあらじといひて、此二タ人リ男出会(イデアフ)ごとに、いつもものあらがひやむときなし。

あるとし両人(フタリ)の男、またものあらがひしていふやう、さらばことし稲田(イナダ)を佃(ツク)れ、その田の能ク登(ミノリ)たらむかたこそ、そのみをしへの勝らめといふに、さらばためし試(ミン)といふ。

此、親にけうなる男は、あしたよりくるるまで、わら沓つゆの間もぬがず鋤(スキ)鍬(クワ)とり耕(タガへ)し、うゑにうゝれば、苗高う茂り、秋のたのみ八束にたり、八重(ヘ)穂(ホ)にしなひて家とみ栄たり。

仏のをしへ尊める男は田も作らず、経典(ミノリ)をとなへ香を炷き、花奉りて、ゐやびぬかづき尊みける。その秋、その男の千町田の面に夕顔ひし/\と生ひ、此蔓のみ延(ハ)ひまどふ。

やをら花のしろ/″\と咲て、やがていと/\大なる壺蘆(フクベ)の子登(ミナレ)り。

此男うち見て、何にてまれ仏(ミホトケ)のたうばりもの也、是喰ひて命生(イキ)んとてうち破りしかば、その瓠の中に精米(シラゲ)のみち/\たり。

人みなあきれて、さらば神も仏も、志シのまめなる人を守リ給ふにこそあらめとて、あらがひをとヾめて、むつびたりし。

そのしるしに、今し世かけて、正月(ムツキ)の事始にかくぞせりけるといふ、此事書(フミ)にも見えたり。

さりければ、わら沓と瓠を田畠の中にかざりけるとなむ。

夕飯(ユフイヒ)くひはつるやいなや、白粉(シロイモノ)をわかき男女掌(テ)に付ヶて、是を誰れにても顔にぬりてんとうかヾひありく、是を花をかけるといふ。

しかすれば稲によく花咲(カゝル)なむ。

此花かけられじと心をくばる目づかひを見とりて、いな、さる事せじ、こゝにわれ尋ぬるものこそあンなれ。

さらばその掌ひらき見せよなンど、此花のさわぎに、うちとも、どよみわたれり。

 

 

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まるめろのうた

私の住む集合住宅に隣接して、光ヶ丘団地がある。

日本で最も古い公団住宅だった光ヶ丘団地は、20年ほど前に建て替えられて、高層住宅になった。

だから現在は、正確には「グリーンタウン光ヶ丘」という名前に変わっている。

歩いていると、運動広場の近くに3メートルほどの樹木があった。

よく見ると桑の木で、赤い果実がついていた。

なかには、すでに熟して黒く色が変わっている実もあった。

歩く機会の多い歩道の近くにあるのだが、今まで桑の木であることに気がつかなかった。

桑の実 グリーンタウン光ヶ丘



秋田県の北部の山間の農村で育った私にとって、桑の実はもっとも身近な野生の果実だった。

桑の木と言ったら、一般的にはカイコのエサとなる葉っぱで知られているだろう。

でも、私の育った村の周辺では、養蚕はやっていなくて、桑といえば木の実であり、子どもの食べるものだった。

養蚕業は、日本中で行われていたのだから、桑の木はどこにもあっただろうに、桑の実のことは、ほとんど聞かない。

団地にあった桑の木は、樹高も低いものだったので、手を伸ばせば実を取ることはできそうだった。

誰も食べられるものとは知らないのだろうし、食べられると知っててもその辺にあるものに手を延ばす人はいないだろう。

鳥がたべたのだろうか、木の下に果実が落ちた様子もなく、そのうちに赤い実も無くなった。

 

このブログに、「野生の果実」という文章を書いたことがある。

農村で育って、野山の果実を食べている子どもだった私のお気に入りだったものを、思い出して書いてみたものだ。

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この文章で、思い出すものを、5種類あげている。

① ぐみ Silberberry

ぐみ 日本語版ウイキペディアより

②  あけび Chocolate Vine

あけび 日本語版ウイキペディアより

③ くわ Mullberry

くわ 日本語版ウイキペディアより

④ すぐり Gooseberry

すぐり 日本語版ウイキペディアより

⑤ うめ Japanese Apricot

うめ 日本語版ウイキペディアより

それぞれに英語名があるのだから、世界中にもこれらの果実はあるのだろう。

梅干しや梅酒用の「うめ」は、時期になればスーパーに並ぶけれど、食用の果実として売ってるわけではない。

それ以外の果実は、ほとんど果物売り場で見かけたことはない。

「あけび」はどこかの道の駅で、見かけたことがある気がする。

これらの他にも、農家の敷地には果実のための樹木が植えられていた。

母親の実家には、「豆柿」の木があった。

豆柿は、ブドウくらいの小さな柿がいっぱい実った。

高木なので、登って収穫できず、熟して干し柿のようになって落ちてきたものを食べた記憶がある。

豆柿の英名は「date plum」で、デーツとプラムを合わせたような味がすることに由来するのだというが、そんな感じだった気がする。

豆柿 日本語版ウイキペディアより

父親の実家だった農家の様子は、記憶にはっきりと残っている。

私が、郷里を離れてから50年も経っている。

その間に、帰郷するたびに村の様子は大きく変わっていった。

それなのに、私の記憶では、3Dのジオラマのように思い出す。

厩のある自宅の周りには、大きな作業小屋と薪小屋があった。

お風呂と厠も、別棟になっていた。

梅の木は、私のお気に入りで、熟した梅の実をよく食べていた。

住宅の南側には、山梨の大きな木があった。

これは今の梨の原種らしいのだが、小ぶりな実がいっぱいついた。

でも、実は硬くて、甘くもなかった。

なんでも食べてみる田舎の子どもたちも、さすがに見向きしなかった。

 

住宅の北側には、氏神様のほんとに小さな祠があった。

その隣に、「まるめろ」の木があった。

「まるめろ」という果実は、他では見たことがない。

「まるめろ」は、何回か食べてみたが、不思議な味がした。

おいしくはなかったが、子ども心に外国の味ぽいな、と思っていた。

まるめろ 日本語版ウイキペディアより

ウィキペデアによると、中央アジア原産である「まるめろ」は江戸時代にポルトガル船によって長崎に伝来した、とある。

「まるめろ」はポルトガル語で、英語名はクインス (quince)。別名「セイヨウカリン」ということで、果林に近いが、違いは「産毛」が生えていることらしい。

 

「果実は芳香があるが強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食はできないが、カリンより果肉はやわらかく、同じ要領で果実酒、蜂蜜漬けや砂糖漬け、ジャムなどが作れる。」    日本語版ウイキペディア

 

「まるめろ」ということばと再び出会ったのは、横浜で学生生活を送っていたころである。

高木恭造さんの「まるめろ」という詩を知った。

昭和6年に、34編すべてが津軽弁による詩集を発表していた。

秋田県の北部で育った私にとって、青森や津軽は身近な存在だった。

なんといっても、電波事情により秋田放送ではなく青森放送のテレビを見て育った。

だから、津軽民謡も津軽三味線知っている。

遡れば、私の育った秋田県北秋田郡は、秀吉によって陸奥国比内郡から出羽国秋田郡編入された地域である。

高木恭造さんの詩は、おもしろかった。

漢字のふりがなは、津軽弁である。

私にとっては、ほとんど違和感がない。

泥濘に、「ガチャメギ」というフリガナがついいている。

「ガチャメギ」は、久しぶりに聞く響きだった。

泥濘は、ぬかるみのことである。

舗装されていない道路の、雪解けの泥んこ道が思い浮かぶ。

時代は、棟方志功寺山修司三上寛など津軽弁の人たちが活躍していた。

まるめろ 高木恭造


津軽方言詩集『まるめろ』
──文学教材としての可能性──
櫛  引  洋  一

高木恭造さんは、昭和初期に満州国に渡っている。

この詩は、困窮生活を共にし、病に倒れ若くして世を去った妻への鎮魂歌である。

妻が、死に際に見た夢は、遠く離れた故郷青森のまるめろと雪であったという。

津軽において、「まるめろ」はいったい何だったのだろう。

泥濘の中から拾おうとした「まるめろ」は何のことだろう。

父の実家の「まるめろ」の木は、どうして何のために植えられたのだろう。

ジャムや砂糖漬けにしていたような形跡はなかったな。

それとも、私が感じたような外国につながるものだったのか。

 

 

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かすむこまかた①  菅江真澄テキスト

夕づゝのかゆきかくゆきゆきくさまくら旅にしあればそことさだめず

 

雲ばなれ遠き国方(クニベ)にさそらへありき、ことしもくれて、みちのくの胆沢(イサワ)ノ郡駒形(コマガタ)ノ荘(サウ)ころもが関のこなた、徳岡(トクオカ)(胆沢郡胆沢村)という里なる村上ノ良知が家(モト)に在りて、あら玉の年をへぬ。

ことし、天明八年といふとし戊申正月朔日(ムツキノツキタチノヒ)、まづ、わか水に墨すり筆試るとて人た歌よむ。

その筆をかりて、

 

埋木も花咲春にあぶくまの河瀬の氷けふやとくらん

 

ひむがしの雪の山窓より、はつ日の光ほの/″\さしのぼるうららかけさに、軒のつららもとく/\と音してしたヾり落ぬ。

 

旭影にほふかたよりとけそめて軒のたるひをつたふたま水

 

ニ日 としのことほぎまをすとて、こゝらの人とら、たちかはり入かはり来けり。

入り来る童には松の小枝に銭貫て、是を馬に乗るとてとらせ、こは瘦馬(ヤセマ)也なンど、不足銭幣(フソクキタカラ)をしか云ひことわるさまは、いではの国にひとしかりき。

あなたのひろびさしのおちくぼなる処には、人あまた居(ヰ)ならびて、濁(ニゴレ)る酒をくみかはして物語リせり。

ことし雷神(ナルカミ)の年越え給ひし方(カタ)は正西(マニシ)にてさふらふ、雨こそをり/\零(フ)らめ、秋世ノ中よからむなンど云ひつゝ大椀につぎみたらしたるを、二三(フタツミツ)もおのも/\も前にならべて、いざ尋飲(ヒロノミ)すべしかなンど進(スゝム)れば、ゆるしてよ、飲(ノミ)ね、何の楽(タノ)しき事ありとも、このひと坏のにごれる酒に、あに、まさらめやとほゝゑみよろこぼひて、

 

「出(イデ)て酌(サク)とれ稲倉魂(オガノカミ)」

 

と、うち返し/\うたふ。

あるじは、いと/\大なる、白(サカヅキ)をとうでて進れば、いにしへの七賢(ナゝノカシコキ)人とらも、とて、さかなとり/″\に飲(ノ)み、人みなのみにのみて心をやりぬ。こを見て、

 

楽しさよ千代万代とくみかはすこゝろ長閑き春のさかづき

 

「飲(ノメ)や大黒謡(ウタ)へやえびす」

 

と、うたひ/\て暮(クレ)ぬ。

 

三日 けふは申の日なりとて、ありとある馬あまた、みな馬柵(マヲリ)の内よりおひはなち、まづ吉方(エハウ)の方へとて追へば、こゝらの五調小踊(ガムデウコヲドリ)して庭の雪ふみならし、去年の冬より、まをりこもりゐて、かゝる楽しさとやおもふ、あるは彈(イナ)き、あるは噺(イバ)え、はねくるふさま、名所(ナダゝル)尾駁ノ牧(ミマキ)もしかならんか。

なほ雪ふみしだき、さばかりふかくつもりたるが、やをら、まことの春庭のごと、なからけちはつるなンど、いさましき駒遊び也。

 

長閑なる空にひかれてつながねば心のまゝに勇む春駒

 

門々の雪にさしたる小松に栗の木の枝を立添ふるためし、しりくへ縄、ゆづる葉はいづこも同じ。

 

幾春も猶立添(ソヘ)む栗駒の山にとしふる松をためしに

 

四日 あゆみこうじて雪の深山に彳(タゝズム)と見れば、かけろ(鶏)鳴おどろきぬ。

かくておもひつヾけたり。

 

まだ去年の心はなれぬ夢のうちに鶏さへ春とつげのをまくら

 

あしたより、けふも雪いたくふれり。

 

五日 庭の面を見れば板垣(キリカキ)の際(キシ)、杙(クヒゼ)なンとの雪うすきかたには、若草の仄(ホノカ)に萌そめて、いとはや春のこゝちす。

こゝを徳岡ノ郷(サト)上野(ウハノ)といへば、

 

おそくとくおかべの草のもえそめむ雪のうは野に春風ぞふく

 

六日 きのふのごとうらゝ也。

霞む名のみや空にたつらむ、遠かたのやま/\うすくもれり。

こよひは、せちぶ也。

 

「天に花開(サケ)地に登(ミノレ)、福は内へ鬼は外へ」

 

と豆うちはやし、炉(スビツ)の辺りには並居て豆焼(マメヤキ)といふことして、一とせの晴零(テリフリ)の灰ト(ハイウラ)問(ト)ふは、こと国も凡ソひとし。

 

七日 鶏(トリ)の初声たつころより屋毎(ヤゴト)にものゝ音せり。

真魚板(マナイタ)にあらゆる飯器(モノ)とりのせ、七草(ナナクサ)囃(ハヤス)とて、此地に云ふ雷盃木(マワシギ)てふものしてうち扣ク也。

今朝の白粥(シロカユ)に大豆(マメ)うち入てぞ烹(ニ)るめる。

こは、としの始より無事(マメダテ)とて、身に病(コト)なきを祝ふためしになん。

此日立春ハルタツ)といへば、

 

此としの日数もけふはなゝわだにめぐれるたまの春は来にけり

 

雪はなほ、をやみもなうふりにふれゝば、

 

みちのくのあだちがはらの鬼もけふ雪にこもれる若菜つままし

 

此ごろ、ふみ書(カイ)贈りたる道遠のもとより、

 

する墨の色さへにほふ水くきに硯の海の深さをぞしる

 

と、ふみにこめて聞えしかば、此返りごとすとて認む。

そが中に、

 

水ぐきのあともはづかしかき流す硯の海のあさきこゝろ

 

雪のいと/\ふりて、梅、さくら、なにくれの梢ども、わいだめなう空くらし。

くれてやゝ晴たるげにや、月はづかさしたり。

 

夕附夜そらたのめなる影そへて花とみゆきのつもる木々の枝

 

やがて又かくとさくらの春風もこゝろして吹(フケ)雪の初花

 

家のあるじ村上良知の歌に、

 

春風にさそひな行そ花と見ん庭のさくらにつもるしら雪

 

その弟(ハラカラ)良道。

 

ふりつもる梢に雪の花さきて庭のさくらに春風ぞふく

 

夜更、人さだまるころ、はやち吹、雨ふる。

 

八日 よべよりあたゝけく、あしたの間雨猶ふれり。

 

草も木もこゝろやとけむふりつみし雪の上野(ウワノ)の今朝の春雨

 

やをら雨晴れ、日照れり。

 

九日 雪はこぼすがごとくふりていと寒ければ、男女童ども埋火のもとに集ひて、あとうがたりせり。

また草子(ソウシ)に牛の画(カタ)あるを、こは某(ナニ)なるぞ、牛子(べコ)といへば、いな牛(ウシ)なりとあらがひ、また是なに、猿(サル)といへば、ましなりと。

論(ツリゴト)すなと家老女(トジ)のいへば止(ヤミ)ぬ。

つりごととは論(アゲツラフ)ことの方言(クニコトバ)なり。

また某々(ナゾ/\)かくるを聞て、

 

うなゐ子が稚(ヲサナ)心の春浅みいひとけがたき庭のしら雪

 

をやみなう雪ふれり。

 

十日 山早春といふことを、

 

長閑しなみちのく山の朝霞こがね花さく春は来にけり

 

タぐれ近う雪ふれり。

 

十一日 けふは物始(ハダテ)といひて貴賤(タカキヒキゝ)家々に業仕初(ナリハヒシソムル)日なれば、雪の上(ウヘ)に鉏(スキ)鍬(クワ)もて出てうち返す手づかひをし、また稲田うゝるとて、芒尾花、わらなンどを雪の千町(チマチ)に佃(ツク)るあり。

あな、こうじたりなンどうち戯れ、謡(ウタ)うたひ、小苗うち、いかになンど戯れり。

帳とぢ、蔵びらきなンど業は、商人ならねば、さるよしも聞えず。

ほどちかき水沢の信包、ほど遠き、ひむがし山なる田河津の為信なンどが歌ありしが、こゝにはもらしつ。

 

 

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青歯王とブルートゥースBlueTooth

カーオーディオが壊れて音楽を聴けなくなったので、しばらくスマホ本体だけで聴いていた。

スマホの音は、しばらく聞いていると疲れてくる。

なんとかしようと、電気屋やカー用品の店舗を覗いてみた。

カーオーディオは、ほとんどカーナビに内蔵されたものである。

カーナビ自体はまだ使えるので、カーナビを買い替えるのは躊躇してしまう。

そこで考えたのが、ブルートゥーススピーカーである。

 

売り場には、さまざまなワイヤレススピーカーが並んでいる。

サウンドバーと呼ばれるテレビ用のスピーカーは、だいぶ前から発売されていて、よく見かける。

これは、テレビ受像機が大型薄型になって、大きなスピーカーが内蔵でき無くなったので、それを補うものだろう。

かなり臨場感のある音が再生できるようなので、気にはなっていた。

カーオーディオ用として使えそうなものを探してみた。

専用の置き場がないので、できるだけコンパクトでなければならない。

ステレオ再生できるものだと、箱型でそれなりの大きさがある。

モノラル用だととても小さいものもあって、値段も安い。

とりあえず、使い物になるかお試しのために、最も安いものを選んでみた。

Audio Comm というブランドで、オーム電機の製品だった。

ゴルフボールを少し大きくしたくらいのサイズで、値段はなんと1800円くらいだった。

なんともかわいいデザインで、ポケットにも入りそうだ。

縦34mm、横49mmなので、直径49mmの球体の上下を15mm削った感じである。

充電用のUSB端子が底面にあるが、ゴムのような材質なので車の中の適当な所に置いても滑らない。

さっそくペアリングして、スマホに内蔵してある音楽ファイルを再生してみた。

思ったよりも、いい音が聞こえてきた。

確かに、説明書には

「アルミニウムボディに高音質フルレンジスピーカーを搭載、ミニサイズでも低音域までシャープでキレのある音質を実現」と、なっていた。

フルレンジスピーカーとはいっても、直径わずか36mm出力3Wであり、おもちゃのようなものであるが、充電3時間で6時間の再生ができる。

さすがに低音域は、ほとんど出ないが、中高音はシャープでキレはあって、この値段でこのサイズにしては、よくできていると思う。

スマホの本体で鳴らすよりは、ずっといい。

説明書には、

「本製品2台をペアリングしてステレオサウンドが楽しめるTrue Wireless Stereo機能搭載」となっているので、もう一台買えば、ステレオ再生ができる。

やってみる、価値はあるかもしれない。

愛車に置いてみた

メーカーのウェブサイトのページを見ると、スマホの近くに置いてある写真が載っていた。

そんな使い方を想定して作られた製品なのだろう。

「最大通信距離:見通し 約10m」
ということなので、見通しのよいところなら、けっこう離れていても使える。
いろんな使い道があるかもしれない。

 

最近、スマホやパソコンの周辺の機器には、ブルートゥースという規格のものが多い。

考えていたら、同じようなブルートゥーススピーカーを、昔買ったことがあるのを思い出した。

はじめてスマホを買った頃なので、10年ぐらい前だっただろう。

お風呂でスマホの音楽が聴けるというので、買って少しの間使っていた。

ところが、私は「烏の行水」で風呂が短時間なので、すぐに使わなくなり、お蔵入りになった。

私はものが捨てられない人なので、そういうものは探せば出てくる。

探してみたら見つかったのだが、長時間放置していたので、汚れがひどいことになっていた。

お風呂で使えるのが売りの製品なので、ゴムのベルトで保護されていて、半防水ということだったから、全体にべとべとしている。

ベルトを外して、全体の汚れを落とした。

マイクロUSB端子にコードを差し込むと、充電が始まる。

直径が9cmで厚さが3.5cmの円盤型である。

どこのメーカーか調べてみたが、"FC CE RoHS"とあるが、メーカー名ではなくて、規格名?らしい。

充電ができたので、電源スイッチを押すと、ランプの点滅とともに「パワーオン」という女性の人工音声が聞こえる。

もう一度押せば、「パワーオフ」である。

スマホとペアリングして、音楽を再生するとちゃんとスピーカーから音が流れた。

音質は、高音のキレがない気はするが、何とか使えるレベルである。

そういえば、ブルートゥースが出たころ、データ転送の際に圧縮するために、音質が劣化していて、いまひとつだと言われていた。

私はそれほど、音質にこだわる人ではないので、許容範囲である。

最新のブルートゥースのバージョンは、5.3となっていて、高音質のブルートゥースイヤホンも発売されているので、音質は改善されているのだろう。

とりあえず、自宅でスマホ音楽を楽しむ時に使うことにした。

お風呂用からリビング用になったブルートゥーススピーカー

ブルートゥース」名を初めて知った時、それが北欧の王様の名前にちなんだものであるということだった。

BlueTooth”、つまり「青歯王」ハーラル・ブロタン・ゴームソンというデンマークの王様だそうだ。

でも、「青歯」というのはちょっとかっこいいが、実は歯の病気で歯が黒ずんでいたことからきているそうで、なんか残念である。

青歯王がデンマークノルウェイを無血統合したことにちなんで、「乱立する無線通信規格を統合したい」という願いが込めて、スウェーデンの技術者が名付けたということなのだが、今一つピンとこない。

乱立する規格を統合する、というのなら、もっとふさわしい王様がいたのではないだろうか。

 

ブルートゥース」という規格は、1988年に、エリクソンインテルIBMノキア東芝の五社によって策定されたのだという。

ブルートゥースが、私にとって身近になったのはこの10年くらいのものだ。

私が、職務の必要からパソコンに触るようになったのは、ウィンドウズがまだ、バージョン3.1のころである。

ウィンドウズ3.1は、1993年の発売だというから、30年経つわけだ。

1993年は、私が40歳になる年だ。

いい年になってから、パソコンを扱うようになったわけである。

もっともその前には、ワードプロセッサー専用機を使っていたし、さらにさかのぼると和文タイプライターというアナログな器具を使っていて、その延長上である。

その頃のパソコンは、なかなか扱いにくいものだった。

プリンタやスキャナーを接続するには、パラレルコードとかいうでかい端子で太いコードが必要だった。

外付けのハードディスクなら、スカジー(SCSI)接続で、特別な端子とコードが必要だった。

ディスプレイは、映像用のシリアルコードと、音声用のRCAコードと、2本繋がなければならない。

今なら、パソコンと周辺機器をつなごうと思ったら、だいたいUSB接続である。

ディスプレイは、HDMIのコード一本で接続できる。

 

ブルートゥース規格は、これから存在感を増すような気がする。

ただ、データの転送は一方通行のようなので、双方向にならないだろうか。

無線LAN対応のハードディスクを、サーバーに使っていたのだが、なぜか起動しなくなってしまった。

なので、パソコンとハードディスクは、USB接続で使っている。

いちいちコードを繋ぐのは面倒なので、ブルートゥースのような無線接続にならないものだろうか。

 

 

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かすむこまかた  菅江真澄テキスト


「かすむこまかた」は、天明6年(1786年)正月から2月にかけての日記である。

菅江真澄は、陸奥国仙台領胆沢郡前沢駒形で正月を迎えている。

天明3年春に、故郷の三河を離れて旅に出た菅江真澄にとっては、旅の途上の三回目の正月である。

天明4年は、信濃国東筑摩郡洗馬に滞在して、初めての正月を迎えた。

そして、翌年天明5年は、出羽国雄勝郡柳田で、二回目の正月を迎えている。

いずれも、正月の頃は同じところに長期滞在をしていたようである。

冬季の移動は、避けるようにしていたのだろうか。

 

駒形では、村上良知宅に居留していて、そこから中尊寺毛越寺を何度か訪ねている。

中尊寺毛越寺は、円仁によって創建されたが、その後焼失し、奥州藤原氏によって再興されたと言われる寺院である。

現在は、岩手県であるが、菅江真澄が訪ねた江戸時代は、仙台藩の領内であり伊達氏の保護を受けていた。

天台宗の本山である比叡山に赴く僧がいることを知り、その僧に故郷への手紙を依頼したことが記載されている。

2月下旬に、同じく胆沢郡前沢の鈴木常雄宅に移っている。

 

「かすむこまかた」の体裁は、大型本で、全31丁となっている。

万葉仮名での表記は、「迦須牟巨麻賀多」である。

この日記にも、図絵はない。

この頃の日記には、図絵が含まれていないものが多い。

中尊寺毛越寺に行ってるのだから、まったく絵を描かなかったとは思えないのだが、どうしたことだろうか。

原本は、私の郷里である大館市立粟森記念図書館に所蔵されている。

図書館のウェブサイトにも、PDFファイルがあるので見ることはできる。

かすむこまかた 大館市立粟森記念図書館蔵

現在は、岩手県となっている胆沢郡がこの頃は、仙台藩領であったことを知ったので、令制国と藩のことを、調べてみた。

江戸時代の政治は、幕藩体制だったと教科書には書いてあった。

しかし、 江戸幕府は「藩」という言葉は使っていなかったらしい。

伊達氏については「伊達侯」、佐竹氏については「佐竹侯」と呼んでいたそうだ。

「藩」という言葉は、儒学者が中国の例に倣って使っていた学術用語だった。

それが、明治時代になって、廃藩置県のようにその実態が無くなってから使うようになった。

 

真澄が旅をしていた頃は、東北地方は「陸奥国」と「出羽国」の二国しかなかった。

真澄が滞在していた「胆沢郡」は、陸奥国胆沢郡だったわけである。

同じく現在の岩手県南部に属する「江刺郡」や「磐井郡」も仙台藩の領地であった。

それが、戊辰戦争に敗れた「奥羽列藩同盟諸藩」に対する処分として、陸奥国出羽国の分割が行われた。

陸奥国は、「磐城国」、「岩代国」、「陸前国」、「陸中国」、「陸奥(りくおう)国」の五国に、出羽国は、「羽前国」、「羽前国」の二国になった。

東北地方の諸藩も、廃藩置県によって、大中小なんと34もの県が成立している。

多すぎる県の統合によって、結局は令制国の領域と近いものに落ち着いた。

磐城国岩代国が、「福島県」になった他は、陸前国が「宮城県」、陸中国が「岩手県」、陸奥国が「青森県」、羽前国が「山形県」、羽後国が「秋田県」となったのである。

 

江戸時代には、大中小の藩だけでも300ほど、他に幕府の直轄地、旗本領などがあったという。

それぞれが、他国のようなものだから、そういう所を、旅するのは大変なことだったろう。

「往来手形」というのが、今の「パスポート」だったらしく、お寺や村の庄屋が発行していたそうだ。

江戸時代は、檀家制度だったので、それが戸籍や住民票などの役割をしていたのだろう。

真澄の文章には、関所など国越えについてのことはほとんど書かれていない。

真澄の旅をみていると、ただ思いつきで移動してはいないようだ。

逗留してお世話になった方から、紹介状をもらって次の目的地に旅しているのではないかと思われる。

伊勢参り」のような明確な目的があるわけではない真澄の旅は、受け入れる人にとっては謎ではあるけれど、知らない所を旅したいという誰でも持ってる夢を満たしてくれるものでもあったのだろう。

 

 

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